くリスト協会 スイス・日本 会員として〉

西 中  由香里


 <リスト協会 スイス・日本>は、1987年にスイスと日本で設立された。スイスと日本の両国を活動の場としてリスト作品と人間リストを国際的視野にたって研究し、芸術的な催しを行っている。設立以来、数度にわたり「リストゆかりの地を訪ねて」として、日本の会員がヨーロッパの各地を訪れ、各国のリスト協会や音楽家たちと交流を持っている。'94年、'95年には国際交流コンサートが行われ、特に東欧の音楽家たちとの親交を深めている。

 私は、'89、'91、'94、'95年にリスト協会主催のヨーロッパ旅行に参加させて頂いた。'89年はリストゆかりの地をたどり、リストの生きた足跡と彼の作品を照らし合わせていくという、歴史的背景を追う旅であった。スイスとスウェーデンを訪れたが、各地でリスト協会は歓迎され、リスト研究に携わる人々と直接話をすることができた。それによって私は、それまで知らなかった欧州の歴史や文化を肌で感じることができた。この旅行で言学の必要性をひしひしと感じ、現在に至るまで途切れ途切れではあるが、ドイツ語の勉強を続けている。'91年の旅行は、リスト作品をピアノで演奏するためのセミナーだった。花と緑にあふれ、澄んだ空気に満ちたスイスのレンクで、夏期国際音楽アカデミーを受講した。そこではさまざまな国から来た音楽家たちとの触れ合いがあり、彼らの演奏や音楽に対する姿勢を見ていると、自分ももっと視野を広く持って貧欲に音楽に取り組んでいかなくてはならないと痛切に感じた。その後イタリアを訪ね、リスト作品にもあるエステ荘の噴水を目の前にしたときには、あの細やかで涼しげな水の生態をそのまま表現しているピアノの音色と、実際に水しぶきを上げている見事な噴水が私の中で一体化し、19世紀から20世紀への時代の流れに深い感慨を覚えた。そして、'94年の国際交流コンサートはリスト作品にとらわれず、「ヨーロッパの音楽院 と呼ばれる音楽家の宝庫、チェコの方々をはじめとする東欧音楽家たちとの生きた音楽交流活動のスター卜だった。ここには、コスモポリタンなリストの音楽家としての幅広い活動が、リスト協会の活動の底流にあると誇りに思っている。つまり、リスト協会はリストの残した作品を作品番号順に会員が演奏会で取り上げたり、それについて研究論文を発表するという決まったスタイルをとるのではなく、リスト精神を理解して幅広い生きた音楽活動を次々と展開しているのである。それぞれが、一つずつ違った特徴を持ち、貴重な経験のできた旅行であったが、特にヴィルトゥオージ・ディ・プラハの方たちと出会えた'94年の旅行の思い出は、今でも鮮明に私の脳裏に焼きついている。この第1回国際交流コンサートは、関西新空港の開港と時を同じくして、'94年9月、日本の7名のピアニストたちがスイス航空第1便に搭乗して始まった。今まで全く足を踏み入れたことのない東欧、その中でも特に美しい街の1つと言われるプラハ...私たちは、不安と共にそれ以上の大きな期待と憧れを胸にプラハの空港に降り立った。そして、そこは期待通りの歴史の重みを感じさせる魅力的な街だった。私たちは毎日地下鉄に乗って音楽学校に行き練習を重ねた。時折、練習に疲れて窓から外を見ると、プラハの駅やオペラ劇場などが目に入り、この街で自分がピアノを弾いていることが不思議に思えたことを覚えている。そして、ヴィルトゥオージ・カルテットと来日公演のための練習。彼らの話す英語やドイツ語を全身で聴き、一生懸命弾く私に彼らはとても温かく、精神的にどれほど助けられたか分からない。練習の様子を毎回録音し、夜には楽譜と鉛筆とメトロノームを持ってウォークマンを聴き、また翌朝には地下鉄に乗って練習に行くという大変な毎日だった。しかし、ヴィルトゥオージの方たちと一緒に演奏し、それを通して多くのことを学び得たことが何よりも嬉しかった。10月にはヴィルトゥオージ・ディ・プラハ・チェンバーオーケストラが初来日し、日本公演が始まった。プラハの空気を持った彼らはステージをプラハの色に染め、聴衆はここが日本であることを忘れてしまうほど弦楽大国チェコの音色に酔いしれた。この公演で彼らと日本の音楽家たちが各地で共演し、チェコと日本の国際交流を探める演奏会として大成功を収めた。あれから1年が経過した現在、再度彼らと共演できる機会を得た。それも、今回は録音としてである。もちろん私にとって第1枚目なのだが、ピアニストとしてかけだしの私が、音楽的に熟練した素晴らしいヴィルトゥオージ・カルテットとCD制作に取りかかることになり大変幸運に思っている。このようなチャンスを与えて下さったフランク先生に心から感謝している。「音楽に国境はない。」...この言葉は私が身を持って感じた素晴らしい事実である。

1995年9月