漢方薬は健康を維持するために、東洋医学の知恵が活かされています。経験豊富な中医師が漢方の知恵を生かして、あなたの「自然治癒力」を引き出すお手伝いをさせて頂きます。慢性病でお悩みの方、是非コンドウ薬局にご相談下さい。当店は体質に合った漢方薬をオーダーメイドで調合致します。
日本中医学院卒業 北京・広州中医学院留学 日本自然療法学会会員 日本薬膳振興協会会員 八面蒙色研究会講師
清水寺管長、松本大圓氏揮毫 薬食同源。健康の維持には食生活が大事と説いています。
   
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肝臓と酒の飲み方
酒飲みのダイエット
喫煙



東洋医学入門  東洋医学入門二

■漢方をはじめる前に 
・漢方とは
■漢方の歴史とその系譜
・後世(ゴセイ)派の導入
・古方派の台頭
・折衷派の台頭
・漢蘭折衷派の人々
・現代漢方のおもな流れ
■漢方薬と民間薬の違い
・本朝経験方(ホンチョウケイケンホウ)
・漢方薬と民間薬の相違
■漢方と西洋医学の違い

■漢方をはじめる前に 

●漢方とは

 漢方は古代の中国(西歴二百年頃、後漢の時代)に発達し完成をみた医術に基礎をおいているが、わが国に伝わってからは、長い歳月のあいだに独自な経験を加えて「日本の伝統的臨床医学」として大成した。

 日本へは五世紀頃、朝鮮を経由して渡来したが、中国の医学はその後も遣隋使や遣唐使の僧侶たちによって引続き導入された。もちろん、当時の社会においては、この医術も貴族や上流社会の専有する医学にすぎなかったが、鎌倉時代になって、ようやく一般大衆のなかに浸透し、さらに江戸時代中期にいたって、日本人にもっとも適した医学として完成したのである。 

 漢方というよび名は、江戸末期から明治初期にかけて「蘭方(ランポウ)」とよばれた西洋医学のオランダ医学と対照区別するために使われたことばで、「方」の字は、方技(ホウギ)、または方術(ホウジュツ)の方であって、昔のことばで「医術」という意味である。

 そして、江戸時代の医者、なかでも「古方(コホウ)」とよばれた流儀の医学を学んだ医師たちが積極的な治療方法をつくりだした。

 この日本の漢方のバック・ボーンを構成するのは「傷寒論(ショウカンロン)」という古代漢民族の経験をまとめた医学書であるが、その内容は非常に細かいところまで、きちんと整理された「治療学」書である。まず、世界に類例のない貴重な文献であると同時に臨床医学のテキストでもある。

 この傷寒論は、もともと「急性の熱性病」について、その経過と治療法を説いたものであるが、日本では、多くの先人たちが、難しい古代漢文をよく消化吸収し、また応用技術を拡大して「慢性病」にも使えるよう工夫研究してきたところに日本漢方の独自性と特長が生まれた。 

 傷寒論を主軸とする漢方のほかに中国の金・元時代の医学を中心としている「後世派(ゴセイハ)」とよばれる流派もあるが、これについては別章で説明しよう。

 近年、中国や香港、台湾、朝鮮などからの医学が紹介され研究されている

が、日本の漢方とまったく同一のものとはいえない。これらは、いずれも伝統のある優れたものには違いないが歴史的また民族的にみても、その治療方法や使用する薬物の種類、分量に多くの相違点があるのも当然といえる。

 中国系の医学は「中医学(チュウイガク)」朝鮮系の医学は「東医学(トウイガク)」または「漢医学(カンイガク)」などとよばれ「漢方」という呼称は日本にだけしかないものである。 

 日本の漢方の特長を少しあげると、処方中の生薬分量が少なくてすみ、かつ効果を発揮できる点であって、このことは、天然資源の少ない日本に適している。今日、香港や台湾で行なわれている治療では、同名の処方でも日本の二倍から数倍の生薬が一日量として使われている。 

 また、日本で常用されている漢方処方の中には、和方(ワホウ)ともよぶ独特の内容をもつものがある。これらは、先人たちが工夫し体験して編み出した処方で、古典からヒントを得たと思われるものもあるが、まったく独創的な優秀処方もあって自慢できるものである。(本朝経験方という) 

 こうした傾向は、現代の日本漢方研究者(ことに漢方臨床の専門医)にも受け継がれ、くふう改良創製された処方が数多くあるという点で、国民医療の上からも有益かつありがたいことといわねばならない。そして、人員こそ多くはないが、生薬治療専門の漢方専門医が、今も日夜研究を続け、日本漢方の核心となっている貴重な事実も見落とすことはできないだろう。 

 粉末あるいは錠剤となっているエキス製剤が「生薬の煎じ薬」と大差ない治療効果を発揮するなど漢方薬の普及に貢献しているのは認められても、エキス製剤だけの漢方治療ではオリジナルなものはつくり得ないし、本当の意味での漢方薬とはいえない。これは、あくまで漢方に似た製剤であってエキス剤をもって漢方薬と考える人がいるが、漢方の原点が必ず生薬治療にあることを忘れないでほしい。 

 このことは、医師・薬剤師はいうまでもなく、服用する人たちも、いつも念頭において病に対処してほしい。

 エキス製剤を正しく使うには、漢方的診断法に基づき「証」を把握してから用いるべきで、最近の西洋医学の病名だけで使おうとするのは正しい漢方治療法とはいえない。


●漢方の歴史とその系譜
経方ケイホウ:古典中心の治療法
時方ジホウ:金元医学の治療法(後世方)
中医学(新中国で毛沢東の命令):現在の治療法

古典
医書五経 
黄帝内経素問コウテイダイケイ・ソモン:黄帝内経霊枢コウテイダイケイレイスウ:難経ナンギョウ:神農本草経ノンノウホンゾウキョウ:傷寒雑病論(傷寒論・金匱要略) ショウカンザツビョウロン (脈経)

 漢方の基礎となった中国古代医学は、漢から三国六朝(サンゴクリクチョウ)時代頃にはすでに完成したといわれている。この時代に、今もなお、漢方における必読書として研究され続けている、権威ある医学の古典「黄帝内経(コウテイダイケイ)」「傷寒論雑病論(ショウカンザツビョウロン)」、「神農本草経(シンノウホンゾウケイ)」ができあがった。 

 有史以前の日本の医学にかんしては、考古学や人類学を通して、わずかにその一端をうかがうのみである。わが国には、中国の古代医学は朝鮮を経由してはいってきた。

 奈良時代(710年から約70年間)の医療は主として僧侶によって行なわれた(看病禅師(カンビョウゼンシ)という)、すなわち僧医である。僧以外は渡航を禁じられていたので、新しい随・唐の医学は僧の手によって輸入された。平安時代(9741192)になって、医療は医師の手でも行なわれるようになった。

 鎌倉時代(11921333)になると医学は貴族の手から離れ、それまでの随唐模倣の医学は力を失い、ようやく日本人向きの実用医学となっていった。鎌倉時代から室町時代にかけて主流だったのは、宋医学思想をとりいれた仏教医学で、再び僧医が活躍した。著作としては、二回入宋した栄西(エイサイ)禅師の「喫茶養生記」、浄観房性全(ショウゼン)の「頓医抄(トンイショウ)」、「萬安方(マンアンポウ)」がある。 

 室町時代(13361573)は中国では明の時代で、明医学は金・元時代の医学の延長にすぎなかった。僧医のほかに、産科、外科(金創医)、眼科など専門医師が現われた。竹田昌慶(タケダショウケイ)、坂浄運(サカジョウウン)、月湖(ゲッコ)、田代三喜(タシロサンキ)などは明に留学し、中国の医学を日本に伝えた。ことに田代三喜の李朱(リシュ)医学(後世派の医学)をわが国に伝えた功績は大きい。 

●金元医学の概要(11151367

李東垣:朱丹渓:張子和:劉河間などの出現 

補土派:李東垣リトウエン  (補中益気湯)ホチュウエッキト
養陰派:朱丹渓シュタンケイ  (滋陰降火湯)ジインコウカトウ
攻下派:張子和チョウシカ  (防風通聖散)ボウフウツウショウサ
寒涼派:劉河間リュウカカン (黄連解毒湯)オウレンゲドクトウ

●日本に於ける李朱医学

 田代三喜タシロミキ   (明に渡り李朱医学を学ぶ)
 曲直瀬道三マナセドウサン (田代三喜の弟子)

 田代三喜訓
広く内経を学び本草学べ。
診は王叔和の脉経を主とする。
処方は張仲景を宗とする。
用薬は東垣を専らとし潔古に従う。
諸證を弁治するには丹渓を師とする。
・外感は張仲景に則る。
内傷は東垣を用い。
熱病は河間に則る。
雑病は丹渓に則るべきである。

●後世(ゴセイ)派の導入

 京都に医学校「啓迪院(ケイテキイン)」を建てた初代の跡をうけつぎ、数多の門弟を養成した二代目曲直瀬道三(マナセドウサン)(玄朔(ゲンサク))も江戸初期の後世方の名医であった。その門下には、徳川家康、秀忠、家光に仕えた、秦宗巴(ハタソウハ)、岡本玄冶(オカモトゲンヤ)、野間玄琢(ノマゲンタク)、井上玄徹(イノウエゲンテツ)ら俊秀がいた。

 日本における中国医学の変遷のなかで、「証」を確立して冶療にあたるべきであるとはじめて主張したのは、田代三喜であり、さらにそれを明確にしたのは曲直瀬道三である。すでに三喜の師、月湖は「類証弁異全九集」を著わし三喜は「弁証配剤」を、道三は「察証弁治啓迪集」をそれぞれ著わしている。後世派は「証」の基礎を「黄帝内経」から、用いる処方は主として金元医学などから採用した。 

 日本の後世派医学は古方派医学に先んじて、わが国に実証的医学の基礎をつくり、随証治療の必要性をとなえ、日本化された、いわゆる道三流医学を広め、やがて古方派や考証派、折衷派などの生まれる基盤となった。

 道三流ではないが、同じく李朱医学派の医師として活躍し、その著作が臨床家に尊重された者に元禄以後の香月牛山(カゲツギュウザン)や加藤謙斉(カトウケンサイ)がいる。 

 また道三流の門を出て、師説とは別に一家を成した医者の草分けは、饗庭東庵(アエバトウアン)(玄朔の門下、その弟子に味岡三伯(アジオカサンパク)などがいる)と林市之進(ハヤシイチノシン)(曲直瀬正純(マナセマサズミ)の門下)だといわれ、黄帝内経や難経などの古典をよく研究し、中国の劉張派医学(劉河間(リュウカカン)・張子和(チョウシカ)の流れを汲むもの)の医方を宗としたので、後世別派とよばれた。 

●古方派の台頭

 明の喩喜言(ユカゲン)が「傷寒尚論(ショウカンショウロン)」を著わしてから、この一派は勢力をまし、次の清の時代になると李朱医学批判が高まって、傷寒論の古医方に帰れとさけばれ、これが日本にも反映して、傷寒論の実証性の再認識が行なわれ、これを行なう医家が現われてきた。甲斐の永田徳本(ナガタトクホン)(15131630)は先駆者であり、ついで京都の名古屋玄医(ナゴヤゲンイ)(16281696)が古医学への回帰を、主唱し、古方派がおこった。

 後藤艮山(ゴトウゴンザン)とその弟子香川修徳(カガワシュウトク)、山脇東洋(ヤマワキトウヨウ)、松原一閑斉(マツバライッカンサイ)は古方の四大家といわれた。後藤艮山(16591733)にいたって、古方派は強力な勢力となり、「万病は一気の留滞によって生ずる」と主張した。艮山に著書はないが、門人の筆記した「師説筆記」という写本がある。 

 香川修徳(16831755)は艮山の弟子で、徹底した実証主義者であり、自分の経験に基づく、自己の正しいと信ずる医学体系をつくろうとした。著述をこのみ、「一本堂行余医言(イッポンドウギョウヨイゲン)」、「一本堂薬選(ヤクセン)」などの大著がある。 

 山脇東洋(17051762)も艮山の弟子で、古方の泰斗といわれたが、傷寒論の処方だけではなく、「千金方(センキンポウ)」、「外台秘要(ゲダイヒヨウ)」などの処方も用いた。1754年人体解剖を行ない、その記録を1759年「蔵志(ゾウシ)」として著わした。その門人には漢蘭折衷派に属する永富独嘯庵(ナガトミドクショウアン)がいる。 

 吉益東洞(ヨシマストウドウ)(17021773)は広島で生まれ、はじめ金創医(外科医)であったがのち古医方を学び、京都に出て44歳のとき、東洋の推挙で世に出た。

 東洞の医説は「万病一毒説」「方証相対説」「天命論」など独特のもので、「類聚方(ルイジュホウ)」、独自な薬物書「薬徴(ヤクチョウ)」、古方に則した実証的な「方極(ホウキョク)」など多くの著作を著わした。

■折衷派の台頭

 古方が盛んになるにしたがって、その反動として折衷(中を定める、すなわち古方と後世方の両者を調整し、その中間をとる)派が江戸で発展した。

中でも、現在の中医学の学説と遜色がない程のことを、一人で間近まで完成させた内藤希哲(ナイトウキテツ)は特出すべき医師である。内藤希哲には傷寒論類編、医経解惑論の著書がある。 

 多紀元簡(タキモトヤス)(17551810)やその子、多紀元堅(タキモトカタ)(17951859)が中心で、幕府の医学館の長(現在の東大医学部の前身)をつとめ、天下に号令する立場にあった。とくに古今の文献が豊富にあったため、文献学的方法により、中国系古典医学の再編成を行ない、「考証学派」を生み出した。一方、新しくは入ってきたオランダ医学と、日本の伝統医学の融合をこころみようとする「漢蘭折衷派」も生まれた。官立の江戸医学館を中心とする考証学派が「千金要方」や「医心方」などの古典を復刻した業績は大きい。

■漢蘭折衷派の人々

 永富独嘯庵(17331766)は長州に生まれ、京都で山脇東洋に古医方を学び、長崎で通訳兼医師の吉雄幸左衛門(ヨシオコウザエモン)についてオランダ医学に接し、蘭方に注目するようになった。著書の「漫遊雑記(マンユウザッキ)」は蘭医の乳がんの手術に言及しているので、のちの華岡青洲(ハナオカセイシュウ)に大きな影響を与えている。

  華岡青洲(17601835)は紀州に生まれ、東洞の子、吉益南涯(ヨシマスナンガイ)に古方を学び、のち大和見立(ヤマトケンリュウ)のもとで外科を学んだ。通仙散と称する麻酔剤を創製し、乳がんその他の手術に成功していることは、外科学史上で世界的に有名である。

  土生玄碩(ハブゲンセキ)(17661854)は安芸の生まれで、眼科医として穿瞳術(サクドウジュツ)を創始した。文政九年シーボルト参府のとき、散瞳薬ベラドンナをわけてもらい、代用薬ハシリドコロ(ロート根)を知った話は有名である。

  後世方および古方の二大流派に折衷派が加わって、徳川時代末期から明治時代にかけ、多数の漢方医家が活躍していたが、とくに著名で現代にいたるまで影響をおよぼしている人々は、次の三医家であろう。

 古方派としては、自ら吉益東洞の再来とした、尾台榕堂(オダイヨウドウ)で、その著「類聚方広義(ルイジュホウコウギ)」は多くの臨床医に読まれている。 

 後世派の代表としては味岡三伯の門下の浅井周伯(アザイシュウハク)の流れをひく浅井国幹(アザイコッカン)があり、明治の漢方存続運動で最後まで戦った一人である。折衷派の代表医家には浅田宗伯(アサダソウハク)がおり、多数の著作を成し、その門下も全国的に分布し、現在も浅田の流れは京都・大阪方面に伝わって生きている。 

 明治政府は西洋文化の摂取を施政方針としたため、漢方が質的に当時の西洋医学に劣っていたわけではないが、医事制度の改革により、漢方を法的に自滅するようにしたのである。明治九年に布告された医術開業試験の科目は、七科目すべてが西洋医学によるものであった。そして新しく医師になれるものは、この開業試験合格者だけと定められた。こうして漢方は、既得権のある漢方医と、薬種商などによって、細々と受け継がれ自然消滅の道をたどった。

 明治43年、近代医学を修得した済生(サイセイ)学舎出身の医師和田啓十郎(ワダケイジュウロウ)(青年時代より漢方の優秀性に着目し、漢方医の弟子となり臨床経験を積み、日本橋浜町で開業医として漢方診療に従事、大正5年没)は「医界之鉄椎(イカイノテッツイ)」を自費出版し、漢方研究の必要性を世人に知らしめようと精魂を傾けた。この名著は大正・昭和の時代を通して復刻され、多くの人々に読みつがれている。

 この書を読んで感激し、湯本求真(ユモトキュウシン)(金沢医専出身の医師、「皇漢(コウカン)医学」三巻の著者、昭和16年没)は和田啓十郎に教えをうけ、漢方の門にはいった。この湯本求真の門下生から、昭和漢方の発展の礎を築いた指導者が輩出し、今日にいたっている





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