●漢方の歴史とその系譜
経方ケイホウ:古典中心の治療法
時方ジホウ:金元医学の治療法(後世方)
中医学(新中国で毛沢東の命令):現在の治療法
古典
医書五経
黄帝内経素問コウテイダイケイ・ソモン:黄帝内経霊枢コウテイダイケイレイスウ:難経ナンギョウ:神農本草経ノンノウホンゾウキョウ:傷寒雑病論(傷寒論・金匱要略) ショウカンザツビョウロン (脈経)
漢方の基礎となった中国古代医学は、漢から三国六朝(サンゴクリクチョウ)時代頃にはすでに完成したといわれている。この時代に、今もなお、漢方における必読書として研究され続けている、権威ある医学の古典「黄帝内経(コウテイダイケイ)」「傷寒論雑病論(ショウカンザツビョウロン)」、「神農本草経(シンノウホンゾウケイ)」ができあがった。
有史以前の日本の医学にかんしては、考古学や人類学を通して、わずかにその一端をうかがうのみである。わが国には、中国の古代医学は朝鮮を経由してはいってきた。
奈良時代(710年から約70年間)の医療は主として僧侶によって行なわれた(看病禅師(カンビョウゼンシ)という)、すなわち僧医である。僧以外は渡航を禁じられていたので、新しい随・唐の医学は僧の手によって輸入された。平安時代(974〜1192)になって、医療は医師の手でも行なわれるようになった。
鎌倉時代(1192〜1333)になると医学は貴族の手から離れ、それまでの随唐模倣の医学は力を失い、ようやく日本人向きの実用医学となっていった。鎌倉時代から室町時代にかけて主流だったのは、宋医学思想をとりいれた仏教医学で、再び僧医が活躍した。著作としては、二回入宋した栄西(エイサイ)禅師の「喫茶養生記」、浄観房性全(ショウゼン)の「頓医抄(トンイショウ)」、「萬安方(マンアンポウ)」がある。
室町時代(1336〜1573)は中国では明の時代で、明医学は金・元時代の医学の延長にすぎなかった。僧医のほかに、産科、外科(金創医)、眼科など専門医師が現われた。竹田昌慶(タケダショウケイ)、坂浄運(サカジョウウン)、月湖(ゲッコ)、田代三喜(タシロサンキ)などは明に留学し、中国の医学を日本に伝えた。ことに田代三喜の李朱(リシュ)医学(後世派の医学)をわが国に伝えた功績は大きい。
●金元医学の概要(1115〜1367)
李東垣:朱丹渓:張子和:劉河間などの出現
補土派:李東垣リトウエン (補中益気湯)ホチュウエッキト
養陰派:朱丹渓シュタンケイ (滋陰降火湯)ジインコウカトウ
攻下派:張子和チョウシカ (防風通聖散)ボウフウツウショウサ
寒涼派:劉河間リュウカカン (黄連解毒湯)オウレンゲドクトウ
●日本に於ける李朱医学
田代三喜タシロミキ (明に渡り李朱医学を学ぶ)
曲直瀬道三マナセドウサン (田代三喜の弟子)
田代三喜訓
・広く内経を学び本草学べ。
・診は王叔和の脉経を主とする。
・処方は張仲景を宗とする。
・用薬は東垣を専らとし潔古に従う。
・諸證を弁治するには丹渓を師とする。
・外感は張仲景に則る。
・内傷は東垣を用い。
・熱病は河間に則る。
・雑病は丹渓に則るべきである。
●後世(ゴセイ)派の導入
京都に医学校「啓迪院(ケイテキイン)」を建てた初代の跡をうけつぎ、数多の門弟を養成した二代目曲直瀬道三(マナセドウサン)(玄朔(ゲンサク))も江戸初期の後世方の名医であった。その門下には、徳川家康、秀忠、家光に仕えた、秦宗巴(ハタソウハ)、岡本玄冶(オカモトゲンヤ)、野間玄琢(ノマゲンタク)、井上玄徹(イノウエゲンテツ)ら俊秀がいた。
日本における中国医学の変遷のなかで、「証」を確立して冶療にあたるべきであるとはじめて主張したのは、田代三喜であり、さらにそれを明確にしたのは曲直瀬道三である。すでに三喜の師、月湖は「類証弁異全九集」を著わし三喜は「弁証配剤」を、道三は「察証弁治啓迪集」をそれぞれ著わしている。後世派は「証」の基礎を「黄帝内経」から、用いる処方は主として金元医学などから採用した。
日本の後世派医学は古方派医学に先んじて、わが国に実証的医学の基礎をつくり、随証治療の必要性をとなえ、日本化された、いわゆる道三流医学を広め、やがて古方派や考証派、折衷派などの生まれる基盤となった。
道三流ではないが、同じく李朱医学派の医師として活躍し、その著作が臨床家に尊重された者に元禄以後の香月牛山(カゲツギュウザン)や加藤謙斉(カトウケンサイ)がいる。
また道三流の門を出て、師説とは別に一家を成した医者の草分けは、饗庭東庵(アエバトウアン)(玄朔の門下、その弟子に味岡三伯(アジオカサンパク)などがいる)と林市之進(ハヤシイチノシン)(曲直瀬正純(マナセマサズミ)の門下)だといわれ、黄帝内経や難経などの古典をよく研究し、中国の劉張派医学(劉河間(リュウカカン)・張子和(チョウシカ)の流れを汲むもの)の医方を宗としたので、後世別派とよばれた。
●古方派の台頭
明の喩喜言(ユカゲン)が「傷寒尚論(ショウカンショウロン)」を著わしてから、この一派は勢力をまし、次の清の時代になると李朱医学批判が高まって、傷寒論の古医方に帰れとさけばれ、これが日本にも反映して、傷寒論の実証性の再認識が行なわれ、これを行なう医家が現われてきた。甲斐の永田徳本(ナガタトクホン)(1513〜1630)は先駆者であり、ついで京都の名古屋玄医(ナゴヤゲンイ)(1628〜1696)が古医学への回帰を、主唱し、古方派がおこった。
後藤艮山(ゴトウゴンザン)とその弟子香川修徳(カガワシュウトク)、山脇東洋(ヤマワキトウヨウ)、松原一閑斉(マツバライッカンサイ)は古方の四大家といわれた。後藤艮山(1659〜1733)にいたって、古方派は強力な勢力となり、「万病は一気の留滞によって生ずる」と主張した。艮山に著書はないが、門人の筆記した「師説筆記」という写本がある。
香川修徳(1683〜1755)は艮山の弟子で、徹底した実証主義者であり、自分の経験に基づく、自己の正しいと信ずる医学体系をつくろうとした。著述をこのみ、「一本堂行余医言(イッポンドウギョウヨイゲン)」、「一本堂薬選(ヤクセン)」などの大著がある。
山脇東洋(1705〜1762)も艮山の弟子で、古方の泰斗といわれたが、傷寒論の処方だけではなく、「千金方(センキンポウ)」、「外台秘要(ゲダイヒヨウ)」などの処方も用いた。1754年人体解剖を行ない、その記録を1759年「蔵志(ゾウシ)」として著わした。その門人には漢蘭折衷派に属する永富独嘯庵(ナガトミドクショウアン)がいる。
吉益東洞(ヨシマストウドウ)(1702〜1773)は広島で生まれ、はじめ金創医(外科医)であったがのち古医方を学び、京都に出て44歳のとき、東洋の推挙で世に出た。
東洞の医説は「万病一毒説」「方証相対説」「天命論」など独特のもので、「類聚方(ルイジュホウ)」、独自な薬物書「薬徴(ヤクチョウ)」、古方に則した実証的な「方極(ホウキョク)」など多くの著作を著わした。
■折衷派の台頭
古方が盛んになるにしたがって、その反動として折衷(中を定める、すなわち古方と後世方の両者を調整し、その中間をとる)派が江戸で発展した。
中でも、現在の中医学の学説と遜色がない程のことを、一人で間近まで完成させた内藤希哲(ナイトウキテツ)は特出すべき医師である。内藤希哲には傷寒論類編、医経解惑論の著書がある。
多紀元簡(タキモトヤス)(1755〜1810)やその子、多紀元堅(タキモトカタ)(1795〜1859)が中心で、幕府の医学館の長(現在の東大医学部の前身)をつとめ、天下に号令する立場にあった。とくに古今の文献が豊富にあったため、文献学的方法により、中国系古典医学の再編成を行ない、「考証学派」を生み出した。一方、新しくは入ってきたオランダ医学と、日本の伝統医学の融合をこころみようとする「漢蘭折衷派」も生まれた。官立の江戸医学館を中心とする考証学派が「千金要方」や「医心方」などの古典を復刻した業績は大きい。
■漢蘭折衷派の人々
永富独嘯庵(1733〜1766)は長州に生まれ、京都で山脇東洋に古医方を学び、長崎で通訳兼医師の吉雄幸左衛門(ヨシオコウザエモン)についてオランダ医学に接し、蘭方に注目するようになった。著書の「漫遊雑記(マンユウザッキ)」は蘭医の乳がんの手術に言及しているので、のちの華岡青洲(ハナオカセイシュウ)に大きな影響を与えている。
華岡青洲(1760〜1835)は紀州に生まれ、東洞の子、吉益南涯(ヨシマスナンガイ)に古方を学び、のち大和見立(ヤマトケンリュウ)のもとで外科を学んだ。通仙散と称する麻酔剤を創製し、乳がんその他の手術に成功していることは、外科学史上で世界的に有名である。
土生玄碩(ハブゲンセキ)(1766〜1854)は安芸の生まれで、眼科医として穿瞳術(サクドウジュツ)を創始した。文政九年シーボルト参府のとき、散瞳薬ベラドンナをわけてもらい、代用薬ハシリドコロ(ロート根)を知った話は有名である。
後世方および古方の二大流派に折衷派が加わって、徳川時代末期から明治時代にかけ、多数の漢方医家が活躍していたが、とくに著名で現代にいたるまで影響をおよぼしている人々は、次の三医家であろう。
古方派としては、自ら吉益東洞の再来とした、尾台榕堂(オダイヨウドウ)で、その著「類聚方広義(ルイジュホウコウギ)」は多くの臨床医に読まれている。
後世派の代表としては味岡三伯の門下の浅井周伯(アザイシュウハク)の流れをひく浅井国幹(アザイコッカン)があり、明治の漢方存続運動で最後まで戦った一人である。折衷派の代表医家には浅田宗伯(アサダソウハク)がおり、多数の著作を成し、その門下も全国的に分布し、現在も浅田の流れは京都・大阪方面に伝わって生きている。
明治政府は西洋文化の摂取を施政方針としたため、漢方が質的に当時の西洋医学に劣っていたわけではないが、医事制度の改革により、漢方を法的に自滅するようにしたのである。明治九年に布告された医術開業試験の科目は、七科目すべてが西洋医学によるものであった。そして新しく医師になれるものは、この開業試験合格者だけと定められた。こうして漢方は、既得権のある漢方医と、薬種商などによって、細々と受け継がれ自然消滅の道をたどった。
明治43年、近代医学を修得した済生(サイセイ)学舎出身の医師和田啓十郎(ワダケイジュウロウ)(青年時代より漢方の優秀性に着目し、漢方医の弟子となり臨床経験を積み、日本橋浜町で開業医として漢方診療に従事、大正5年没)は「医界之鉄椎(イカイノテッツイ)」を自費出版し、漢方研究の必要性を世人に知らしめようと精魂を傾けた。この名著は大正・昭和の時代を通して復刻され、多くの人々に読みつがれている。
この書を読んで感激し、湯本求真(ユモトキュウシン)(金沢医専出身の医師、「皇漢(コウカン)医学」三巻の著者、昭和16年没)は和田啓十郎に教えをうけ、漢方の門にはいった。この湯本求真の門下生から、昭和漢方の発展の礎を築いた指導者が輩出し、今日にいたっている。
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