聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第二十一話、白羊宮の未来」




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聖域サンクチュアリ決戦の火蓋は切って落とされた……!
 ……少し違うか。ふむ」

 青輝星闘士シアンスタイン獅子座レオのゼスティルムとその養子射手座サジタリアスのマリクとの二人がかりによる灼熱の小宇宙コスモが、聖域を囲む結界を打ち砕いた。
 その様は、切ると言うよりは焼き落とすという方が適切かもしれない。

「アーケイン様って詩人だったんですか?」

 青輝星闘士の紅一点、乙女座バルゴのイルリツアが驚いたように尋ねる。
 様と敬称は付けているが、天秤座ライブラのアーケインとは同格だ。
 単にイルリツアの態度が丁寧なだけである。

「詩はいいぞ。
 芸術を表現する手段の一つでありながら、それ自体が芸術でもある」
「失礼ながら、宝物にしかご興味がないのかと思っておりました」

 確かにずいぶんと失礼な言葉だが、多分に事実であるのでアーケインは苦笑するしかない。

「では、詩人のアーケイン様がご覧になって、アテナの本拠、聖域のご感想は?」
「そうだな……」

 実はアーケインが聖域に来るのは二度目であったりする。
 そのころは双子座ジェミニのサガが教皇を名乗り君臨していた。
 つまり、黄金聖闘士ゴールドセイントのほとんどが揃っていた頃だ。
 そのころに比べれば、十二宮全域から受ける威圧感は無いも同然だ。
 そうなると、文字通りの殺風景である聖域の外見を眺める余裕も出てくる。
 数千年に渡って人が住み続け、何度も戦いの舞台となった聖域の大地には、生えている草木も少ない。
 元より地中海性気候でそれほど肥沃ではないギリシアの大地ということはあるが、風雨だけではなく闘士たちの拳に削られて、山々は岩盤をむき出しにされている。
 その所々に、大理石の建築物が年輪を重ねていた。

「ふむ……」

 アーケインは考え込み、星衣クエーサーのどこに収めていたものやら、ペンと紙を取り出した。

 風蕭々トシテ 草木ヲ剥ギ
 地厳然トシテ 人身ヲ削ル

 太古ノ神殿 白骨ノ如ク
 聖域ノ結界 灰燼ニ帰ス

 どうも上手くない。
 首をひねってから結界、を歴史、に変える。
 それでもまだしっくりこないのでさらに推敲する。
 ふっと思い付いた。

 聖域ノ闘士 灰燼ニ帰ス

 傑作とは言えないが、こんなものか。
 意味するところは要するにだ、

「そろそろ遺跡になった方が美しいぞ!アテナ聖域!!」

 千里眼でこちらを見ている者への、開戦宣言であった。





「言ってくれる……!!」

 スパルタンとともに、教皇の間から星闘士スタインたちの様子をうかがっていたアステリオンは、アーケインが自分の視線に最初から気づいていたことをようやく思い知らされていた。
 書き上げた詩をこれ見よがしに見せつけてくれたのだ。

 十二宮の伝説の礎になるがいい、とでも言い返したいところだったが、星闘士たちの小宇宙を感じている今、言い返すことは出来なかった。
 先に戦ったアルゴ座のイルピトアほどの実力者がゴロゴロいてたまるかと思っていたが、それでも覚悟していた範疇を超える。
 今十二宮を守るこの布陣で、果たして勝てるか。
 どうひいき目に見ても勝算は薄すぎる。

「……いや」

 勝たねばならない。
 負ければ聖闘士セイントの歴史が終わる。
 聖域の全滅は、この地上の愛と正義を支えた居城の全滅を意味するのだ!

「アステリオン、十二宮全体が萎縮しそうだ。なんとかならねえか」
「わかった。
 予定よりいささか早いが、パエトン!火時計に火を付けろ!」

 迎え撃ってくれるという意思表示だ。
 幸い、火時計は十二宮のどこからでも見える。

『心得ました!!』

 火時計に詰めていたパエトンが、ザッと手を挙げる。
 祭司たちは頷くと、一斉に十二の掛かり火に火を付けた。




「む……!!」

 十二宮のどこからでも見える火時計は、十二宮に入る前からでも見える。
 その存在感に目がいかぬはずがない。

「聖闘士どもの返答は、徹底抗戦のようですな」

 青輝星闘士になったとはいえ、格上であるアーケインへの敬意を保ちつつ、バイコーンのアクシアスは嬉しそうに話しかけた。
 こうでなくては困るのだ。
 間違っても降伏などされてはたまったものではない。
 ……という考えが実にはっきりと表情に出ている。

「まったく、聖域の奴らも人の美意識に水を差してくれるものだ」

 心中とは正反対のため息をついて、アーケインはアクシアスに相づちを打った。
 が、これは失言だった。

「美が、如何なされましたか、アーケイン様」

 ゆったりとしたその声を聞いたとたん、アーケインは口の中で「しまった」とつぶやいた。
 この男がいるのを忘れていた。

 白輝星闘士スノースタイン蜥蜴座リザドのレイニィ。
 その自称を、

「この最も華麗で最も優雅で最も美しい星闘士、レイニィをお呼びになりましたか」
「…………いや」

 返答に窮したと言うか、対応するのが面倒なのでアーケインはそっけなく答えた。
 レイニィはおそらく、アーケインを上回る星闘士一の奇行師である。
 アーケインに苦労させられている白輝星闘士御者座アウリガのザカンまでが言うのであるから、おそらくその評価に間違いはない。
 もっとも、ザカンが付け加えるには、その差はわずかなものであるらしいが。

 メンバー中唯一外套型のマントを羽織り、しかもそれにはびっしりとレースの縁取りがされている。
 軽い巻き毛の金髪は背中まで覆い、二重の瞼から伸びる睫毛は冗談かと思うほど長く、

 やめた。
 アクシアスは疲れ果てて、この同僚から目をそらした。

「これは心外。
 美を語る際に私を呼んで頂けないとは、私はいつアーケイン様の不興を買ったのでしょう」
「レイニィ、趣味の話はそこまでにしろ」

 せっかく高まってきたアーケインの士気が下がりかけているのを見かねて、ゼスティルムが横から口を挟んだ。

「貴様にはやってもらうことがある」
「ほう、美しい任務でしょうね」
「……、十二宮外を全て制圧し、あの火時計を攻め落とせ。目障りだ」
「ふむ。この私に、あの火時計を、落とせ、と」

 思案顔で、レイニィは火時計に目を向けた。

「美しいかどうかは知らぬが、豪華ではないか。レイニィ」

 のんびりと話を向けたのは、白輝星闘士大熊座ブルーインのクライシュだ。
 巨漢ながら丁寧な態度なので、アクシアスが青輝星闘士に昇格してからも、白輝星闘士間の調停で説得役を担うことが多い。
 以前、邪武と戦って撃破されそうになったアクシアスを、寸前で救ったこともある。
 唯我独尊を決め込むことの多いレイニィも、さすがに彼の言葉を無視することは出来なかった。

「ふむ、君の言うことも一理あるな。
 ゼスティルム様、他の制圧のために何人かお借り致しますよ。
 しらみつぶしなど、私の主義ではありませんのでね」

 これを聞いて、赤輝星闘士クリムゾンスタインたちの大半が顔色を変えた。
 レイニィと気の合う者はほとんどいない。
 ゼスティルムは盛大に良心の呵責を覚えたが、微かに彼らに頭を下げて、

「よかろう」

 と答えた。
 結果、レイニィと気の合う二人が意図的に、気の合わない可哀想な四人がほとんど無作為に選ばれた。

「ああ、そうだ、おまえら、いい武器を見つけたら後でしっかり報告しろよ」

 その可哀想な四人に、追い打ちをかけるようなこの言葉は、もちろんアーケインのものだ。

「……聖域に武器が転がっているとも思えませんがね」

 その一人、隼座ファルコンの赤輝星闘士フュリウが、ため息たっぷりに返答した。
 彼は先日アーケインとともにアスガルドに行っているので、この性格にはそろそろ慣れている。

「あまり無いと決めてかかるな。あるところにはある」
「……まあ、お気遣いには感謝しますよ」
「フン、達者で情報持ってこい」

 横で聞いていたマリクはなるほどと思った。
 アーケインはあれでもくたばるなと言っているらしい。

 彼らを見送り、

「さて。遺跡を造りに行きましょうか」

 やる気を取り戻したらしい顔でアクシアスが先頭を切って駆け出していく。
 それに続いて星々の群れが、聖域十二宮に突入した。



 それを確認すると、アステリオンは、雑兵隊の隊長たちに指令を下した。
 一人白輝星闘士らしい優男が残ったのは計算外だが、残り少ない手勢で聖域を守るためには、彼らに掃討隊である赤輝星闘士たちを倒してもらわねばならなかった。
 正規の星闘士と雑兵たちとの実力の差は大きいが、雑兵たちにも聖域を守る意地があった。

「行くぞ!!
 偉大なる教皇アステリオン様の命に従い、地上の愛と正義のために!」
『おおおおっっ!!』

 地を轟かすかけ声とともに、数百名の突撃隊が星闘士たちに殺到する。

「醜い。
 この私が相手するまでもないわ。迎え撃て!」

 レイニィのその言葉が、死闘の開始となった。




 一方十二宮だが、アステリオンは白羊宮を空にしていた。
 順当に考えればここにはシャイナを配置させるのだが、別に考えがあって、彼女は後の方に配置している。
 意気込んで突入してきた星闘士たちの士気を空振りさせた上で、戦いは金牛宮から始めるつもりだった。
 しかし、

「……アステリオン。まずいことになった……」
「なに……」

 白羊宮から、小宇宙を感じる。
 金牛宮にいる檄とクリュスが動いていない以上、これは配置が終わった後に外から侵入してきたのだ。
 そうしてまでわざわざ白羊宮を守ろうとする者は、一人しかいない。

「あのバカ!!!
 自分の重要性をまだわかっていないのか!!!」

 叫んだものの、アステリオンも頭を抱えた。
 火時計にいるパエトンには、先の白輝星闘士が向かっている。
 女神の泉にいる翔が出向いてしまえば、残りの赤輝星闘士に女神の泉が破壊される。
 金牛宮にいる二人を前に出すしかないか。
 しかし、二人を動かせば、もはや歯止めがきかなくなる。
 各宮に配置した面々も、そこで待っていることが出来なくなるだろう。
 聖域全てを白羊宮に結集すれば、……おそらく、そこで全滅する。

「とにかくそこから脱出しろ!大馬鹿野郎!!」

 何か手はないのか。
 何か。
 アステリオンはすがるように聖域の外に目を向けて、探した。





「やなこったい」

 星闘士二十余名の前に、聖衣クロスも纏わずに立ちはだかった少年は、独り言らしきものを言った。
 白羊宮の入り口に堂々と立っているからには、通りすがりの子供と言うことは考えられない。

「正気か、教皇代行のアステリオンとやらは」

 どうひいき目に見ても自殺行為にしか見えないので、むしろ哀れに思えてきたゼスティルムは、ほぅとため息をついた。
 しかし、そのアステリオンに逆らって来ている少年……貴鬼としてはおもしろくない。

「こら!今オイラのこと馬鹿にしただろ、そこのジジイ!」
「口は達者のようですな」

 感心したのか、追い打ちをかけて馬鹿にしているのかわからないが、アーケインが体を震わせて笑う。
 星闘士ナンバー2のゼスティルムを面と向かってジジイ呼ばわりするのは、いまここにいない狼座ルーパスのテリオスくらいのものだ。

「私たちの戦意を削ぐ、と言う策ならば、成功しているのではないでしょうか」
「なるほど、その通りかも知れんな」

 イルリツアの説に頷いて、ゼスティルムは無造作な歩調で貴鬼に近づいた。
 光速どころか音速ですらなく、常人レベルの動きでしかない。
 しかし、ゼスティルムに圧倒されるものを感じて貴鬼はその動きを避けられなかった。

……何なんだよ、こいつの小宇宙は……!!

 ジャミールで青輝星闘士牡牛座タウラスのグランドを遠目から見たのとはわけが違う。
 貴鬼の見たところ、この獅子座の青輝星闘士は、間違いなく黄金聖闘士に匹敵する、とんでもなく強大な小宇宙の持ち主だった。

「子供よ」

 貴鬼が呆然としているその間に、ゼスティルムは彼の襟首を捕まえて持ち上げてしまった。
 不思議と、殺気は無かった。

「せめてあと五年、修行してから来るがよい」
「うわあああああっっ!!」

 ぽいっと。
 気がつけば、いともあっさり貴鬼は十二宮の外へとぶん投げられていた。

「ちょっ……と、待て……よぉおおおっ!!」

 地面に叩きつけられる寸前で、テレポーテイションして、辛くも白羊宮の入り口に……すなわち、ゼスティルムの目の前に戻った。
 テレポーテイションで十二宮内には入れないが、十二宮の入り口であるここにまでテレポーテイションすることはできる。

「……」

 何人かの星闘士は、ほう、という顔をしたが、その獅子座の星闘士は、さらに不機嫌な顔になっていた。

「貴方の悪い癖だ。こと子供には甘すぎる。
 戦争でも、女子供を避けて爆弾を落としているわけでもありますまいに」
「わかっておるわ、アーケイン」
「分かっておりませんな、そのご様子では。
 おそらくその子供、ジャミールでサルトルを手こずらせたという少年でしょう。
 アンティオネからお聞きになったはず。
 見逃せば、禍根を残すことになるでしょうな」

 すらすらと言葉を並べたアーケインは、何気ない動きで、ヒルダからふんだくってきた槍を肩から外した。
 見るからに殺す気満々である。
 ゼスティルムはそのアーケインの前に左腕を伸ばして、その動きを遮った。

「では、どうするおつもりで?」

 アーケインに返答する代わりに、ゼスティルムは、立ちはだかる貴鬼へ向けて手を開き、

「アークプロミネンス!」

 炎を放った。
 聖衣も纏わぬ子供一人、跡形もなく焼き尽くされるであろうと、ゼスティルムとアーケイン以外の誰もが思った。
 しかし、

「クリスタルウォールッ!!」

 来るのが分かっていた貴鬼は、ゼスティルムの手に灼気が集まるのを察して、放たれるのとほぼ同時に防御壁を展開した。

『何!?』

 先読みしたおかげで、光速にも辛うじて間に合った。
 それでも、ゼスティルムの炎を跳ね返すのは今の貴鬼の力では不可能であり、わずかの軋みの後で、クリスタルウォールは粉々になる。
 しかしそれで貴鬼は火葬になるのを免れることができた。

“クリスタルウォール……まさか”

 その意図的な念を聞いて、ゼスティルムも貴鬼の正体を尋ねざるを得なかった。

「私は星の戦士、星闘士の最高位に位置する青輝星闘士が一人、獅子座レオのゼスティルム。
 少年よ、君の名を聞こう」

 そう真面目に問われて、答えないわけにはいかない。
 炎の余波で床に転がされていたまま名乗るなど御免なので、ふんぬと身体に気合いを込めて立ち上がった。

「オイラは牡羊座アリエスの黄金聖闘士ムウ様の一番弟子、
 アッペンディックスの貴鬼だ!」
「牡羊座のムウの……!」
“弟子か……!!”
「……アッペンディックス、って何座だったか?」
「おまけだ、おまけ。正式な聖闘士ではないのだろう」

 アクシアスのボケたような質問に、ザカンが呆れながら答える。
 アクシアスが昇格したとしても、特に口調を変えるつもりはないザカンである。

「そうか……。
 では、君を生かしておくことは、できんな」

 ゼスティルムとしては、せめて保身のために身分を偽って欲しかったのだが、それが出来ないからこそムウの弟子なのであろうと思った。
 やむを得ん。
 そう、拳を固めようとしたところで、

“待ってくれないか、ゼスティルム”

 テレパシーによる声が響いた。

「そなたか。
 まさかと思うが……」
“そのまさかだ。
 その少年の始末は、是非とも私一人に任せてほしい。
 ここまで来れば、もう私の道案内も要らぬだろうしな”
「そなたを貶めるつもりはないが、今のそなたに戦う力はあるのか?」
“ようやく力が戻ってきたところだ。
 しかし、その復活最初の獲物として、その少年を譲るわけにはいかない。
 それは分かってもらえるだろう”
「私も賛成ですな。
 これだけの数の星闘士で一人の少年を取り囲んでも、誇れる話にはなりますまい。
 ここは彼に任せるのが最上ではありませんかな」

 真意かどうかは見えないが、アーケインがすかさず擁護に回る。
 ゼスティルムはアーケインを睨んで、たっぷり十呼吸ほどした後、

「……よかろう。
 この場はおまえに任せるとしよう」
“心遣いに感謝するよ、ゼスティルム”
「じょ……冗談じゃねえ!誰が通すかよ!!」
“通して貰わねばこまるのでね……!”
「なっ……!!か、身体が……!!」

 三度ゼスティルムの前に立ちはだかろうとした貴鬼は、その動こうとした姿勢で金縛りにあってしまった。
 サイコキネシスによるものだとすぐにわかったが、その強さは並大抵のものではなかった。

“さあ、この少年は私に任せて、先に行ってくれたまえ”

 星闘士たちは、一度顔を見合わせ、アーケインが頷いたことで歩を進めた。

「少年よ、キキ、といったな」

 星闘士たちの最後として歩き出す前に、ゼスティルムは動けない貴鬼に今一度話しかけた。

「覚えて置くがよい。
 身内の紹介に敬称を付けるものではない」
「へ…………?
 って、あ、こら、待てよおおおおおおお……!」

 貴鬼があっけにとられた間に、ゼスティルムは無表情のまま白羊宮を抜けていった。
 金縛りで後ろを振り向くことが出来ないので、足音と小宇宙が遠ざかるのをただ感じるしかなかった。

「く……こ……ん……にゃ……ろおおぉ!」

 渾身の力を込めて金縛りをふりほどこうとしたところで、不意にその金縛りが解かれてしまった。

「うわあああっっ!?」

 振り返ろうとしてバランスを崩し、顔から床に突っ込む。

「いてててて……、あ、身体が動くぞ」
“そうだろう。たった今解いてあげたのだから”

 ゾクリと、貴鬼は背中に寒気を覚えた。
 誰もいなくなったはずのこの場に響く声の主に、恐ろしく危険なものを感じたのだ。
 それは、貴鬼が今まで幾多の戦いで見てきたものに比べれば、小宇宙の強さでは及ばないかも知れない。
 しかし、何だ。
 この、明確に自分に向けられた殺気は。

「誰だ!姿を見せろ!!」
“フフフ、よく見たまえ。
 さっきから君の目の前に姿を見せているのに”

 そう言われても、もはやこの宮には誰もいない。
 どこから迷い込んできたのか、透き通るような虹色の羽をした蝶が一匹舞っているだけだ。
 以前の貴鬼ならば、喜んで捕まえようとするところだが、今はそうやって遊んでいるような状況ではない。
 それに、蝶を捕まえても、見せるべき沙織さんは、まだ落ち込みきったままだ。

「えーい、しょうがない。金牛宮までに追いついてやる!」
“勝手に動いて貰っては困る”

 身を翻した貴鬼の眼前に、突如として蝶が出現した。

「うわあっ!」

 もう一匹現れたのかと思ったが、違う。
 これはさっきの蝶が短距離テレポーテイションしてきたのだ。

“せっかくアーケインが、うまくゼスティルムを連れて行ってくれたのだ。
 君は、この場で始末しておかなければならない”
「まさか……人間じゃないのか……。
 蝶々一匹でオイラを倒すつもりかよ!」
“私もアーケインも、君をバカにしたわけではない。
 ゼスティルムの目の前では、君を殺すことが出来ないからだ。
 君を殺すために、アーケインは皆を連れて行ったのだ”

 アーケインの言う通り、ゼスティルムは子供に甘すぎる。
 何のかんのと言ったところで、おそらく最後の一線で止めようとするだろう。
 それがたとえ、黄金聖闘士の後継者であったとしても。

“そして、自己紹介が遅れた。
 私は地妖星パピヨンのミュー。
 先の戦いにおいて、君の師牡羊座のムウに、巨蟹宮で倒された冥闘士スペクターだよ”
「冥闘士………………、そんな、バカな!!」

 ありえない、と貴鬼は頭をブンブン振ったが、それでは目の前にいる蝶は消えてくれなかった。
 しかし一輝の話では、シャカの持っていた百八の球の数珠は、全て変色したという。
 ならば、冥闘士は全て滅んでいるはずだった。

“少しは事情を知っているようだな。
 今言った通り、確かに私はムウに倒されている。
 だがそれは、この時代に宿命づけられた人間である私の本体であって、私の全てではない”
「へ……?」

 貴鬼は頭がついて行かなくて目を白黒させた。
 本体であって、全てではない?

“丁度いい、ムウにした話を君にも聞かせてやろう。
 君たち聖闘士は、私たち冥闘士を死霊のように思っているらしいが、そうではない。
 私たちの身体はあくまでこの地上に生きている人間なのだ。
 それが百八の魔星の復活と、冥衣サープリスの装着により、冥闘士としての魂が目覚め、地上で活動できるようになったのだ”
「それじゃあ……おかしいじゃないか!
 おまえみたいなのが人間だっていうのかよ!」

 私たちが人間だ、などと蝶々に言われても、はいそうですかと納得できるものではない。

“フフ……、ここから先はムウには説明してやれなかったがね。
 百七人の冥闘士は、その魂の大元も人間だ。
 しかし、私だけは例外なのだ。
 百八人の中でただ一人、私だけは、冥闘士の元となった魂が、人間ではないのだよ……!!”

 ようやく貴鬼にも飲み込めてきた。
 こいつは、違う。
 神闘士ゴッドウォーリアーも、海闘士マリーナも、聖闘士すらも神話の存在と言えるが、その一人一人の肉体は現在の存在だ。
 しかし、こいつは、このパピヨンのミューという冥闘士は、神話の怪物の生き残りなのだ……!

「おまえは、一体……!」
“ハーデス様の浄土、エリシオンに生まれた死の蝶フェアリー。
 タナトス様さえ忌み嫌われた私たちに、慈悲深きハーデス様は魂を下されたのだ。
 ゆえに私は本来、群体であって個体ではない。
 私たちのうち、一つでも生きていれば、パピヨンのミューは蘇る……!!”
「それなら、オイラがお前を倒して、終わりにしてやる!!」
“フフフ……、もう忘れたのかね。
 君はさきほど、私が仕掛けたサイコキネシスで、身動き一つ出来なくなったのを。
 いや、結構だ。その意気でなければ私の溜飲も下がらない。
 牡羊座のムウの弟子、貴鬼よ。
 君の死を我が糧とさせてもらおう……!!”

 ミューの身体が一際光ったかと思うと、言葉とは裏腹に、その姿が枯れ朽ちていく。
 そして、その代わりに、

「な……なんだよ、これ……」

 ぞわりと、床に出現したものに、貴鬼は生理的な嫌悪感を覚えた。
 冷えて固まる寸前のマグマに、大量の宝玉を無駄にはめ込んだらこうなるだろうか。
 どろりとした粘性の塊が、床に這いずるように広がっている。
 しかも、それが、脈打っている。

“ラダマンティス様は私をこう呼ばれた。
 進化する魔物、とな”

 姿を変えたものの、これが紛れもなくパピヨンのミューであることを、貴鬼はなんとか納得した。
 神々が実在したのだから、魔物も実在するだろうという、無茶苦茶な理屈で。

「ヘン、じゃあ、それ以上進化する前に、オイラがつぶしてやるよ!!」

 貴鬼がそう叫ぶと、白羊宮の両脇に続く岩盤から、一抱えでは済まない岩塊が次々と浮かび上がった。

「こんなこともあろうかと思って、ムウ様に内緒で用意してたのさ!」
“それは自慢にならないな”
「くらえっっ!
 名付けて、ローリングボンバーストーンだい!!」

 無数の岩がミューめがけて落下……いや、殺到する。
 落とすだけではなく、回転を加え、加速も加えて、当たるまでサイコキネシスでがっしりと捕まえておくつもりだった。
 しかし、

“この程度か。
 いや、年の割にはと褒めるべきか……”

 床から1メートルほどの空中で、岩は全てピクリとも動かなくなってしまった。
 床に這いずっているミューに当たる寸前で。

「く……こいつ……この!」

 以前、クラーケンのアイザックに、一喝されただけで岩を跳ね返されてから、貴鬼は修行を怠ったことはない。
 まして聖衣の修復のために限界を超えて小宇宙を燃やしてきたのだから、小宇宙の強さも以前より上がっているはずだ。
 それでも、パピヨンのミューとの間には、文字通り大人と子供ほどの差が存在した。

“今の技の名前、自分でつけたのか?”
「ヘン、悪いかよ。
 ムウ様にとっちゃこんなの技にもならないんだよ」
“フッ、ロックが聞いたらさぞかし落ち込んだことだろうな”

 表情も何もわからない姿だが、どうやら苦笑したらしいことは、貴鬼にも何となく分かった。

“では、頑張って凌いでみたまえ”

 二人が今立っている……片方は立っているとも言い難い……ところは、白羊宮の入り口付近だが、ミューの頭上……これまた頭がどこかわからない……に浮いていた岩塊が、砂粒ほどの大きさに見えるほどの上空にすっ飛んで行った。

“そうだな、シュード・メテオライトとでも名付けようか”

 それらが、一斉に降り注いできた。

「うわああっっ!!」

 サイコキネシスで止めようとしたが、あっさりと振り切られた。
 格が違いすぎる……!!
 ギリギリで直撃は避けたものの、落下と念動力の加速度でマッハ2,3を数える擬似隕石の着弾は、強烈な衝撃波と爆風を伴っていた。
 二発目が着弾する寸前に、とっさに白羊宮の中に短距離テレポーテイションする。
 宮を飛び越えるのでなければ、十二宮でもテレポーテイション可能な範囲が存在するのは、散々やったイタズラで実証済みだった。

“最初の爆風は受けたはずだが、聖衣も纏わずにずいぶんと頑丈な身体をしているな”
「ヘン、伊達に聖衣無しでアスガルドや海界を飛び回ってた訳じゃないぜ」

 カシャリと音を立てつつ、貴鬼は見得を切って立ち上がった。

“なるほど。
 海闘士たちが、神出鬼没の子供に天秤座の武器を運ばれたと言っていたが、それは君のことか”
「げっ……」

 何で冥闘士が海界でのことなど知っているのかと、貴鬼は焦った。
 確かに貴鬼は、海界で七つの海を飛び回る際に、テティスだけではなく、海闘士の雑兵と何度も遭遇している。
 七将軍が守るテリトリーの外縁を守る彼らから逃れるため、何度テレポーテイションしたかわからない。
 その彼らの一部が、海界崩壊の折に星闘士に救われていたということまでは、貴鬼は思い至らなかった。

“その逃げ足の速さも、このミューの前ではもはや通じない。
 私もテレポーテイションの能力は持っているのでね”
「そんなのありかよ……」

 高度なテレポーテイション能力を有する者なら、他人のテレポーテイションの軌跡を見ることができると、聞いたような気がする。
 どうやれば出来るのかは、……覚えていない。
 ムウがいなくなってから、ムウが教えてくれる間にもっと真剣に勉強しておくのだったと悔やむことが多かった。
 しかし今は、ムウに教えられたことを一つでも多く思い出して、それを自分のものにしていくしかない。

「まあいいさ、これ以上逃げるつもりも無いからな!!」

 ガッシと床に踏ん張る足に力を込め、小宇宙を燃え上がらせる。

「受けてみろ!スターダストレボリューション!!」
“その技は既に見切っている……!”

 貴鬼が必死になって繰り出した十数発の星くずだったが、ミューはテレポーテイションも使わずに軽々と避けた。

「そんな……!」
“まして、速さも、数も、ムウの足下にも及ばないようではな!”

 かわしきったところで、ミューの身体を彩る宝石のようなものが、異様にぎらついた光を帯びて、

“アグリィ・イラプション!!”

 マグマが吹き上がる如く、エネルギーの奔流を、逃げ場がないよう四方八方に繰り出した。

 避けられない!

「ク……クリスタルウォールッ!」

 寸前で間に合った不可視の壁は、しかし、持ちこたえられなかった。

「うわああああっっ!!」
“やはり今の君の小宇宙では、一発受けるのが限界のようだな。
 今一度食らうがいい、アグリィ・イラプション!!”

 直撃した。
 床から噴火するようなエネルギーを受けて、貴鬼の身体は天井近くまで舞い上がった。
 そのまま、頭から床にカシャリと落下する。

“……何?”
「いてててて……」

 ありえない音に驚いたミューに追い打ちを掛けるように、聖衣も無しにアグリィ・イラプションを受けたはずの貴鬼が、よいしょと立ち上がってきた。

「いっててて……、あんなのを連発してくるなんて、無茶苦茶やってくれるよ……」

 その貴鬼の周囲に、キラキラと剥がれ落ちるものがあるのを、ミューの第六感は見逃さなかった。

“そうか、先ほどの爆風を受けても平然としていられたのはそのためか……。
 一発で砕けると分かっているクリスタルウォールを、聖衣代わりの服として纏っていたとは”
「げっ……」

 そう簡単にばれないだろうと思っていた貴鬼は、ミューの眼力の恐ろしさに顔面蒼白になった。

“そんな加工の難しいものを鎧にするとは大したものだ。
 よほど鎧造りに精通していなければ出来ることではないだろう”
「げげげげっ……!」

 見抜かれてる。
 そう悟ってポーカーフェイスを装えるほど、貴鬼は器用ではなかった。

“やはりそうなのだな。
 ムウの弟子と言うからにはありえるとは思っていたが、タナトス様に粉々にされたはずの青銅聖衣ブロンズクロスが修復されていたのは、君の仕業だったわけだ”
「あ、ああ、そうだよ!文句あんのかよ!」
“文句はない”

 ズルリ、と、ミューは威嚇するように貴鬼に向けて微動する。

“なおのこと、生かしてはおけなくなったというだけだ”

 小宇宙を燃えたぎらせ、ミューは貴鬼の全身を金縛りにかけようとする。
 先ほどの感覚からして、もう捕まったら一巻の終わりだと言うことは分かっていた。
 実力差がそもそもありすぎるため、貴鬼は全力でこれに対抗しなければならなかった。
 ミューの念動力を弾くべく、身体の周囲をはねのけるようにして力を込める。
 しかし、そうしていては、クリスタルウォールによる鎧を形成させることは不可能であった。

“よくここまで保ったものだと、ムウに代わって誉めてやろう。
 だが、直伝の技にまだまだ修行の余地があったな”
「く……」

 スターダストレボリューションは、今のマッハ程度の自分では当てることすら出来そうにない。
 スターライトエクスティンクションは一撃必殺な分、ミューほどの存在を消し去るには、よほど集中しなければ成功するはずがなく、念動力に対抗しながらなどできるものではなかった。
 防御の要となるクリスタルウォールは、一撃で砕け散ってしまう有様だ。
 確かにどれもこれも、……いや、まてよ。

「そうか……」
“さあ、死に給え!アグリィ・イラプション!!”
「クリスタルウォール!!」

 受け止めた直後に、壁が砕け散る。
 ミューは間髪入れずに第二撃を叩き込んできた。

“アグリィ・イラプション!!”

 そこで貴鬼はテレポーテイションした。
 ここまではミューの想像通りだった。
 受けきれず、相殺することも出来ないので有れば、逃げるしかない。
 だがその軌跡を読んで、姿を見せたその場所が貴鬼の墓場となる……はずだった。

“何!?”
「でりゃああああっっっ!!」

 貴鬼が姿を現したのは、ミューの真上だった。
 上下が逆転した状態でテレポーテイションを完了させ、落下の勢いのまま、サイコキネシスで覆った左手に小宇宙を込めて、体当たりするかのように拳を叩き込んだ。

“ガアアアアッ!!
 ……まさか、相討ちを、ねらってくるとは……!”

 左拳に続いて、両足で蹴りつけるようにミューの上に着地し、貴鬼はヘン、と笑った。
 これだけがっちり捕まえていたら、見切っていようが、テレポーテイションで逃げることもできないだろ!

“君は……っっ!”

 ミューは寸前で貴鬼の狙いに気づいたが、星くずを伴った貴鬼の右拳の方が早い。

“アグリィ・イラ……”
「スターダストレボリューション!!」

 十三個の星が、アグリィ・イラプション発射寸前の噴出点に炸裂した。
 スターダストレボリューションだけではなく、ミューの技の力も加わった相乗効果で、ミューの身体を構成するマグマ状物質が爆発したように四散する。

「や……やった……!冥闘士を……、最後の冥闘士を、倒した!」

 スターダストレボリューションが着弾した際の余波を食らい、ふっとんで床に転がったものの、貴鬼は拳をぐっと握りしめて、勝利を噛みしめた。
 アーケインたちには通られてしまったが、ムウと戦った宿敵を倒せたという感慨は、今まで貴鬼が味わい続けてきた無力感を癒すに足るものだった。
 だが、

“私が並の冥闘士だったら、君に大殊勲をくれてやるところだったよ……”
「な…………」

 一瞬途切れたと思えたミューの小宇宙は、消えてはいなかった。
 いや、先ほどよりもさらに強大になってきている。
 ガサリ、ドカリと、紙と岩との中間のような音を立てて、ミューの身体の残骸の中から姿を現したものがあった。
 巨大な芋虫が、何段にも分かれた甲虫の殻を纏ったような、先ほどまでとは違った方向に、しかし負けず劣らずグロテスクな生物だった。

「……う、嘘だろ……」
“言ったはずだ。私は進化する魔物だと。
 だがよもや、君を相手に孵化することになるとは思わなかった。
 本当はもっと死者の魂を喰ってから、この姿になりたかったのだがね……。
 君がこれほどの健闘をしてくれるとは、まったく……十分な倒し甲斐があったというものだよ”

 視線のわからないミューの複眼に、貴鬼は確かに睨まれたと感じた。

“その命、ムウの代わりに貰うに十分値する。
 シルキィ・スレード!!”

 ミューの口……らしきところ……から吐き出された白い攻撃の第一波を、貴鬼はなんとか全身を叱咤してかわした……つもりだった。
 だがそれは、衝撃波ではなかった。

「な、なんだこれ……!?」

 ふわりと広がり、ちぎろうとしても細かくほどけて絡まる粘性の糸だった。
 それ自身に意志があるかのようにからみついてくるのは、おそらく束縛するほどではないにしてもミューがサイコキネシスで操っているのだろう。

“一つ、教えておこう。ムウはこの糸から脱出してみせた”
「!」

 両膝を絡め取られ、今にも倒れ込みそうだった貴鬼は、その言葉を聞いて辛うじて踏みとどまった。
 ムウが脱出したのなら、自分もこれから脱出しなければならない。
 そうでなければ、ムウに追いつけない……!

「ぬうううううっっ!!」

 しかし、ここまで絡まれるとテレポーテイションによる脱出は不可能であり、束になった糸は恐ろしく強靱になっていた。
 力を込めればそれだけ、絡め取られる動きに拍車を掛けることになった。
 もちろん、それがわざわざムウの話をしたミューの狙いであり、溜飲を下げることになる。

「こん……にゃ……ろう……」

 強く絡まりすぎて、貴鬼は呼吸すら怪しくなってきた。
 頭がもうろうとしてくる。
 その貴鬼に向けて、ミューは最後の一吐きを加えるべく、身体を大きくのけぞらせて、

“さらばだ、シルキィ・スレード!!”

 吐きつけた糸が、炎上した。

“何!?”

 細い糸は空気に触れる面積が比較的大きくなる。
 貴鬼に絡まっていた糸に燃え移った炎は、あっという間に糸を焼き切ってしまった。

“何者!?”
「イ……一輝……?」

 貴鬼は、自分が知っている、助けてくれそうな炎の聖闘士というと、鳳凰星座の一輝くらいしか思い浮かばなかった。
 しかし貴鬼の肩を支えた手はローブを纏っており、しかも、ずいぶんと年老いて見えた。

「聖衣も無しに、無茶をしおるわ。ムウの弟子か」

 枯れたようなその声にも、貴鬼はやはり聞き覚えがなかった。

「じいちゃん……誰?」

 じいちゃん、と言ってみたものの、老師のような短身ではない。
 年は60から70といったところだろうか。
 長い髭と、左目のあるべき場所に填っている義眼らしき宝石が、不思議な表情を作り出していた。

「わしを知らぬか。
 ……まあ、そうであろうな」

 ため息をついた身体は、杖をついてはいるものの、老いのわりには背筋もしゃんと伸びている。
 しかし、それにもかかわらず、ひどく疲れ果てたような印象を与えた。

“何者だと聞いている。
 今代の聖闘士の中には、ゼスティルムたちのような炎の聖闘士はいないはず。
 どこの枯れ木か知らないが、聖闘士でないのであれば、倒しても糧にもならん”
「先ほどのは空耳ではなかったか。
 長生きはしてみるものだな。
 喋る怪物などにお目にかかれるとは」

 その印象の一方で、悠然とした立ち振る舞いは、明らかに人の上に立っていたことを伺わせる。
 そこにミューは、殺す意義を見つけた。

“怪物ではなく、魔物と呼んで貰いたいところだ。
 シルキィ・スレード!!”

 糸を吐き付けるミューに対し、老人が杖をついていない左手を横薙ぎに一振りすると、どこからともなく炎が現れた。
 炎自体の温度は低く、燃え上がるというほどではないが、細い糸の特性として、燃えやすいのだろう。
 それだけで十分な防御となった。

「ふむ、相性は悪くないようだな」

 小宇宙の強さではミューの方が遙かに勝っているが、老人の言う通り、この組み合わせは老人にとって相性の良いものらしい。
 しかし、

「じいちゃん、気を付けて!
 そいつはただの怪物じゃない!」
“素直に糸の棺桶に入っておれば良かったものを。
 いいだろう。
 その程度の力でこのパピヨンのミューをコケにしたツケは払って貰う!”
「……パピヨン、だと?」

 それを聞いた老人の、光を失っていない右眼がギラリと光った。
 ミューはその程度のことは意に介さず、身体をぐいと起こして、口から吐き付けた。
 今度は、糸ではない。

“シルキィ・ブレッド!”

 圧縮された糸の塊だった。
 今度は炎を受けても燃え尽きない。
 岩石に近い固さの物体が、何百発も吐き出され、老人の身体を打った。

「ぬううううっっ!」
「聖衣も無しに、無茶してんのはどっちだよ!!」

 先ほどのシルキィ・スレードで、まだ呼吸が怪しかったが、避けようともせずに打たれている老人を見過ごせず、貴鬼は力を振り絞って糸玉をたたき落とした。

“貴鬼、余計な真似だったと思うぞ。
 このような、棺桶に片足を突っ込んだような老いぼれなど助けたところで……”

 そこでミューは言葉を途切れさせた。
 感じたのは、威圧感だ。
 この老人の視線が、先ほどまでとは比べものにならない威圧感を湛えて、ミューを見据えていた。

「パピヨン、と言ったな……。魔物よ」

 呼吸が定まらないのか、その問いかける声は震えているようにも聞こえた。

“いかにも、私は地妖星パピヨンのミュー”
「そうか、ではやはり、貴様は、冥闘士なのだな……!」
“知っていたとは誉めてやろう。
 いかにも、私こそは、ハーデス様に仕えし百八の魔星、最後の一人!!”

 それを聞いて、明らかに老人の身体が震えだした。
 顔を上げたその表情は、恐怖ではなく、

 歓喜。

「フ……ハハハハハハハハハ……!!
 アステリオンよ……感謝するぞ、心の底から感謝するぞ!!
 このわしを、この戦いに引きずり出してくれたことを!!」

 遙か教皇の間が見えてでもいるかのように、老人はその方向を正確に見据えて、高く、高く、笑った。

“……気が触れたか”
「あるいは、それでも構わん。
 今、この地、この時、この状況が、夢や幻でなければそれでよい!!」

 轟、と、小宇宙が無形のオーラとなって燃え立った。
 そんじょそこらの聖闘士の小宇宙ではない。
 貴鬼の見たところでは、白銀聖闘士にさえ、勝るとも劣らない……!

“……バカな……、蝋燭の最後の炎だとでも言うのか。
 今度こそ答えて貰うぞ、君は、一体何者だ!!”
「フッ……わしは、元聖域参謀長、ギガース。
 かつて双子座のサガに与し、アテナを亡き者にしようとした、許されざる重罪人よ!!」

 歓喜と悔恨とが合わさった絶叫とともに、ギガースの放った灼熱拳がミューを襲った。

“何ィッ!”

 地を這っていたミューは、その拳の威力と、巻き起こる強烈な上昇気流により吹っ飛ばされ、宮の壁に叩きつけられた。

「立て。これしきで倒れる冥闘士ではあるまい」
“フ……、言ってくれる……”

 立ったのかどうかはともかく、壁から身体を引き剥がし、ミューはギガースに向き直った。
 その外骨格のような表皮には、今の灼熱拳でわずかなへこみが出来ている。

“高くつくぞ!”

 ムウの弟子ならばまだしも、格下と見ていた無名の老人にここまでのことをされるのは、冥闘士の誇りに賭けて許されざることであった。
 ぐわりと開けた口から、アグリィ・イラプションを集約したようなエネルギーがほとばしる。

“シルキィ・スプラッシュ!”
「ぬうううっっっ!!」

 ギガースは対抗して灼熱拳を繰り出し、一旦は互角のぶつかりに持ち込んだが、

「狙ってきおったか」

 ギガースの灼熱拳の威力を押し返そうとする力が、徐々に、だが確実に増大していく。
 ぶつかり合っていることで、逆に避けることも逃げることも出来ない。
 避けようとしたその瞬間に、ミューの必殺技と自分の必殺技とを合わせた威力を受けることになるからだ。

「……ムウの弟子よ、貴鬼と言ったな」
「あ……うん」

 両手両膝を着いて、やっと呼吸と意識が普通に戻った貴鬼は、いきなり小声で呼びかけられたことに、声よりも視線で気づいた。

「わしが奴を引きつける。
 生半可な技では奴は倒せまい。頼むぞ……」
「……!」

 そこでミューのシルキィ・スプラッシュが一際激しくなった。
 均衡が完全に破られ、ギガースの杖がへし折られた。

「ぬおおおっっ!!」

 今度はギガースが吹っ飛ばされて、壁に叩きつけられる。

「ガハッ……!」

 壁にめり込むとまではいかなかったが、血反吐を吐いて床に転がる。

“聖衣もないその状態では、肋骨にヒビくらいは入ったであろう”
「そのようだな……全身が痛みをあげておるわ……」

 左手で胸を抑え、ローブのそこかしこが破れ、ところどころ流血しているにも関わらず、立ち上がったギガースは、笑っていた。

「そうよ……これよ……。
 わしが求めて止まなかった……」

 目に入りそうになった額からの流血を拭った右手を見つめたその笑みは、嘘偽り無く心底嬉しそうであった。

“その痛みが嬉しいとでも言うのか”
「そうとも。これほど嬉しいことはない……」
“狂人になど、これ以上無駄に付き合うつもりはない”

 ミューは念動力でギガースを掴むと、無造作に持ち上げた。

“ふさわしい死を与えてやろう!”

 ぐるりと、空中で動けないままのギガースの身体が横回転を始めた。

「じっちゃん!」

 止めようとした貴鬼は、しかし、ギガースの諭すような視線に、それ以上動けなくなった。
 ギガースは、引きつけるといった。
 まだだ……まだ、もう少し、かかる……

“引きちぎれるまで回るがいい!!”

 これはかつて、ミューがムウに食らった技でもある。
 徐々に回転が速くなり、やがて死に至る……はずであった。

「フ……、身動きが出来なければ反撃できないとでも思ったか……」

 回転しながらで、音程が狂った挑発の声とともに、ギガースの全身から炎が吹き上がった。
 その炎は、ミューが自ら仕掛けた回転により、竜巻となっていく。

「ファイアー・スクリュー!!」

 ギガースの小宇宙によって、炎の竜巻がさらに高さを増し、白羊宮の天井で跳ね返ってミューに襲いかかる。

“味な真似を!”

 舌打ちしつつ、身体をひねって、避けたそこに、

「クリスタルネット!!」

 光り輝く網が待ちかまえていた。

“これは……!!”

 驚愕したミューは、結果として竜巻を避けきれず、炎に押し込まれるようにしてクリスタルネットに絡まった。

“ウオオオオオッッ!!”
「どんなもんだい、オイラの発明は!」
「まだじゃ!! おぬしの最大奥義を叩きこめい!!」
「!!」

 貴鬼は、不可解な驚きと共に、全身に気合いが入った。
 口調も、声の質も全く違うというのに、ギガースの叱咤がまるで、ムウに諭されたときと同じように思えたのだ。

「はい!!」

 最大奥義。
 貴鬼が知っている最大奥義は……今ならば、放てる気がした。
 在りし日の師の姿に、力を誇示することを好まなかった師の姿に、十年の時を追いつくように背伸びをして、小宇宙を燃え立たせる。

“……まさかっ!?”
「くらええええっっ!!
 スターライトエクスティンクション!!」

 貴鬼が両手を掲げるのと同時に出現した光の奔流がミューを飲み込んだ。
 彼の身体を絡め取ったクリスタルネットと、その身を焼き続ける炎もろとも、姿が薄れていく。

「消えて、なくなれえええええっっ!!」

 叩きつけた叫びをとどめの一撃のようにして、ミューの姿は完全に光の中に消え、そして、その光も消えた。

「や……やった……! 初めて……」
「よくぞ……よくぞやった。
 さすがは」

 回転の慣性が残ったまま床に転がされたギガースも、手放しで誉めようとして、呼吸を整える。

“まぎれもなく、君はムウの愛弟子よな……!!”
『!!!』

 二人が振り向いたそこに、シルキィ・スプラッシュのエネルギーが襲いかかった。

「な……にィ……ッ!!」
「うわあああああっっっ!!」

 かわす間もなく、貴鬼に至っては最大奥義を放った後の虚脱状態で直撃を受けた。
 そのまま体勢を整えることも出来ずに、二人は壁に叩きつけられた。

“ムウに教えられたわけでもないのに、同じ技を編み出して、同じこの私を絡め取ろうと繰り出してくるとは……見事としか、言い様がない!”

 ゼエゼエと荒い呼吸を繰り返して身体を震わせながら、ミューは心底感嘆していた。
 あと五年の修行どころではない。
 神聖闘士ゴッドセイントたちにくっついて戦場を駆け回っていたオマケは、ただ単にくっついていったわけではないのだろう。
 伝説となりし彼らの戦いを目に刻みつけ、その小宇宙の輝きを受け続けてきたのだから。

 しかし、それでも生身で直撃を受けてはただでは済まない。
 壁から剥がれ落ちた際に床に頭を打ち付けたこともあってか、意識は完全に失っている。
 かろうじて意識を保てたギガースは、身体をひきずりつつ、倒れた貴鬼を背後にかばう。
 しかし、その表情は苦いを通り越していた。

「バカな……、かわせなかったはずだ、どうあがいても……!
 スターライト・エクスティンクションをかけられて、間違いなく消滅したはず……」

 ギガースはこの技の特性を知っている。
 ゆえに、使えると判断して貴鬼に使わせたのだ。
 間違いなく、ミューが消滅するのを、この目で確認した。
 それが……、

「……まさか」

 ミューの身体が、違っている。
 粘膜がそこかしこにこびりつき、先ほどギガースの灼熱拳を受けて生じたへこみが消えている。
 それに、心なしか大きくなったように見えた。

「……先ほど消滅したのは、貴様の抜け殻だけか……!」
“よくぞ見抜いた。その通りだよ。
 クリスタルネットに捕らわれていたのは私の外皮のみだったからな。
 消滅させられる寸前に、身体を外皮から切り離して、短距離テレポーテイションでスターライト・エクスティンクションをかわした。
 もっとも、生か死か、まさに紙一重だったがね……”

 世辞ではないことを証明するように、ミューの息は依然として荒いままで、身体が細かく震えていた。
 無茶な脱皮をしたために、体を慣らせるのに苦労しているようだ。

“よもや第二齢にならねばならなくなるなど、想像だにしなかった。
 だが、これで、今度こそ終わる”
「させぬぞ。
 この子はおそらく、聖闘士の未来そのものなのだからな……」

 手を広げて、ミューを威圧せんと立ちはだかる。
 既にローブはボロ布と化しており、今にも吹き飛びそうな風体だ。
 満身創痍と言って良い。

“その身体でよく立ち上がる。
 聖衣も纏わずに、既に私の攻撃を何度も受けていて、本来なら確実に死んでいるものを”

 聖闘士の攻撃力は超人的なものだが、その肉体の防御力は普通の人間とさほど変わらないと言われる。
 紫龍を筆頭に神聖闘士たちという最大の例外はあるが、本来、その身体を守るためにアテナが作らせたというのが、聖衣の発祥であると言われている。

“重罪人と言っていたな。
 大方聖衣を剥奪されでもしたのか。
 その身体でこれ以上私の攻撃を受ければ今度こそ死ぬぞ。
 ここまでの健闘に免じて時間をくれてやろう。
 なお立ちふさがるつもりならば、死ぬ気で聖衣を呼び寄せてみるのだな”
「剥奪……?」

 しばし目を伏せ、ギガースはふっと笑った。
 それは、あるいは自嘲しているようにも見えた。
 しかし、

「大間違いだぞ、冥闘士。
 わしは聖衣を剥奪されてなどおらぬ」

 静かにつぶやいた声とともに、その身体にみなぎってくる小宇宙は、まるで、怒り。

「元より無いものを、剥奪などされはせぬわ!!」
“何……?”

 満身創痍のはずが、燃え上がった小宇宙と共に繰り出された灼熱拳は、なお威力を失っていなかった。
 再び吹き飛ばされたミューだが、こちらも負けてはいない。
 飛ばされた空中で身体をひねり、壁に叩きつけられる前に着地する。
 今度は外骨格にへこみも生じていない。

 一方、拳を放ったギガースはよろめいたものの、ミューを真っ直ぐに見据えて倒れはしなかった。
 射抜かんとする視線がミューへと突き刺さる。

“まさか、元より聖闘士ではないというのか。
 見習いであろう貴鬼ならばいざ知らず、それが何故、死にかけた身体で向かってくるか!”
「向かうとも。この身を賭してな!」

 ミューが誇りを傷つけられた怒りで吐き出したエネルギーを、ギガースは直接拳を叩きつけて止めた。
 その身はミューの言う通りに死にかけていても、小宇宙は先ほどよりもなお強さを増している。
 必然的に、繰り出される拳の威力も強くなっていた。
 だが、所詮は生身だ。
 直接食らうことこそ防いだものの、四散させた余波までは防ぎきれずに吹き飛ばされる。

“バカな……”

 ミューは自分の観測が間違っていたとは思えない。
 あの老いた身体に自分の攻撃を受けて、意識を失わないどころか、間違いなく死んでいるはずなのだ。
 そこまで傷つきながら、

“なぜ、立ち上がってくる!
 聖闘士でもないという君が!”

 ミューを真っ向から睨み付け、震える四肢を執念ともいえる小宇宙で奮い立たせる。

「倒れてなど……いられるか……。
 わしは、この痛みを……、こうして戦うことを……願い続けてきたのだ……。
 お前たち冥闘士と戦える日を、永い間、待っていたのだからな!!」

 執念と、さらには憧憬が込められたような形相で、ギガースは立ち上がった。

「この戦いで我が身が燃え尽きたとしても構いはせぬ……
 いや、むしろ本望というものよ!!」

 よろめきつつ、今にも床に倒れ伏しそうな体勢ながら、繰り出される拳はさらに速く、鋭く、熱くなっている。

“何が……いったい何が、この男を……動かしている……!”

 ミューはその拳をまだ凌いでいた。
 凌いではいたが、追いつめられているという恐怖が、なぜか、否定しがたいほどに沸き上がってきた。
 この進化する魔物、最後の冥闘士たる者が!

「先ほど老いぼれと言うてくれたな、冥闘士よ。
 わしにも若い頃はあった、全盛期はあったわ。
 だがその時代に、お前たちが来てくれなかったということよ!」
“戯れ言を!
 我ら冥闘士を243年間封印したのはアテナ自身ではないか。
 恨むのならばアテナを恨むのだな”

 フッと、それを聞いたギガースは、底無しの自嘲を込めた壮絶な笑みを見せた。

「……お恨みしたとも」

 ミューを追い込みかけていたギガースの目が、ふっと有らぬ方向を向いた。
 ミューには分からなかったが、その方向は、ギガースが見失うはずもない、アテナ神殿の方向だった。

「貴様に言われるまでもなく、お恨みしたとも。
 わしはな、地上の愛と正義のために戦いたかった。
 このギリシアに生まれ、聖闘士の伝説を幼少の頃より聞かされ続け、当然のように志願して聖域に入った。
 そして来るべき聖戦で戦うために、全身全霊を賭けて、聖闘士になろうとした。
 信じられるか?
 今貴様の目の前にいるこの老いぼれは、五十年近く前の聖域で、当代最強と謳われた男よ……!」
“なんだと!?”

 ミューの驚きは、ギガースの言葉を否定しきれていなかった。
 ゼスティルムよりもさらに高齢であるはずなのに、老いてなおこれほどの小宇宙を燃え上がらせるこの男の全盛期は、どれほどのものであったことか……。

「しかし、アテナの封印の効力は二百数十年。
 かつては二百年を待たなかったこともあるらしいが、今代は長かった。
 わしの戦えるときに、聖戦は起こらない。
 それが天命であり、白銀聖闘士を凌駕する小宇宙を持ちながら、わしには守護星座の加護がなかった。
 聖衣をアテナより授かることはなかった……。
 見かねたシオン様が、現存する全ての聖衣について、わしが纏えるか否か、調べ尽くして下さってもな!」
“それでアテナを恨んだということか!”

 話に夢中になったかと、ミューはすかさずシルキィ・スレードを放ったが、ギガースは的確にこれを焼き払った。
 話に夢中なのではなかった。
 戦いながら、戦うことを心底望んでいた五十年前を思い起こして、そのころの力を蘇らせようとしているのだった。

「そうよ。
 地上の愛と正義を守るために戦うことを願って、幾度も死線をさまよいながら、修練に修練を重ねて……
 それで得た力で戦うことも出来ないと、わしは宣告されたのだ!」

 ミューに叩きつけるかのように炎を繰り出し、その直後にギガースは、その手のひらを返して自分自身に向けた。

「……思えば、当然のことよ。
 地上の愛と正義が守られていることを喜ばねばならぬのに、お前たち冥闘士が早く蘇ってくれればなどと願うような男は、聖闘士にふさわしくなかったわ」

 あるいは自らを焼こうとでもするかのように、ギガースは広げた手のひらを自分の左頬に押し当てる。
 その上にあった目は、戦いの中で失ったのではなく、過酷極まる修行の最中に失ったのだ。
 その指の隙間から、今は無い瞳の代わりに収めた義眼で、蘇ってくれればと願い続けた相手を望む。

“そこまで願うのであれば、いっそ封印を解いてくれればよかったものを。
 君もオルフェと同じくらいには、ハーデス様に取り入ることが出来たであろうにな”
「……そうか。あやつめ、やはり行ったのか……」

 その声は責めているのではなく、同情する者のそれだった。
 なぜなら、

「そうしようと願い、ハインシュタイン城にまで忍び込んで、危うく思いとどまったことなら有るがな」

 手のひらを当てたギガースの頬が、微かに湯気……いや、煙を上げた。
 文字通り、我が身を焼きたいほどの悔恨が、そこにはあった。

「生きる目的を失いかけた私に、シオン様は後進の指導をするようにと積極的に勧めて下さった。
 あやつらは年幼くて覚えてなどおらなかったろうが、今代の黄金聖闘士のうち、半分はそもそもわしが見いだしたものよ……」
“なるほど、君の年を考えればそうなるか。
 そして、見いだした彼らに、君は追い抜かれたわけだ”
「そうとも……」

 聖闘士の最高峰、黄道に位置する十二宮の星座を冠することが出来、老いゆく自分をあっという間に追い抜いていった少年たちを思い出す。
 それは、喜ぶべきことであったはずだった。

「それで再び、魔が差したのであろうな。
 シオン様が亡くなり、サガが偽りの教皇となっていたことに気づいておりながら、聖域の権力を自分の力にすり替えて、満たせぬ心を埋めるために仕え続けた。
 要は、邪心で得た参謀長の座よ。
 ただただ、聖域の権威を高めることに邁進し、過酷を極めた修行で、何百という未来ある若者の命を絶ってきた……」

 あるいは、シオンの側近であった自分がサガに仕えたりしなければ、シャカやアイオリアあたりが早々に教皇の正体に気づいていたであろうとも思う。
 アイオリアといえば、アテナを救った男の弟でありながら、それにふさわしい処遇を何ら与えてやれなかった。

 そう、知っていたのだ。
 偽りの教皇となったサガが、アテナを殺そうとしたことも。
 アイオロスに救われたアテナが、日本に逃れたことも。

 それでもなおサガに仕え続けたのは、拭い切れぬアテナへの恨みがあったからに他ならない。
 守護星座と、聖衣と、戦う時を与えてくれなかったアテナへの。
 それでいてなお、日本へ逃れたことまで掴んでおきながら、見逃して、死んだものと思われるという報告を上げていたのは、こんな自分にも一片の良心が残されていたのだろうか。
 降臨してからただ一度だけ目にしたアテナの姿は、その恨みをぶつけるにはあまりにも、幼く、無垢だったのだ。

 それらの事実をひた隠しにして、聖域のナンバー2として、来るべき邪悪に備えるためと詭弁を繰り続けて、聖域の権力を高めようとした。

“そうか……。
 黄金聖闘士を揃えた、私たちの仇敵であり、そして、あのころのサガに仕えた、功労者でもあるわけか”
「言うてくれるわ。
 もっとも、所詮邪悪は滅びる定めであったことも、我が身を以て知ったがな」

 十三年後だ。
 銀河戦争などという、冗談にしか聞こえない企画の話が日本から飛び込んできたのは。
 慌ててアテネ市街まで出向いてテレビ映像を確認したら、その主催者がアテナその人であることは一目でわかった。
 なぜ、おとなしくしていてくれなかったのか。
 大人しくしていれば、殺さずに済んだのに。
 とにかく、本物であることは間違いないはずの黄金聖衣の形状が何故か違っていたことを利用して、あれは偽物であるから放っておけと指示しつつ、教皇にはアテナの存在が知られぬようにひた隠しにして、星矢たちの抹殺を優先させた。
 そこに、若き聖闘士たちへの嫉妬が無かったとは言いきれない。
 そして、そんな無様な裏切り者の謀略など、真のアテナに従う聖闘士に通じるわけがないのだと、思い知らされたのだ。

 もはや、らちが明かぬ。

 全てに決着を付けるべく、自ら日本へ赴き……アテナを殺そうとして、
 出来るわけがなかった。
 未だアテナであるとの覚醒には及んでいなかったが、それでも美しく気高く成長したアテナと、それに付き従う若き青銅聖闘士たちを前にして、
 自分が聖闘士になりたかったことと、自分がなりたかった聖闘士の姿とを、嫌と言うほどに見せつけられた。

 もうよい。
 自分が小細工を弄せずとも、アテナは死なぬ。
 真の聖闘士たちが、必ずやアテナを守り抜くだろう。
 そう、確信した。
 そして、その確信は間違っていなかった。
 おそらく史上類を見ない過酷な聖戦の続く、この時代にあって。

「結局、アテナに反逆し、教皇に反逆し、後は朽ちていくだけと、生まれ故郷で負け犬らしくしていたのだがな」

 あれほど、焦がれるほどに待ち続けた冥闘士復活の時に、生きて立ち合うことは出来たが、今さらどの面下げてアテナのために戦えようか。
 その無様さと悔しさを自分への罰として苛む材料にしかならなかった。

“フ……、ならばこんなところに出てこずに大人しくしていれば、もう何年か贖罪の時間を長らえたのではないか?”
「そのつもりだったとも。
 わしは罪人として死ぬつもりであったさ。
 しかし、必死になってシオン様の真似ごとをしようとする若造めが、小賢しくもわしを引っ張り出そうと骨を折ってくれおってな」

 星闘士などと、星座を争う敵を相手にして、星座無き自分に何ができるかと、何度も固辞したのだが。

「しまいには、このままくたばれば、教皇権限で逆賊の烙印を押してやるだの、何もせずに死にたいというのなら、後で自分が殺してやるだの、散々罵倒してくれたわ」

 昨日も遅くになって届けられた直筆の手紙の内容を思い出して、やや苦みのある笑みがこみ上げてくる。
 弟子の同僚の考えごとき、見抜けないギガースではない。
 無理矢理に挑発してでも、自分に汚名をそそぐ機会を持たせようとする必死さは、十二分に分かった。
 おそらく、彼自身が同じ思いに囚われていて、やりたくもないであろう教皇職をこなしているのだということも。
 根負けして、戦死するつもりで聖域に出向こうとしてみれば、いきなりそのアステリオンからテレパシーが届いたのだ。

 次の教皇を、なんとかして助けてほしい、と。

 彼とスパルタン……この男も戻ってきていることには驚かされた……による攻撃的テレポーテイションで、急ぎ十二宮にはせ参じることになり、そうして、宿願に出会えた。

「つくづく、感謝してもしきれぬよ。
 こうして、アテナが倒すべき真の邪悪と戦えるこの時を、……五十年待ち望んだ戦いを、人生の最期に得ることができた。
 ましてその戦いで、シオン様の孫弟子を……聖闘士の未来を、守ることが出来る。
 倒れてなどいられようか。
 わしがこの時代に生を受け、星座なくとも生きながらえてきたのは、まさにこの時のためなのだから!!」
“……よく、わかった。
 守護星座無き聖域参謀長ギガースよ、君にも、殺すべき価値を十二分に認めよう。
 やはり、今代の聖域を造り上げた者など、喩え逆賊になろうと、失脚しようと、見逃すわけにはいかない。
 面白い身の上話だったが、わざわざこの私を挑発したも同然だったな”
「なに、気にはせん。
 このわしを五十年も待たせてくれた貴様等に、恨み言の一つも言わねばと思っただけよ」

 その言葉は半分は真実だったが、理由はそれだけではない。
 長々と話をすることで、貴鬼が目覚めるのを待っていたのだ。
 ミューの前で手当は出来ないが、小宇宙が燃え尽きていない以上、時を置けば少しでもマシになると考えたのだ。
 しかし、どうやら思ったよりダメージが大きかったらしく、貴鬼はなお目覚めようとしない。
 ならば仕方がない。
 早急にミューを倒すことに切り替える。

“フ……つくづく恨みの多い男よな”
「その恨みを見くびるな。
 さあ、かつて聖域最強と謳われた炎を、とくと味わわせてやるぞ!」

 五十年前の思いを蘇らせることで、かつてどうやって小宇宙を燃やしていたか、どうやって炎を操っていたのか、ようやく、はっきりと思い出せてきた。
 あとは、この老体がどこまで保つかだ。
 その想いだけは隠しつつ、両腕を大きく開いて掲げ、前後左右縦横無尽に振り回すと共に、無数の火の玉を生み出した。
 形成された火の玉は、それ自体が生きているかのように、次々とミューに殺到する。

“なかなかやるが、ゼスティルムに比べればさしたる温度でも……”

 ない、と言いかけたミューだったが、妙だと気づいた。
 小宇宙により原子の動きを速めた灼気だけではない。
 何を燃料としているのかは分からないが、これらは実際に酸素を消費して燃えている炎だ。
 すなわち、

「フォーティア・ルフィフトゥラ!!」

 殺到する火の玉が一瞬にして集合して、巨大な竜巻を形成した。
 しかしそれはミューを狙っていない。
 正確に言えば、ミューは竜巻の目の中に入った。
 その中心では、一瞬にして酸素が尽きる。

“こういうことか……っ!!”
「さすがに、気づくのが早い……!」

 進化する魔物といえども、先ほど荒々しく息をしていたことをギガースは見逃していなかった。
 そうたやすく炎で仕留めることは出来ないと見て、一撃必殺を狙ったのだが、ミューの洞察力はさすがに侮れぬものだった。
 即座に炎の竜巻の吹き荒ぶ外縁に飛び込み、一息もせずに突っ切って、無酸素空間から脱出する。

「ならば直撃させてくれるわ!」
“みすみす食らうとでも思うのか!”

 脱出したそこへ狙い澄ました螺旋状の炎が三連発で襲いかかる。
 ミューは辛うじて上空へ短距離テレポーテイションしてそれをかわし、大口を開いてギガースに向けた。

“シルキィ・スプラッシュ!!”
「その技は既に見切ったわ!」

 ギガースは眼前に火柱を吹き上げさせ、シルキィ・スプラッシュの威力を四散させてしまった。
 今度はよろめきもしない。

“君ほどの聖闘士がいながら、神聖闘士たちが誰一人その技を受け継いでいないと言うのは不思議でならないな……”

 着地してからミューは、感嘆とも挑発ともつかぬ口調でつぶやいた。
 今代の聖闘士たちにおいては、水と氷の魔術師とまで言われた水瓶座のカミュとその弟子たちの凍気の技が代表的な闘技であり、その対極であるギガースの技を受け継いだ者は神聖闘士の中にはいない。

「弟子はおったさ。
 炎熱聖闘士にドクラテス、バベル……。
 その他にも何人も優秀な者がおったが……」

 聖闘士の正式な位を保たない者が聖域の参謀長など務めていることへの反感が、多少なりとも有ったともいえる。
 黄金聖闘士たちが育っていくにつれて、ギガースの指導を受けようとする者は少なくなっていった。
 天の皮肉であろうか、ギガースが直接の弟子とした中で、本物の聖衣と星座を授かったのは、バベル一人であった。

 しかし、ジャキのように眉をひそめたくなるような粗暴者ならばともかく、心技体ともに聖闘士にふさわしいはずの者が、あるいは自分よりもはるかに聖闘士にふさわしいと思えた水晶聖闘士クリスタルセイントのような者までが、守護星座を持たぬという、自分と同じ壁に直面して涙をのんでいく様を、座してみていることは出来なかった。
 その折、ギガースの手元には、かつてシオンがムウに聖衣の修復技術を教える際に造り上げた鎧の廃棄物があった。
 聖衣としての命のない廃棄物とはいえ、オリハルコンやガマニオンを使用したそれらは、雑兵が纏う皮製の鎧よりもはるかに強固だった。
 それを、聖衣の代わりとして、彼らに与えた。
 ギガースの私兵聖闘士であるとの批判を受けても、構わずやった。

 偽物であると分かっていてもなお、それを授かったときの彼らの顔が、自分と同じ慟哭からわずかでも救われたような、忘れがたい笑顔だったからだ。
 だがしかし、ギガースがそうして聖衣を授けた者は、一人残らず死んでしまった。
 唯一真の聖衣を授かったバベルすらも、ギガースの過去の罪に巻き込まれ、アテナに仕える聖闘士に倒された。

「……そうよ、全て、わしが死なせてしまったのだ……」

 ギガースがどん底からすくい上げた、秘蔵っ子ともいうべき炎熱聖闘士にしてもそうだ。
 アテナに危害を加えるという、最悪の罪を負わせて死なせてしまった。
 だがそれでも、ギガースは彼や水晶聖闘士を名前では呼ばない。
 私兵聖闘士と呼ばれた中でも、特に聖闘士へのあこがれが強かった二人は、自分の名を捨ててでも、自分が聖闘士であると常に主張し続ける道を選んだのだから。
 ドクラテスも、彼の後を追って聖闘士を目指した弟がいなければ、同じように名乗っていたことだろう。

「わしは……、あやつらを聖戦に連れて来ることができなかった。
 そのわしが戦えぬのは罰とも思っていたわ。
 だがアステリオンに言われて思い直した。
 せめてあやつらの分だけでも、生きているわしが戦わねばな!」
“弔い合戦など、この死界の蝶たるミューを相手に笑止な!”

 糸ではらちが明かないと、ミューは金縛りを仕掛けたが、吹き上がるギガースの小宇宙がサイコキネシスを振り切ってしまった。

「わしの最後の炎、易々と消せると思うな!」
“ならば望み通り、最期の炎としてやろう!”

 白羊宮外から、貴鬼が悪戯で作ったという岩石を呼び寄せて、ギガースに叩きつけようとする。
 その着弾の寸前で、ギガースの灼熱拳が一閃した。
 岩石が沸騰して蒸発し、舞い上がった後で空気に冷やされて凝固し、無数の砂粒になってしまった。

“…………フッ、まさに最期の炎というわけか……”

 想像を上回るギガースの小宇宙の高まりように、さしものミューも驚嘆せざるをえなかった。

“だが、今まで君が見せた技ではもはや私は倒せない。
 この外骨格はパピヨンの冥衣の変形でもあり、私の防御力は君とは比較にならない。
 私を倒したくば、あれ以上の最大奥義を使わねばならないぞ。
 ……あれば、の話だがな”
「その点は心配するな。
 だが、その言葉はそっくりそのまま貴様に返してやるぞ。
 いかに聖衣を纏っていないわしが相手でも、先に見せた技はもはや通じぬと思え」
“よかろう”

 ミューは全身の節を一度波打たせて、改めて口をギガースに向ける。
 人間だと指の関節を鳴らす行為に相当するのだろうか。
 対するギガースは、構えをとりつつ、微かに斜め後ろを振り返った。
 そこにはなお意識を取り戻さぬ貴鬼が倒れている。
 無理もない。
 おそらくはまだ十かそこらだ。
 星矢よりもよほど成長が早いといってもよい。
 アステリオンが次の教皇にと望むのも道理であるといえた。

「貴鬼よ、覚えておけ。
 聖闘士にとって、師の師は師も同然ぞ。
 おまえはムウだけではなく、シオン様の弟子でもあることを、ゆめゆめ忘れるな」

 師の師は師も同然。
 それはかつてギガースが、自分の弟子たちを鼓舞するために広めた言葉だった。
 ギガースに聖闘士の基本を教えたシオンの弟子であると思わせることで、星座無き聖闘士の弟子であることから救おうとしたのだ。
 そしてまた、その志を以て、聖闘士と聖域を一つのものにしようとしたのだ。
 最初は叫んでいる自ら詭弁だと思っていたが、神話の時代から今に至る聖闘士の系譜において、それは真実であろうと思うようになっていった。
 師の師。
 その師の師。
 聖闘士は皆、一つの同門であり、兄弟弟子のようなものだと思えば、団結力を高めることができる。
 そうやって幾多の技を伝え、磨き、戦い続けた系譜の中に、自分がいるのだと信じていた。
 信念そのものと言ってよい。
 たとえ貴鬼の意識が無くとも、必ずや彼の心に届くと信じて伝えた。

“遺言は、それで済んだか?”
「待たせたな」

 両足をやや斜めに構え、胸の前で両手を向かい合わせて、その間に小宇宙を集中させる。
 燃えさかる炎がその両手の間の一点に集中して、強く、明るく、眩しく、輝いていく。

“ほう……”
「貴様の外骨格がいかに頑強でも、それが冥衣というのならば、脱皮による回復の間もなく融かしきってくれようぞ」
“はたして、そううまく行くかな?”
「灰すら残さず……燃え尽きるがいい!!」

 光そのものを凝縮したようなまばゆい火炎球を、ギガースは投げつけるようにして繰り出した。
 一時外れるかと思えたそれは、ミューの直前で変化し、捉える。

“フッ……”

 火球が新星のごとく閃光をほとばしらせ、幾重にも炎の竜巻を繰り出し、舞い上がり、舞い戻り、その中心を幾重にも切り裂くようにして焼き尽くしていく。
 床だけではなく、周辺の柱を形作る大理石すら、溶岩と化し、直後に沸騰した。
 凍気の術も無しに、その中心で耐えられるはずがない……

“見事な花火だった”
「!!」

 ミューは、いつの間にかギガースの背後に回り込んでいた。
 技を繰り出した直後で、がら空きとなっていた後方から、グワリと大口を開けてギガースの右肩に噛みついた。

「ぐおおおおおおおっっっ!!」
“当たれば確かに、さしもの私も危なかっただろう。
 しかし、あれほどの技を正面から食らって凌ごうとするほど私はうぬぼれていない。
 やはり聖衣無き聖闘士よ。
 威力はあっても速さのない技など、まともに冥闘士に通じると思ったか”
「……そうするだろうと、思っていたとも」

 ギガースはミューを振り払おうともせずに、自分の肩に噛みついているミューの顔面を、空いている左手でがっしりと掴んだ。

“む……”
「捕まえたぞ。
 もとより、テレポーテイションを駆使する貴様を相手に、あんな技が当たるとは思っておらんわ」

 枯れ木のような手は、しかし、杭でも打ち込んだかのようにミューの外皮に食い込んだ。

「そして、貴様も遠距離からの撃ち合いでわしを倒せるとは思わなかったはずだ。
 ならば貴様はこうして接近戦を狙うしかない。
 まして魔物と自称するからには、わしを食らいにくると思うたわ。
 神話の魔物の常道よな……!」
“……!”

 危険を察し、肩をかみ砕いて逃れようとしたミューの複眼を睨め付けて、ギガースはニヤリと笑った。

“狙っていたというのか……。
 だが、既に奥義を使い、満身創痍の君にもはや何が出来る。
 死界の蝶の名に賭けて、君に死をくれてやろう……!”
「フフフ……ぬかったな、パピヨンのミュー。
 聖闘士になろうとしていたこのわしが、最大奥義に名の一つも付けんとでも思ったのか!」
“何!?”
「先ほどのはフォーティア・ルフィフトゥラの応用に過ぎん。
 並の相手ならあれで十分なところだが、バベルや炎熱聖闘士にさえ教えなんだ、わしの最大奥義……とくと味わうがいい!!」

 手で捕まれている顔が、全身に飛沫としてかかった返り血が、壮絶なまでの高熱を発していく……!

“は、はなせ……ギガースッ!!”
「バーニング・ブラッド!!!」

 先の閃光さえ遙かに凌駕する光の炎が炸裂した。
 小宇宙によって原子を止めるのが氷の闘技ならば、火の闘技は小宇宙によって原子を加速させるのが基本である。
 加速が限界を超えたとき、原子はその形を保っていられなくなる。
 そう、行き着いた火の闘技は、破壊の神髄となるのだ。
 その破壊の炎を、

“死なぬ……、
 私は……ハーデス様をお迎えするまでは……、断じて死ねぬのだ……!!”

 ミューは全身全霊を込めて小宇宙を高め、その小宇宙によって辛うじて自分の身体が崩壊することを食い止めた。
 灼熱にして破壊の吹き荒れるギガースの小宇宙が叩きつけられる中で対抗するその様は、星間ガスと宇宙線のただ中にあって自らを形作ろうとする星々のごとく……!

「く……これでも……まだ……っ!」
“いかに不完全変態といえど、冥界三巨頭に次ぐとまで言われたこの私が、聖衣のないハンデを抱えた聖闘士を相手に敗れるなど……冥闘士の誇りに賭けて、あってはならないのだ!!”
「そう言われればなおのこと……わしも負けるわけにはいかぬわ!!」

 ミューを焼き尽くそうとするギガースの小宇宙は、ミューの身体の半分を炙りつつも、それ以上は押し切れなかった。
 いや、次第にミューが押し返してきている。

“五十年前の君ならば、最終的進化を遂げた私とも互角に渡り合えたことだろう。
 心から、誉めてやろう……!”
「く……!!」

 元より現役から退いて随分になる。
 聖域から隠棲するようになって一年近く。
 その間、せめて修行しておればと悔やまれた。

 このままでは……負ける……!



 その二つの小宇宙の激突は、倒れている貴鬼にも恒星風のように届いていた。
 それに触発されたかのように、意識が戻ってくる。
 呼応するように、先ほど夢現のような状態でかけられた言葉が、貴鬼の中で渦巻いていた。
 師の師は師も同然と。
 あまりに大それて、普段は考えもしないが、自分は教皇シオンの直系の弟子なのだ。

「……我が師、シオン……」

 カミュを呼ぶ氷河の言い回しを真似してみる。
 それは、とてつもなく重い言葉だった。
 二代にわたる、この白羊宮の偉大な守護者たちの弟子が、こんな無様に倒れていて、いいはずがない……!

「我が師ムウ……、我が師シオン……!」

 ゼスティルムに言われたことを思い出し、ムウ様、と呼んでいたのも改めて、今一度声に出してみる。
 その言葉に奮い立ち、全身に小宇宙がみなぎってくるようだった。
 五感が薄れている代わりに、この場の小宇宙と自分の小宇宙に対する感覚は、今までにないほど研ぎ澄まされていく。
 貴鬼は半ば無意識に立ち上がり、激突を続けるミューとギガースに向き直った。

“何……!!”
「お……おお……」

 ギガースは片方しか残されていない目に涙がこみ上げてくるのを抑えられなかった。
 立ち上がった貴鬼を見守るように、あるいは、纏う資格があるかを見極めるかのように、貴鬼の背後に浮かんだものを目の当たりにしたからだ。
 それはかつて、ギガースのよく知る二人がその身に纏った、牡羊座の黄金聖衣。
 その前で、彼らの後継者である少年が、今、

「燃えろオイラの小宇宙よ……
 一瞬でもいいから、我が師たちの……、黄金聖闘士の位まで、今こそ高まれ……!」
「シオン様……!」

 高め行く小宇宙に、黄金の輝きを帯びさせて昇華させた。
 その光景は、ギガースにとって、まるでそこにシオンがいるかのように見えた。
 裏切ってしまった、ギガースにとっても師と呼べる偉大なる教皇が。

 ミューを倒しきれない今、その咎により誅殺されるならばよしとしようではないか。
 幸い、ミューの身体は逃げられぬようにがっしりと捕まえてきた。
 せめて、道連れには出来よう。

「打て、貴鬼」
“や……やめろ!貴……”

 貴鬼は躊躇わなかった。
 精一杯高く、天へ向けて差しのばされた右手を、黄金に輝く小宇宙と共に振り下ろす。

「スターダストレボリューション!!」

 高らかに叫んだその技は、三代に渡る奥義。
 天を舞い踊るかのように美しい数多の星くずの描く軌跡は、狙い違わず、ギガースを避けてミューにだけ突き刺さる。

「な……っ!!」
“バカ……なァッ!!?”

 直撃を受けたミューの小宇宙はもはやギガースの炎をも堪えきれなかった。
 なおも立て続けに、降るように突き刺さる星くずを避けようとしても、完全にギガースに捕まれていた。
 焼き尽くされるのが先か、大いなる星くずに捕らわれて絶命するのが先か。
 ミューは、どちらも選ばなかった。

“ハーデス軍百八の魔星を、みくびるなあっっっ!!!”
『!!!』

 ミューの絶叫とともに、どす黒い血しぶきが上がった。
 その血しぶきが上がったところから、ミューの身体が割れていく。
 再び脱皮して逃げることは不可能のはずだった。
 ギガースの左手は外皮を貫いて、ミューの肉体まで捕らえている。
 それでは、この亀裂は……
 そこでギガースは、その亀裂の入り方からミューの意図を察した。

「ミュー!貴様まさか……っ!」
“この場は私の敗北を認めよう。聖闘士の過去と未来よ!
 だが……だが約束しよう、この地妖星パピヨンのミューの名に賭けて……、
 必ずや、ハーデス様が再興される冥界において、君たち二人をコキュートスに叩き落とす!必ずだ!!”

 ミューは、ギガースの手と返り血に捕らわれている、顔の半分を含む全身の四分の一を、自らの念動力で切り落としてしまった。

「げえええええっっっ!!?」

 貴鬼は絶句して、危うくスターダストレボリューションを途切れさせるところをギリギリで踏みとどまった。
 あふれ出る体液をまき散らすその壮絶な姿はまさしく神話の魔物にふさわしい。
 ギガースに捕まった自らの身体の一部が燃え尽き、星くずが乱舞するただ中から、ミューはついに脱出してみせた。
 星くずたちに追い立てられながら、体液を多量に失いながら、白羊宮の入口まで退避し、十二宮外へのテレポーテイションで、姿を消した。

「逃がした……か……っ」

 手の中に残った外皮の灰を、無念をこめて握りつぶし、そこでギガースは力尽き倒れた。
 最期と覚悟した戦いで、宿敵を逃すとは、ある意味では自分の人生にふさわしいかもしれないと思う。
 だが、あまり心残りは無かった。
 遠からず、貴鬼が牡羊座の黄金聖衣を纏えるようになってくれることは、もはや疑いがない。

「じっちゃん!!」

 ギガースの目の前で奇跡にも等しい光景を見せてくれた少年は、小さな身体で跳ねるようにして駆けつけてきた。

「見事なスターダストレボリューションだったぞ……最期によいものを見せて貰った……」
「ちょ……ちょっと待ってくれよ、じっちゃん!
 何勝手なこと言ってんだよ!」

 貴鬼はギガースの過去を聞いていなかったこともあり、勝手にギガースが死のうとしていることに怒りさえ覚えていた。

「本来わしの役目など、とうの昔に終わっておるのだ……。
 だがそなたを助けることができて、わしが死なせてしまった者たちに、少しでも顔向け出来そうだ……」

 ギガースは己の身体が徐々に冷たくなっていくのを実感していた。
 老いた身体で五十年の時をさかのぼろうとした代償としては、高いとも思わない。

「冗談じゃねえよ!
 じっちゃんは、シオン様のことよく知ってんだろ!」

 緊張感が解けたのか、また前の通り敬称を付けて呼んでしまっていることに、貴鬼は自分で気づかなかった。
 しかしその叫びは、ギガースにとってやや不可解なものだった。

「知っておるよ……シオン様のことも、ムウが幼かったころのことも……よく知っておる……」

 それでも、その二人をも超えてくれるかもしれないという思いを込めてギガースは答えた。

「なら……、それなら、オイラはじっちゃんに教えてもらわないといけないんだ!
 オイラはシオン様……我が師シオンに会ったことすらないんだから……。
 じっちゃんが知っている我が師シオンと、我が師ムウのことを全部教えて貰うまで、勝手に死なれて……たまるかよっ!」
「アステリオンといい、そなたといい、若き聖闘士どもはまったく…………無茶を……言ってくれるわ」

 ギガースは、笑った。
 笑いながら、涙がこみ上げてきた。
 そんなことを言われては、せっかく死のうと思っていた罪人が、死ねなくなってしまうではないか。
 そして、人が泣いている間に、貴鬼はその小さな身体で、自分を担ぎあげてしまった。

「星矢たちが、十二宮の戦いが終わった後に担ぎ込まれたところが、まだ生きてるはずだから……。
 勝手に死ぬなよ、じっちゃん!」

 説明されなくてもギガースはよく知っている。
 傷ついた聖闘士を癒してくれるという、女神の泉。
 まさか、冥闘士と戦って傷つき、そこに運び込まれることが出来ようとは……。

「ギガースだ」
「へ?」
「さっきから聞いておれば、じっちゃんじっちゃんと。
 わしの名はギガースだ。
 まさか、教えを請うときまでじっちゃんと呼ぶつもりだったのではあるまいな。
 十数年前のムウと、同じことを言わせおって」

 それで貴鬼はようやく気づいた。
 さっきこの人に叱咤されたときに、まるでムウに諭されたような気になった理由が。
 師の師は師も同然。
 この人もまた、師の師だったのだ。

「ってことは……教えてくれるんだな!ギガースのじっちゃん!」
「……まったく……、先は、長そうだな……」

 ギガースは、心の中で炎熱聖闘士たちに詫びた。

 済まぬな……わし一人だけ、今しばらく、聖戦に参加するのを、許してくれ……。

 終わっていないという確信があった。
 ミューは、ハーデスが再興する、と言った。
 ハーデスがなお蘇るというのならば、それを阻むのが聖闘士の役目だ。
 それに参加し続けられることを、不謹慎とは思いつつも、ギガースは幸福の絶頂と確信した。



第二十二話へ続く


夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。