自分だけの「お気楽遊び」


車を運転していて渋滞が続くと、NHKの教育ラジオを聞くことがある。
すると、語学の講座をやっていたりする。まったく唐突に耳に入ってくる内容だから、当然、最初のうちは何語かはもちろん、何がどう展開しているのやらも全く解らない。

けれども、やりとりの日本語に耳を傾けているうちに「ハハーン、これはどうもロシア語ぽいな」とか「どうもイタリア語らしいぞ」とか、なんとなく判断がつき始める。
場合によっては、「では、いっしょに発音してみましょう」とのいきなりの呼びかけに、一人、真似して発音してみることもある。これが単語ならまだいいが、文章となると一苦労で、聞き覚えて声に出す鼻からもう忘れてしまっていてモゴモゴとなってしまう。
もちろん、聞いたままの口から出任せで意味も何もわからない。学習意欲なんて鼻からゼロ。そんな気持ちで聞いているわけではないし、今さら語学を学ぶなんて気にもならない。

語学講座を聴く私の観点はただひとつ、「目前の初めて聞く事象の主旨を、最短時間でいかに端的に把握できるか」というところにある。こう書くと何やらやたら知的っぽくなってしまうけど、それもチト違う。状況を把むまでのプロセスがただただ楽しいだけの、その時だけのお気楽な「ただの暇つぶしの遊び」なのである。

テレビも同様だ。ある時、教育番組で囲碁の対局をやっていた。大きな碁盤が出ていて、先生みたいなヒトがなにやら気のきいたふうな解説をしている。囲碁なんて全然興味ないし覚える気もない。そんな無責任な真っ白アタマで観ていると、そのうちに「ほう、碁盤の目ってそう数えるんかいな」とかの獲得情報や、「なんであんな遠いところにポツンと黒を置いたんダロ?」とかの疑問が次々と出てくる。また、「碁石を置く手つき、なかなか格好いいな」と真似してみたりする。ついには、「う~ん、世の中にはこんなものを観るためにテレビを付けている囲碁ファンなる人々がいるのか・・」と思って、しばし感慨にふけってみたりもする。

これらはすべて私の中では、徹頭徹尾、無責任な姿勢のまんま気楽に、眼前に出てくる事象と要領を端的に理解しようとしてみる、というアタマの遊びなのだ。
こうした自分の知らない世界にいきなり触れてみるのは、ちょっとした小旅行のような新鮮な気持ちを味わえて妙に楽しいものである。



エッセイINDEX
Copyright(C) SunPlus All Rights Reserved. 企画制作・著作/武富純一[メール]