聖闘士星矢
夢の二十九巻
「第二十九話、天秤宮の弟子」
不意に認識が戻ってきた。
喉から胃あたりに強い酒を飲んだときに似た感触がある。
触覚が戻ってきたのだ。
身体をゆるやかな小宇宙が巡っているのを感じる。
それとともに耳に音が、鼻を突く甘く強い匂いがうっすらと感じられてくる。
感じる。
五感がゆるやかに戻りつつある。
ぼやけていた視界がうっすらと開いていく。
目に入ってきたのは、先ほどまで戦っていた処女宮の光景。
とはいっても、どの程度の時間が経過したかの感覚すらもぼやけている。
その処女宮の中に、動いている影が二つ。
眼の焦点が合って、ぼやけていた輪郭がはっきりとしてきた。
それでようやく一安心する。
「アーケイン様、助けて頂けると思っておりました」
「世話の焼ける奴等だ」
青輝星闘士、天秤座ライブラのアーケインが、倒れた星闘士たちの介護をしていた。
すぐ横には、白輝星闘士御者座アウリガのザカンもいる。
双児宮から異次元を通って教皇の間に乗り込んだ二人が、どういう経緯でこの処女宮に居るのかはわからない。
だが、アーケインの性格から考えて、十二宮の裏道から宝物庫を探してあれこれ捜索しているうちに、沙羅双樹の園に通じるこの処女宮に到達したというところではないかと推察される。
というところまで考えたところで、乙女座バルゴのイルリツアは、大きく息を吐いた。
床に転がっている体はまだまともに動かせる状態ではない。
ここで聖闘士たちに追撃されていれば一人残らずとどめを刺されて全滅しているところだった。
どうやって五感を絶たれた自分たちを助けてくれたものかと思ったが、顔のすぐ横に優美を極めた意匠を施されたクリスタルの酒瓶が無造作に転がっているのを見つけた。
「……ネクタルですか」
神話に謳われる神々の美酒。
嘘か真か知らないが、神々の常飲する飲み物で、神々の不死を支えるものであるという話がある。
確かにこれならば失われた五感を回復させるほどの力があっても不思議はない。
ずいぶん以前にアーケインコレクションに所蔵されているという話を聞いたことがあったが、その時はレプリカか偽物だと思っていた。
「本物だ。一本10億は下らんぞ」
作業中のアーケインの背中から恐ろしい数字が飛んできた。
単位がドルなのかドラクマなのかはわからないが、どちらにしても考えたくない。
「……おい、俺に大損させて起きないつもりかリチャード」
「アーケイン様……、これは、傷が深すぎます」
アーケインとザカンが二人して手当しているのは、星衣から見て黄虎座のリチャードらしい。
アーケインの偽悪的な軽口の底に、隠し切れない憤りがにじみ出ている。
ザカンの沈痛な声を聞く限り、おそらく助からないのだろう。
「アーケイン様、星葬を」
「……どいつもこいつも、俺に借金抱えたまま死にやがって」
星闘士は死して後は、星衣を祭り、体は星となって天空へ昇る。
生き残った星闘士は同胞の死において祭祀を務める慣わしであるが、慣例として、生き残っている者の中で最も格上の者が執り行うことが多い。
ただし、死者が複数の場合は、上位の者から複数人が並行して執り行うことがある。
アーケインは星闘士ナンバー3と目されているため、必然として星葬を行うことが多かった。
大体、愚痴と文句をずらずら並べる。
「イルリツアと、アクシアス、マリクも……まだ無理か。ちっ」
イルリツアだけでなく、処女宮で戦っていた面々はまだとても立ち上がれる状態ではない。
星葬はアーケインとザカンの二人が行わなければならなかった。
人数は五人。
黄虎座タイガーのリチャードは天舞宝輪での傷が深く助からなかった。
蛇遣い座オピュクスのサアヤは四感を絶たれた状態での死力を振り絞った治療の代償として息絶えていた。
海豚座ドルフィンのアバテリスと海月座クラッグのカシム、海竜座シーサーペントのパラッツオの三人は、メドゥサの盾で石化した後、激闘の衝撃で体を破壊されてしまい、助からなかった。
したがって、この処女宮の戦いで生き残った星闘士は
赤輝星闘士子犬座のファタハ、
白輝星闘士孔雀座のカガツ、
青輝星闘士バイコーンのアクシアス、射手座のマリク、乙女座のイルリツア、
のわずか五名。
これにザカンとアーケイン、獅子宮にいておそらく生存しているであろう獅子座のゼスティルムが、生存が確認できる全員であった。
強いて言うなら、火時計を攻めに行ったもののその後の経過がしれない白輝星闘士蜥蜴座のレイニィと、十二宮外を平定しに行った赤輝星闘士たち四人のうちの何人かは生きていると思われる。
しかしそれでも、十二宮に攻め込んだ星闘士はこの処女宮までで半壊したと言っていい。
お兄様の想定よりも、悪いですね。
イルリツアは、星葬を見つめながら一人そんなことを考えていた。
ところで、そのアーケインの傍らに、この十二宮に似つかわしくないものがある。
あれは確か、灯油をストーブに供給するために用いる、携帯用手押しポンプ……正式名称はなんといったか……ではなかったか。
そして、触覚を絶たれて嚥下能力が落ちていた我々の状況。
「……アーケイン様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」
星葬が終わったタイミングでアーケインに声をかけるが。
「答えの分かっていることを聞くな」
証拠物件をマントの中に格納しながら、にべもない肯定の回答が返って来た。
「もう少しまともな扱いを期待したかったのですが」
「貴様を相手に口づけなんぞして、下らん理由でイルピトアと全力戦争するのは御免被る」
「……わかりました」
そう言われれば黙るしかない。
実際に、起こりえないとは言えないからだ。
「さて、ザカンはしばらくここで待機していろ」
「……なぜです?」
「俺はちょっと一足先に天秤宮へ行ってくる」
まるで買い物にでも行くような口調でアーケインがそんなことを言い出した。
「一足先に……、など、また勝手な!」
双児宮から教皇の間に引っ張られ、ここまで散々振り回されてきたザカンがいい加減にしろとばかりに声を荒げる。
お宝のためならたとえ火の中水の中ブラックホールの中、と言われるアーケインのことだから、日頃の行いが悪すぎるのでザカンの対応も当然といえる。
だが、アーケインはまるで意に介さずといった顔で処女宮の出口の方向を見据えていた。
「ここで迎撃するのはかなり不味い。
今巻き込むと死人が増えかねん」
呆れ返っていたザカンの顔に、ゆるやかに理解の色が浮かんでいく。
「天秤宮から、追撃の手が来ると?」
「俺があの教皇代行アステリオンの立場ならそうする。
激闘の後で疲弊した今のお前らならば、青銅聖闘士の一人でも派遣してやればとどめを刺すのは容易だろう?」
後の方の言葉は、マリクやイルリツアたちに向けられたものだった。
情けない話だが、反論できる余地はない。
処女宮での戦いを終えた一同は、青輝星闘士たちまで全員が全員、まだ立ち上がることすらできないからだ。
「分かったか。
というわけだから、ザカンは沙羅双樹の園からの侵入者に備えてここで待機。
そっちから来たらお前が園で食い止めろ。
宮内では断じて戦うな」
「大変不本意ですが……、分かりました」
実のところ、このアーケインの想像は正鵠を射ていた。
先に教皇の間に乗り込んできたアーケインとの戦いで深手を負ったアステリオンだが、スパルタンの介護もあってようやくに意識を取り戻して状況を把握した後、すぐさま次の手を打っていた。
それは、次の天秤宮に控える紫龍に、処女宮への追撃に向かわせるというものだった。
これは当初アステリオンが想定していた、各宮にゆかりの聖闘士を配置して最大の恩恵を受けた上で迎撃するという作戦の前提を崩すものである。
それでも、ここは攻めるべきだと判断した。
シヴァとアゴラ、バルチウスの奮闘により星闘士たちを全滅寸前まで追い込んだ。
彼らが命がけで作ってくれたこのチャンスを逃すわけにはいかなかった。
この判断は間違っていないはずだった。
アーケインが暗躍しなければ。
「む!!」
「やはり!!」
急ぎ十二宮の石段を処女宮へ向かって駆け下りていく神聖闘士ドラゴン紫龍と、逆に天秤宮へ向かって急ぎ駆け上がる青輝星闘士天秤座のアーケインは、処女宮と天秤宮のほぼ中間で顔を合わせることとなった。
「廬山龍飛翔!!」
彼我の距離がおよそ100段といったところで、紫龍は駆け下りる勢いのまま石段を蹴って、体ごとアーケインに向かって突っ込んだ。
迎撃に向かって来たこの星闘士が、教皇の間を荒らし回った要注意人物であるということはすでにアステリオンからテレパシーで連絡を受けていた。
彼に構って足止めを食らうよりも、今は指示通り処女宮へ急ぐべきだった。
突っ込んでそのまま突破できればよし。
一撃を加えて振りきれるならばそれもよし。
全身には神聖衣を纏っている。
聖衣としての生命はハーデスによって殺されたとはいえ、そもそもの防御力は青銅聖衣とは比較にならないほど高い。
生半可なことでは倒されることはないという信頼感もあった。
対するアーケインは当然、相手を処女宮に通さないことが大前提となる。
その場で踏みとどまって左腕に装着した盾をかざし、突っ込んでくる敵の突進を真っ向から受け止める!!
「ぬうううううっ!!」
「チィッ!やはり貴様か!!」
初めて見るとはいえ、その神聖衣の形状が龍星座であるとわからないアーケインではない。
直接突っ込んできた紫龍の拳を真正面から盾で受け止めるが、いかんせん足場が悪すぎた。
上り階段の途中で上から押し込まれているのだ。
相手が雑魚ならばともかく、相手は伝説にまで昇華した神聖闘士ドラゴン紫龍。
ぎりぎりと押し込まれていき、足元が階段の段差を摺り超えたところでさすがに堪えきれずに大きく体勢を崩した。
一方の紫龍は相手の体勢を押しきったのを確認すると、これ以上アーケインに拘る愚を避け、勢いのままに乗りかかったアーケインの盾を蹴飛ばすようにして跳び上がり、アーケインを振り切ろうとする。
「さらばだ!!」
「行かせ……るかあ!」
体勢を崩しながらも、紫龍がジャンプしようとしたその瞬間に、アルゴ号の錨を取り出し、その鎖で紫龍の足を絡めとった。
「何!」
「沈めええっ!」
身体を翻して足場を確保する動きを利用して錨ごと鎖をぶん回し、空中に跳び立とうとする紫龍を石段上に叩きつけようとする。
とはいえむざむざと食らう紫龍ではなく、そこはしっかりと体勢を立てなおして足から着地した。
今度は両名が静止して向かい合う。
あえていえば、アーケインが当初の目的を達成したことになる。
紫龍は目が見えぬものの、眼前に立ちはだかる敵の情報を再確認した。
紛うことなき青輝星闘士級の小宇宙。
纏う星衣からはっきりと感じられる、天秤座の気配。
ならば間違いあるまい。
アステリオンの情報によれば、星闘士の中核となる青輝星闘士、その天秤座ライブラのアーケイン。
そう、天秤座だ。
この男は、大恩ある老師の守護星座に挑まんとする、宿敵たる星闘士なのだ。
その敵と、こうしてまみえることができたのはある意味では僥倖といえる。
他の誰に倒されるでもなく、ここまで来たその宿敵を、他の誰でもなく、他ならぬ自分の手で倒したいという意識がもたげてくるのが否定できなかった。
「その神聖衣からして間違いないと思ったが、やはり、ドラゴン紫龍だな。
ずいぶんと偉そうになったものだ」
思わず舌なめずりしそうなのをこらえながら、アーケインは紫龍の纏う聖衣を確認する。
ハーデス様によって切りつけられた傷があるはずだが、この距離で向い合ってもそれらしい傷が見えない。
誰が直したか、考えるまでもない。
白羊宮にいたあの聖闘士予備軍の少年は、やはり生かしておくべきではなかったと思う。
それにしても、もはやこの世の物質ではありえない輝きといい、威容といい、これで死んでいなければ確かに黄金聖衣をも凌ぐ伝説の聖衣だと改めて納得する。
だが、改めて実物を見てみると、これは単に龍星座の神聖衣と呼んでよいものか。
盾の形状を始めとして、各所に幾つか思わせぶりな雰囲気が漂っている。
そこから推測される事実は、神聖衣というものについてのある推論を導き出す。
これは、できれば確認しておきたい。
さて、どうしたものか。
「いかにも俺はドラゴンの聖闘士紫龍。
ずいぶんと知られているものだな。あいにくこの紫龍、自分についての噂など聞いたこともないが」
「もちろん、死人の噂だよ。死人に顔が売れていると聞いたことはないか?」
言われた紫龍は相手の不気味さをいぶかりながら、それでも思い出したことがある。
そういえば、エリスの配下にいた亡霊聖闘士楯座のヤン、あいつは死んでいたのに妙に自分のことに詳しかった……
これまでの戦いで命を奪った敵の数は決して少なくない。
特に冥界では第七獄、第八獄を始めとして幾人もの冥闘士を葬ってきた。
死人の間で噂になるのもやむを得まいと思うほどには。
「さあ、な。死神にはほとほと嫌われている自覚くらいはある」
「星闘士としては滅ぼしておきたい手合だな」
「生憎と、ここでお前に足止めされている暇は無い」
アステリオンから指示された今が星闘士打倒の千載一遇の好機であることはよく理解していた。
星闘士たちが回復してきたら、彼らを一網打尽にする機会はもはや二度と巡ってこないだろう。
天秤座の星衣を纏うアーケインというこの男に興味は尽きないが、今はそれよりも優先すべきことがある。
聖闘士として、為すべきことを為す。
「力づくで、そこをどいてもらうまでだ」
さながら龍が体をうねらせるかのように、紫龍の両腕が構えを取る。
「受けろ!ドラゴン紫龍最大の奥義……!」
その言葉こそ、アーケインが待っていたものだった。
口には出さないものの、必勝の予感にアーケインの目が閃く。
馬鹿め、全世界数億人の前で弱点を晒した技を予告しながら使うなど!!
「廬山昇龍覇!!」
それは、全身の力を右拳に乗せようとするあまり、無意識だが一瞬、どうしようもなく龍の右拳、すなわち心臓を敵の目の前に晒すことになる諸刃の剣のような技。
”あの時”から常軌を逸した神話に到達する成長を遂げているとはいえ、無意識の動きまでは止められまい。
時間にしてわずか千分の一秒、いや、おそらく今の推定は百万分の一秒ほどであろうが、それでも来るとわかっているものであれば、この青輝星闘士に撃ち抜けないものではない……!!
「タクティカル・アサレイ……」
おかしい……? 龍の右拳が、見え……ない!?
「生憎だったな」
至近距離で、ひどく冷静な紫龍の声がした。
「天秤座のアーケインと言うそうだな。
アステリオンから聞いている」
その言葉を聞かされたと思った瞬間には、アーケインは想定とは逆に振り下ろされた紫龍の拳に対応しきれずに、石段に叩き伏せられていた。
「がっっ……!何ィ……!?」
「貴様ならば、昇龍覇の弱点を知っている可能性が高い。
そんな相手にむざむざと昇龍覇を繰り出すこの紫龍だとでも思ったか」
構えも、昇龍覇の名前も、アーケインという男の特徴をアステリオンから聞いた上で仕掛けた囮だった。
アステリオンが読み取ったこの男の特徴は、用意周到にして大胆不敵。
かのイルピトアと同様にこちらの調査も進んでいるとなれば、銀河戦争で晒してしまった昇龍覇の弱点は知っていても不思議ではない。
いや、ほぼ確実に踏まえて来ると考えられる。
ならば、そこを狙ってくるが故に、必ず隙はできる。
もっとも、それらのことまで丁寧に説明してやる義理はない。
階段下に叩き伏せたアーケインの背中を追い打ち気味に踏みつけて、紫龍は処女宮へ向かって石段を駆け下りる。
「行かさんと、言っている……!」
跳ね起きたアーケインは左右一対の双節棍を取り出すと、振り向きざまに両手同時に振り下ろした。
棍を繋ぐ鎖が瞬時に伸び、二重螺旋を描いてまっすぐに、駆け下りていく紫龍の背中へと伸びていく。
追い打ちを予想していた紫龍は左腕を振りかざしてドラゴンの盾でこれを止めようとする。
だがアーケインはそれを見越していたからこそ双節棍を二つがかりで繰り出したのだ。
最強と言われるドラゴンの盾だが、天秤座の盾に比べて決定的に劣る点がある。
それは、物理的な防御面積が小さいということだ。
小宇宙の闘技に対してならば体の全面をカバーするほどの防御力を有するが、物理的に飛んでくるものまで実面積以上にカバーできるわけではない。
一本は弾いたものの、もう一本は盾の縁を掠って紫龍の左腕に鎖が絡みついた。
「振り出しに、戻りな!!」
掛かった瞬間を狙い違わず、アーケインは一気に紫龍の体を釣り上げて、天秤宮まで戻れとばかりに放り出す。
「これしきで!」
だが、一手でそこまで追い込まれるほど柔な紫龍ではない。
空中で小宇宙を燃え上がらせて、水竜巻の如く渦巻く龍のオーラが周囲の大気を風のように取り込んで、投げつけられた軌道を変えて階段上に着地する。
結果として、再び先ほどのように、紫龍が上に、アーケインが下に、20段ほどを挟んで向き合うことになった。
「この男……」
紫龍はこのアーケインを倒さずに処女宮へ行くことを断念せざるを得ないと判断した。
これまでに地上でもアスガルドでも海界でも冥界でも、様々な相手と戦ってきた紫龍だが、このアーケインという男の戦い方はどこかアスガルドのアルベリッヒにも似た気配があった。
青輝星闘士という強烈な小宇宙の持ち主でありながら、紫龍の性質を読み、テクニカルな戦い方をするタイプだと感じられた。
少なくとも、正面から正々堂々というタイプではない。
それ故に、手強い。
強行突破しようなどという生半可な戦い方では不覚を取ると見た。
それに、気になることがある。
「さて、いまさらだが自己紹介しておこうか。
俺は天の星座を守護せし星の戦士、星闘士の最上位に位置する青輝星闘士が一人、天秤座ライブラのアーケイン。
黄金聖闘士天秤座ライブラの童虎の愛弟子が一人、ドラゴン紫龍。
貴様と戦うこの日をざっと一年ほど待っていたぞ」
紫龍に向かってまっすぐに右腕を突き出して指差す芝居がかったポーズで、ずいぶんともったいぶった名乗りを上げる。
とはいえ、アステリオンから伝え聞いていた紫龍にとってはほとんど事実の再確認に過ぎなかった。
だが、やはり気にかかる。
「貴様、どこかで会った、いや、戦ったか?」
どうにも拭いがたい疑問が紫龍の口をついて出た。
確実に昇龍覇の隙を狙って来ただけでなく、ドラゴンの盾の弱点を突き、そして、一年ほど待ったという妙に具体的な説明。
単に噂をかき集めただけにしては、この男の行動は具体的に過ぎた。
まるで、この紫龍の戦いをはっきりと見たことがあるかのように。
時間稼ぎを目的とするこの男の土俵に乗る問いかけだとわかっていても、尋ねずにはいられなかったのだ。
その質問は、アーケインにとってはもちろん、してやったりである。
「会ってはいないな。
だが、そう。俺は、お前のことはよく知っている」
ニヤリと笑ってから、アーケインはどこからともなく何枚かの紙片を取り出した。
「見せつけてやりたいところだが、今の貴様は目が見えないからな。
驚いてもらいたいところだが、いやはや残念だ」
ひらひらさせた紙片は横長のものと、それより少し短くなったものとが、合わせて十枚ほどになる。
「紙の札……か?アテナの封印の札でもあるまいに」
「……ほう、目が見えないというのにそこまでわかるのか。
大した大道芸だな」
わざと挑発するようにアーケインが批評するが、そんな見え見えの挑発に乗る紫龍ではない。
乗ってこない紫龍をじらすようにしばらくアーケインはこれみよがしに音を立てて札をひらひらさせてから、その正体を告げた。
「これはな、銀河戦争の最前列チケットだよ。全9枚」
「銀河、戦争だと……!?」
これにはさしもの紫龍も驚愕するなという方が無理だった。
決して忘れるはずもないが、普段は遥か過去のこととして記憶の彼方に沈んでいたはずの単語だった。
「なぜ、星闘士の貴様がそんなものを、持っている……!?」
この神話の世界たる十二宮から一撃で俗世界に引き戻された衝撃で呆然となり、紫龍はアーケインの術中にはまった。
「何を寝ぼけたことを言っている。
星闘士の宿敵たる聖闘士が、青銅とはいえ世間に堂々と弱点を丸出しにして戦ってくれるなんて間抜け極まりない機会があったんだぞ。
見に行かないなんて手は無かろうが」
実は紙片のうちの短くなったものは、一部を切り取って半券になったものであったりする。
「貴様は、俺と星矢の戦いを……!」
「おうさ見たとも。この目でしっかり最前列でな。
会話までしっかり聞かせてもらったぞ。
いいのか紫龍、昇龍覇を二度も撃ったりして。おまえの龍の右拳がガラ空きになるぜ。今度こそ致命傷だぞ」
声色を変える無駄な演出まで入れてアーケインが告げた言葉は、記憶に刻まれて忘れるはずのない星矢の声と確かに一致した。
道理で、完璧とも言える視線で見せ技の昇龍覇の際に心臓を狙っていたわけだ。
アステリオンからアーケインの危険性を示唆されていなければ、今頃アーケインの狙い通り、心臓を打ち抜かれて倒されていただろう。
「だいたい貴様らグラード財団の大会運営はなってないにも程がある。
参加選手全員が揃う前に開会式を始めたあげく、選手到着待ちのため対戦カード変更とか、格闘技大会を舐めてんのか。
対戦カードは予定と変更になることがあります、なんてこんな小さい文字で、しかも日本語で書きやがって。
おかげで全日程分の最前列を手に入れなきゃならなくなり、どれほど苦労したと思っているんだ。
しかもやっと揃えたと思ったら、事前アナウンスもなく白鳥星座の試合を始めおって。
こちらにだって仕事があるんだぞ。おかげで奴の試合を見そこねたわ」
よりによって星闘士から、それも今頃になって銀河戦争の大会運営について責められるというのは、さしもの紫龍をしても、まともに対応できる気がしなかった。
相槌や反論を述べる気力すら失せる。
そもそも紫龍は参加選手であって運営側ではない。
「何より許せんのがだ、大会を無期限延期なんてことで終わらせたことだ!
ふざけるな!
決勝戦の決着後に華々しく乱入して、優勝した聖闘士をその場で叩きのめし、黄金聖衣を分捕ってやろうとしていた俺の計画が台無しだ!」
「…………………………」
あまりの言い草に紫龍はしばし空いた口が塞がらなかった。
「貴様……、そんなことを考えていたのか」
「当たり前だろうが。
優勝者には黄金聖衣を贈呈するなんて大真面目にスポーツ新聞に書かれていたんだぞ。
奪いに来いと言っているも同じだろうが」
かけらも悪びれるところがないとばかりに、アーケインは言い切った。
「さらには払い戻しも手間がかかる割に定価でしか払い戻さないときたもんだ。
こちらはダフ屋に平均で1000倍近い金を渡して手に入れたんだぞ。
そんなハシタ金を返されたところで、まるっきり大損だ」
「ダフ屋は暴力団の資金源になる。そんな奴らから買った貴様が悪い」
よくよく考えてみると、とても処女宮と天秤宮との間で交わされたとは思えないほど俗気に満ちた会話の応酬だった。
思わず反論してしまった紫龍は、自分が立っている場所とのあまりの違和感に目眩がした。
だが冷静になってみれば、容易ならざる事態であることはよくわかった。
その頃から、つまりはサガがアテナの存在に気づくよりも前から、星闘士たちは自分たちを見張っていたということだ。
しかも、よりによって紫龍がおそらく人生の中でもっとも死力を尽くして戦ったであろう星矢との戦いを、間近で、つぶさに観察されている。
昇龍覇を知っているだけではなく、細かい癖や構えの隙など、どれほどこの男に見破られているのかわかったものではない。
無論、アーケインはそれを狙っている。
時間稼ぎが主な目的とはいえ、この一連の会話にはもちろん紫龍の動揺を誘うという狙いがある。
「なるほど。
だがこの紫龍を、あの時星矢に負けた男と同じと思ってくれているのなら、その慢心の代償を、心して受けてもらおう」
「フッ、あのときマッハでオタオタしていたヒヨコどもが、神聖闘士などになってずいぶんと偉そうな口を叩けるようになったではないか!」
紫龍が本気で小宇宙を燃え上がらせたのを見たアーケインは、口では見下しながらこちらも黄金の槍を取り出して小宇宙を燃え上がらせる。
あの時は手もなく倒せると思っていたヒヨコどもが、ハーデス様を打ち倒す神聖闘士にまで至ったという事実は、翻せば彼らの成長がいかに常軌を逸した恐るべきものであるかということを如実に示しているのだ。
口調は馬鹿にしていても、全力で当たらねばならないことは十二分に理解していた。
「今度はこちらから行くぞ!クリティカル・グリスン!!」」
段上相手の不利など黄金の槍の長さでどうとでもなるとばかりにアーケインは仕掛けた。
距離を詰め過ぎないように、段上にある紫龍の足元を狙って大きく横薙ぎに振るった後、即座に槍を翻して立て続けに多段突きを繰り出す。
紫龍は最初の横薙ぎをわずかなジャンプ一つで躱し、続く突きのほとんどを避けながら、いくつかは爪先で槍を横から弾いて撃ち落とす。
「……信じ難いな」
セブンセンシズに目覚めて五感を超えた感覚を有するとはいえ、視覚を持たずしてこの攻撃を捌くとは尋常な技量ではない。
アーケインは割りと本気で感心していた。
同時にもう一つのことも確認していた。
神聖衣の強度と硬度だ。
本来はオリハルコン製のはずの黄金の槍だが、さすがにポセイドンが授けたという伝説だけあって、通常のオリハルコンやガマニオンの金属塊くらいならば軽く貫通できるほどの切断能力を持っている。
アスガルドでは神闘衣も、金牛宮では白銀聖衣すらやすやすと貫いた。
本来なら槍の弱点となるはずの柄の部分さえ、動きに合わせてしなることはあっても、曲がることなどなかった。
実はその分アーケインは、へし折れた柄の修復にかなり苦労させられた。
その黄金の槍が、何発かは当たっているというのに、あの神聖衣には傷ひとつ付けられない。
聖衣としては既に死んでいるはずなのに……!
歯噛みしながらもアーケインは、一方で、口元がニヤけるのを堪えきれなかった。
これは、確かに入手のし甲斐があるというものだ。
だが、アーケインがそうして決定打を欠いている間に、紫龍はその攻撃をほぼ読みきった。
この長さの槍なら感覚として経験があった。
突いてきた一閃が下段向きと判断した瞬間に、タイミングを測ってその穂先を踏みつけて石段上に固定し動きを押さえ込んだ。
「なっ!?」
「もらったぞアーケイン!!」
アーケインが驚愕した一瞬を見逃さず、
「廬山龍飛翔!!」
技の名前こそ最初の一発と同じだが、至近距離から拳圧とともに闘気を放って叩きつける技だ。
なまじ技名が同じだけに、またもアーケインは紫龍に裏をかかれることになった。
かわしきれず、ギリギリのところで盾をかざして闘気が顔面を直撃することを防いだが、威力を殺すためにとっさに槍から手を離して石段を十数段飛び降りなければならなかった。
「生憎だったな。この槍、もはやこの紫龍には通じんぞ」
一旦距離が離れてアーケインの手からも得物が離れたので、紫龍は足元に押さえ込んだ槍を拾い上げる。
だが触れたその瞬間、不意に言い知れぬ悪寒が走り、紫龍は思わず槍を取り落とした。
石段を転げ落ちた槍は狙いすましたようにアーケインの足元に戻る。
「……なんだ?その、槍は……」
「ライブラの童虎に諸礼を教えられていなかったのか。
ずいぶんと死者への礼を欠いた態度ではないか」
ここにザカンを始めとする他の星闘士がいたら、どの口がいうのかと突っ込んだところだが、ここではアーケインを止める者はいない。
「貴様を相手に礼を踏まえる必要はなさそうだが」
「聞き間違えたのか?死者への礼だと言ったんだ」
「何?」
紫龍が訝しんだところへアーケインは畳み掛けた。
「その槍、対応しやすくはなかったか?」
「!?」
そう、これがアーケインが黄金の槍を最初に使った理由だった。
「お前はこの槍を知っている。
いや、違うな、言い直そう」
穂先を紫龍の見えぬ目に向けて、
「この槍は、お前をようく知っているそうだぞ」
アーケインは、槍の代理人であるかのように、そう告げた。
「……まさか、それは……、その槍は!」
そこまで言われて、先ほどからの感覚に紫龍は確信を持って思い至ってしまった。
道理で長さを捉えるのが容易だったはずだ。
視覚を失う直前にはっきりと見た槍の軌跡ならば、確かにこの紫龍の脳裏に焼き付いているはずなのだから。
「そう、海闘士七将軍が一人、クリュサオルのクリシュナが持っていた、黄金の槍。
貴様が海界でへし折ってくれた逸品だよ。
だから言っただろう、死者への礼を欠いているとな!」
「!!」
アーケインは畳み掛けるように告げた直後、驚愕した紫龍の隙を突いて、その槍を神聖衣のわずかな隙間が見える右の大腿部を狙って突き込んだ。
「しま……っ!!」
紫龍はとっさに両足を叱咤して身を翻し、串刺しは避けたものの、皮一枚と済ますにはいささか深い傷を受けてしまった。
「ちっ、気を取り直すのが早いじゃないか」
「貴様……」
このアーケインという男を警戒してはいたが、それがなお不足であったことを紫龍は痛感させられていた。
ここまでの思わせぶりな態度や挑発はすべて、自分を絡めとるための伏線だったということだ。
「ちなみに嘘は言っていないぞ。
これは紛うことなきクリュサオルの黄金の槍だ。
何よりも、戦った貴様自身が疑いようもなく確信を持てるだろう?」
その通りだ。
クリシュナの手にあったときの光り輝くような小宇宙は、薄れたとはいえ、確かに感じられる。
「貴様はクリシュナの恨みを果たすために海界から来た船幽霊だとでもいうのか」
「それはそれで面白い推論だが、生憎こちとら生きている人間だ。
これでも感謝はしているのだよドラゴン紫龍。
貴様らがポセイドンを倒さなければ俺たちは全員土左衛門だ。
だが、こんな名槍を足蹴にしようとは態度がなってない」
「そうか。安心したぞ」
茶化したつもりのアーケインの言葉に、紫龍は巌のような声で応じた。
「貴様が亡霊でなければ、大方海界から宝物を回収しただけの墓荒しだろう。
それならば何も恐れるほどのことはない」
「そうか。ではなぜ、俺が貴様とクリシュナの因縁を知っていると思う?」
紫龍が拳を振るおうとした気合を削ぐタイミングでアーケインはさらに仕掛けた。
さすがにその言葉を無視するには、紫龍にとってクリシュナとの戦いは忘れ難い死闘に過ぎた。
「貴様は……」
「船幽霊ではないが、星闘士は死者の声を聞くのが商売でな。
だが俺は趣味と実益の関係上、さらにちょっとしたおまけの技能を持っている」
ヒュンヒュンと風を切って音が鳴るように黄金の槍の穂先を振り回し、
「武器の記憶、武器の声が聞こえるのだ。
だから知っている。
この槍を切り裂いてくれたという貴様の右腕の聖剣のことも、使い手たるクリシュナと貴様の問答のこともな」
細部まで語らずとも、それだけで雄弁に過ぎた。
相容れぬ正義としてぶつかったあの男の強固な意思を湛えた瞳とチャクラを鮮明に思い出す。
あの時は身勝手な悪だと断じていたが、クリシュナが信じていたポセイドンというものを、今は信じざるを得ないのだ。
宿敵であったはずのポセイドンは、地上をハーデスの手に落とすことを良しとせず、自分たちが冥界でタナトスと死闘を演じていたとき、遥か超次元を超えて黄金聖衣を届けてくれた。
唯一生き残った海闘士七将軍最後の一人セイレーンのソレントと接触した那智からも、ポセイドンの立ち位置を聞かされた。
カノンの策謀によって誘導されていたとはいえ、ポセイドンと七将軍たちは、確かに己が信じる正義のために戦っていたのだと改めて思い知っていた。
今がカーリーの時代であると断じて、ポセイドンの下での浄化を決意するまでに、あの男はどれほどの闇を見てきたのだろうか。
少なくとも今、クリシュナを単なる悪と思うことは、もうできなかった。
そしてまた、その対面した正義には、まったく関係ないはずの別の男のことも思い出させるのだ。
正義など、いくらでも変わるものだと老師の前で嘯いた、あの男のことを。
いや、今はそんなことを思い出している時ではない。
「……なるほど。よくわかった」
紫龍から返って来た声は、アーケインの期待に反して揺るぎなかった。
「クリュサオルの槍、返してもらう。
この紫龍が倒した敵のものとはいえ、この紫龍が切り裂いたものとはいえ、クリシュナの手にあった槍を足蹴にした非礼は確かに詫びよう。
だがそれは貴様にではない。
この紫龍が戦ったクリシュナという男の魂に、その魂の槍を貴様のような輩に使わせてしまったことに、詫びねばならん」
「は…………」
まさかここまで糞真面目に非礼について返されるとは思っていなかったアーケインは、紫龍から見えないのをいいことに全力で顔をしかめた。
堅物を翻弄するのは手馴れているつもりだったが、これは筋金入りにも程がある。
「自分が殺した相手への義理を果たすつもりか。堅物め」
貴様はどう思うのか、という目で黄金の槍を見つめる。
「……そうか。
では、こいつはどうかな」
黄金の槍を格納せずに軽く背に装着し、新たにマントの中から剣を取り出す。
棒状の紫水晶を荒削りにして棍棒に仕立て上げたような形のそれを両手で握る。
「お前に言いたいことが、山とあるそうだぞ!!」
「!!」
振るわれた瞬間にはっきりとわかる。
離れていても肌をチリチリと焦がす、内に秘めた高熱。
触れれば炎となってこの身体を焼き切るであろうその剣は……
「アルベリッヒの、炎の剣……!なぜ貴様がそれを持っている!」
「ご名答!アスガルドに行ってわざわざ貰ってきたんだよ。
いや面白いなこの男は!
聞こえるぞ、貴様に野望を絶たれたこの男の恨み辛みの数々が!
手に入れてからこの方、ここまで語ってくれたことはなかったが、貴様を目の前にした途端にこの雄弁ぶりだ!
よほど貴様が憎いと見えるぞ、アルベリッヒ大王様は!!」
何のことを言っているのか、紫龍にも一部わからないところがあったが、アルベリッヒが紫龍を恨みに思っていないはずもなかった。
だが、紫龍にとってもアルベリッヒに対してはあまり気兼ねするところはない。
いっそクリシュナを相手にするよりもはるかに気が楽だというものだ。
「よかろう、そんな不穏な野望ならば何度でも砕いてやる!」
「砕けるものならやってみろ!」
アーケインが構えた剣が猛烈な炎を吹き上げた。
そのままアーケインは全長10メートル以上にもなる炎を刃のようにして、間合いを完全に無視して紫龍に切りつけた。
ドラゴンの盾で止めることを考えたが、規模が大きすぎると判断して紫龍はとっさに躱した。
その判断が大正解だとばかりに、炎が通過した軌跡上の石段が一瞬で沸騰したように焼き切られていた。
アスガルドで見た炎の剣は、ここまでの威力ではなかったはず……!
「貴様……、それは本当に炎の剣か!?」
紫龍の疑問に畳み掛けるようにアーケインはさらに炎の剣をぶん回す。
横薙ぎの一閃で近くにあった岩盤が軽く焼き切られて吹っ飛んだ。
剣にあるまじき超長距離の間合いを持ちながら、普通の剣と同じ角速度で振るわれるため、先端の速度が光速の壁に近づきすぎて根本より遅れて回転する。
結果、剣でありながら超長距離の鞭ともいうべき性質をも兼ね備え、それがアーケインの剣術の技量で縦横無尽に振るわれる。
間違いなく、アルベリッヒが振るったときよりも、手強い。
「ああ、この威力が意外か?
そりゃそうだ、この炎の剣は極北のアスガルド国内では全力が出せなかった上に、アルベリッヒ大王様は森の精霊を従えるため、炎の剣を抑えて使わねばならなかったそうだからな。
本来はアスガルドを守る武器ではなく、アスガルドの外へ攻め寄せる兵器にも等しい武器なのだそうだぞ。
さらに今はアルベリッヒの恨みとともにこの全力全霊っぷりだ。とくと味わうがいい!!」
もっとも、威力が大きすぎて使いにくいというのは自分も同じだがな、とアーケインは紫龍には告げずに内心だけで舌を出す。
周囲全てを薙ぎ払うこんな武器は、単独行動しているときでもなければ全力で振るえない。
教皇の間で儀式技の一環として他の武器と併用するくらいしか使わなかった理由はそこにある。
だが、因縁の相手にめぐりあえて覚醒できたこの状況ならば、振るうにも申し分無い!
紫龍はそれが炎の剣であることは認めた上で、アルベリッヒ戦と同じような戦い方はできないと判断した。
アルベリッヒは近距離を炎の剣、中距離にアメジスト・シールド、遠距離をネイチャー・ユーリティで戦うというスタイルの持ち主だった。
これほどの超絶武器を持っているのならば、星矢や氷河たちとともにこの紫龍を森に誘い込んだ時点で、森ごと焼き払えば一掃することができたはず。
人質を取ることも厭わないアルベリッヒでありながら、そんな手っ取り早い勝利の手法を投げ捨てたということは、私欲で動いていたというあの男にとっても、故郷アスガルドはどうしても壊せない、大切なものだったのかもしれないと、今にして思う。
そのアルベリッヒに比べて、聖域を滅ぼすつもりで攻め寄せてきているこのアーケインを同一視することは、あまりにも危険だった。
時折避けそこねて神聖衣を炎が掠める。
さすがに岩盤のように切り刻まれることはないし、神聖衣は耐熱性も常軌を逸しているのか、食らっても神聖衣を纏えなくなるほど熱せられることはない。
しかし、岩盤が焼き切られることを重ねていくことで、周囲はマグマ溜まりのように変貌していく。
徐々に足場が減っていくことまで当然アーケインは計算済みだ。
このままでは、追い込まれる。
紫龍は削られてきた石段の中に確たるところを見つけ、そこを足場にして一気にアーケインに向かって飛び込んだ。
そう来ると思っていたぞ!
アーケインは必勝のタイミングで、飛び込んでくる紫龍の頭上へ炎の剣を振り下ろす。
ドラゴンの盾で第一撃を止められても、炎の剣の軽さを利用して剣自体を表面で弾き、返す刀で紫龍の顔面を捉えるつもりだった。
「な……、なにぃ……!?」
止まった。
炎の剣が紫龍の頭に届く前に、止められていた。
刃を返すことも、そこから押し切ることもできない。
吹き上がる炎の先で、盾をかざして止めているわけではなく、これは……まさか!?
「いかに神聖衣を纏っているとはいえ、この炎の剣を白刃取りだと……!
正気か貴様!」
紫龍の両手がその眉間の前で合掌され、その間に炎の剣が捕らえられていた。
日本刀のコレクションも所有しているアーケインはその技の名をかろうじて知っていたが、よもや実戦で己が直面することになろうとは想像だにしていなかった。
「どうにも馬が合わない男だったが、それでもアスガルドを守るために戦ったアルベリッヒの剣……。
どうやって手に入れたか知らんが、ヒルダの下に返させてもらう!!」
紫龍は両手が焼け焦げるのも構わずに手中に収めた剣を確保すると、剣を取り返そうとしたアーケインの動きを逆に利用して、振りぬいた右足を叩きつけてアーケインをふっ飛す。
アーケインもさすがに頭から石段にたたきつけられるのは、かろうじて受け身をとって凌いだが、それでも石段を二十段ほど転がり落ちる羽目になった。
「なんだそりゃあ……!」
処女宮まで押し込まれるわけにいかんと、ようやく体勢を整えて起き上がり、紫龍に向き直る。
さすがに紫龍に捕まった炎の剣は大人しくなり、吹き上がっていた炎も消えている。
それでも、焼け焦げたように煙を吹き上げる両手が無傷であるはずはなかった。
「クリシュナ相手ならまだしも、アルベリッヒの剣まで、己の身が傷つくのも顧みず……」
呆れるを通り越して、吐き捨てるようにアーケインはつぶやいた。
これでも、一度自分の所有物にした物に対しては周りが呆れるくらいの執着心はある。
炎の剣をアステリオン戦に使った折に吹っ飛んだものを探すため、ザカンが呆れて激怒していい加減に同士討ちになりそうなくらいに時間をかけて探しまわって見つけてきたくらいだ。
俗人を自認する一方で、自分が一般人から外れていることぐらいの自覚はアーケインにもある。
だが、そのアーケインをしても、このドラゴン紫龍という男は、あまりにも、異常に見えた。
「……気に入らんな」
「貴様に聞きたいことがある」
アーケインのぼやくような呟きを塗りつぶすように、紫龍は有無をいわさぬ口調で詰め寄った。
どんな質問が来るか十二分にわかった上で、それでもアーケインはこう答える。
「答える義務もその気もないな」
「貴様、アスガルドに攻め込んだな」
そのアーケインの反応もまた、紫龍は予想していた。
尋ねるというよりも、これはもはや確認でしかなかった。
メグレスの神闘衣の一部ともいうべき炎の剣がガラクタのようにアスガルドから流出するはずがない。
ならばこの男がアスガルドから奪い取ってきたとしか考えられない。
そして、ことはそれだけでは済まなかった。
アステリオンから、氷河がアスガルドに出向いていることは伝え聞いている。
その氷河が、アスガルドにおける墓荒しのような真似を座視しているはずもない。
もちろんアーケインは紫龍がそこに引っかかるように誘導している。
「ああ、そうそう。
既に撃墜マークはもらってるぞ。
貴様と同じ神聖闘士からな」
「……!」
気軽極まりない口調で、もちろん狙いに狙った台詞を叩き込んだ。
そして、その言葉がマッハの速度で紫龍の脳裏に叩きこまれた直後のタイミングを狙って、今度はヒルダの槍を手にして紫龍へと肉薄した。
ヒルダのように雷撃を駆使できるわけではないが、それでもアスガルドに伝わるオーディーンの地上代行者が手にする名槍だ。
狙いに狙いすまして全力で叩き込めば、神聖衣すらも貫いて紫龍を仕留められる必勝の間合いだった。
その、はずだった。
しかし、
「廬山昇龍覇!!」
「何ィッッ!!!!?」
紫龍の心臓を貫いたと思った槍が、わずか15センチの動きで脇の間に逸らされたと思った瞬間には、アーケインのお株を奪うかのような完璧なタイミングのカウンターで昇龍覇が炸裂していた。
千分の一秒だろうが十万分の一秒だろうが、叩き込まれるはずの隙を、後の先を取ることでアーケインに狙わせなかった。
「うおおおおおおおおお!!!?」
むろん、後の先を取るために本来の体勢より崩れていたため、廬山の大瀑布をも逆流させるという昇龍覇の本来の威力からは落ちている。
しかし、直撃したのがまずかった。
極限まで凝縮された渦潮のようにうねる逆流は、そのまま天へと昇ろうとする龍の牙と爪そのもののように矮小なるものを轢き潰す圧倒的な破壊力でアーケインの全身を苛んだ。
「この……ままでは……!!」
ドラゴン紫龍最大の奥義、という謳い文句に偽りなしということをアーケインは思い知らされていた。
アーケインは知らなかったが、神聖衣を纏った紫龍の昇龍覇は氷河のダイヤモンドダストとともに、ヒュプノスさえも倒しているのだ。
アーケインの星衣が鋭角部から次々と砕かれ落ちていく。
「げ……玄武……!!」
「!?」
アーケインの叫びに応えて、左腕に装着した亀甲状の盾が、アーケインを苛む龍に対向するかのように、巨大な霊獣のオーラを発してアーケインを包んだ。
ようやくにして龍の顎から逃れたアーケインは、地上に着地することもできず、かろうじて転がって落下の威力を殺しながら、紫龍から間をとってようやく膝立ちになった。
「紫龍……貴様、血を分けた兄弟の死を聞いて、欠片も動揺すら見せぬとは……」
「嘘だな」
一片の迷いすらなく、紫龍は言い切った。
「貴様は氷河という男のことをわかっていない。
俺や一輝は死の淵を踏み越えて何度と無く蘇ってきたが、氷河は死の淵を超えることなく、かならず踏みとどまる男なのだ」
「……キグナス氷河に黄金の槍を突き刺したときの話でもしてやろうか?」
「要らんな。
どうせ殺した、などと思い込んだ話だろう。
かつて一輝も同じように思い込んでいたな」
「見てきたように言うではないか」
「それにな、死ぬときは一緒だと誓った兄弟だ。
そのときが来ればわかる。
だが、あいにくこの紫龍も、氷河も、まだ戦いを終えるときではなさそうなのでな!」
「なんて面倒くさい奴らだ……」
アーケインは率直にぼやいた。
わかっていたつもりだったが、神聖闘士たちの非常識な伝説ぶりはなんとかならないものか。
アスガルドで殺したと思い込んで氷河を仕留め損ねたのは個人的には痛恨の失敗だった。
さらに、神聖闘士たちの実力だけでなく結束力も常軌を逸している。
地獄から帰ってきた、などという折込文句がまったく洒落になっていないから恐ろしい。
やはり正面からは戦ってられない。
切り札を使うことにした。
「ところで、玄武、という名前に反応したな」
「……」
紫龍はこのアーケインを相手に心に隙を作ってしまったことに気づいた。
能面を装って沈黙したが、もちろんそれを見逃してくれるアーケインではなかった。
「この盾の名前だ。四神相応、北を守護する水の霊獣である玄武の盾。
何も珍しいものではあるまい。
童虎に師事した貴様なら四神くらい知っていても不思議ではない」
と、身を翻したと見せかけたところで、
「それとも、旧知の人間の名を呼ばれて動揺したか?」
昇龍覇の隙を突こうとした時よりもさらに鋭くアーケインは切り込んだ。
「貴様……!?」
もはや疑問に思うまでもない。
アーケインは間違いなく、あの男のことを、知っている。
この紫龍と一時期肩を並べて老師に師事した、もう一人の天秤座の弟子、玄武のことを。
素質ならばこの紫龍よりも遥かに上かもしれなかった。
兄弟子の王虎も、おそらく老師も、玄武の素質を高く評価していた。
真摯に修行を重ねていれば、今ここで天秤宮を守っているのはあの男だったかもしれない。
だが、玄武は聖闘士の道を捨てて老師の下を去ったと聞いている。
元より修行に対する意欲に乏しかった。
強さをがむしゃらに求めたあげく暴虐を振るって老師から破門された王虎とは正反対の経緯をたどっている。
何しろ何度も老師の下を脱走しており、老師の下に弟子入りという形になったのがいつか、紫龍の弟子入りと前後していまいちはっきりしない。
老師が玄武を見出して声をかけたのは紫龍が五老峰に赴く前だが、おそらく正式に弟子となったのは紫龍の修行に多少なりとも触発されたから、というくらいだ。
紫龍にとっても弟弟子というより、双子弟子といった方がいい認識だった。
それゆえに、紫龍にとっては歯がゆかった。
何故、この紫龍よりも強くなれたはずの二人がいずれもドラゴンの聖闘士になれず、昇龍覇を身につけるまで五年も要する自分が聖闘士になってしまったのか。
その思いが、ドラゴンの聖闘士として生きる自分を律する理由の一つとなるくらいに、紫龍にとっては決して忘れられない男だった。
「ちゃんと覚えていたか。それは重畳。
ならばあの男の捨て身の覚悟も、少しは報われるというものだ」
そのアーケインがいかなる意味でその言葉を吐いたのかは、否が応でもわかる。
そして、氷河を殺したなどと嘯いたときよりも、その言葉の裏が透けて見える。
「貴様は、五老峰にも……!」
「当然だろう?
天秤座の星闘士として、天秤座の黄金聖闘士がいかなる男か、もちろん見に行ったさ」
裏事情はといえば結局のところ伝説に謳われる天秤座の十二の武器を手に入れるのが主目的だった。
当時のアーケインはまだ白輝星闘士であり、正面切って黄金聖闘士天秤座の童虎と戦うつもりはなかった。
やりあうのならば使えそうな人質を取るなり何なり、必勝の体勢を整える必要があるとゼスティルムにも言われていた。
相手は前聖戦を生き延びた伝説の黄金聖闘士である。
過小評価するつもりはもちろんなかった。
そんなわけで、五老峰への侵入は慎重の上にも慎重を重ねて行った。
「……こいつは無理だな」
早々に、アーケインはその結論に至った。
五老峰の大滝の前からほとんど動かない天秤座の童虎の姿を、星闘士にあるまじき軍事用双眼鏡などというアイテムで遥か遠方の山中に立つ樹上から観測したが、そもそも近づくことすら困難だった。
五老峰一帯に結界じみた小宇宙が漂っている。
天秤座の聖衣が保管されているだろうと思われる大滝周辺に近づけば間違いなく察知される。
そしてその強大さは、漂っている小宇宙だけで雄弁だった。
現時点ではまともに戦っても勝ち目はない。
そのくらいの客観的な判断に至ることは別に悔しくもない。
自分は今強くなっている真っ最中だが、童虎の強さははるか昔に完成されたものだ。
そのうち勝てるならそれでいい。
どうせ聖闘士との決戦はまだ先の予定なのだ。
だが、見過ごせないものがあった。
「あれは、始末しておいた方がよさそうだな」
大滝の前で修行している、というよりは修行させられているといった風の、童虎の弟子らしい少年に双眼鏡を向けたところで手が止まった。
まだ弱いが、底知れぬ将来性を感じさせる。
老齢の童虎の弟子となれば、それは、将来の黄金聖闘士に他ならない。
今ならば倒せるが、将来は勝てなくなるかもしれない。
「!!」
一瞬、目が合った。
慌てて双眼鏡から目を離す。
だが、確信めいたものがあった。
あの少年、十数キロは離れたところにいる自分の姿を、はっきりと見て取った。
そんな馬鹿な、と思った。
童虎に対しては最大限に警戒し、座っている向きからはまず見えない方向に陣取っている。
だからといって、あのような修行中の聖闘士に見つかるとは。
しかし、改めて見ると少年は、修行を放り投げてその場に寝転んだ。
童虎が叱責したように見えた後、今度は童虎に対して悪態をついて滝の前から逃亡した。
「まだガキか」
修行不足の今のうちなら十分に倒せる、と確信を抱いたところで、一旦双眼鏡をしまい込み、とりあえずこいつを誘い出して始末する方法を考えることにする。
それが、アーケインの失態となった。
「廬山昇玄覇!!」
アーケインが樹上ビバークしていた大木を、根本から根こそぎ吹っ飛ばされた。
「何ぃ!!!?」
何が起こったのかわからず、諸共に飛ばされた枝葉にしたたかに打ちのめされながら、空中で身を翻して地上を見据える。
そこには、先ほどまで遥か彼方にいたはずの天秤座の弟子が、会心の笑みを浮かべてこちらへ握り拳を向けていた。
あの一瞬でこのアーケインを捕捉し、敵と判断して即座に接近して仕留めようとするこの戦闘センス……
「貴様は、危険だ……!」
子供と侮るのはやめた。
今この場で始末せねば、後々このガキは恐るべき聖闘士になる。
そう、確信めいたものがあった。
手持ちの武器の中から最強の一つ、かつて天から海をかき混ぜ陸を創ったという鉾を取り出した。
「ヘブンズマイア・ミキサー!!」
全身これ渦巻きと化して落下しながらそのガキを捉える。
逃げようとしても渦に巻き込み、聖衣をまとっていないその身体など容易に引き裂けるはずだった。
だが、そのガキは、
「うおりゃああああああああ!!」
両手を天に向って突き出し、あらん限りの小宇宙を燃え上がらせて、この渦巻を受け止め、ねじ伏せようとしてきた。
その小宇宙、とても青銅未満の訓練生のものではない。
渦の勢いが削り落とされて、アーケインの回転が止まったところで、そのガキは両腕を思い切り交差させ、渦を抱え潰すようにして四散させた。
無論、生身の体でそんなことをして無傷で済むはずもない。
両腕には無数の擦り傷が刻まれていたが、それでも不敵に笑ってみせてきた。
「……小僧、名をなんという」
「あん?名前を聞きたきゃ、てめえから名乗りな!この不審者が!!」
勢い良く突っかかってきたが、小宇宙の強さに比べて身のこなしはまだ甘い。
そんな直線的な動きなど、
「タクティカル・アサレイション!!」
カウンターで叩き込んだ鉾の一撃で吹っ飛ばし……いや、芯を外された!?
心臓を狙ったはずの自信ありの一撃だったが、スレスレのところで直撃を外されたらしい。
吹っ飛んだ先でごろごろと転がり、だがすぐに起き上がった。
見切れたわけでもなかろうに、おそらくはとっさの勘で動いたと思われる。
この戦闘センス、天秤座の童虎が弟子にするだけのことはある。
「なるほど。よかろう、まずはこちらから名乗ってやろう。
俺は天の星座を守護せし星の戦士、星闘士の中位に座す白輝星闘士が一人、天秤座ライブラのアーケイン。
天秤座ライブラの黄金聖闘士童虎の弟子よ、貴様の命、将来のためにもらっておく」
「は?童虎?」
せっかく名乗ったというのに、このガキときたら目を白黒させている。
「ああ、わかった!老師の名前か童虎って。そんな名前だったんだ。それに、黄金聖闘士だったのかよ!」
「おい貴様ちょっと待てどういうことだ」
「だって知らねえよ。老師が黄金聖闘士だなんて。みんな老師って呼んでるだけだし」
思わず頭を抱えたくなったが、すんでのところで思いとどまる。
それほどまでに素性を隠して弟子を育てているというのならば、それはそれでわからなくはない。
「いいだろう。そこまでして秘密裏に弟子を育てねばならんということは、なおのこと貴様を生かしておけなくなったわ」
童虎は聖域の招集にも応じていないとデスマスクから聞いている。
もしかすると童虎は弟子を育てて聖域に対抗する勢力を作り上げようとしているのかもしれない。
ならばなおのこと、仕留めて置いたほうがいいだろう。
「面白いことを聞かせてくれたじゃねえか。
俺が、天秤座の弟子だってか。……そうか、そういうことか、老師。
どうりで数が合わないと思っていたぜ。
ま、あいにく俺は不肖の弟子ってやつなんだが、そんなことを聞かされたら、やってやるしかねえじゃねえか!!」
さすがに、童虎が見出しただけのことはある。
これが不肖の弟子とか、どんな贅沢だ。
小宇宙だけなら既に赤輝星闘士級、いや、それ以上かもしれない。
「小僧、こちらにだけ名乗らせて貴様は名乗らんつもりか」
「ああ、いい忘れてた。悪いな。
俺は玄武。天秤座でもなんでもない、ただの玄武だ」
「その名前、よもや生来のものではあるまい」
「ああ。ろくでもない昔の名前は捨てたよ。老師に付けられたこれが、今の俺の名だ」
「……結構。そこまで聞けば十分だ」
それでおおまかに童虎の狙いが読めた。
星闘士を相手にこの手の情報流出は致命的だと思うが、星闘士の存在自体忘れられていそうなものだから、仕方あるまい。
「死んでもらおうか!」
手加減抜きで一気に仕留めるべく、刀身が光り輝く剣を取り出して一気に玄武の首を狙う。
斜めに振り下ろした軌道を読んだか、玄武はこれをスレスレで躱す。
いい反応だったが、そこまでは想定のうちだ。
即座に手首を返して玄武の跳びすさる先へと刃を向けると、光輝く刀身そのものが伸びて玄武を追う。
だが、これも躱す!?
「いい勘をしている!!」
「なんだこの反則武器!」
「その反射神経も反則だ!」
さらにもう一度刀を転身させたがそれすらも躱す。
見切ったというよりは、これはもう戦闘センスともいうべきところだ。
躱す動きが素人くさいのがなおさら修練不足の感を強めている。
今なら勝てるが、それこそ十年先のこいつに勝てる気はしない。
これだから才能のある奴というのは嫌いだ。
「サンダー・ストライク!!」
八つ当たり気味に、稲妻を束ねた槍をぶん投げる。
投げた端から四方八方に拡散する紫電と化すが、その分裂ぶりは投げた当の俺にもわからないというシロモノだ。
それを、拡散しきる前の段階で、瞬時に間を詰めて、くぐり抜けてきた。
「見様見真似……廬山昇龍覇!!」
「嘘だろ!?」
アッパー気味に繰り出された技は稚拙だったが、槍をぶん投げた直後に間を詰められて叩きこまれたことで堪えきれず、見事にふっ飛ばされた。
このアーケインがカウンターで遅れをとるとは。
だが、真の驚愕はその後に来た。
「でえりゃあああああ!」
吹き飛ばされた瞬間の交錯で、光の剣を奪われていた。
並の技量ならば操ることすら困難なはずのその剣を、玄武は大上段に構えて一気に振り下ろして、空中に吹き飛ばされていたこちらを正確に捕捉した。
避ければ追いかけてくるのは十二分に承知している。
玄武の経験が少ないことが幸いした。
全力の一撃は真っ正直に振り下ろされてきたから、その軌道を読んで両腕を交差し、両腕の盾を二重重ねしてこれを受け止める。
「聖闘士は武器を使わないのではなかったのか!」
「あ、しまった」
しまった、じゃねえ。
こいつ、普段から武器を使い慣れている?
聖闘士が武器を使わぬことは周知の事実だ。
ただひとつの例外が、天秤座の聖衣に搭載された十二の武器。
正義を計ると言われる天秤座の聖闘士が正しいと認めた場合にのみ、その武器を振るうことが許されているという。
だが狂闘士との戦いの記録によれば、それらの武器は剣、円楯、双節棍、三節棍、トンファー、槍。
辛うじて剣と槍はわかるが、それでも生身の拳で戦うことを心身に叩きこまれた人間が、いきなり振るって十全の使い方ができるわけではない。
まして双節棍や三節棍ならばなおさらだ。
動かない目標にぶつけることぐらいはできるだろうが、マッハを超える速度で動く敵を相手に、付け焼き刃が当たるはずがないのだ。
それなのにこいつは、取り扱いに困るはずの光の剣を存分に振るって見せた。
つまりこいつは、師の童虎から、武器の取り扱いを学んでいる。
それはすなわち、こいつが天秤座の聖衣を担うことを想定して育成されている以外に考えられない……!
一瞬、星闘士としての予感めいた天啓が、天秤座の剣を振るうこのガキの未来となって脳裏をよぎった。
「まあいい。剣の貸し賃は存分に頂戴した。
それなら礼儀として、この天秤座の星衣の武器で葬ってやる!!」
世界各地から集めた武器ではなく、星衣が本来持つ双節棍を二つ取り出し、両手で回転させる。
双節棍に込めた小宇宙が回転にともなって渦を為していく。
玄武の目には、俺が両手に円盤状の渦巻き銀河を創りだしているかのように見えるはずだった。
「天秤……!?」
「言ったはずだぞ、俺は天秤座の星闘士だと!
崩壊するバランスの只中で砕け散れ、未来の天秤座の聖闘士!
ギャラクティック・コリジョン!!!」
両手から同時に放った二つの円盤は、相互作用を起こして崩壊しながら玄武へと殺到していく。
二刀流使いならばまだしも、その手にしている一本の剣では左右から迫る小宇宙を同時には迎撃できまい。
「こんにゃろう!!」
玄武は、瞬時に判断したのか、剣を真横に構えて一閃で左右の銀河を迎撃しようとする。
いい判断だった。
それが光速に至る黄金聖闘士だったら、二つの銀河を瞬時に迎撃されていただろう。
だが今の玄武はまだ未熟、せいぜいマッハの動きがいいところだ。
それでは、片方を迎撃した瞬間に、崩壊する相互作用が一気に進み、二つ目に剣閃が届く前に玄武を捉えるのみだった。
「ぐあああああああああああ!!!」
ふっ飛ばした玄武の手から落ちた剣をしっかり回収し、頭から地面に落下した玄武はさすがに生きていまいと思った。
だが、
「ぐ……」
呆れたことだ。
聖衣も付けぬ生身の体に、この俺の必殺技の直撃を食らってまだ生きてやがる。
手間はかかるが、やはりとどめを刺しておくべきだろう。
この手に取り戻した剣を手に、首を刎ねるべく近づいていく。
さすがにもう逃げる気力もなければ、意識も混濁しているようだ。
「さらばだ」
剣を振り下ろそうとしたその瞬間だった。
「う……!!!」
死んだ。
いや、一瞬、そう錯覚を覚えるほどの凄まじい小宇宙が俺の心臓を通過していった。
攻撃を受けたわけではない。
だがその小宇宙の強大さの前に、金縛りにあったように身体が動かなかった。
発信源は、大滝の方角……!
その時点でもはや何が起こったのかわかったが、首を動かすこともできず、やっとの思いで眼球をそちらに向ける。
「天秤座の……童虎!!」
大滝の前、先ほどから微動だにしていないように見えるその身体が、わずかにこちらを向いて、そして、その背後に黄金色に輝く聖衣が浮かんでいる。
見間違えるはずもない、天秤座の黄金聖衣。
その中心の支柱ともいうべき槍が抜かれて、まっすぐに俺の心臓に狙いを定めて童虎の眼前に静止していた。
これが、星さえ砕くという天秤座の十二の武器……!
おい、星衣とずいぶん差がありすぎじゃねえのかこれ。
『星闘士とは、また伝説のような存在が生きておったもんじゃのう。
シオンから聴いておらなんだら暗黒聖闘士と間違えるところじゃったわい』
「禁断のはずの武器を……ずいぶん軽々と見せつけてくれるじゃねえか……!」
大声を上げることはおろか、声帯を震わせることもできずに、吐息に言葉を辛うじて載せただけの声だったが、こちらの脳裏に語りかけてきているところを考えれば問題なく通じているはずだった。
『おまえさんが天秤座の星闘士でなければ見せるまでもなかったがのう。
あえて言えば礼儀じゃよ。
さりとて、軽々しく使うわけにもいかんのはお前さんの言う通りじゃ。
できれば使いたくないので、この大盤振る舞いに免じて、玄武から手を退いてもらえんかのう』
「よほど、このガキが大事と見えるな……」
『そりゃそうじゃ。まだまだ未熟じゃが、この儂の後継者じゃからのう。
殺されるわけにはいかんのじゃ』
従わなければ、天秤座の槍の威力をこの身で味わう、というわけか……。
業腹ではあるが、玄武の傷は決して浅くはない。
聖衣もまとわぬその身に俺の必殺技の直撃を受けたのだ。
生き残ったとしても、回復できるものとは思えない。
最低限、天秤座の後継者を仕留めるという戦果は上げることが出来たと判断すべきだろう。
何より、ここは生きて帰ることを優先すべきだ。
「いいだろう。ここは退いてやる」
それでも癪なものは癪だ。
ひとつ童虎を驚かせてから帰るとしよう。
「ところで一つ聞いておきたいのだが、後継者というが、天秤座の黄金聖衣をいきなり着せるつもりだったのか?
どうせなら、その滝の下にある青銅聖衣をさっさと授けてやったら、この俺にここまで痛めつけられることもなかっただろうにな」
『ホッ……!よくわかるものじゃのう。
じゃが、この聖衣は玄武には合わぬよ。残念ながらのう』
「フン、さらばだ」
とりあえず童虎の驚いたらしい表情を確認してから、速やかに退散することにした。
さすがにああも言った手前か、背中から槍で刺されることはなかった。
「まあ、つまりはまんまと童虎に騙されたわけだがな。
今にして思えば、貴様と王虎の二人は揃ってどこぞへ使いの遠征にでも行っていたタイミングだったのだな。
にもかかわらず、玄武のポテンシャルに俺はまんまとひっかかった。
天秤座の後継者全員を仕留めたと確信してしまったわけだ。
銀河戦争で貴様が老師の話なんぞ言い出したときには耳を疑ったぞ」
ぺらぺらと淀みなく説明されるアーケインの思い出話に、紫龍は隙を作らないように動揺を抑えこむのがやっとだった。
「あの玄武が、まさか……」
確かに自分と王虎の二人で命の泉付近まで修行に出された時期がある。
そして、帰ってきたら玄武の姿がいなくなっていた。
根っからのさぼり癖が出て、修行を嫌がって逃げ出したものだと思っていた。
信じがたいが、あまりに信じがたいが、アーケインの話は自分の記憶と齟齬を生じていなかった。
アスガルドで氷河を仕留めたなどという法螺話とは信憑性がまったく違っている。
だが、にわかには信じがたかった。
もしそうなら、老師も、何故そのことを語って下さらなかったのか。
玄武が死んだのなら、敵の襲撃を受けて死んだのなら、自分と王虎には話してくださっていたのではないかと思う。
では、やはり玄武は一命を取り留めたのか。
なんらかの手段によって、玄武をいずこかに匿っていたのではないか。
そのことが、紫龍にとって容易に受け入れざる事実となってのしかかっていた。
もしそうならば、自分は玄武から天秤座の黄金聖衣を簒奪したも同じではないか。
昇龍覇を身につけるのに五年もかかった自分よりも先に、玄武はその領域に到達していたのだとしたら、今この場で、天秤宮を守るべく戦っているのは、あの男であるべきだったのではないか。
考えてみれば、思い当たる節はいくつもあった。
それがゆえに、アーケインの思い出話を単なる戯言と一蹴できずにいた。
例えば、本来聖闘士にとっては御法度であるはずの武器の使用だ。
玄武がアーケインとの戦いでとっさに剣を使ってしまったのも無理はない。
実際に老師は、自分たちに武器を持たせての訓練もさせていたからだ。
聖闘士は武器を使えないが、聖闘士の敵は武器を使ってくる。
それに対向するための練習だとばかり思っていた。
だが、本来自分たちが対抗するはずだった冥闘士には、第八獄まで巡った限り、誰一人として剣を武器として使う者はいなかった。
記憶に残る武器といえば、スケルトンの雑兵とミノタウロスのゴードンが斧を使ったくらいだ。
前聖戦に参加した老師が、そんな単純なことでミスを犯すとは思えない。
しかし、あの訓練にはまったく別の意義があったのだとしたら、その疑問は解ける。
特に、玄武に諸刃の剣を持たせての訓練が印象に強く残っている。
ジークフリートとの戦いでも思い出さされた、諸刃の剣、最強の剣には最強であるがゆえ、その剣の中には必ず弱点がある、という教えがあった。
老師は、お前ならばわかるはず、と仰った。
諸刃の剣を手にした玄武と、記憶に残るほど手合わせをしたからだ。
実際に、玄武は訓練の当初、その使い勝手に拘るあまり、自らを傷つけてしまうことがあった。
たまには攻守交代したこともあり、それがゆえに紫龍も多少は武器の使い方に慣れることができたが、玄武の習熟には及ばなかったと思う。
聖闘士として武器を持つ相手との戦いのためにはそれでよかったと思っていたし、そんなことでもなければ、真剣白刃取りの修練などする機会は無かっただろう。
実際に、その修練のおかげで、シュラのエクスカリバーをすら受け止めることができたのだから、その考えに間違いはないと思っていたし、今でも老師からの恩恵を疑うわけではない。
だが、剣にしても槍にしても、自分たちが仮想敵のものだと思って振るっていた武器は、いずれも天秤座の武器に対応する。
その武器の修練を、玄武に優先的に積ませていたということは、老師は、玄武の方こそが天秤座の聖闘士にふさわしいとお考えだったのではないか……!
玄武や老師を恨むわけではないが、それでもその疑念は、今の紫龍を一瞬なりとも揺さぶるには十分な衝撃だった。
「シンギュラリティ・アサレイション!!!」
寸刻前の気の抜けたような解説ポーズから、アーケインは一瞬で青輝星闘士に戻り、愕然となっていた紫龍の心臓を狙いに突っ込んだ。
「!!」
もはや見切る見切らないというレベルではない。
アーケインも完全に獲ったと確信した。
だが、紫龍の無意識か、それとも聖衣の意識か、寸前で紫龍の左腕の盾が動き、アーケインの拳をギリギリのところではじき返した。
「チッ……神聖衣になっても、ドラゴンの盾は健在か。厄介なことだ」
だがアーケインの失望以上に、今の交錯が紫龍に与えた影響は大きかった。
気づいたことが、いや、思い出したことがあったからだ。
剣や槍と違い、盾の使い方は無意識で動けるほどに鍛えられ、身に染み込まされていた。
それは老師がこの紫龍を最初からドラゴンの聖闘士として想定していたということではないか。
星矢との戦いの折も、懐に入ってきた星矢に対して即座に身体が動いた。
あれ以来、幾多の戦いをこのドラゴンの盾とともにくぐり抜けてきたのだ。
紫龍のその表情を見て、アーケインはしまったと思った。
これは調子に乗らせてしまったかもしれない。
畳み掛けるように紫龍の意思をへし折っておく必要があると判断した。
「そのドラゴンの聖衣も、本来お前の物ではなかろうにな」
「……何?」
「お前は二人の兄弟子から聖衣を簒奪したに過ぎないだろうに、よく偉そうに神聖衣を纏っていられるものだ」
「……貴様は、王虎のことも……!?」
そういえば先ほどアーケインは王虎という名前を確かに口にした。
玄武と同じく、いや、ある意味では玄武よりも遥かにひたむきに、強さを追い求めていた、紫龍と玄武の兄弟子ともいうべき男のことを。
「玄武に騙されたことに気づいたからな。
貴様が視力を失って五老峰に戻った頃、再度偵察に行って、貴様と王虎の対決も見せてもらった。
もっとも、童虎に気取られないように今度こそ細心の注意を払ったがな。
周辺の事情もその時に調べた。
どうしても気になることがあったからな」
「気になること……?」
誘導尋問だとわかってはいても、紫龍はその釣り糸を掴まずにはいられなかった。
認めたくはないが、この男の偏執的なまでの調査能力の高さは確かなものだと言わざるを得ない。
五老峰に居続けた自分には気づかなかった五老峰の秘密を、この男が知っているということが、悔しいがありうることだった。
「あの春麗という娘、全てを見切っていたぞ」
しかし、アーケインの返事は、どこを向いているのかさっぱりわからないものだった。
「……貴様、春麗に、何をした!?」
「何もしていないよ、俺はな。
だが、あの娘は銀河戦争で、貴様が見切れなかった星矢の止めの一撃を、正確に見切っていたというのだ」
「な……なにぃ……?」
それは、ここまでのアーケインの活動を聞いていなければ、一笑に付していたであろう発言だった。
しかし、銀河戦争における星矢との対決を最前列で見ていたというこの男の言葉ならば、無視することなどできなかった。
「でなくば、何が起こったのかを速やかに察知して、速やかに貴様を蘇生させる提案などできはしまい。
反対側から同じ一撃を、という正確な見立てだった。
貴様を倒したのが流星拳の多段ヒットではなく、それに先んじた心臓への一撃であることを、それも貴様も見切れなかったペガサス星矢の渾身の一発を、しっかりと見抜いていたということを、何も気づいていなかったのか?」
春麗は、老師から蘇生法を教えられていたと言っていた。
それで何も不思議はないと思っていた。
だが確かに、確かにアーケインの言うとおりだ。
おそらくクリスタルボードによるスローモーションでさえ、あの星矢の一撃を正確に捉えることはできなかっただろう。
千分の一秒以下のタイミングである昇龍覇の隙をあの間合いから撃ちぬくには、単純計算で秒速一万メートルが必要であり、すなわち少なくともマッハ30には到達していたのだから。
その後に見せられた星矢のポテンシャルならば何も不思議はなかったのだが、あのときのあの一撃は確かに異常だった。
ならば、その一撃を正確に見切った春麗は……?
アーケインが、どうしても気になること、と言った理由がとくと理解できた。
「お前は、春麗の何を調べた?」
その問を口にするのは、ひどく恐ろしかった。
五老峰に送られてからの六年間が足元から崩れるような予感があった。
しかしそれでも、問わずにはいられなかった。
「あの春麗という娘、何故童虎が育てていたと思う?」
「それは、赤子の頃に五老峰に捨てられていた身よりの無い春麗を哀れんで……」
「五老峰の周辺の村はずいぶん貧しかったな。
親のない子供など文字通り死体が腐って放置されるほど見てきたぞ。
にもかかわらず、その中からあの春麗という娘だけが特別に童虎に育てられたのは何故だか、疑問に思ったことはなかったのか。
前聖戦を生き抜いた天秤座の黄金聖闘士の童虎が、伊達や酔狂で子育てなどすると思っていたのか」
そう、その通りだ。
老師は玄武の素質を見抜いて弟子にされた。
貧しい周辺の村の中で暴れていた王虎を、辛抱強く育てられた。
それ以外に、貧しさの中で生きていた、自分と年の近い少年少女たちなど、いくらでもいた。
彼らではなく、何故、自分たちだったのか。
何故、その中に春麗がいたのか。
その答えは、明白過ぎるほどに明白だった。
「そもそも龍座の聖衣は前聖戦では使われていない。
しかし後期型の特殊能力を備えた青銅聖衣だ。
より以前の聖戦で実際にドラゴンの盾の強度は実証され、伝説にまでなっていたほどの聖衣。
おいそれと与えられるはずのものでもあるまい。
ましてその時期、既に聖域でサガが教皇シオンを暗殺したことに童虎は気づいていたはずだ。
聖域に対抗する聖闘士を一人でも多く育てる必要性に迫られた。
しかし、仮死の法を掛けられていた童虎には使える時間に限りがある。
となると、育てる子供は相当に厳選された、素質がある者に限られる」
その明白過ぎる事実を、アーケインはさらに容赦なく積み上げていく。
「ついでに教えておいてやろう。
俺たち星闘士は名前というものにはうるさくてな。
そこから色々と推察することができる。
玄武の名前は童虎に付けられたものと言っていた。
孤児出身であろう王虎と春麗も同じだろう。
童虎と同じ虎を割り当てられた王虎は四神相応の白虎に対応するんだろうが、おそらく王虎が今代における童虎の最初の弟子ではないかな。
王虎の年齢を考えると、その時期はおそらくサガがシオンを暗殺したことがわかった頃。
竜虎相搏つの言葉があるように、王虎にもドラゴンの聖衣をまとう資格はあったのだろう。
そして四神相応の基礎くらいは聞いているな。
こいつはユリウスからの受け売りだが、春麗の春は東方を意味し、東方の守護者は青龍という。
ついでに言えば龍の姿を表現する際には鹿の角を持つという説明があってな。
麗という字に含まれているだろう?
本来、春麗こそがドラゴンの聖闘士の最有力候補だったのではないか。
なあ、紫龍よ。
だから、二人の兄弟子を踏みにじった、と言ったろう?
王虎と、春麗、二人の兄弟子を、な。
所詮貴様は童虎が予期せぬ経緯で五老峰に侵入した異分子にすぎん。
そのドラゴンの聖衣、元より貴様が纏うべきものではなかった、というわけだ!」
さらに、アーケインすら指摘できなかった事実が紫龍の中で渦巻いていた。
あのデスマスクとの戦いのさなか、春麗の祈りによって救われた。
遠く五老峰から、黄泉平良坂にまで届くその祈りで、この紫龍の目まで癒してくれた。
それは、春麗の思いが起こした奇跡だと思っていた。
事実、そうだろう。
奇跡は、俺達にとって起こすものだ。
小宇宙を燃やして。
もし春麗が、ドラゴンの聖闘士になっていたら。
この紫龍をも、玄武や王虎をも、あるいはデスマスクすらも、超える聖闘士になっていたかもしれない。
それは、地上の愛と正義のために戦う聖闘士として、己では不足だったと告げられたに等しかった。
アーケインは、今度こそ紫龍を倒したと確信した。
ドラゴンの聖衣との繋がりも断った。
天秤座の後継者としての誇りも断った。
もはや無意識にでも防御できないほどに、その意識が落ちていくのを待って、今度こそ仕留めることができると思った。
だが、アーケインの手札にはどうしても足りないものがあった。
力なくだらりと下げられた左手に対して、右手はなお力を失っていなかった。
それは、拳ではなく、腕そのもの。
研ぎ澄まされた剣のように、なおも鋭い構えを失わぬ右腕が、黄金の輝きをまとって小宇宙を立ち上らせていた。
それは、老師から授かったものではなく、紫龍が自ら戦った好敵手から受け継いだもの。
「む……!」
「ああ、そうだったな……。
構わんさ、たとえおまえの話がすべて事実でも」
ゆっくりと面を上げたその瞳に宿った闘志を見て、アーケインは自分の全力が届かなかったことを悟った。
「俺が本来、ドラゴンの聖闘士でも、天秤座の聖闘士でもなかったとしても、この紫龍が戦った幾多の友と敵は、何も偽りはなかったのだからな……!」
同じように孤児だったフェンリルの怒りを跳ね除けた。
クリシュナの槍のように、思いを踏みにじってきた。
踏みにじり、誰かを蹴落としていくなど、なにをか今更だ。
それでも戦い続けると誓ったのではなかったか。
ましてシュラやジークフリートのような好敵手との戦いで託されたものがあるのに、たかがこの紫龍の生まれや宿命などで立ち止まっていていいはずがない。
「全てはこの地上の愛と正義のために。
たとえ俺が偽りのドラゴンの聖闘士であったとしても、この紫龍、これまでの戦いであろうと、これからの戦いであろうと、ドラゴンの聖衣にも天秤座の聖衣にも、山羊座の聖剣にも、何一つ恥じるところはない!」
強固だった。
ドラゴンの盾も、天秤座の盾も及ばぬほどに、この紫龍という男はあまりにも強固だった。
だが、それがゆえにアーケインは、作戦とは無関係に腹が立ってきた。
「何一つ恥じることはないだと?
誰も待つ者がいない孤高の男ならば、貴様のその言葉、評価もしよう。
だが、よくも言えたものだな。
貴様は師の最後の教えにさえ逆らったのではなかったか!」
「何?」
「いいだろう、貴様をドラゴンの聖闘士と認めた上で話してやろう。
確かに貴様というスペアを見つけたことで、童虎は春麗を聖闘士にする道を諦めた。
だが、それは本来間違った選択だ。
聖闘士も星闘士もその修業は過酷を極める。
修行中に一つ間違えて首でも折れば、優秀な後継者であろうが即お陀仏だ。
まともに聖闘士になれるのはよほど素質があったとしてもせいぜい十人に一人。
本来素質ありと認めた候補生は手放さずに育てるのが常道にもかかわらず、童虎はそれをしなかった」
そこで紫龍は、アーケインが何を言わんとしているのかの推測がついた。
むしろ、ハーデスとの戦いが始まった折のそんなことまでアーケインが把握していることの方が驚いたが、それはハーデスと繋がりがあるらしい星闘士がようやく本格的に動き出した時期ゆえ、アーケインが本気で童虎を狙っていたからだろう。
「だが、俺はその童虎の選択を評価しているのだよ!
あの天秤座の童虎ともあろう聖闘士が、最後は人間らしさを選んだことをな。
あの男は確かに人間だった。
二百六十余年も生きて、人の意識など擦り切れても無理からぬ人生の果てに、人間のまま戦ったのだからな。
途中で春麗を育てる道を早々に諦めたのは、童虎の親心なのか、それとも、貴様のつがいとして春麗を認めたのか、それは俺にもわからん。
だがいずれにしても、その春麗のために貴様を戦いから遠ざけた。
そうだな」
よくぞここまで調べたものだと感心させられるが、確かにその事実に偽りはない。
そして、かえってこのアーケインという男がわからなくなってきた。
人の心を抉り取ろうとするここまでの搦め手が、我が師童虎を評価するというのだから。
しかし、それに嘘は無いように思えてならなかった。
「ああ」
「何故だ。何故、童虎の教えに背いた」
「この俺をここまで調べあげたお前なら、答えもわかっていそうなものだが」
「推測は付いている。
だが、その推定される答えが俺にはとことん気に入らない。
貴様の口から答えを聞かせろ」
「まさに知れたこと。
この紫龍はどこまでもアテナの聖闘士。
そのために老師に教えを受け、ここまで生きてきたのだ。
地上の平和と正義のために闘うことが出来ぬのは、死ぬよりも耐え難きこと。
仲間たちの闘いを見ぬふりをして生きていくことなど断じてできん。
ゆえに、老師の命に背いてでもハーデスとの闘いに参戦したのだ」
シオンと対峙しながら老師と交わした忘れがたき瞬間を噛みしめるように思い出しながら、紫龍は見えぬ目でアーケインを睨めつけた。
弟子としては失格かもしれないが、少なくともこの男に糾弾されるようなことも、何を恥じることもない。
だがその目が見えていれば、紫龍は戸惑いを隠せなかっただろう。
あろうことか、瞑目しながら紫龍のその回答を聴いていたアーケインの顔は、歪むほどの怒りに染まっていたからだ。
「……ああ。完璧だ。完璧に予想通りの回答だったよ。
気に入らんなあ……、気に入らんなあ!ドラゴン紫龍!!
貴様の有り様は人間ではないよ!」
吐き捨てるというよりは、叩きつけるようなアーケインの叫びだった。
「お前にそこまでして地上を守る動機はないはずだ!
それなのに、あまりにも正しすぎる。
あまりにも聖人すぎる。
これこそまさに、地上の愛と正義のために戦うアテナの聖闘士。
謳うお題目通りのこんな人間、いてたまるものか!」
「お前の目の前にいるのがその男だ。
確かに老師と出会う前の俺には何ひとつ無かった。
姉を探す星矢や、母を規範とする氷河のように柱があるわけでもない、
一輝や瞬のように支えとなる兄弟がいたわけでもない。
何をすべきでもなく、何を為すつもりもなく、生きていることに何も意味はなく、ただ流されるままに運命に導かれて五老峰にたどり着くまで、俺は天涯孤独の闇の中にあった。
聖衣を取ってこいと言われたことに逆らう気すら起きず、その意味もわからずに聖衣を取りに行っただけだった」
そこで、この上なく意味のあるものに出会った。
森羅万象を知る師と、
肩を並べる友と、
支えとする少女に。
「この世界には意義があることも教わった。
聖衣と聖闘士の意義について教わった。
そうだ。
元よりこの紫龍に存在意義などなかったのだ。
だが、そんな俺達のような存在意義の無い不幸な子供を無くすことができれば、この俺にも存在意義がある。
ゆえに、俺には地上の平和と正義のために闘うことが、何よりも、誰よりも、いや、唯一の存在意義なのだ!」
「そうして出来上がったのがこの男か。
玄武がまだしもまともだったことを思えば、童虎のせいと一概に切り捨てることもできん。
元より、貴様が異常だったということだ。
貴様のような男が、この地上に人間のような顔で存在していることが、俺は我慢できん。
まして貴様を含むアテナの聖闘士に、対ポセイドンで命を救われたとなればなおさらだ!」
それは、言い方はまるで違うというのに、どこか、亢龍覇を仕掛けた天空の果てで、山羊座のシュラに言われた言葉を思い出させられた。
シュラもまた、この紫龍の有り様に驚愕していた。
そして、アテナの聖闘士として、自らの有り様に恥じたことはなかった。
老師に、あの時、諭されるまでは。
「ああ、貴様が我慢できようができまいが、俺は地上のために闘うのみ。
助けてしまって悪かったようだが、俺はこの地上に生きる人間として、神々の暴虐を許すつもりはない」
「人間だと……、人間だと言ったな紫龍。
あの春麗と子供の一人でも作るほどの気概があれば、まだしも貴様を人間だと認めてやるわ!
未だ思春期に過ぎぬ貴様らが、地上の愛と正義のためなどとほざいて青春を投げ捨てる……、そんなアテナの聖闘士どもが、俺はとことん気に入らんわ!!」
未だに老師の最後の教えについては理解できていない。
世界全てを敵に回しても、たった一人の人を愛する。
それは、かつて老師が為そうとしてできなかったことではなかったのか。
人を愛することができるのなら、やがてその人との間に子供を作ることができたのならば、老師の教えがいつしかわかるときが来るかもしれない。
不思議なものだった。
老師の宿敵であるはずのこの男から、あるいは老師に通じる教えを諭されるなど。
「そうか。ならば、感謝だけは伝えておこう、天秤座のアーケインよ。
あるいは、老師が生きていらっしゃったら、この紫龍に告げられたかもしれぬ言葉を告げてくれたことにな!」
「貴様のその根性が変わりもしないのならば、礼など言われても腹が立つだけよ」
アーケインは静かに吐き捨てるようにつぶやくと、大型家具のような大きさの何かを取り出した。
考えてみれば、ここまで錨に黄金の槍、炎の剣など、どうやって持ち歩いているのかわからない武器の数々を取り出したのが紫龍には不思議だったが、家具のようなものまで取り出せるとなると、おそらくはマントの中を異次元か何かに繋げて貯蔵庫にしているのではないかと推測された。
「紫龍よ、これが何か、見えずともわかろう?」
そう言うとアーケインはその家具のようなものの蓋をずらしたらしい。
石同士が擦り合わされるような音から察するところ、
「石棺、だな」
「ご名答」
そう言ったアーケインの声は妙に乾いていた。
思った次の瞬間、紫龍は全身がまっすぐにその石棺に向かって吸い寄せられた。
「うおおおおお!?」
こういうものは確か老師に聴いたことがある。
西遊記に謳われる孫悟空の前に立ちはだかった金角、銀角の持つ瓢箪は、名前を呼ばれて答えた者を全て吸い込んだという。
斉天大聖ならぬこの身は、飲み込まれれば脱出もできそうにない!
とっさに左手が伸び、ドラゴンの盾を左腕から分離させるとともに、その盾を近場の岩場に叩き込んだ。
その間にも紫龍の身体は石棺の中に吸い込まれ、その大きさに有り得べからざる深さの遥か底無しの孔へと落ちていく。
だが、ドラゴンの盾と左腕のアームパーツとが、金色の鎖で結ばれており、その落下の途中でアンドロメダチェーンのようにして辛うじて止まった。
ふう、と辛うじて一息つくが、この状況はとても楽観できるものではなかった。
ドラゴンの盾を引っこ抜かれたらそこで一巻のおしまいだ。
さりとてチェーンに慣れていない身には、瞬のように手繰り寄せて昇るというわけにもいかない。
「ずいぶんと、姑息な手を使うのだな。天秤座のアーケインよ!」
100メートルほど上空に見える石棺の入り口へ向かって叫ぶと、なんとアーケインも鎖らしいものを命綱にして、同じく石棺の中へと降りてきた。
おそらくは最初に使った錨の鎖ではないかと推測された。
底無しの深淵に向かう空間の只中で、どちらも命綱にぶら下がった状態で向かい合う。
「これは沈黙の棺と言って、呼びかけに応えた者を吸い込む……というのは実感済みだな。
お前には西遊記の瓢箪と言ってしまった方がわかりやすいか?
閉じ込めるだけのものもあるが、こいつは星闘士に伝わるものをうちのアズザインからふんだくってきた特別製でな。
ご覧のとおり、閉じ込めるのではなく、そのまま死界へと送り込む便利な代物だ」
道理で、吹き上げてくる身の毛もよだつ気配に覚えがあるわけだ。
おそらく、積尸気と同様に、この底は黄泉平良坂に通じているに違いない。
「だが、これで最後の謎が解けたよ紫龍。
ドラゴンの盾には元々チェーンなどついていなかったはず。
それが錨のようにチェーンがついて貴様の身体を支えられるようになっているような改造を、あの小僧にまだできるとは思えん。
ゆえに、考えられることはただひとつ。
貴様のそのドラゴンの神聖衣は、成立の段階で天秤座の黄金聖衣と融合している」
その推測は、こうして神聖衣を纏っているときに聖衣から感じる小宇宙と一致していた。
神の血を受けて蘇った青銅聖衣が小宇宙の高まりを受けて神衣に近づき神聖衣になる、というヒュプノスの説明は記憶に残っているが、あのとき神聖衣を生み出したときに自分たち五人の身体には、青銅聖衣の破片だけでなく、その直前に破壊された黄金聖衣の破片も間違いなく残っていたはずなのだから。
「……」
「不思議そうではないな」
「言われてみれば納得もする。
あのタナトスとの闘いで、ポセイドンが送ってきてくれた黄金聖衣すらも破壊されたが、その黄金聖衣あっての奇跡だったとはな」
あの世でクリシュナと再会する機会でもあれば、なんと顔を合わせたものか。
とはいえ、その、あの世の入り口に吊り下がっている状況ではある。
「本気で残念だが、それが確認できれば十分だ。
ドラゴンの盾も天秤座の聖衣も欲しかったが、……つくづく欲しかったが、諦めよう。
あのとき俺を見逃した童虎への手向けだ。
神聖衣と化した天秤座の聖衣もろとも、この人間アーケインの独善に賭けて、冥土へ送ってやるぞドラゴン紫龍!」
その叫びとともにアーケインから噴き上る小宇宙も殺気も覚悟も、これまでの比ではなかった。
炎の剣や黄金の槍に見るように、この男の収集癖はある種偏執狂めいている。
その男が、聖衣の中でも屈指の至宝を諦めてでも、この紫龍を殺す覚悟を決めたというのだ。
そして、このとき紫龍の見えぬはずの目には、うっすらと、アーケインの朧なシルエットとともに、煌々と青く輝く小宇宙が映っていた。
それはつまり、経験上、ここがまさに黄泉平良坂への入り口であることを雄弁に物語る。
「貴様が覚悟を決めたというのならば、この紫龍も覚悟を決めねばなるまい……!」
「何?」
次の瞬間、紫龍は命綱となる左腕のパーツを残して、アーケインが叩き込むと宣言したその神聖衣を脱ぎ捨てた。
その脱ぎ捨てた神聖衣は六方に散らばり、その間に鎖を幾重にも張り巡らせた。
それは取りも直さず、アーケインの推測通り、ドラゴンの神聖衣が天秤座の双節棍や三節棍、円楯といった要素をはっきりと内包していることを確認するものでもあった。
その鎖の上にしっかと立ち、命綱を外してアーケインに向き直る。
「一歩でも踏み外せば死界へ真っ逆さまのここで、聖衣を脱ぎ捨てるとは、気でも狂ったか……!」
とまで口にしたところで、アーケインは思い直した。
「いや、そうだったな。
貴様は元より、そういう男だった……!」
「命綱にぶら下がった腑抜けた状態で、貴様の覚悟を超えられるわけもない。
この紫龍、死は元より覚悟の上。
神聖衣をまとわずとも、究極にまで高めた小宇宙で、貴様の覚悟を打ち砕く……!」
「死はもとより覚悟の上、か。
やはり貴様は何もわかっていない」
「いや、貴様のおかげで、ずいぶんと古いことを思い出したよ、アーケイン」
最初に春麗と出会ったあのとき、五老峰に来たばかりの頃のことだ。
「この紫龍、最初は、ただ強くなりたかった。
どんな運命にも負けないくらいに。
意味もなく、いや、意味が無いからこそ、死にたくなかった。
意味もなく死にたくなかったがために、運命に抗おうとするために、ただ強くなろうとしていた」
だからグラード財団からの五老峰行きの指示にも大人しく従ったのだ。
聖闘士になれるくらい、運命に抗えるほどに、強くなりたかった。
最初は、ただ、それだけだったのだ。
地上の平和と正義のためなどと、たかだか八歳で目覚めていたわけではなかった。
「だが、今はもういい。
老師から教えを受けて六年。
今、この紫龍は闘うことにも、この人生にも意味があったと胸を張って言える。
老師から授かったこの生き方に、後悔はない。
ゆえに、死はもとより覚悟の上だ」
「つくづく度し難い男よな」
アーケインもマントから錨のレプリカやら天狼を拘束した鎖やらを取り出して、この死界への孔上に足場を作る。
確かに、聖衣を脱いで死を覚悟した紫龍を相手に、命綱にぶら下がった腑抜けた状態ではどうしようもない。
こちらも足場は確保するが、馬鹿正直に紫龍に付き合って星衣を脱ぐつもりはない。
青輝星闘士の星衣はこの小宇宙の高まりに応じて、どこまでも強固になっていくのだ。
「だが、貴様の技はほとんど全て見切っているぞ。
あとは、あるのだろう?
童虎から最期に教えられた秘奥義が。
見せてみろ。それを打ち砕いて終わりにしてやる」
これはアーケインの推測だった。
確証はないが、おそらく紫龍には亢龍覇とは別に、童虎の秘奥義ともいうべき技があると。
「確かに、老師から最期に授かった秘奥義はある。
だが、それは使わぬ」
「何?」
「お前はこの紫龍の敵だ。
お前が見切ったという昇龍覇はこの紫龍が命をかけて体得したもの。
究極まで小宇宙を燃やしたこの紫龍の昇龍覇の隙、撃てるものなら撃ってみろ。
その前に、昇龍覇がアーケイン、貴様を打ち砕く!」
アーケインからは死角になって見えなかったが、紫龍の背一面に昇龍が浮かび上がった。
その昇龍と呼応するかのように、紫龍の全身から幾重にも龍のごときオーラが立ち上っていく。
それは、わずか一年前にグラードコロッセオで見た光景と似通いながら、この一年で駆け抜けた伝説を物語るかのように、到底比較などできぬ飛躍をまざまざと見せつけていた。
ドラゴン紫龍は聖衣を解き放ってからが恐ろしいとはよく言ったものだ。
神聖衣まで行き着いた小宇宙でヒュプノス様を倒しているというのなら、あるいはその神聖衣を脱ぎ放った今の姿ならば、アテナ無しでもハーデス様をも倒しうるのではないか。
「貴様とのむやみな因縁も長いが、その終わりが昇龍覇というのならばそれもよかろう。
望み通り、昇龍覇の隙を撃ちぬいて終わりにしてやる!」
アーケインは小宇宙を青く青く、果てしなく燃え上がらせる。
紛れも無く光速に行き着いているであろう次の昇龍覇は、見えてから隙を狙ったのでは断じて間に合わない。
見えるよりも先に、正確に昇龍覇の隙を、その瞬間を貫く。
「俺の小宇宙よ、シオンや我が師童虎の位まで、いや、究極の神聖衣が見せてくれた、究極を超えた世界にまで、果てしなく高まれ!!」
紫龍もまた小宇宙を果てしなく高めていく。
神聖衣をこの身に纏ったあのとき、命を燃やして果てしなく小宇宙を高めていった。
デスマスクとの闘いから、よくよく死の世界に奇縁がある自分だ。
生と死の境目に自らの命を見出すことは、思えばここまで幾度も積み重ねてきた。
常人ならば正気を失うであろう黄泉平良坂への深淵すらも、もはや己の背に背負い慣れた逆境であった。
今度も、勝ち残る。
ふと頭をよぎったその思いは、これまでに感じた覚えが無い、いや、遥か昔に抱いたものだった。
勝ち残るということも、生き残るということも、あのグラード財団の屋敷内で孤児として暮らしていた時に抱いていた思いだった。
運命に負けないくらいに強く。
その思いは老師の教えを受けて以来、忘れたものと思っていた。
その思いをこの紫龍に抱かせたのは、誰だったか。
銀河戦争に参戦するにあたって、別段黄金聖衣が欲しかったわけではない。
同じ孤児という立場から聖闘士になった面々に、深い友情を感じていたのならそもそも参戦などしていない。
老師から教えられた、アテナと地上のために闘うという聖闘士の目的からかけ離れた闘い。
老師は沙織さんがアテナであることを最初からご存知だったようだが、銀河戦争への参戦を勧めも止めもされなかった。
そうだとわかっていても、何故俺は帰国したのか。
あの頃、誰よりも運命に逆らおうとした男は、……考えるまでもない。
百人の孤児の中で、たった一人だけ、お嬢さんにまで抗おうとした男がいた。
それは、今思えばお嬢さんが背負ったアテナという運命をも覆そうとしていたのかもしれない。
その男に、憧れた。
その男に、勝ちたかった。
あのとき、次の試合のことなど考えもしていなかった。
あの試合、あの闘いに、この紫龍の全力全身全霊を賭けた理由は間違いなくただその一点。
それがこの紫龍に残された、捨てられぬ私利私欲だったということだ。
そう、俺は、星矢に勝ちたかったのだ……!
そこに思い至った瞬間、闘志がさらに湧き上がる。
感謝しよう、確かに感謝しよう、アーケイン。
この紫龍がアテナの聖闘士となってから忘れていたその原点を、思い出させてくれたことを……!
「これが……神聖闘士、ドラゴン紫龍か……っっ!!」
星矢と血を分け、星矢と拳を交え、星矢と肩を並べて闘い、そして最後に、星矢に、置いて行かれた。
「いや……、いいや、百人の孤児の一人、ただの、紫龍だ……!」
アーケインは自分の言った言葉が二重の意味で正しかったことを焦燥感とともにかみしめていた。
これはもう、人間ではない。
この小宇宙は、アーケインの知る人類最強たるイルピトアをも超えている……!
「それでも、貴様は必ず倒す……!」
わずかに上空の人界を見やってから、改めて紫龍に向き直る。
「受けろアーケイン!この紫龍があの男に勝とうとしたこの一撃を!」
「シンギュラリティ……レギュレイション!!!」
「廬山、昇龍覇ァァァァアアアアアア!!!」
全身を一筋の矢となって龍の右拳ならぬ紫龍の心臓を目掛けて突撃したアーケインの狙いはまさに寸分たがわぬものだった。
だが、10億分の一秒にも満たないわずかの差で、それが届く寸前の最高最悪のカウンターとなるタイミングで、紫龍の右拳がアーケインを直撃した。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!!」
青輝星闘士の究極にまで高めたはずの星衣すらも、その衝撃を受け止めきれずに胸部を激しく破損させられながら、アーケインの身体は作り上げた足場から遥か吹き飛ばされて上空へと舞い上がる。
遥か、遥か上空へ。
「しまった!!」
紫龍は、最後の最後までアーケインという男を読みきれなかったことを悟った。
アーケインが飛ばされた先は、沈黙の棺の入り口である、上空に空いた孔そのもの。
その孔の前で、アーケインが宙に止まった。
孔の向こうに見える現世に一人の女性星闘士が顔を見せていた。
アーケインに匹敵するかもしれない、青輝星闘士……!
「アーケイン様!生きてらっしゃいますか……!」
無論、ようやくにして回復して追ってきたイルリツアに他ならない。
「遅い……ぞ、イルリツア」
辛うじて生きているという状況だが、アーケインにはまだ意識があった。
「天秤座の勝負は……、貴様の勝ちだ紫龍。
だが、突き詰めればな、俺は時間をかけるだけでよかったのだよ」
最初から、そのつもりだった。
天蠍宮からさらなる増援が来るには到底時間が足りない。
紫龍に玄武や五老峰の話を聞かせてひたすらに時間を稼いだのは、それだけ待てばイルリツアたちが回復して増援が来るという確信もあったからだ。
その意味では、アーケインとしては最初から必勝の布陣だったのだ。
「アーケイン様!そこでならば使えますね!」
状況を把握したらしいイルリツアが叫ぶ。
何を、と問うまでもない。
イルリツアはここまで冥界波を使えることを隠してきたようだが、どうやらこの事態を見てその切り札を使うことに決めたらしい。
そして、このアーケインは冥界波を使えぬものの、黄泉平良坂へと直結するこの沈黙の棺の中ならば、話は別だった。
「人のこき使い方が兄に似てきたぞ、イルリツア……!」
毒づきながら肯定の返事をする。
眼下に見下ろす紫龍の小宇宙は、先の一撃に全力を注いだ反動で大きく減少している。
恐るべき神聖闘士たちだが、それは一瞬に全てを賭けて実現してきた奇跡によるものだ。
その一瞬を切り抜けてしまえば、悪く言えば元の青銅聖闘士なのだ。
「今の貴様は、爆発した後の超新星も同然。
今度こそ燃え尽きろ紫龍!」
イルリツアとアーケインが二人がかりで滾らせた小宇宙は、紫龍にとってあまりにも馴染み深いものだった。
死界の入り口近くにあって半ば目が見えるが故に見間違えるはずもないが、たとえ見えなくてもこの身体が嫌というほど憶えている。
デスマスクが紫龍にかつて物語ったところによれば、冥界の入り口へ引き込む冥界波を黄泉の入り口で使えば彼すらも知らぬ恐るべき事態を招くと推測されていた。
そして、今ここは、半ばその黄泉平良坂の入り口にも等しい場所。
そのことを、誰よりもわかっていた紫龍である。
「まだこの紫龍、終わってはいないぞアーケイン!」
一度限界を超えて究極まで小宇宙を高めた後だというのに、紫龍の身体からは再び小宇宙が燃え上がる。
それも、一つではなく、幾重にも、十重二十重にも、龍が立ち上る。
「青輝星闘士二人がかりというのならば、望み通り見せてやろう!
老師から最期に授かったこの奥義を!!」
「ああくそ最期までなんて常識外れだこいつは!」
「アーケイン様、行きます!」
「断じて……生かしては、帰さん!!」
『星葬冥界波!!!!』
青輝星闘士二人がかりによる冥界波が紫龍に降り注ぐ。
常人ならば目にしただけで死すべきその威力だが、しかし紫龍にとっては、これに対峙するのは幾度目になるだろうか。
もはや臆するものではない。
老師が旧友を相手にして見せて下さったこの秘奥義、未だ十全には至らずとも、せめてその名に恥じぬ様を見せてくれよう!
「廬山百龍覇!!」
百龍が、大瀑布全てを覆すかのように、死界の孔を駆け上がる。
天から落ちようとする冥界波と真正面から激突し、棺から続くこの空間をも激震させながらせめぎ合う。
だが、百龍覇の威力はその余波だけで、アーケインが立ちはだかる棺の空間孔すら引き裂くように広げて、孔の向こうに立っていたイルリツアをも捉えようとする。
「嘘だろ……!?」
「今度という今度こそ消し飛ぶがいい!アーケイン!!」
冥界波の威力を押し切れると紫龍が確信したそのとき、百龍がさらなる小宇宙によって抑えこまれた。
「何!?」
「悪く思うな。
友情を糧にしてこれまで勝利してきたお前たちが、十二宮を個人で守ろうとする戦略の失敗と知れ」
イルリツアに続いてさらにもう一人、破損して原型を留めない星衣を纏った老年の男……青輝星闘士のナンバー2獅子座のゼスティルムが、圧倒的な小宇宙を加えて百龍ごと冥界波の威力を押し込んだ。
「うおおおおおおおお!!!」
いかに限界を超えて小宇宙を高めていた紫龍といえども、青輝星闘士三人がかりの恐るべき威力を前にしては耐え切ることはできなかった。
踏みとどまるべき魂が鳴動して揺らぐ。
見知らぬ次元にまで到達させようとする恐るべき死の魔手に抗するために、せめて本来の死界に留まらねばならぬという矛盾に行き着き、結果としてそれは、紫龍を棺の深淵へと誘うことになった。
「天秤座の……アーケインンン!!」
食らい慣れたはずの冥界波だが、デスマスクの想像が正しければ、今度という今度こそこれは必殺の一撃となる。
かつて無い死の気配に意識が遠くなり、踏みとどまるべき鎖を踏み外し、紫龍の身体が果てのない暗黒へと落ちていく。
「せめて、後悔しながら死んでいけ五老峰の紫龍!
あの春麗との間に子供の一人も残さずに死んでいくことをな!」
その言葉に見送られるように、あるいは逆らうように、紫龍の身体を支えていたドラゴンの神聖衣もまた紫龍の後を追うように遥か深淵へと落ちていく。
紫龍の姿も、それを追う神聖衣の輝きも、やがて、視界の限界を超えて見えなくなる。
だが、アーケインは、紫龍の小宇宙が完全に感じられなくなってからも、なお、しばらくその場から動くことができなかった。
紫龍が死んだなどという事実を、他ならぬアーケイン自身が、最も受け入れられずにいたのだ。
夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。