聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第十七話、星の子らの古里」




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 星の子学園とはよく言ったものだ。
 この名前をつけた者には、何らかの予感でもあったのだろうか。

 地図を片手に歩きながら、青輝星闘士シアンスタイン射手座サジタリアスのマリクは、その地図上に書かれた名前にある種の驚嘆を禁じえなかった。

 享年十三にして、この最終聖戦の時代の伝説となった神聖闘士ゴッドセイントペガサス星矢が幼少期を過ごした孤児院である。
 彼の他にも何人かの聖闘士セイントを輩出したここは、まさに星の子の名にふさわしいといえる。
 などということは、銀河戦争ギャラクシアンウォーズの折に公式に配布された選手略歴資料と照らしあわせばわかる。

 しかし、この情報はどうやって手に入れたのだろう。
 不和の女神エリスの肉体となった少女が、その星の子学園に住んでいるなどという話は。

 このことを調べたのは、青輝星闘士のナンバー1、アルゴ座のイルピトアだった。
 彼の行動には時折執念めいたものを感じることがある。
 エリスが以前復活したのは、神聖闘士たちが聖域に注目され始めたころだ。
 よほどよく調べていなければここまでの情報網を張り巡らせられないだろう。
 そこに何か、忠誠以外のものが垣間見えるような気がするのだ。

 ……以上の考察の半分は、マリクの養父ゼスティルムの受け売りだが。

 ともあれ、イルピトアの情報自体はそれなりに信用できる。
 この星の子学園にマリクを派遣したのも彼だった。
 黒い目に黒い髪の、東洋人然としたマリクの容貌は、日本に入り込むには確かに適している。
 空港からここまでの道中も、ほとんどの者が黒髪で、マリクは妙な安心感を覚えていた。

 白いワイシャツに茶色のズボンと、目立たないが整った服装は上品だが、逆に言えば、神話の闘士星闘士スタインの最上位に位置する青輝星闘士には到底見えそうにない。
 どこにでもいそうなローティーンからミドルティーンの少年の姿であった。
 イルピトアはそれも計算のうちだったらしく、
「こそこそせずに正面から客として行け」
 と、まことありがたいアドバイスを出かけ際にくれた。

 そんなわけで、地図を持っていない左手には差し入れのメロンが二箱。

 それらしい建物がようやく見えてきた。
 キリスト教系の孤児院らしい。
 そんなところで聖闘士が育ったというのはある意味で不条理かもしれない。
 ともあれ、聖闘士が近くにいるかもしれないので、小宇宙コスモは完全に抑えている。
 気配を殺すことに関して星闘士の中にマリク以上の者はいない。

 これで、不意をついて攻撃されることはないだろうと思っていたら、予想していなかったことが起きた。
 星の子学園の敷地内から模型飛行機が飛んできて、それを追いかけるようにして男の子が一人飛び出してきた。
 そこまではいいのだが、目の前はそれなりに通行量の多い道路だ。
 孤児院の立地としては正しくない気がする。
 今も長距離輸送のトラックが走ってきたところだ。
 急ブレーキをかけているが、あれでは間に合いそうにない。
 たかがトラック一台、止めるのは簡単だが、それでは自分は常人ではありませんと大声で叫ぶようなものだし、トラックを壊してしまっては運転手さんがかわいそうだ。
 以上のことをゼロコンマ数秒で判断した。

「危ない!!」

 と、叫んで、メロンの箱を一つトラックの前輪部分に向かって投げつける。
 ブレーキ効果ではなく、目撃者の目をそちらに向けるのが主な狙いだった。
 派手な音とともに箱が砕けて、哀れなメロンが砕け散る。
 その間に、常人ギリギリの百メートル九秒程度の速さで走って、男の子を抱きかかえ、道路の反対側へスライディングで駆け抜ける。
 ギリギリのところで計算しそこねてしまい、トラックに当たって傷つけてしまいそうになったそのとき、
 トラックがふわりと宙に浮いた。

「あれ?」

 二人の斜め上をトラックが浮いて通り過ぎる。
 マリクにとってもかなり非現実的な光景が目の前で展開された。
 何事かと思ったら、トラックの胴体に金属光沢のある紐のようなものが巻きついてトラックを持ち上げていた。

「……メロン、もったいなかったかも」

 食べ物を粗末にしてはいけない、というのが養父の教えであり、マリク自身の実体験からくる哲学でもある。
 トラックの底部につぶれたメロンの残骸がこびりついているのを下から見るという妙な体験をしつつ、トラックを見送った。
 ともあれ、気がつけば星の子学園と書かれた門までくぐって、なし崩しに敷地内に入ってしまっていた。
 おそるおそるといった表情で、園生の子供たちが集まってくる。

「ねえ、君、怪我はない?」

 マリクが助けた少年は七、八歳くらいだろうか。
 びっくりして目をぱちくりさせているが、怪我はなさそうだ。
 園内の生活水準はそれほど低くないことが、彼の少し太めの体格からわかる。
 グラード財団が援助しているのだろう。

 ついでに占い師の癖で、瞳と守護星を見る。
 強い星を持っていることが一目でうかがえた。
 やはり星の子学園とはかなり特殊な場所のように思う。

「アキラくん!大丈夫!?」

 声を聞いてそちらを向くと、金髪の、少なくとも東洋人ではなさそうな顔立ちの女性が息せき切って駆けてきた。
 年の頃はマリクより一つか二つ上といったところだろう。
 この人が絵梨衣かと思ったが、よく見るとその手には金属光沢のある鞭が握られていた。
 エリスの持っている武器は確か槍だとアーケインが言っていたから、別人だろう。
 女性の鞭を持つ手がピクリと震えた。
 黙っているのはよくなさそうだ。

「この子なら大丈夫みたいですよ。
 ほら、立てる?」

 アキラと呼ばれた少年は、こくりとうなづくと立ち上がった。

「はぁ……、まったく、マコトくんったら、何度言えばわかるのかしら……」

 何やら常習的めいたため息をほっとしたようについて、それからマリクに向かって頭を下げた。

「済みません、お礼も何も忘れていて。
 危ないところをありがとうございました。
 私はこの星の子学園で世話役をしているジュネと申します」
「いえ、僕のほうこそ、でしゃばった真似をして済みませんでした。
 僕はマリクといいます。
 元は孤児で、ここには慰安のつもりで来たんです。
 ……おみやげは、半分つぶれちゃいましたけどね」

 そう言って、走り出す前に置いてきた残りのメロンの箱を取りに行く。
 アキラ君の飛行機も近くに転がっていたのでこれも拾う。
 とりあえず、学園にはすんなりと入ることができたようだ。
 が、
 わいわいと子供たちが歓迎に集まってきた。
 どうやら英雄扱いになってしまったらしい。

 先に事情を話しに行ったジュネに連れられて、多分園長なのだろう、神父の格好をした年輩の男性と、線の細い金髪の女性が迎えに出てきてくれた。

「ようこそ、星の子学園へ。
 おもてなしらしいことは何も出来ませんが、歓迎いたします」
「アキラくんを助けて下さってありがとうございました。
 ひとまず中へ入って休んでください」

 一目でわかった。
 この女性が絵梨衣だ。
 見間違えようはずもない。
 他の人間とは抱いている星の強さが違いすぎる。
 彼女の守護星は、不和の女神エリスのそれなのだから。

「……私が、どうかしましたか?」

 絵梨衣は不思議そうに首をかしげた。
 圧倒されて、しばらくじっと見つめてしまっていたのだとようやく気づいた。
 言われてから肉体に目をやると、肌があまりに白く、どこかやつれたような印象を受けた。

「お体が悪いんですか?
 よろしければ、僕がお薬を作りましょうか」

 身柄を確保するより先に倒れられると困る、……と考えるより前に、義務感に駆られてそんなことを口にしていた。

「薬剤師さんなのですか?ありがとう。
 でも大丈夫。このところ変な夢を見るのでよく寝ていないだけですから。
 以前にもこんなことがあったの」

 気になる言葉だった。
 以前にも、というと、以前エリスに体を奪われたときのことだろうか。
 ……などとはさすがに聞けない。

「それならなおさらお役に立てるかもしれません。
 僕は薬剤師じゃなくて、占い師の見習いなんです」

 これは半分本当である。
 養父ゼスティルムは占星術師としてヨーロッパの裏社会に知られた存在であり、マリク自身も星闘士としての修行のほかに、そっちのほうも勉強していた。
 ただし、見習いレベルなどとうに通り越して、それだけで生計を立てられるくらいの実力はあったりするが。
 その副教養の中には薬学も含まれているのだった。
 占いのふりをして色々聞けないかと思っての提案だったのだが、しかし、この言葉は大失言だった。

「えー!占ってー!!」
「私も私もーっ!!」
「ちょ、ちょっと待って……みんな、一人一人、順番!
 並んで並んで!!」

 小さな女の子たちが熱狂的にせがんでしがみついてくると、あっという間にその熱が子供たち全体に伝播した。
 これではゆっくりと絵梨衣を診るどころではない。
 内心、正面から行けと言ったイルピトアを恨みつつ、それでも無視できずに一人一人まじめに占い始めた。

「今日中に終わるかなあ……」





「いい、マコトくん!!
 もう絶対こんなことしたら駄目だからね!!」
「ふんっ!!」

 ジュネは目を三角に吊り上げて、マコトを叱り付けていた。
 なお、さすがに鞭で叩いたりはしていない。
 要するに、アキラの模型飛行機を取り上げて外へ投げたのがこのマコトなのであった。
 神父さんの話では、以前にもこんなことがあったらしい。
 比較的年上のマコトは、悪戯をしなくなってきたと思われていたのだが、ここ最近逆戻りしている。
 最近、……すなわち、星矢が死んでからだ。

 元々この学園出身の星矢は、特に少年たちにとっては絶対的英雄といえる存在だった。
 銀河戦争においては星矢を一番に応援していたし、その後聖闘士たちの戦いが公にならなくなっても、この星の子学園の子供たちには、何らかの戦いを続けていることをほのめかしていた。
 傷ついてはここに戻り、また旅立っていく星矢。
 それが、当然のことだったのだ。
 いつまでもそれが続くと思っていたのだった。
 だが、その思いは最悪の形で裏切られた。

 死ぬのだ。
 彼でも。
 星矢でも。
 あの、絶対的英雄でも。

 死というものを初めて実感するのに、その対象はあまりにも偉大すぎたのだ。
 中でもマコトは、年上でませている分、最も星矢に近かったところがあるとジュネも聞かされていた。
 その彼が荒れているのは、無理からぬことかもしれない。

「まったく、美穂ちゃんに叱って貰おうかしら」

 この言葉は殺し文句だった。
 星矢の幼馴染で、マコトにとっては母や姉のような存在である美穂は、星矢とはまた違った意味での絶対的存在だった。
 まだここに来てからそれほどの時が経っているわけではないジュネが叱るより、美穂に告げ口するぞ、というほうが効くのである。
 だが、少年の反応はいつもと違っていた。

「来ないよ、絶対……」

 ポツリと、捨てられた子犬のような、という喩えがあまりにもしっくりくる目で、マコトはつぶやいた。

「美穂ねえちゃん、ずっと星矢にいちゃんのとこに行ったきりじゃんか」

 ジュネは反論に窮した。
 マコトの言うとおり、美穂は城戸邸に行ったまま、星矢の遺体のそばからほとんど動かなかった。
 時折、辰巳や鋼鉄聖闘士スチールセイントたちが心配して、帰って休んではと声をかけても、ひたすらに首を横に振り続けた。

 その気持ちが、ジュネにはわからないこともない。
 星矢を奪われたくないのだ。
 誰であろう、あの沙織お嬢様……アテナに。

 ジュネにもそれに似た思いがある。
 瞬はまだ生きていて、休日はよくこの星の子学園を訪れてくれるし、平日ジュネが働いているグラード財団の病院に来てくれることもある。
 しかし、十二宮の戦い、アスガルド、海界、そして、ハーデスに肉体をのっとられたという冥界での戦い。
 その全てに、ジュネは参加することが出来なかった。
 その度に、瞬に置いていかれたという思いがある。
 もちろん、瞬はアテナとともに戦っていたのであって、そこに恋愛感情が挟まった星矢と沙織の場合とは明らかに異なる。

 それでも、それでもだ。
 アテナに対して、二心が無いとは言い切れなかった。
 何より、女聖闘士としては破戒だが、ジュネはもう仮面をつけていない。
 この星の子学園を家として、グラード財団病院での看護士としての労働で、つつましく生きていこうかと思うようになってきている。
 心を決めかねているのは、聖闘士の宿敵とも言うべき相手が動いていることを、瞬に聞かされていたからだった。
 師に習った聖闘士としての心はなおジュネの中にある。
 聖闘士としてではなく、一人の少女として沙織に歯向かうことの出来る美穂が、いっそ羨ましかった。

 もっとも、マコトが落ち込んでいるのは、哀しくもどこか微笑ましかった。
 マコトはマコトで、星矢にお姉ちゃんを取られたという思いがあるのだろう。
 自分と似た思いをした者が傍にいてくれることに、ジュネは少し安堵していた。

「そうね、美穂ちゃんも今日くらいに帰ってきて、マリクくんに相談でもすれば少しは落ち着くかもしれないわね」

 一応聖闘士であるジュネには、大概の占いは信仰対象ではない。
 黄金聖闘士ゴールドセイント級の者が星を見て占うのは真実味があると知っている分、凡百の占い師の占いなどハッタリだと思ってしまうのだ。
 要は人生相談の相手だろうと思う。
 それで相談した人の気が晴れるのならそれでいいのだろう。
 美穂が、と言いつつ、ジュネはその独り言めいた言葉が自分に向けたものであることを否定できなかった。

 しかし、その独り言を聞きとめた少年の答えはまたもジュネの予想と違っていた。
 マコトは顎に手を当てて、少しでも大人に見えるよう精一杯の努力をしながら少し考えた後に、

「美穂ねえちゃん、マリクにいちゃんに会わない方がいいよ、きっと……」

 と、言った。

「どうして?」
「似てるんだ……」

 わいわいと周囲をにぎやかに取り囲まれているマリクを、窓越しの外に見ながら、

「信じられねえよ」

 と、口の中で付け加える。

「似ている……誰に?」

 ジュネはピンと来なかった。
 マリクは元孤児と言っていたが、育て親の躾がいいのか生まれ持ったものか、上品な印象を受ける。
 貴公子然とした雰囲気は瞬に似ているかもしれない。
 しかし顔で似ている人間には思い至らなかった。

「……星矢にいちゃんに」

 マコトの返答は、いままでで一番不可解なものだった。
 ジュネは一応星矢との面識がある。
 アスガルドでの戦いが始まる直前と、ハーデスらが復活する前に星矢が日本に来ていたとき、瞬と一緒に顔を合わせた程度ではあるが、しかし、どこがどうというわけではないのに、一度見たら忘れられない顔だった。
 燃え盛る火の玉……という表現は、太陽神をも倒した男には不足な言い方かもしれない。
 荒々しいが、ひたすらにまっすぐな瞳が燃えるような男だった。

 その彼の記憶と比べて、背格好はほぼ同じくらいだろうか。
 マリクの身体はかなり鍛えられているようだ。
 しかし、顔はあまり似ているとは思えなかった。
 むしろ、顔から受ける雰囲気はマリクと星矢は正反対だと言っていいだろう。

「似ている、かしら?」

 一笑に付してしまいたいところだったが、ジュネよりも長く星矢に接していたマコトの顔は、冗談を言ってるものではなかった。

「うん……似てるよ、びびるくらい」

 少年はもう一度、大真面目に答えた。
 そう言われてはやはり気になる。
 ジュネは建物を出て、ブランコの上に座って子供たちを占っているマリクの近くまで歩いて行った。

「あー、ジュネさんも占ってもらうのー?」
「マリクおにいちゃん、すごいんだよー」

 すでに大人気になっている。
 近くで改めて見てみたが、どこが星矢に似ているのか、やはりジュネにはわからなかった。
 だが、こんなにもあっさりと子供たちがなついているのは、マコトと同じように何か感じ取っているのかもしれない。

「そうね、私も占ってもらおうかしら」

 子供たちが面白がって順番を空けてくれた。
 ジュネは自分が聖闘士であることを子供たちには話していない。
 瞬の知り合いの、やさしいけど謎めいたお姉さんがどんな占い結果となるか、子供たちは子供たちで興味があるのだった。

「わかりました。じゃあそこに座ってください」

 ブランコに近づき過ぎないようにするために最近造った小さな鉄の柵に腰掛けさせられたので、ジュネは意外に思った。
 占いというのはもっと顔を間近に近づけてやるものだと、少女雑誌……も読んでいる、これでも十五歳の乙女だ……には書いてあったのに。

 マリクはマリクで、ジュネの正体が気になっていたため、この申し出は有難かった。
 ただ、あまり近づきすぎると、ほぼ完全に抑えている小宇宙でも気づかれてしまう可能性があったし、そもそも守護星と合わせて見ようとすると、あまり近づきすぎているのは不便なのだった。

「ジュネさんの守護星は……南ですね。ここからじゃ直接は見えない」
「あら、残念ね。それじゃあ占えないのかしら?」

 そう言いつつも、ジュネはマリクがでまかせを言っているとは決め付けられなかった。
 なぜなら、ジュネの守護星座カメレオン座は南天の星座なのだ。

「いえ、僕たちは目だけで星を見ているわけじゃありません。
 もっと別の……なんて言ったらいいのかな、第七感ともいうべき感覚で星や命の発している気配とか、流れを読んで、見ているんです。
 だから昼間でも占えるんです」
「第七感?」

 どこかで聞いたような言葉だ、と思ったジュネはそこで少し首をかしげた。
 マリクは顔に表情を出さないように気をつけつつ、強烈な探りの一矢を放つことにした。

「セブンセンシズとも言います。
 人が一人一人持っている星の力、小宇宙っていうのを感じ取るんです。
 ジュネさん、ご存知なんですか?」
「俺知ってるー!」
「私もー!」

 またしても横から邪魔が入ってマリクはがっくりとなった。

「何で君たち知ってるの?
 普通は占星術師として修行してないと知らないよ?」
「だって星矢にいちゃんや氷河さんが教えてくれたもーん」
「ばか、星矢にいちゃんのことは……」

 自慢げに語る女の子を、横にいた男の子がこづいた。
 つまりはそういうことらしい。

 こんな子たちに星矢の死を伝える神聖闘士たちの良識を疑わないでもない。
 もっとも、先ほどからの子供たちの話を総合すると、どうやら星矢が死んだことを隠し切れなかったようだ。
 ここで世話役をやっていた星矢の幼馴染の女の子が、ずっと星矢の遺体の元に付き添ったままだということを、マリクは大体察していた。
 さすがにここまではイルピトアの情報には無かったことだ。
 まあ、無関係だと思ったから言わなかっただけかもしれないが。

 さすがにさらに重ねて聞くと怪しまれそうなので、まじめに占いはじめることにした。
 絵梨衣ほどではないが、やはり星が常人よりはるかに強い。
 やはり、聖闘士なのだろうか。
 天空の星々の小宇宙をたどり、地平線の彼方にあるジュネの守護星……いや、これは守護星座だ……の周囲を取り巻く小宇宙の流れを読む。

「ジュネさんは……失礼ながら、長いこと放って置かれてたんですね」
「!!」
「えー、めずらしく外れだよマリクおにいちゃん」
「そうだよ、ジュネさんいつも一緒だよ」

 子供たちが何も知らずにフォローを入れるが、ジュネは冷や汗を隠すのが大変だった。
 まさに、マリクの言うとおりではないか。
 何とか平静を装って尋ね返す。

「あら、長いことって、どれくらい?」
「えっと、一年にも満たないです……でも、完全に周りの星々から置いていかれていたんじゃないでしょうか」
「……」

 今度はジュネには切り返しようが無かった。
 あてずっぽうにしてはあまりにも適切すぎる。
 しかも、マリクは質問一つしていないではないか。

 ジュネの悩みにはあまり気づかずにマリクは星をたどる。
 小宇宙の流れが複雑だったのだ。
 大まかに計算してみると、あまり歓迎できない推測が導き出されてきた。

「この後ジュネさんは……、遠ざかっていた星々ともう一度重なるときが来ると思います。
 でもそのときどうするかは、ジュネさん次第です」
「……それは、予言かしら?」

 唾を飲み込んで喉を湿らせてから、ジュネはなんとか虚勢を張りつつたずねた。

「予言じゃありません。予測です」
「どういうこと?」
「えっと、たとえばですね……」

 足元に転がっていた小さな石を拾い上げて、建物に向かって投げる真似をしてみる。
 園内は子供たちが怪我しないように配慮が行き届いているのか、特に大きなものではない。

「僕がこうやって建物に向かって思いっきり石を投げたらどうなると思います?」
「そうね、窓に当たるかもしれないけど、そんなに小さかったらガラスは割れないと思うわ」
「それは予言じゃないですよね」
「……?ええ」
「それと同じです。ジュネさんの星と関わりのある小宇宙の流れが、ジュネさんに近づいてます。
 その軌道を計算したら、多分ジュネさんにつながると思いました。
 だからきっと、何かが起こると思います。
 でも、それで何が起こるかまではわかりません」

 そこまで言って、マリクはほぼ確信を得ていた。
 ジュネは聖闘士だ。
 守護星座はカメレオン座。
 小宇宙は赤輝星闘士クリムゾンスタイン級。
 そもそもマリクとこうして話している時点で、戦いが間近に迫ってきていると言える。

 だが、これ以上突っ込むとやぶへびになって自分の事を悟られるかもしれないと思った。
 出来れば戦いたくはない。
 こんな、さびしそうな小宇宙をした女性とは。

「僕が予測できるのはそこまでです。
 もう一度言います。
 これからのジュネさんを決めるのは、ジュネさんご自身だと思います」

 あえて三流占い師のように月並みな台詞を選んで言った。
 ジュネはその言葉に、どこか安堵したような、どこかすがるような、なんともいえない目をした。
 それでも、少しは立ち直ってくれたらしい。

「ジュネさん、よろしかったら絵梨衣さんにも声を掛けてきて下さいませんか。
 夢がどうとかおっしゃっていたのがわかるかもしれません」
「あ、絵梨衣おねえちゃんは気分がよくないからって、もう寝ちゃったよ」
「あ、そう……」

 なんだか何もかもがうまくいかない。
 どうやらとりあえず任務のことは棚上げにして、子供たちを占うしかなさそうだ。




 気がつけば、夕食をはさんで夜になっていた。
 どうやら思いっきり子供たちに気に入られてしまったらしい。
 初対面の自分をどうしてここまで受け入れてくれるのか、子供たちの無防備ぶりが不思議ですらあった。

 それに、マリクは子供たちを一通り全員占ってみて、色々と驚かされた。
 強い星を持った子が意外なほど多い。
 聖闘士たちと接している経験が影響しているのだろう。
 小宇宙は他人に触発されて強くなることがある。
 敵であっても味方であっても。

 今から鍛えれば聖闘士や星闘士になれるかもしれないと思うほどの子も数人いた。
 だがマリクはそこまで考えたところで思い直す。
 この最終聖戦の時代が、そこまで続くのだろうか、と。

 そのころには、全ての決着がついている気がする。
 ……いや、ついていないといけないのだ。
 そのためには……

 ここに来た理由が慈善事業で無いことを無理やりに思い出した。
 目標である絵梨衣は、どうやら本当に体調が悪いらしく、早々に眠ってしまっている。
 こっそり呼び出すという手は使えない。
 やや強行手段になりそうだった。

 はしゃぎすぎた子供たちがあらかた寝てしまったところで、さらに、アーケインからもらってきた眠り薬を詰めた瓶の蓋を開け、中の薬草にこっそりと火をつける。
 さらに大気を少し暖めて、小瓶から漂う香気を建物全体に充満させる。
 マリク自身は耐性が出来ているため少々眠気を覚える程度の効果しかない。
 だが、そうでなければ完全に眠りに落ちるまでわずか数分といったところなのだそうだ。
 というわけで、数分待つ。
 外に漏れて交通事故を起こさないかが心配だったが、さすがにそこまで拡散すれば問題ないだろうと思った。

 時計の針が三分回ったところで、絵梨衣の寝ている部屋へと向かう。
 途中で神父さんが廊下につっぷして眠りこけていた。
 申し訳ない気持ちになってしまい、抱きかかえて子供たちが寝ている部屋まで連れて行き、押入から毛布を取り出して掛ける。
 寝息は穏やかだが、それでも目を覚ます気配は無い。

「ごめんなさい」

 と謝りつつも一安心し、絵梨衣のところへ向かおうとして、部屋からグラウンドに向けて開けている廊下に出たそのとき、

「!!」

 背後から鋭く大気を引き裂く音がして、何かが飛んできた。
 とっさに顔をかばったマリクの左手に、何かがぐるぐると絡みついた。
 焼け付くような痛みに少し顔をしかめながら、絡みついたものを確認する。
 先刻見たばかりの、鞭だった。

「……やっぱり」

 確信を得ていたとはいえ、当たってほしくは無かった推測が的中したことを確認して、マリクはため息をついた。

「こんな孤児院に何を取りに来たのか知らないけど、そう簡単にはいかないよ」

 威嚇するように低くし、さらにどこかくぐもった声ではあったが、遠くから掛けられたその声はジュネのものだった。
 よく見ればこの鞭は空間を飛び越えてマリクを捉えていた。
 何も無い中空から伸びている鞭の、空間を裂いて出現しているところをさらに広げつつ姿を現したのは、仮面をつけてはいるものの、間違いなくジュネだった。

「……マリクくん?」

 仮面の下の見えない驚きを何より雄弁にその声が物語っていた。

「あなた……星闘士ね」

 尋ねているというよりは、その声で自分を納得させようとしている声だった。

「いつから気づいていたんです?」

 マリクは頷くまでも無いと思い、間接的にその問いを肯定した。
 ジュネは仮面をつけてはいるものの、鞭以外の聖衣クロスは身に纏っていない。
 しかし、自分にほとんど気づかせずに鞭で捉えるというのは大したものだった。

「気づいたのは今さっきよ。
 もう少しで眠ってしまうところだったけど、このマスクには防毒の効果もあるの」

 捨てるに捨てられなかったマスクは、子供たちにはわからないところに、しかし手放せずに置いていたのだ。
 結局このマスクに助けられたというのはあまり嬉しく無い事実である。。
 本来、女であることを捨て去るためのものなのだから。
 それを聖闘士に課した本人であろう女神自身が、今、誰よりも女であるというのに。

「ただ、あなたとはわからなかったけど警戒はしていたのよ。
 この鞭が何かしらの危険を察知していたから」

 マリクに会ったときに鞭が微かに震えたが、すぐに何かの間違いで別の気配を察したのだと思ってしまったのだ。
 マリクからは何の小宇宙も感じられなかったから。

「参ったな……そう悟られないために僕が派遣されてきたのに」
「動かないで!」

 マリクが動こうとする気配を鞭越しに感じて、ジュネは鋭く声を上げた。
 幸か不幸か、それでも子供たちが起きる気配は無い。
 この孤児院にあっても、何の不幸も感じさせない寝顔でおとなしく眠っていた。

「マリクくん、何をしに来たのかは知らないけど、あなたは悪い子じゃないわ。
 マコトくんたちもあなたを気にしているみたいだし、このまま帰るって約束してくれるのなら、あなたを見逃してあげる」

 その提案は、マリクにとって意外だった。

「ジュネさん、僕は聖闘士の宿敵である星闘士なんですよ。
 その僕を見逃すっていうんですか」
「……私は……」

 ジュネはしばらく逡巡したが、やがて、押さえ込んでいたものを吐き出すように、語り始めた。

「私はね……、今の私にはね……
 今のこの生活が一番大切なのよ。
 それさえ守られれば、聖闘士と星闘士がどうなっても、アテナがどうなっても構わないわ。
 むしろ、神々にはここに干渉しないで欲しいの。
 ……瞬は、瞬だけはそっとしておいて欲しいけど、でも瞬は強いから、神が相手でもない限り負けることは無いでしょう……
 多分、私が心配するだけ仕方が無いことなのよ。
 私はここで、瞬が来てくれるのを待っていられれば、それでいい……。
 でも、でもね……、だからこそここで戦いたくはないの。
 ここは私がようやく手に入れた家なんだから……」

 神々さえも聞きつけないだろうひそやかな声での決意が、その場を静寂で満たした。

 ややあって。

「僕、わかる気がします」

 マリクがぽつりと言った。

「僕が孤児だったというのは本当です。
 このマリクという名前以外、小さいころの記憶がありません。
 そんな僕を拾って育ててくれたのが、青輝星闘士、獅子座のゼスティルム……僕の養父です。
 僕にとって星闘士とは、組織や集団の名前じゃなくって、帰るべき家の名前なんです。
 僕はどうしても、役目を果たしてきちんと家に帰りたい」
「……利用、されているだけじゃないの?」

 自分にこの言葉を言う資格があるのかと、ジュネは言葉に出してから気づいた。
 酷な質問だったことは、マリクの表情が物語っている。

「……そうかも、しれません。
 でも、星闘士にならなければ僕には存在意義というものが無かったんです。
 僕は、生きている。
 僕はみんなの役にたって、みんなに、ゼスティルムに褒めてもらいたいんです。
 それが利用されているんだとしても、利用してもらえるのなら、僕には生きている意味がある。
 役に立ちたくって、僕はがんばって、強くなりました」

 マリクの周囲の大気が一瞬ざわめき、小宇宙が揺らめき始める。

「引いてください、ジュネさん。
 僕が言いつけられたのは、絵梨衣さんを連れて帰ってくること。
 聖闘士と戦えとは言われていません。
 僕は、出来れば女の人と戦いたくない……」
「!!」

 マリクから立ち上る小宇宙を見て、ジュネは絶句した。
 確か瞬が教えてくれた……星闘士の格はその小宇宙の色で星のように判別できると。
 この色は!!

「ご存知でしょうか。
 僕は、青輝星闘士の一人です」

 いや、おそらく、瞬から聞いていなくてもその意味はおのずと解っただろう。
 青白く燃え上がるその小宇宙は、ジュネがアンドロメダ島で一度だけ見た、黄金聖闘士のそれに匹敵する!

 鞭を握る手のひらに、いや、気がつけば全身に冷たい汗をかいていた。

「……ジュネさん、お願いです」

 マリクは威圧するように半歩だけ踏み込んだ。
 顔は真面目にジュネを睨みつけているが、実はこれでもジュネと同じくらい悩んでいた。
 仮面をつけているから少しはマシだとはいえ、女の人の顔に傷をつけるわけにはいかないし、
 女の人の胸に触るわけにはいかないし、
 女の人のお腹を殴るわけにもいかない。
 養父ゼスティルムに叩き込まれた紳士道の基本である。
 戦いたくないというのは本音だった。
 しかし、あくまでジュネが邪魔をするというのならば、なんとかして戦うしかない。
 だが、なんとかしてといっても、どう戦えばいいのだ。

 しばし、子供たちが寝ている部屋の壁に掛けられた大きな時計が、時を刻む音だけが繰り返される。
 そこに時折、園の外にある道路を何台かの車が通り過ぎる音がした。
 あらゆる音が遠く遠く感じられ、

「……だめ……」

 声とため息との中間よりも、ずっとため息に近い、そんな音だった。

「もう私は、近くにいる人を見捨てることはできないわ」

 マリクに答えるというよりも、それは、自分の心を確かめていたのかもしれない。
 師が倒されたとき、ジュネは黄金聖闘士を相手に戦うことすら出来なかった。
 そのときは、そのことを瞬に伝えなければと思っていた。
 だが、それが言い訳でなかったと言える自信は無い。
 そのことを、あとでどれほど後悔したことだろう。
 もう、あんな後悔はしたくない。

「これからの私を決めるには、私自身……
 君が言ってくれたことね」

 うつむいていた顔をあげる。
 外の街路からかすかに光がさして、そのマスクを泣かせたように、マリクには見えた。

「私は、君と戦います」

 決意を込めて、マリクの左手首を捉えている鞭を強く引いた。

「……わかりました」

 マリクは、深く、深く、ため息をついた。
 しかし、その言葉に揺らぎはしないとでも言うかのように、ジュネが引いている鞭には一歩たりとも引き寄せられてはいない。
 さらに、

「……サジタリアス……」

 静かな、つぶやくような、ささやくような声で天空に向かって呼びかけた。
 それに応えるように、マリクの頭上に姿を現したものがある。

「それは……っ!」

 夜空に星々を映し込んだように黒く輝くそれは、話に聞いていた星闘士の鎧、星衣クエーサーに違いないとジュネは直感した。
 その姿は、射手座、サジタリアス。
 ジュネが星衣に見入ったほんのわずかな一瞬をついてマリクは左手首を鞭から抜け出させ、その直後には星衣を装着し終えていた。

「なっっっ!?」

 ジュネに目で追う暇さえ与えない。
 聖衣にしても星衣にしても、装着に時間をかけた方が、一つ一つ纏っていくのに応じて自らの精神を高揚させるとともに小宇宙を高めることができる。
 白輝星闘士スノースタイン狼星座ルーパスのテリオスなどは、それによって青輝星闘士に近いところまで小宇宙を跳ね上げるくらいだ。
 しかし、ジュネの手には鞭があるため、今ここで手間取るのは危険だと判断したのだ。

 そもそもいきなり星衣を纏っただけであっても、青輝星闘士であるマリクの小宇宙は元から強烈だ。
 相対するジュネにとってはそれでも十分過ぎるほどに強大に感じられる。
 優雅さと力強さを兼ね備えた射手座の聖衣とほぼ同じ形状の星衣は、ジュネより年下のはずの少年を、正真正銘の青輝星闘士に見せていた。

「……行きます」

 ジュネは全身が総毛だった。
 黄金聖闘士に匹敵する……それすなわち、光速。
 聖衣を纏っている暇は無い。
 最初の一撃を何とかしてしのがなければ、それで勝敗は決する。
 それに、おそらく視覚で追っても追いつけるものではない。
 唯一手にしている聖衣の一部……鞭に全小宇宙を注ぎ込む。
 鞭が小宇宙に応えて微かに震えた。
 それとほぼ同時だろうか、マリクの姿がジュネの視界から消滅した。

「!!」
「!!!」

 一瞬の百分の一にも満たないわずかの後、マリクはジュネの背後数メートルのところに姿を現していた。
 ただし、ジュネの鞭に腕と胴を絡め取られた姿で。

「ハァ……」

 この交錯に全身全霊を集中させていたジュネは、自分の背後に向かって伸びる鞭の先にマリクの姿を確認すると、片膝をつき、荒く肩で息をついた。
 マリクはひとまず驚きつつ、自分の身体を捉えた鞭の存在を確かめるように二三度身じろぎしてからジュネに尋ねた。

「ジュネさん、光速を見切ったんですか?」
「残念だけど、違うわ。
 このカメレオンの鞭はね、上下前後左右全方向に、何かを捕らえることに関しては瞬のアンドロメダチェーンをも凌ぐ力を持っているの。
 どこに隠れても、どれほどの速さで動いていても、ね」
「さっき僕と確認しないでも捕まえられたのはそのためだったんですね」
「ええ、壁ごしであろうとも、何百キロ離れていようとね。
 もっとも、今のきみを完全に捕らえられるほどの小宇宙を燃やせるかは賭けだったけど」

 いかに聖衣が力を持っていても、聖衣はそれだけでは動かない。
 特に、実戦はおろか修行からも離れて久しい今の自分がマリクを捕らえられたというのは、奇跡に近いことのように思われた。
 瞬は、こんなことを幾度も繰り返してきたのだろうかと、ふと思った。
 だが、気を抜いている場合ではなかった。

「……僕は聖衣というものを侮っていたみたいですね。
 でも、これで僕を完全に負かしたなどと思わないでください!」

 律儀にもそう言ってから、マリクは鞭を破りにかかった。

「く……!!」

 まずい、やはり格が違いすぎる……!
 鞭を握る手に、青輝星闘士の小宇宙が突き刺さるように感じられる。

 だが、今ならおそらく間に合う。
 マリクのように瞬時に呼び出せるわけではないが、幸い、聖衣を保管していたのはこの学園の倉庫だ。
 鞭を引きちぎられる前になんとか呼び寄せることができた。
 到着した聖衣はジュネの切羽詰った意思に従い、瞬時に分解して装着されていく。

 纏いきるのが先か、
 呪縛を破るのが先か、
 やはりマリクの方が早い……!

「ハアッ……!」

 それでもマリクは破ったときの余波が学園の建物を壊さないように注意していた。
 吹き飛ばされた鞭が窓ガラスを破らなかったことを確認して、装着しきる寸前のジュネに向かって……
 そこで、どちらも予想してなかったことが起きた。

「う……わああああぁっ!!」

 駆け出そうとしたところで、マリクは顔を思いっきり横にそむけた。
 そんな無理な体勢をとったら、いくら青輝星闘士でもすっ転ぶ。
 廊下の床のコンクリートが、星衣に削られて妙な形に傷ついた。
 子供たちが遊びまわっているので元々傷が入っていたとはいえ、マリクにとってこの建物に傷をつけたのはかなり不本意だった。

「ちょ、ちょっと……大丈夫?」

 ジュネはそんな言葉を思わず口に出してから、妙な台詞だと自分で思った。
 この隙になんとか聖衣を装着し終えたはいいが、思い切り床にすっ転んで倒れたマリクに鞭を振るうのはさすがにためらわれた。

「ひどいや、ジュネさん!反則ですよ!」
「ええ?」

 何とか起き上がろうとしつつも、顔をあさっての方向に向けたまま、マリクは思い切り怒鳴った。
 ジュネには何がなにやらわからない。
 もしや瞬が来て鎖を使ったのかと思ったが、マリクの身体には何も絡み付いていない。
 今、一体何が起こったのか、ジュネにはさっぱり見当がつかなかった。
 だがその疑問はマリクの口から出た言葉により、一発で氷解した。

「それ本当に聖衣なんですか!?
 水着みたいじゃないですか!!」
「あ…………………………」

 青輝星闘士ではなく、年下の少年が何に驚いて何に憤っているのか、ようやく合点がいったジュネは、仮面の中で赤面することになった。
 カメレオン座の聖衣は確かに異様な造りをしている。

 聖衣は本来薄手の下衣を着た上に纏うのが一般的だが、やろうと思えば大体の聖衣は夏服程度の上からでも問題なく纏うことができる。
 射手座の聖衣とよく似たマリクの星衣も、やや厚手だと思われるマリクの私服の上からしっかりと装着されていた。
 しかし、女性聖闘士の聖衣は総じて肌に密着し、これでもかと言わんばかりに身体の線を強調するものがいくつもある。
 そして、カメレオン座は、その最たるものだった。
 ストッキング程度ならばどうにかなるが、先ほどまで身に着けていたエプロンやら何やらは、聖衣装着を急いだために、その衝撃で吹き飛んでしまっている。
 ほとんど素肌に聖衣を纏っているだけのこの格好は、根は純真らしい少年には目の毒極まるものに違いない。

「は……反則も何も、私がデザインしたんじゃないわよ……!」

 今まではそこまで意識しなかったが、目の前でそんな態度をとられては相対するジュネもかえって気恥ずかしくなってしまう。
 しかし、確かに反則かもしれない。
 この姿を考えた聖衣の製作者は何を思ってこんなデザインを採用したのだろうか。
 少なくとも、女神を守る少年たち、という定義からはありとあらゆる意味で対極に位置するように思う。
 むしろ、女神に対して張り合えとでもいわんばかりだ。
 清楚で可憐な風情のある乙女座の黄金聖衣ゴールドクロスとは、作った人間も時代も違うのではないだろうか。

 考えてみれば、マリクの言うことはそう間違いではない。

「マリクくん、これじゃあ私と戦えない?」
「う……」

 少年はうめき声で返答した。
 この弱点を突けば、いかにマリクが青輝星闘士でも倒せるように思う。
 しかし、それはあまりにも、あまりにも不本意な戦い方だった。

「じゃあ……わかったわ、マリクくん。
 これなら、どうかしら」

 その言葉に、おそるおそる顔を向けたマリクの瞳が驚愕に見開かれた。
 比喩ではなく、目の前にいるはずのジュネの姿が消えていた。
 小宇宙は目の前から感じられるというのに。

「瞬の同門、このカメレオン座のジュネを舐めないでね!」

 声とともに風が動いたのを感じて、マリクはとっさに急所となる顔面と首筋をガードした。
 直後に、首筋をガードした左腕に衝撃が加わる。
 一撃で気絶させることを狙ってきた攻撃だというのが見えなくても解る。
 仕留められなかったことを悟ったジュネの脚が引いて、すぐにマリクから離れる。
 だが、

「ジュネさん、そこですね」

 改めて戦意を瞳に灯したマリクは、姿の見えないジュネの居場所をほぼ完璧に捉えて攻撃を仕掛けた。
 いかに狭い廊下といえども、あてずっぽうではありえない正確な攻撃を、ジュネはかろうじて鞭で受け止めた。
 本当は鞭でマリクを捕らえなおそうとしたのだが、その動きについていけず、胸部のやや下へ繰り出されたマリクの拳を、辛うじて命中寸前で把握して止めたというのが実情だった。
 鞭がマリクの拳の威力に引きちぎられそうになり、ぎしぎしと嫌な音を立てる。
 さらにその周囲だけ、ジュネの纏っている聖衣が目に見えるようになっていた。

「やはり、空気プリズムですね」
「!!」

 自分の切り札ともいうべき透明化の仕掛けを一撃で見破られ、ジュネは改めてマリクが青輝星闘士の一人であることを思い知らされていた。
 空気の屈折率を小宇宙で変化させることと、その変化させられた空気を、空気プリズムと俗称する。
 他に使い手というと白銀聖闘士シルバーセイント猟犬星座ハウンドのアステリオンがいるが、稀有な能力の一つだ。
 彼は空気プリズムにより分身体を作り出すが、ジュネは空気プリズムを自分の周囲に張り巡らせることにより、光を身体の周囲で回り込ませて自分の姿を見えなくしていたのだ。
 今はその空気プリズムがマリクの拳の威力で一部吹き飛ばされたために、姿が露出させられている。

 慌てて数歩飛び引いて、空気プリズムを修復する。
 しかし、さっきもマリクにはまるで見えているかのようだった。
 見えていたら、彼は平然とはしていられそうにないものだが……
 マリクの視線は、はっきりとジュネを見据えていた。

「ジュネさん、これで駄目ならば僕ももう、手加減しきれませんよ」

 マリクにはジュネの姿が見えているわけではない。
 ジュネは仮にも青銅聖闘士であり、その彼女が戦闘状態にあればそれ相応の小宇宙を燃やさざるを得ない。
 マリクはその小宇宙を感じ取っているのだった。
 さらに気配と風の動きも察している。
 これだけそろえば、見えなくても場所と姿勢くらいはわかるのだった。

「そう……やっぱりまだ手加減しているのね」
「あなたの能力は、捕獲と潜伏……どちらも他の聖闘士と組んだときに真価を発揮するものです。
 もし神聖闘士の一人とあなたが組んでいたら、僕は真っ先にあなたから倒さないといけないでしょう。
 でも、あなた一人では、どうあがいても僕に勝てないことはもうわかったはずです」
「これを受けても、まだそんなことが言えるかしら?」

 ジュネは鞭を腰部に装着させて両手を空け、その両手の間に空気プリズムを集中して発生させた。
 その手の中に収まりきらなくなった空気プリズムがあふれ出て、周辺の空間を陽炎のように揺らめかせつつ、虹色の輝きを見せ始める。
 その膨大な空気プリズムを、ジュネは周辺へ撒き散らした。
 夜にも関わらず廊下全体からグラウンドが、極彩色の虹で満ちる。

「わっ、まぶし……」
「プリズマティック・グラデーション!!」

 部屋と廊下を照らす光を無数の空気プリズムで屈折させて、その全てをマリクに向けた。
 光の当たっているマリクの周囲以外が完全な闇に閉ざされるほどに集中した光は、ジュネの小宇宙を受けて物質化する寸前まで高められていた。
 さらに、光の集約によって高熱も発生する。
 しかし、この技は本来太陽光の下でこそ威力を発揮する技だった。
 電球と蛍光灯の光だけでは、

「今が昼間で、僕が炎の使い手でなければ、今ので倒されていたかもしれませんけど……」

 マリクは光圧でわずかに押されたものの、ほとんど揺らぎもしない姿勢のまま左手で目をかばい、右手で光の奔流を受け止め、受け止めた光を小宇宙をこめた拳で握りつぶした。
 それとほぼ同時に、ジュネが周囲に撒き散らした空気プリズムが維持しきれなくなり、キラキラと光を反射しながら床に落ち、そして、霧散した。

「これで倒される青輝星闘士じゃありません。
 もう一度言います、どうあがいても僕に勝てないことが、今度こそ、わかってもらえたはずです」
「……」

 空気プリズムの大半を攻撃につぎ込んだため、ジュネの姿は朧げながらマリクにも見えていた。
 そのため、悩むようにうつむくその姿勢がよくわかった。
 今度こそ、あきらめてくれるだろうかとマリクはしばしジュネの反応を待った。
 絵梨衣の眠っている部屋へはマリクの方が近いので、その気になればこの隙に絵梨衣の身柄を確保することも不可能ではなかったが、さすがにそれはジュネに対して礼を失することになると思ったのだ。

「……マリクくん、絵梨衣さんを、どうするつもりなの?」

 ジュネの問いは、答えではなかった。
 マリクはしばし返答に窮した。
 出来れば誠意のある回答をしたかったが、どこまで喋っていいものか。

「ひどいことをしない……とは言えないですけど、殺したりとか、そういうことにはならないはずです」
「絵梨衣さんを、絵梨衣さんじゃなくなるようにするの?」
「どうするのか、詳しくは僕にもわかりません。
 ただ、絵梨衣さんだけは、できれば身柄を押えておきたいのだと、イルピトアが……僕らのまとめ役である青輝星闘士の名ですけど……言っていました」
「それが本当に正しいことだと思うの?」
「この時代に、絵梨衣さんをここに置いておくのが危険だということまでは理解しています。
 絵梨衣さんに悪いとは思いますけど、僕は、こうするのが正しいと思います」
「そう……それなら……」

 ジュネの次の行動は、マリクの願いを打ち砕くものだった。
 一度手放した鞭を、再び手にとったのだ。

「この鞭を、武器として使うわ」
「武器……って、鞭はそもそも武器じゃないんですか?」

 ジュネから異様な威圧感を覚えて、マリクはその迫力から逃れるように尋ねた。
 ジュネは、鞭の握りを確かめるように、軽く一度振ってから答える。

「そうね……
 八十八の聖衣の中で武器であるのは、天秤座の聖闘士が管轄する天秤座の聖衣だけという俗説は知っているかしら?」
「はい……」
「実際には、鎖とか、円盤とか、武器として使えるものも多いけど、それらは剣のような武器ではなく、武器以外のものをあえて攻撃手段に用いている、というのが建前なわけ。
 聖域での規定上、瞬の鎖でさえ装身具という扱いになってるわ。
 でもね……マリクくん、あなたはこの鞭をどう思うかしら?」

 マリクは、一瞬その問いに、恐い、と答えそうになった。
 さきほどまでの、自分に圧倒されていたジュネとは何かが違っている。
 青輝星闘士の自分を恐れさせるような、何かが……
 一呼吸、二呼吸、
 ひとまず心を落ち着けて答える。

「武器、ですね。
 そもそも攻撃のためのものですし……」
「そう、この鞭はアテナの定めた聖衣の定義から外れた存在なわけ。
 だから逆にこの鞭を、敵を叩きのめすために使うとアテナへの反逆行為になるわ。
 その分、捕獲や探知に優れていて、普段はそんな風に使わなくて済むようになっているのだけど」

 ジュネは左手で鞭の途中を持ち、柄を持つ右手を引いて鞭の弾力を確かめる。

「もう一度、使うわ。
 武器として」

 ジュネは過去に一度この鞭をそうして使ったことがある。
 聖域に行こうとする瞬を止めるときだ。
 瞬が奉じているのがアテナであると師から聞かされていたジュネは、それでも瞬を止めようとした。
 アテナへの反逆行為とわかっていた。
 だから、鞭を武器として使って、瞬を打ちのめしてでも行かせまいとしたのだ。
 それでも、瞬には勝てなかったが。

「神々に関わることならば、絶対にさせはしない。
 反逆行為でもなんでも、もう一度やってやるわよ」

 マリクが絵梨衣について答えた内容から、おおよその目的が想像できたのだ。
 絵梨衣はかつて、不和の女神に身体をのっとられたことがあるという。
 星闘士は、彼女をもう一度女神にさせるつもりではないかと考えるのが当然だろう。
 神々の好きにされたくはない。
 アテナであっても、それ以外の神であっても。

 ジュネはこのとき、マリクを見てはいなかったのかもしれない。
 ジュネが鞭を振るうと決めたのは、神々への反逆心からだった。
 マリクの向こうに、神々が見えたような気がしたのだ。

「マリクくん、逃げなさい……!」

 マリクは、空気プリズムと仮面越しで見えないはずのジュネの目に、射抜かれたような気がした。
 逃げようと思えば、グラウンドとの間を隔てるものは無い。  直後、コンクリートの床が弾かれたような凄まじい音を立てる。
 マリクはそれを打ったものが鞭だとはわかったが、その先端の動きを見切れなかった。
 ジュネが攻撃に移る前に止めなければと思った。
 しかし、それをとどめるだけの迫力が今のジュネにはあった。

「もう一度言うわよ、逃げなさい!!
 ブランディッシュ・ビート!!」

 生き物のように、とはまさにこのことかも知れない。
 ジュネの手元ではせいぜいマッハレベルの動きが、技術の粋を集めた後期型聖衣の仕組みによって増幅され、鞭の先端部が準光速でマリクに殺到する。
 そう、一撃ではなかった。
 何重、何十重、何百、何千、何万、
 それら全てが、一つとて直線的な動きをしていない。
 この動きが直線的、あるいは円に近いものであれば、光速の動きを持つマリクは見切れただろうが、当たると見たものが寸前で軌道を変え、あるいはよけたと思うものが直後にぶち当たる。

「ガッッ!!」

 禁じ手と呼ぶだけのことはある。
 さすがに、星をも砕くという天秤座の武器には及ばないが、それでもこの攻撃力は恐るべきものだった。
 ジュネが逃げろと言った理由がよくわかる。

「だけど、僕も逃げるわけには……」

 マリクは小宇宙を全力で燃やして星衣を強化し、これをこらえる。

「いかないっ!!」

 さらに、両手から光速拳を放ち、鞭を押し戻そうとする。
 さすがにこうなると建物に配慮することは不可能だった。
 辛うじて、子供たちが寝ている部屋へガラスを割るのだけは避けたが、天井やグラウンドが数秒と経たずにボロボロになる。
 ほぼ互角の押し合いがしばし続いたが、やがて、マリクの拳が勝り始めた。
 例え強力な武器を有していても、聖闘士や星闘士の勝負を最後に決するのは、小宇宙だ。

「くっ!!」

 ジュネは既に空気プリズムを維持できなくなっていた。
 その代わりに鞭と光速拳が二人の間で無数に激突しているため、マリクは我を忘れずに済んでいる。
 事実上、勝負は決した。
 だが、

「なっ!!?」
「これは!!」

 二人は、ほぼ同時に動きを止めざるを得なかった。
 マリクの背後、すなわち、絵梨衣の眠っている部屋から、

「この、小宇宙は……!?」

 青輝星闘士のマリクを凌ぐ、強大な小宇宙が発せられたのだ。

「ジュネさん、危ないっっ!!」
「!!」

 マリクは先ほどまで激突していたことを忘れて、ジュネに飛びついて床に伏せさせた。
 その代わりに、伏せるのが一瞬遅れたマリクの背を、強烈な電撃が襲った。

「ぐああああっ!!」

 凍気や熱気、あるいは衝撃などほとんどの攻撃に対して聖衣や星衣はかなりの防御能力を持っている。
 だが、ほとんどそれが役に立たないものがある。
 電撃、稲妻の類だ。
 並みの鎧よりは防御するといっても、やはりオリハルコンやガマニオンも金属の一種なのである。
 普段はそれが問題になることはまず無い。
 小宇宙によって電撃を駆使するのは最高難度の技術であり、使い手となる人間がほとんどいないためだ。
 肉体を変異させて電圧を発生させる者もいるが、これは大した攻撃力を持たない。
 小宇宙によってまともに電撃を駆使するとなると、辛うじて古代の聖闘士で南十字星座のクライストという人物が確認されている程度である。

 だが、強力な使い手がまったくいないわけではない。

 神々だ。

「私を迎えに来たにしては騒々しいわ、人間ども」

 圧倒的な小宇宙にエプロンをなびかせる、あまりにも現実離れした姿の絵梨衣が、そこに立っていた。




第十八話へ続く


夢の二十九巻目次に戻る。
ギリシア聖域、聖闘士星矢の扉に戻る。
夢織時代の扉に戻る。