2002 . 8 . 22

ひさしぶりに更新しようと思う。
構成の考察と近況。

まず本文の出版社への持ち込みですが、これは現在ストップしています。
何度も読み直してみて断定口調な部分や、表現が空回りしている部分などなどを校正しきってしまわねばならないと考えています。
表現そのものも非常に難点がある、小説や戯曲などにみられる表現ではけして伝えきれないし、
要点をライトにまとめて 「これはこうなんだよ」といった簡略した書き方と、
一つひとつ提示してゆくものに頷ける根拠や正当性を付与してゆく具体的な書き方。
前者は単なる読み物として一読で終わりやすい傾向があると思う。
後者は読解に時間はかかるが、深くその書籍を吸収できるものと考えている。
私の書いているものはけして娯楽書籍ではない、ならばある程度の読み手の読解に費やす時間は必須となる。
ある編集者は言う、今の時代は軽めでさらっと読めるようなものでなければ売れないと。
なるほど、かたい生真面目なものは実際あまり売れてないのだろう、読者を喜ばすものはいつの時代も甘い蜜なのかもしれない。
私の書いてるものは甘い蜜ではないと自分でも思う、読んで活用して人生うはうはなノ●タな人生を送ろうといったものではない。
 書き始めの当初のタイトルは「男の恋愛講座」と云う、
一見下心満載な男性陣が女騙してウハウハなテクが書かれているやもと期待に胸が膨らんできそうなタイトルでした。 (^^;
書き始め当初といえば今で云う第一部にあたり、読者を惹きつけんが為に多少の駆け引き的なものも盛り込んではいました、
が、男女問わず感想メールを送られてくる中で最も多いのは軟派な内容でなく実際は硬派であり、ゆえに好感が持てるといったものがほとんどで、
硬派な内容をメインにしていく事のためらいは徐々に消えてゆき、実質今の多くの恋愛で悩んでいる人たちは、
多くは誠実な異性を如何に正々堂々と確実着実に掴むかなのだと読者に知らされたのです。
もちろん軟派な書籍もあいかわらず需要はあるでしょう、が、今はもうそれだけで満足する時代じゃなくなってきている。
しかし徐々に第一部を堅めの内容に路線を敷いてゆきながらも私は本当に伝えたい部分は結局は書かずじまいとなって一旦は書き終えたのです。
第一部で一旦は締めてしまったのだ。 これは、本当に伝えてゆきたい部分は宗教的なものの中に見受けられがちな法則であり、
これらを読者に伝えてゆきたかったのだが、読者の半数は受け容れないかもしれないといった危惧が私の中にあったからだ。
このことは当時の第一部あとがきにも書き、宗教的にみえてしまうおそれのあるものは残念ながらそのほとんどを書き控えたのだと最後に読者に伝えたのでした。

書き伝えたかったモノは実際は第二部でメインとして書き進めた原因と結果の法則である「因果」と、
仏道で指し示す八正道の土台となる「正見」でした。
どちらも文章として読者に伝えてゆくようになる1年以上も前から悩んでいたのです。
世の中は何からナニまですべてまったくの偶然の産物であり、
世の中の不幸も災難も私が苦しいのも人のせいにあるのだと考えがちな多くの若者には何をどう文章で著しても伝わらないのではないかという不安があったのです。
この因果はまだ多くの読者は受け容れる心の幅が揺るやかではありました、すべては原因があって結果がある、これは現代科学の基本中の基本であり、
理詰めで説得させるものでなければ受け容れないといった人々であれば、実際は信心のある人々よりも強く受け容れてもらえるものでもあったからです。
第二部を書き進めるのに躊躇していた一番の理由は実は「正見」でした、(二部を書き始めるほぼ一年前に正見の真髄には到達はして、その事を自前の日記サイトには記してはあったのでした)
正しく見ると書いて「正見」、では一体なにが正しい事なのか、正しさに基準など本当にあるだろうか?もしあったとしたなら一体それをどう説明したらよいのか?
なるほどと頷けるものでなければ話は進まない、他の一般書籍と違い、活用してゆこうとする実用書として活きてこなくなってしまう。
単なる読み物としてこういう意見を持ってる人もいるのだな、で終わってしまってはいけないと考えたのです。
何しろ「正見」の基準は過去今までにその基準を探ろうと人々は議論を重ね、これだと言える基準を明快にしてきた者がいないのです。
いわばこれは前人未踏の大仕事。
その正見の真髄を私がこれだと言い切る事は、自信はありはしましたが正直怖さがありました。
仏道修行を数十年積んできた多くの人々ですら正見はこれだと明快に答えをだせずまま人の世を終えてしまう。
正見の正体はこれなんだよ、と私が言い得ても問題が残る、
正見は知ってオシマイではなく行うものだからです。 それは愛は知ってオシマイでなく行うものだから。
著者であるお前はその正見を日々行えているのか? そう問いつめられるなら私は日常で半分も修めていないと正直答えましょう。
正見にしろ仏道でいう空、空性にしろ、その正体を知っただけでは何の意味もない。
実生活で実際に活かしてゆき、その現実の効能はこうなのですよと明確に伝えられなければ正見を私がこういうものなのだと説ける術もない。
 正しさとはなんなのか?正しさというものは時代やその背景によって違ったりさえするものではないのか?
こういう見方が一般的であろうと思います。
例えば、第二次世界大戦ではドイツが他国に攻め入ったと、そのきっかけはイギリスの軍縮にあったからだという説が一部にあります、
なるほど、平和的な軍縮をイギリスがしたからこそその隙をついてドイツが他国に攻め入ったと。
他国の脅威に備えて軍備を拡大していたなら確かにドイツは攻め入る隙を見いだせなくおとなしくしていたかもしれない。
これは確かにもっともです。
平和的に軍縮をしたことが間違いであったとなり、軍拡してゆくことこそが当時必要な正しい事であったのだと確かに言えなくもない。
ヒトラーが他国の軍縮をこれぞ好機と捉えたからこそ数々の悲劇や悲惨な事が起きたと。
その犠牲者となった人々には私も大変同情の念があります。
 こうして見てゆくと時代や背景によって正しさは移ろいゆくものなのだという意見も一見正当性がでてくるし、当然のようにも受け止められる。
私は正見の正体は愛そのものなのだと記しました、愛をもってみつめ、愛に添って行い、愛に添って対処してゆくのだと。
正見の立場から云えば平和的な行いであった軍縮は愛にそった正しい事であり、(起きた果は別にしてです)
どの時代や背景に何が起きようとも、それが戦争であろうとも、それは実は個々の人々や集団や民族、その時代や地域に
生まれた者の実は必然な因果、カルマなのだという重大な側面があります。(これを私はマクロなる因果と呼んでいます)
私達は善いことをすればそれは自分に還り、悪いことを成せばそれも必ず自分たちに還ってくる。
因果の観点からみつめると、この世のすべては実は何事に於いても完全に調和しており、どのような行いも等しく同質となって自分に還元をする。
苦痛や苦悩といったものも実はそれが起きたなら自分に全責任があり、責任は本来誰に向けるものでもない事を知るのです。
とは言え、表象上起きている悲惨な事や戦争、悲劇と云ったものは起これば起きたで悲しみの原因ではもちろんあります。
そこから抜け出る為にこそ愛に添った正見を常とし、身に還る悪しき因果を積まぬようしてゆくべきなのです。
ここで例を挙げましょう、ある人は戦争も飢饉も災害もない平和な山村に生まれ、生涯を平和に閉じたとしましょう、
この者は出会う事のなかった戦争や飢え、災害に見合う悪しき因果を長い過去の転生の中で積んでいない、もしくは積んでいたにせよ清算仕切った上で
新たにその平和な山村に生をうけ、生まれたのだと。
戦争に出会う相応の悪しき因果がないなら戦争に巻き込まれる地には生まれ得ないのです。
今でも世界の様々な国では昔と変わらず戦争が起きている、内戦や国境付近ではあいかわらず銃撃戦がいまだに行われている、
彼ら戦士はこの世を終えて転生するときに、戦争に加担したというもはや変えようもないカルマを背負って生まれ変わる。
いやいや駆り立てられて戦士になった者もいることでしょう、それらは自身が人々を戦士に駆り立てる立場であった過去世が必ずあります。
遠いいつかの時代には将軍であったかもしれないし、軍を率いる王国の中で戦争を始める事を進言した家臣たちであったかもしれないし、
民であっても両手を振るって戦争を賛成したのかもしれない。
今の世でいやいやながらも就かねばならない職や位置というものは、私達自身が人に向けた裏返しなのだと因果は教えてくれるのです。(注1へ)
人に強制をしてはいけない、苦を与えてはいけない、それらを立場を逆転して学び取る好機としても因果は顕れるのです。
これら因果が還り、永遠とも思われる苦のパラドックスから抜けるのに必要なものこそが正見という愛をもってみつめ、行い、対処してゆくことなのです。
ひどいことをされたならそれは身に還るべき当然の因果であると知り、その受けた苦を憎しみとして更に人に向けることなく愛をもって許すと。
こうしてはじめてその者はパラドックスとなっていた苦界から現実に抜け出ることができるようになる。
二部で人を許すことができるのは自身のみであり、それは特権なのだとお話したのは単なる比喩ではなくこういう事なのです。
さて、話が脱線しましたが、これらの話にみられるように正見といったものは因果も共に理解していないと目前の事象にばかり囚われてしまい、
生かしきれないという問題もあります。
イギリスが軍縮さえしなければヒトラーが他国に攻め入っていなかったではないかというのは表象の問題であって、因果を含めた広い視野からみつめた本質ではなくなってくる。
表象という視界の目前のみをみつめるのでなく、人々は自身の因果の還るべき果の姿がそこに現実として映し出されたことも理解してゆかねばならない。(注2へ)

脱線しましたので話を元に戻しましょう。 本題はなんでしたっけ? ああ、書き方の表現で苦しんでいる、でしたね。
物事の、そのほとんどの本質は一言で言い表すことが可能ではあるが、受け止め方、いわば読解は人それぞれまちまちになる。
すると具体的な詳細な書き方が必要になってくる。
しかも本文は抽象論でなく日常誰にでも活かす事の出来る法則であるから、これはもう具体的に話し、読者に呑み込んでもらわねばならない。
因果という法則が、その因と果となって顕れる様子は様々な比喩をもって本文でも例えてきました、
放った因は果となって自身に還る、しかしそれはなぜなのかと問われるならば返事に窮してしまう。
いや、実は確たる確信をもって答えることはできる、が、それは理詰めで説得できるものではないように人々の耳には聞こえてしまう。
「いわば放ったエネルギーの反動によって元に戻ろうとするのだと。 なぜ戻ろうとするかと云うならば、それは元の位置に戻ることによってバランスを保とうとするからなのだと。」

しかしこれは、理詰めのようでもあり、しかし理詰めとして説得性を持ち得ない。
「だからそれはナゼなのか」、と。
このあたりに不可視な法則に対する人々の不信感があるのかもしれません。
しかし、法則があると信ずる事、発見する事、実際に体感する事と、その法則の実在性を証明することとは別のものであるような気がしてならない。
ニュートンは引力の法則を発見した、が、それはなぜなのか、なぜ引力が存在するのか理由を明示しただろうか?
地球は丸いと唱えたコロンブスはなぜ地球が丸いか理由を知ったであろうか?
否、
ただそこにそれがある事を知り、発見したのだ。

ここで私は思う、こうした法則に基づいて話を展開してゆくことは、どちらかといえば理系の説明のような伝え方が主だってきてしまうのではないだろうかと。
法則、それは作用と効能であり、言葉のあいだとあいだに情緒的なものを盛り込んでゆけない、何しろこれはエッセイでもコラムでもないのだから。
第二部からは特に、書き方がどうしても要点要点で固めてしまう進め方になってしまっていると自分でも強く感じているのです。
要点をぼかしてしまうおそれのある言葉はできるだけ省いて、読解さえしてもらえるなら直に伝わる理系の説明文のようなスタイルにもってゆこうとしているのを自分でも感じているのです。
この点についてはかなり前から自分でもどうしていいのか悩んでいるのです。 (;_;)
情緒的な雰囲気で話をすすめてゆく事が自然とできる食べ物でたとえている話は他のものとくらべて評価が高いのですよ。
イチゴでたとえた欲求の話、
ミカンでたとえた紙一重の話、
愛するからこそ愛される、与えるからこそ与えられるのだと伝えた長い箸の話。
理系の理詰めさで伝えてゆこうとするという、読解の混乱を避けるために情緒的な言葉の無駄を省いた、いわば説明文になってしまっているものは、食べ物でたとえたほどの評価ではない・・・
これに気づいてからというもの悩んでいるのですよ。 (もっとも、食べ物でたとえた話の方が格段に評価が高すぎるのかもしれないが)
因果や、その正体が愛に基づく視点である正見、どちらもその法則的な実際的な説明が必須になってくる。
それぞれの話はその実際的な効能を直に伝わるべく説明文のスタイルになっている所に問題がある。
まさにこれが悩みの種、だからこそ校正してゆくと本文メニューで公言もした。 でも進まない・・・ (;_;)
それとも、他の話までも食べ物でたとえた話と同じぐらいに評価を得ようとしている事自体に間違いがあるのだろうか・・・・
それぞれの話には無駄なく、その話の持つ伝えるべき真意は伝えてはいると思う、欲張りなんだろうか・・・

これを読んでいるあなたにぜひ教えて欲しい、自分で書いたものっていうのはさ、客観的になったつもりでもよくわからないんだよ
どうしていいのかわからないんだよ
自分の背中はどうしたって見れないんだよ
批判であっても構わない
辛辣であったって構わない
それでこそ人に読んでもらえるものが世に送り出せると信じてる
文章の表し方、文中にあるいけない表現、なんだっていい、
もし気が向いてくれて、暇な時間があったら是非辛辣な感想を寄こして欲しい
心からの願いだ。










こうして考えてゆくと、一般書籍とは趣が違ってくる、自己啓発モノとして最近巷にありがちな読者へのなぐさめで終わりがちな書籍のようにはいかない。
書き進めているモノはなぐさめのエッセイではなく実用書、そして実用書というよりも実践書と言った方がいいのではないかと考えている。
書かれているものは、因果も正見も、そのどちらも法則として「誰でも」たった今すぐにでも活かせるものであるし、生きる上でこれ以上に実際的な法則はないと言えるから。
言い過ぎだとは私は思わない、これ以上に生き物、そして魂を支配している法則はない。
愛と因果、遙か昔からどの宗教の教祖も唱えてきたものであり、釈迦やイエスばかりに限らずどの道においてもこれらはその中で提唱されてきた。
さて、ひとまず私の悩みは置いておき、話は脱線するがここで私はある文を引用しようと思う、
漫画世代である方ならきっと一度は触れたことのある、あるコミックからの転載になる。


>今 自分は何をしているのか

>自分のしていることは
自分にとって大事なことなのか

>人にとって大事なことなのか

>そして大勢の人にとって大事なことなのか

>国中の人にとって大事なことなのか

>世界の人にとって大事なことなのか

>この自然にとって
>あらゆる生きものにとって
>大事なことなのかよく考えなさい

>そして もしそうでないと思ったらやめるがよい

>なぜなら
>この世のものは
>みんなひとつにつながっているからだよ

> 私はいままでだれの手も借りず
> ひとりのちからで生きてきました
> つながりなんかありません

>あなたは三度三度ごはんをたべるだろう
>そのごはんはだれかが料理するのだろう?
>その米はだれかがつくるのだろう?

>しかもその米は もと稲という草だ
>だから
>ごはんをたべるだけでも
>いろんな生きもの
>いろんな人たちの恩をうけていることになるでしょう

>だからあなたはほかの生きものや人なしでは生きられないのだ・・・・・・

>同じようにどんな生きものでも絶対に自分だけでは生きられない


引用したものは手塚治による 「ブッダ」です。
このシーンはダイバダッタと仏陀の問答なるもの。
このやりとりでは私達が普段人々やその他の生き物、あらゆるものからその恩恵、いわば愛を受け取って生きている事を示しています。
私達は知らない内にも大勢の人の見えない愛によって生きている。

>だからあなたはほかの生きものや人なしでは生きられないのだ・・・・・・

私も、あなたも、私達の隣人も、愛なしでは生きられない
人は愛なしでは生きてゆけない
愛以上のものはないと言っていい。
そして、人が放った愛は、めぐり巡ってやがて自分に還る
そして、人が放った愛は、めぐり巡ってやがて自分に還る。

もしこの世に愛がないなら因果もありません
もしこの世に因果がないなら愛もありません
愛を手にする事と愛を人に向ける事、これそのものが善き因果、いえ、言葉を直しましょう、
愛を手にすることと愛を人に向けることそのものが愛の因果を循環させる事にあるからです。

愛と因果、この二つを私が本文中で重要視している理由がおわかりいただけたと思います。


次は表現法でもうひとつ私が悩むもの、
それは人間が改めてゆくべきものや、してはならないといった「戒」がどうしても手前で多くなり、
推奨されるべきもの、善き部分といった「奨」にあたるものがその後になってしまうということ。

メインとなる第二部では、因果の章の中では最初に敷くべき「戒」を主とし、
因果の中で推奨されるべき「奨」の部分は、次章である正見の中で、愛の実際的な活かし方、行いといった形で書き進めていきました。
(正見の章を暇なときに一読されたい、善いものを放ち、それが自身に還るという善き因果、「奨」にあたる部分を正見を活かしてゆくという形で多く盛り込んでいる事に気づかれる事だろう。)
これは読者にとって読んでいて楽しい配置ではないだろう。
「あれはだめですよこれはだめですよ」といった、否定から入ってゆかねばならないからだ。
とうぜん読んでいてわくわくドキドキしてこない。
「戒」と「奨」の順序を逆にしてしまうわけには実はいかない、これができるなら話は早いのだがどうしても譲れない部分。
壺の中の水を先に洗い流さなければ清浄な水でいっぱいにすることはできないし、
もし汚れた水を洗い流すという部分、「戒」を省いてしまったり、後の方にもっていたとしたならば、こんないいかげんな自己啓発書もあるまい。
これはいわば汚れたキャンバスに絵を描こうとしているようなもの。
(仏典でも聖典でもなんでもいい、読んでみると分かるが、どれもまず「戒」の部分がはじめのほうにきている事に気づかれるであろう。)
汚れたキャンバスのまま絵を描こうとすること、壺の中の汚れてる部分を掃除せずに水を入れようとすること、(戒を自分に敷かない事)
いわばこれらが実は、人々の多くが自己啓発書を書店で手に取り、買い求め、幾度となく読み進めていながらも、現実生活で活かしきれずに終わってしまっている真の理由なのだ。
おいしいものだけを求めるという姿勢、でも、得るまでの手順や素材を考慮しない姿勢と例えればいいのかもしれない。
( ここらでいーかげんなひとやすみ  にんげんという素材はできあがってしまっている野菜と違っていくらでもより良く変わってゆけるもの、
しなびた人参やたまねぎ、質のわるいじゃがいも、そだちのよくないお肉、こういった材料でおいしいカレーを作ろう!
それはあなたムリがあるでしょお。 )




自己啓発書のメジャーなものに「人を動かす」というのがあります、この書を買い求めた人はおそらく人生で出会うベスト5に入る書籍と誰もが認めておられる事だろう。
読んだことがない人にはぜひ勧めたい、それほど感銘を受けるものがちりばめられている名著なのです。
この著者は人々を愛し、人々に正に捧げるような書物を残してくれたと思う、
だけども、私はひねくれているのかもしれないが、書かれているものを素直に為そうと思えない事がしばしばある、
読者に、利己的な響きのある「人を動かす」といったことを考えさせる前に、それ以前の自分の悪い部分をまず直せとハッキリと声を大にして叫んでくれていないからだ。
しかし実際は著者はこの事に気づいていたフシが読み進めると所々に見受けられる、
多くの読者の反応を気にして結局は自分を洗い流す部分といったものの多くをやむなく盛り込まなかったのかもしれない。
でも、もし人の視線を気にせずそれらを盛り込んでいたなら------ たとえはじめはウケが悪かろうと------
今の著作以上に尚一層読み継がれていたに違いない。

こうして考えてゆくと、たしかにこれら読者の自我に触れてしまう部分を盛り込むというのは非常にデリケートな問題なのだと思う。
メジャーやマイナーに限らず、多くの自己啓発書よりも更にそれ以上の素晴らしいものがちりばめられている仏典や聖典を見つめてみるとよくわかる。
読み手の自我に触れてゆく部分が当然あり、楽しくワクワクしながら読み進めようとする者は滅多にいない。
が、当然の事であるが巷にある自己啓発書と比べるなら格段といっていい程の、人間に必要不可欠で、そして実生活でも多いに活かせるものがふんだんに盛り込まれている、
なのに熱狂的な愛読書としている人はあまりみかけはしない事だろう。
あれはしてはならぬ、これはしてはならぬ、こういった「戒」が多くなってしまうからかもしれない。
仏典や聖典にならえではないが、実際問題として人生に役立てる書籍を残したいと考える時、
私はやはり土台ともいえる「戒」の部分はしっかり盛り込んだものを書籍として完成させて残したいと思う。
そして人々に読まれ、ある人は単なる一時の読み物で終わらせてしまうかもしれない、
でも、ある人は実際にその書を頼りにし、行い、振る舞い、現実に多くの人から愛され、自分の人生に楽園を作るかもしれないし、沢山の人を愛する人となると。
私はいつか必ず死ぬ、でも、一人でも多くの人が、その残した書を頼りにしてくれるなら、こんなに嬉しいことはない。
たとえこの身が死んでしまってもこの世に愛を残せるもの、それは言葉を文章として残す事。

今日は書き進める上での表現に関して長く紙面を割いてきました、しかし完結をせずに結局は悩んだまま終わらせる事になってしまった、(^^;
ここまで読みすすめておつきあいくださったあなたに ひとこと 残そう。

せっかくの人生だから、愛を為せ。






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( 注1 ヤクザの親分が堅気を無理にヤクザに誘ったとしましょう、そしてそのヤクザとなった者に様々な事をその生でさせたと。
その親分は今後幾生も生まれ変わる中で自分がなりたくもない時にヤクザな生涯を送らねばならなくなります。
奉仕を無理じいさせていたのであれば奉仕をいやいやながら強要される生を幾度も送らねばなりませんし、
また例えば泥棒が人の財産を盗んではその生において刹那な生き方をしたとしましょうか、
その泥棒は働けど働けど財産は人に奪われていつもひもじい生涯を何度も生まれては身を持って体験せねばなりません。
喩えが古くさくなりますが、昔で云う赤線、女衒が女性を無理に女郎にし、男性達の性を満足させるべく女性を売り買いしていたならば、
その女衒は何度も生まれては男性と結ばれて幸せに生きる人としての権利を泣きながら奪われる生を送らねばならない。
そしてその女郎たちを哀れむ事なく自分の楽しみのために一夜の相手として接した者も生まれ変わると立場は逆になる。
蔑んだ者は蔑まされ、虐げた者は虐げられる。
二部で男性達に刹那の的とされた女性の話を盛り込んだと思います、
あの話の中の女性は本文でもお話したとおり、実は撒いた悪しき因果が今生還ってきているのです、
そしてその果となって顕れた苦しみの対処の仕方ひとつでその受けた悪しき果を更なる悪しき果にしてしまうか、
清算仕切り、新たな人生の出発点となるかに分かれるのです。
あの話の中の女性は自暴自棄してしまい、残念な事に人を信用せず、世の中を信じないという更なる悪しき種を撒く方向に進んでしまいました。
もし苦の中にあっても愛をもってみつめようと心にあったならこの女性は身に起きた苦も自身の肥やしに出来ていたはずです。
たとえその女性が過去にどんな境遇であったとしても愛する優しく心の暖かな男性をみつけるという瞳を養う事すらも出来ていたはずであるからです。
悪しき因果が身に還り、それを更なる悪しき因果の種としてしまわないように私達は自身の行いに気を配らねばならないのです。
その為にこそ原因と結果の法則である因果は大切になってきますし、対応してゆくにも愛という正しさでみつめて行動してゆくよう心がける必要があるのです。

少しだけ、またまた、脱線しようか? (笑)
この含み笑いはなんでしょうか?
これだけ本宅本文に触れ、おまけページである「したごころ」のなかでもこれら因果に触れてきている長年の読者の中には、
私に混沌と苦をまき散らさせようと駆け引きまるだしなものを書かせようと躍起な者が一部おります。
やれホストの口説きのテクやらなんやら書いたら読者は喜ぶと。 それであなたは有名作家になれますよと。
笑わせるのもいい加減にしませう! エロ本でも読んどれ! そそのかしに乗るかよ! ( ̄^ ̄メ) あれだけ前ページでそういうのは書き進めないと言ってるのに。
有名作家になりたいが為に書いているのではありません。
男女間はもとより人間として愛をもって活かしてゆけるモノを書く、これだけのために書いている。
人が苦の元となるものから遠ざかり、身に幸が還る徳が自然積めてゆけるものをと。
いわばまったくの逆なんですよ。
やれ駆け引きだ、男女のドロドロといったものを多くの人に勧める人生を送ったならば、 「私が」人に為した人生を自分で償わねばならない。
だましあいや一時のニセモノの愛情、出会っては別れ、そんなモノからようやく離れることの出来るものに目を向けてゆこうとしてる者を混沌に縛りつける因果が
この俺様に還るだろうが! ぷんぷん!
自分の損得を詭弁でさもらしく振る舞って味方のフリしてささやくな。

えー さてさて、 地でこうふんしてしまいました・・・ おはづかしい・・・・・

人々に益々苦しむ元になるニセモノの愛情をテクとして書き広める事は悪しき因果だということをこれを読んで理解頂けたと思います。
だからこそ私は駆け引き的なものは罪のない程度のものしか本文に残していないのですし、
それらを残していまだ書き進めているならば私自身因果を理解していない事になる。 )


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( 注2 第二部で罪が苦として自身に還るのは目先しか追わない事による過失からくるのだとお話したと思います。
人は普段遠い先を見つめずに目前の雑多な事に振り回されがちな生活を送っています。
これは目の前にある事こそが普段私達の気を引いてしまう問題だからでしょうね。
この、今起きている事象、目前の事ばかりでなく、その少し先を見越して行動を選んでゆくことは実はそんなに難しい事ではありません。
仮にあなたが自転車に乗って道を進んでいるとしましょう、
走っているその瞬間は車輪が大地を践んでいるその場所かもしれません、これを「今」としましょう。
ですが自転車を漕いでいる私達はその道の平坦な部分や邪魔となりそうな大きなもの、通りすぎる人々、道をまたぎる犬や猫、
これらに注意しながら自分の進む先をみつめて自転車を漕いでいるにちがいありません。
私達は自転車という、乗るならば注意が必要な乗り物に乗る時は、数十メートル先という未来をしっかりと見越して自転車を漕いでいる。
これが先も見越して進むと云うことなのです。
そう、自転車の進むその先は今でなく「未来」なのです。 数メートル先や数十メートル先といったものは、
目をよく凝らして見つめるならばはっきりと迫ってくる未来。
私達はこの人生という世界を、この身体に宿って必死にペダルを漕いでいるのです。

最近は風潮としてか、今こそが一番大事だと叫ばれる人々がいる、それはある意味正しい、
でもそれはすべてを見つめてではなく局所的な正しさと言えます。
今というものはいつの時代も大切なもの、そしてこれからやってくる未来とは、いずれ必ずやってくる「今」なのです。(言い換えるなら未来は沢山やってくる「今」と言ってもいい)
今というこの瞬間が大事な人ならば、その一歩先も十歩先も大切にしなければいけない、
何しろ未来は私達の手で、このたった「今」以上にも、素晴らしいものとすることができる
のですから。
(十歩先の未来は放っておいても素晴らしいなど期待してはいけません。 種は植えなければ芽はでないのです。)


未来を見通す瞳をもって行い、望む未来に、私達は誰もが、進むことができるのです。


さて、このあたりで注2を締めてしまいましょう、いろんな比喩で私は普段色々なことを読者に伝えようとしています、
でも、そんなことできっこない、そんなことはみんな絵空事さ、できっこないさ、
そうやって読んでフムフムで終わりにしてしまわずに実際にやってみる事です、
私が本文で書いたものは誰でも実際に試してみることのできるもの、
ここで書いたものも皆そうです、足踏みして立ち止まったままでなく実際に為せばいい。 )
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今日は以前少し書いた駆け引き部分について触れようかと思います。

つきあいはじめた彼氏や彼女の気持ちを自分に強く惹きつけて、更なる「強い愛情にする法」をここに。
およよ!?  いつもと様子がおかしいですね?
これら駆け引き的なモノは相手や人々を利己心の瞳で見つめてしまう心に拍車をかけてしまいかねないモノとして近頃の私は忌み嫌っていたはずです。
ひとまずそれは置いておき、進めましょう。

つきあいはじめて相手が自分に信頼を置き、強い愛情を自分に向けていると察した時に、
  「 いつ別れてもいい 嫌いになったなら遠慮せずいつでも言ってくれ」 と相手に告げる。
これは別れたいが為に言うのではなく、相手の重荷になりたくないが為に日常で私が相手に発していた言葉でした。
愛する人が私を嫌いになったり、他にもっとその人を大切にする人が現れたならいつでも身を退こう、そう考えていたのです。
お恥ずかしい話ですが、私はいつも、誰とつきあう時でも、相手にとって最良の人間だとは考えていなかったのでした。
知らぬ顔して平然と浮気はする、つきあってはいつつも大切にはできない、そんな自分が嫌われたなら潔くいつでも身を退くべきだ、そう考えていたのです。
私の心情としては確かにこれらがあった、しかし、「 いつ別れてもいい 嫌いになったなら遠慮せずいつでも言ってくれ」
この言葉は、実際は思わぬ方向に向かう事がほとんどでした。
強い愛情を向けてきている相手にいつ別れてもよいのだと告げると、その人の強い愛情は相手を失いたくないという気持ちが増大するようなのです。
これは、つきあいはじめの頃のまだ低い愛情段階で告げていたとしたならば、冷静にその言葉を聞き納めておいて、
いつか相手を嫌いになった時にはその言葉通りに別れを持ちかけてくるかもしれない、発した言葉通りに。

 私が向けた言葉は言葉通りの心情でしたが、しかしもしもそうでなく、今読者がこれを読み、テクとして相手の心をあやつるかのごとくこれらの言葉を向けるなら-------
これこそが罪だと考える。
自分の本心から芽生えた相手に対する思いやりの気持ちからそれらの言葉を向けるのではなく、
さも自分の心からの心情であるかのように振る舞い演技をする、
相手にさも良い人のように受け止めてもらいつつ、人をウソで縛りつける。
相手はウソの言葉で踊らされ、その人に現れたかもしれないもっと相応しい人との縁を塞いでしまう。
ここで自分がその相手にとってもっとも相応しいなど考えてはいけないのです、
人の書いた(私の書いた)小手先のテクニックを駆使し、自分の思惑通りに事を運ぼうとする自分などよりも真に相手を愛し、
幸せとする者は当然他にいるのが自明の理だからなのです。

いや、しかしその人を愛していればこそ、それらも必要悪のようなものではないだろうかとお考えになられる方もおるやもしれない、
しかしこれこそがその人を真に愛しているかの境界線と言えるものなのです。
どんな手段であれ、手に入れるためならよいではないか、それは恋愛につきもののいわばプロセスのようなものであって、
騙しあいや化かしあいもあってこそ恋愛というものじゃないかと云われるむきもあるだろう。
勿論それらはあるでしょう、しかしそれこそが境界線であって、
今までの恋愛の視点観点から抜け出た先にあるもっと確かな確固としたそれまでは掴む事のできなかった愛の状態には互いに進むことができない。
言わば不満と一時の満足、そして失望、これらを繰り返してきたそれまでの恋愛から抜け出ることのないパラドックスと呼べるもの。
初期段階とも言える恋愛の内はまだよいかもしれないが、それが互いに支え合って長く過ごしてゆく婚姻関係になったとしたらば
それら騙しあいや化かしあいも互いの愛のプロセスだ等とは誰もが云わないことだろう。 それらは亀裂の種でしかないことをその時誰もが理解しているからだ。
ここでこれを読まれている読者に思い返してみて欲しい事があります、
今まで過去にお付き合いしていた異性や、恋焦がれていた異性の一人や二人は居た事と思います、
その異性とは結局は過去の出来事として今日に至っていると。
どんな手段であれ、それが利己心に根付くものであろうとも手段を選ばない、こういった入り口から入ってゆくものはそれらに相応しいプロセスと終末しか残されていないのです。
もう時代は人やら他人、異性をどうやって思いのままにするか、こういったことではなくて、互いが上に昇ってゆく、より一層上の愛の状態を人は求める時期に来ているのです。
やれ口説くテクニックは相手がああしてきたならこうしなさいとか、こう振舞ってみてはどうかといった、いわば知的ゲームで終わらせてしまうステージから人間は脱却していかなくちゃいけない。
互いの、それこそが愛する相手への、そして自分自身にとってもそれらが必要な時期に来ているのです。

さてどうでしょうか、駆け引き的なモノを書き進めてゆくことは本書の主旨とは大きくずれるモノなのだとお解り頂けた事と思います。
そして、この話には実はまだ続きを書かねばならない。 あれはだめだこれはだめだじゃ一体どうしたらいいの! キィー などと雄叫びが聞こえてくるからです (^^;

この話の続きのタイトルは・・・
「求める人を射止める方法」

以前に第一部で人は類友に惹かれて集まるものだとお話ししたと思います。
今から書き進める物はこの類友に大変に似通った部分がありますが、
しかしより厳密にいうならばそれは二部でお話をしました利己利他4分類で説明した方がより具体的なものになるかと思われます。
類友という概念に似て非なるこれらは意識というステージの、親近性による人々の結びつき、と言えるかもしれません。

 仮に求めている者が心の底から優しい人だとしましょうか、その求める心情は強い欲求となって現実に私達の前にその望んでいた通りの人が現れます。
これは実際にそのような人と出会えるという意味です。
私達は成りたいと想い描いた人物に自然成る(第一部参照)のと同じように、環境も人間関係も恋人もすべて、心で想い描いた通りになるのです。
言うなれば、私達は自身で理解し、自身の内奥に事実あるものを求め、またその通り現実化していると言えばよいでしょう。
この喩えでは少々解するのが面倒かもしれません、別の喩えでお話しましょう。
私達が出会い求める恋人に、心底心の優しい人を求めたとしましょう、私達は願ったとおりそういう人と出会えるのです。
これはその心底優しい人を求めた事そのものがその人の中にその時実際に内在しているものだからなのです。
「欲したものはすべて、実はその人の中に必ず内在しているのです」
これは一見辻褄が合わないように見える事もしばしばあります、優しい人を求めつつも、求めてやまないその人自身は、その求める通りの優しいものを
有してはいないように見えると。 ハッキリ言ってしまえば冷たくワガママな人のように見えると。 しかし外側に優しさを求めた以上は表だって発揮はしてはおらずとも必ず内在しています。
(優しさを内在はしているがそれを人に向けないで自分が欲する一方な状態は「利己利他4分類」に当てはめるならば利己中心になります。 いわば利他の芽を内在させたまま利己中心であると。)
 たとえば優しくない人がいたとします、その人は自己の中に内在してはいない優しい部分を、人に求めたりは実はしないのです。
(仮に冷酷な殺人鬼がいたとしましょう、彼は外側、いわば人に優しさを求めません、利己的な従属は人に求めるかもしれませんが優しさを人に求めているわけではないのです)
これは言葉に語弊があるかもしれませんね、しかしお読みになられて憤慨するのはチョット待った! なのです
ある人が優しい人を求めたとしましょう、 事実その人は外側に求めた通りのモノ、その優しさを自己の中にも必ず「有」しているのです。
さて、長くなりました、では肝心な部分を続けましょう。
自己に内在している求めたとおりのその「心底心の優しい人」と出会えたならば、その人の心を射止めて自分の恋人にしたい事でしょうね、
ではどうしたらよいか?
内在したままでなく実際にその求めるもの通りに外側に向ける事、なんです。
それはその求めた優しい人に相応しく、自身が求めてやまないものは人に向ける。
内在したままで発揮をせねば出会っただけで終わってしまいますからね。
幾度か本文でも述べてきたことですが、
「私達がそのようならそのような出会いと結びつきがある、
私達がそのように振る舞うならそのように得られる。」
これは本文で述べてきた因果の法則でもありますし、
得るために相応のものを与えよと第三部でもお話しました金銭の項をお暇なときに今一度読みなおして欲しく思いますが、
これはいわば求めた通りのものを確実に得るための法則であり、因果の法則の分則とでも呼べる配給の法則と言えるものになります。

むずかしく並べてしまいましたが、簡単に言ってしまうなら、
優しい人を恋人に求めた人は、実はその求めている優しさは日常で普段発揮されてはいないかもしれませんが、
必ず外に求めたものは自己の中にもあり、
自己が宿しているものであるからこそその価値を認め、外側にも求める。
求めたものは求める欲求の強さ通りに私達の外的環境に必ず顕れる。
欲求の強さは求めてやまないものを実際に発揮している場合はより強くなり、出会うだけでなく心を射止めて恋人にすることに成功する。

もっとわかりやすく簡単に言ってしまうなら、
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ある人が優しい人を恋人に求めたとします、
求めた人は実はその通りに実は内面に優しさが溢れているのです、
だからその通りの人と出会えるし、自己の持つ優しさを実際に外に発揮出来ている場合には出会うだけでなくその人をモノにすることにも成功すると。

これを読まれているあなたが童話や昔話に出てくるような心清く誰にでも分け隔てのない優しさを持つ王子様のようだったとしましょう、
その王子様にはそれに相応しく、心清らかで誰にでも分け隔てなく優しい美しい女性と出会い、結ばれるのです。

もしあなたに好きな人がいるならそのようにすることです、 実際に振る舞い、心もそのようにするのです、 「求めたモノに相応しく実際に行う」これだけなのです。
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自己と類似性、そして意識ステージが合うほど惹かれ合い、その者にとって相応しくあれば尚強く惹きあうのです。

異論はあるかもしれませんね、優しくはなくともそのような人を惹きつけている者も居ると。
これはかならず類似性のある共有部分に引きあってのことなのです。
ポジティブなものに限らずネガティブな部分においても人は引きあいます。
ヤクザはその自己が持つ質が相応しいからヤクザの世界に住み、同質の者達と普段引き合うのです。