聖闘士星矢
夢の二十九巻

「第三十一話、幻の蛇夫宮」




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 長い話をした。
 一緒に過ごした時間より、離れてからの時間の方が何十倍も長い。
 どちらも苦労などという一言で済ませられるものではなく、同情が欲しかったわけでもない。
 それでも、別れてからの時間を埋めるように、お互いが生きてきた十年を語り合った。
 知っていたこともある。だが、知らなかったことの方が多かった。
 十年の歳月を語るには太陽が傾くまでの時間を費やしてもとても足りない。
 かたや、絶海の孤島での十年間であり、かたや、聖域サンクチュアリでの十年間である。


「覚えていらっしゃいますか。初めてお会いしたときのことを」
「十人ばかし並んでいた候補生の中で、カシオスの隣に立っていたね。頭二つ大きかったあいつと同じくらい印象が強かった」
「ああ、覚えていてくださったのですね。私はこの十年、あのときの感動を片時も忘れたことはありませんでした」
「叱りつけた覚えしかないよ」
「ひと目見たときから、このお方だけは違うと思っていたのです」
「買いかぶりすぎだよ。あのときはまだ蛇遣い座の聖闘士になる前だ」
「ええ、そうでした。黄金聖闘士ゴールドセイントたちを除けば聖域で会った候補生たちの中でも、お姉さまの小宇宙コスモは随一でした。なぜこのお方が未だに聖闘士になっていないのか、私には不思議でなりませんでした。思えば、教皇のご判断に疑念を抱いたのはおそらくそれが最初だったのでしょう」

 だとしたら、皮肉なものだ。
 私も同じようなことを思っていたのだから。
 ただ、二つ異なっていることがある。
 私は、おまえを自分の下につけてくれた教皇に、心底感謝していたのだから。
 そして、もう一つ。
 黄金聖闘士を除けば、ではなかった。
 おまえは、あのときから何人かの黄金聖闘士を上回る小宇宙を秘めていた。
 私が黄金聖闘士たちに対しても遠慮のない性格になったのは、振り返ってみればそれが一因だったかもしれない。

「カシオスとおまえは別格だった。
 カシオスは成長とともに必ず強くなるって確信があったけど、おまえは最初から強かった」
「カシオス……優しい男でした。
 強くなるためには女聖闘士も男聖闘士も関係ないと言いながら、女候補生への配慮を決して忘れない男でした」
「そうだね。気が付けば窓辺に花瓶を置いたり……あれで大した色男だった」
「彼らが私のことを十年に亘って守ってくれる間、何度となく言っていたものです。
 俺達は、カシオスのような男になりたいのだと」

 確か彼らはカシオスより年上ではなかったか。
 もっとも、ドクラテスといいカシオスといい、あの兄弟は実年齢より3つから6つくらい年上に思われていたようだ。
 身長が高い上にあの立ち振る舞いでは、そう思うのも無理はない。
 いや、無理もなかった。

「あいつらにひどいことされなかっただろうね」
「まさか。不埒な真似をされたことなど一度たりともありませんでした。
 彼らはカシオスがお姉さまを慕うのと同じように、……いえ、もしかしたらそれ以上の忠誠を私に捧げてくれました。
 まるで私が……」

 その言い淀んだのは、彼らとの思い出を振り返っているのだろう。

「……フン、あいつらもずいぶんな男前共じゃないか。
 エーゲ海で修行していたあいつらを、おまえがかばってやった恩を生涯忘れていなかったようだね」
「ええ。彼らはそのことを一生の恩だと言ってくれました」
「思えば、海界に出向くときにあいつらが一緒だったら心強かったんだろうね」
「ええ。ずいぶん後になって彼らが話してくれました。
 元より彼らは、ギガース参謀長の命令で、対海闘士マリーナを想定した海戦において先鋒となるべく修行に励んでいたのです」
「なんだって!?参謀長自身の判断か……、それとも、カノンがスニオン岬から消えたことでポセイドン復活の可能性をサガが想定して参謀長に伝えていたのか……」
「そこまではわかりません。
 ただ、おそらくは参謀長の独断だったと彼らは考えていたようです。
 サガが想定していたのなら、私達はもっと早く呼び戻されていただろうと思うのです」
「なるほどね。参謀長はあれで聖戦のための準備に抜け目のないお方だった。
 ちょうどお帰りになられているようだから、あとで問い詰めてやろうじゃないか」
「お姉さま、サンダークロウは無しですよ」
「おっと、先に言われてしまったか。
 おまえの前でサンダークロウを見せたのは一度か二度か。しかもあの頃はまだ未完成だったはずだが」
「ええ、たった一度だけです。
 でも、私はその光景を決して忘れません。
 本来なら神々の領域であるはずの電撃の闘技を人の身にて再現されようとするお姉さまの有り様に、私は……いえ、私達は魅せられていたのです。
 私は、お姉さまに近付こうとこの十年修行してきました」

 そう言って彼女は、顔を覆っていた仮面をすっと外した。
 思えば、かつて一度彼女の素顔を見たことがある。
 お互いにまだ、少女とすら言えないほどの子供だった。
 それから十年以上の時が経って、自分と同じだけ歳を取った彼女は、聖闘士などでなければ男たちが放って置かないであろうほどに美しくなっていた。
 詮無いことではある。
 あの三羽ガラスたちは、彼女の素顔を一度でも見たのだろうか。

「これから星闘士スタインたちを迎え撃つんだ。わざわざ外れやすくするもんじゃない」
「ええ。でも、ご心配なく、お姉さま」

 その答えに、何か、引っかかった。
 その引っ掛かりを問いただすよりも前に、天蠍宮を星闘士たちが突破してきた気配が近づいてきた。

「どうやら、休憩は終わりのようだよ。いいね、ガイスト。手はず通りに」
「ええ。手はず通りに」

 彼女は、かつて幽霊聖闘士ゴーストセイントの長であったガイストは、外した仮面を軽く被り直した。
 正式な聖闘士ではないが、彼女は纏っている聖衣がある。

 ここは、天蠍宮と人馬宮のほぼ中間に位置する踊り場のような場所である。
 本来の十二宮の配置ならば貴鬼の代わりに白羊宮を守護していたはずのシャイナがこんなところに居るのは、眉唾めいた十二宮の伝説のせいだった。
 曰く、十二宮には十三番目の宮がある。
 十三番目の黄金聖衣ゴールドクロスが存在する。
 虚実もわからぬ伝説ながら、その伝説をただの冗談と切り捨てるには惜しい理由があった。
 黄金聖衣の星座は全て黄道に属する。
 黄金聖衣は神話の時代から太陽の力、すなわちアテナの兄たる太陽神の力を浴び続けてきている。
 だが神話の時代からの遙かなる時の流れは、天空さえもわずかずつ動かしていく。
 かつては黄道から外れていた星座の一つが、徐々に黄道へと入り込んでいったのだ。
 遙かなる時を重ねたこの最終聖戦の時代にあって、蛇遣い座は黄道の一部を占めるに至っている。
 そう、シャイナの纏っている蛇遣い座である。
 もちろん、今シャイナが纏っている蛇遣い座の聖衣は黄金聖衣ではなく、長きに亘って苦楽をともにしてきた白銀聖衣シルバークロスである。
 これが黄金聖衣ではないことなど百も承知だ。
 だが、教皇代行を務めるアステリオンが星闘士との決戦を前に、極力生まれの星座に対応する聖闘士を十二宮のそれぞれに配置することで、神話の時代から続く十二宮の加護を最大限に受ける戦略を披露したとき、シャイナには天啓のように閃くものがあったのだ。
 白羊宮で戦うよりも、この天蠍宮と人馬宮の間で戦う方が、十二宮の加護を受けられるはずだと。
 蛇遣い座は、蠍座と射手座の間に割り込むようにして、黄道の一角を占めていた。
 はるか神話の時代に十二宮を設計建設した者たちが、天空の星々のわずかな動きを計算に入れていて、後の世において変動する星座のことを数学的に予測していたのなら、ここに、この天蠍宮と人馬宮の間に、蛇夫宮とも言うべき宮を設けていてもおかしくないのだ。

 今ここにその蛇夫宮はない。
 だが、その現実を作り変える力を持つ者がいる。
 カリブ海の孤島にいながらにして、数百キロ離れた海域を航行する巨大タンカーを、まるごと幻影の中に取り込むことができる幻惑拳の使い手が。

「参ります。お姉さま」

 自らに課した号令のような言葉とともに、ガイストの全身から小宇宙が立ち上る。
 その燃え上がり方は、シャイナの想像を軽々と凌駕していた。
 対星闘士の戦力として十分に役に立つと思っていたからこそ、アステリオンに頼み込んで特例での恩赦を出してもらった。
 だが、いざこうしてその強さを目の当たりにすると、シャイナは仮面の下で冷たい汗が流れている自分を否定できなかった。

 グラード財団の記録から、星矢たちとガイストが戦ったときの状況を知ったとき、シャイナは戦慄を禁じえなかったのだ。
 その力は、教皇の間から双子宮の迷宮を操った双子座のサガをも、凌駕しているのではないかと。
 聖域から魔界島へ追放されて十年。
 いったいどれほどの修行を積んでいたものか。
 星矢たちはよく勝てたものだと思う。
 アイオロスの加護が無ければおそらく敗北していたのは星矢だったろうとも。

 ふと、シャイナの頭をよぎった疑念がある。
 今ガイストと戦ったら、自分は果たして勝てるのだろうか、と。

「ファントム幻惑拳!!」

 まだ星闘士たちの姿を視認さえできていない。
 にもかかわらず、ガイストは躊躇うことなく小宇宙を解き放った。

「!!」

 周囲の空間が揺らいでいるような錯覚を抱いて目眩がする。
 まるで色彩が反転したかのようにさえ見える視界の中で、星々のバーストにも似た爆発的な速度で展開される小宇宙が周囲の光景を急速に塗り替えていく。
 これは本当に幻影なのか。
 土台の上に整然たる大理石の石畳が敷き詰められ、並ぶ円柱が次々と段を重ねていき、見上げるほどの高さのドーリア式石柱となって、その上には重厚な天井が重なっていく。
 今しがた造られたものではなく、神話の時代に造られてから長き年月が経ったように色彩を失って大理石の地肌がむき出しになった宮殿は、十二宮の他の宮とその姿を類似する。
 その威容も、十二宮の他の宮に勝るとも劣らない。
 かつてあったのではないかという伝説さえ忘れ去られようとしていた、幻の蛇夫宮が。

「何!?」

 人馬宮を目指していた星闘士たちの中で、先頭を走っていた射手座サジタリアスの青輝星闘士マリクが真っ先に異変に気づいた。
 少なくとも表向きは。

「こんなところに宮殿!?」

 すぐ後を走っていた獅子座レオのゼスティルムが足を止めたので、マリクも宮の手前で一旦停止する。
 ここまで見てきた他の十二宮と遜色のない、総大理石造りの宮殿は、その入り口上部に人の手に蛇が絡んだような紋章が掲げられている。
 表の職業が占星術師であるゼスティルムは、それが蛇遣い座を示す紋章だと即座に見て取った。

「昨今の流行に合わせて思いついたか。
 我々を迎え撃つための急ごしらえの砦にしてはなかなか手間がかかっているな」
「いや、幻影ですな。これは」

 天秤座ライブラのアーケインがすたすたと近づき、手近な大理石の上面を軽く小指でなぞり、ふっと息を吹きかけてから一言で断じた。

「経年劣化しているはずの大理石の外観が真新しすぎるし、上に砂埃も積もっていない。
 質感は悪くないが、双児宮の迷宮を作ったアステリオンのリアリティに比べると、細部の作り込みが甘い。
 これを作ったヤツは宮殿の幻影を作り慣れていないな」
星衣クエーサーの造形でもないと思うんだけど、幻影に作り慣れるとかあるの?」
「瞑想したものを小宇宙で展開するわけだからな。本人が認識していないものは反映されない。
 ……だが、ここまでの幻影を作れるヤツがまだ聖域に残っていたとは」

 マリクの疑問に対してしたり顔で説明を追加しながら、アーケインは考え込む。
 これだけのモノが作れるヤツがいるなら、なぜ最初から教皇の間に配置しなかったのかと理解に苦しんでいた。
 それこそ、双児宮でアステリオンとともに襲いかかってこられていたら、切り抜けられたかどうか怪しいものだ。

「どうしましょうアーケイン様。作り込みが甘いのなら外から吹き飛ばしましょうか?」
「やっても幻影だからな。吹き飛ばしたところで次の幻影が展開されるのがオチだ。
 作ったヤツをどうにかしない限り突破したことにならん。
 中に突入して出処を探った方がよさそうだ」

 乙女座バルゴのイルリツアの提案に首を振って、アーケインはさっさと行くぞとばかりに無造作に入り口へ入っていった。

「だそうです。ゼスティルム様」
「……時間を掛けるのも癪だ。アーケインの言う通りさっさと突破するとしよう」

 一同頷きあって宮内へ突入する。
 星衣の靴が石畳を叩く音が反響する。

 その音を少し離れたところでガイストとともに聞きながら、シャイナは内心驚愕していた。
 アーケインに幻影だと見破られたとはいえ、この蛇夫宮の中にいる感触はあまりにも真に迫っていた。
 いや、これはもう幻影が実体化しているのではないだろうか。
 その驚愕が声に出るのを抑えながらガイストに指示を出す。

「よし、では星闘士たちを一人ずつ片付けていくよ。
 一人を残してあとは幻影で作った迷宮の中に閉じ込めておくんだ」
「……、ええ、行きますよ。お姉さま」

 一瞬、ためらいがあったような気がしたのは気のせいだろうか。
 ともあれ、ガイストの体から再び小宇宙が立ち上る。
 蛇夫宮の壁面や柱、天井が揺らいだかと思うと、落盤でも起きたかのように無数の瓦礫が宮内に降り注ぐ。

「来たか!」

 それを待ち構えていたアーケインは、用意よく取り出していた斧をぶん回して、頭上に降ってきた瓦礫を次々ぶっ飛ばしていく。

「ほう。この重量感は及第点だな」
「いや、アーケインさん、冷静に採点してないで!」

 赤輝星闘士クリムゾンスタイン子犬座のファタハと白輝星闘士スノースタイン孔雀座のカガツも、もちろんこんな瓦礫に押しつぶされるような愚は犯さない。
 だが、一通り迎撃したところで、仕掛けてきた方の意図に気づいた。

「イルリツアと分断されたな」
「最初からイルリツア一人が狙いか」

 ゼスティルムが振り返ると、イルリツアがいた方向には瓦礫が積み上げられて壁と化している。
 そればかりか、イルリツアが実際にいる場所がひどく遠くに感じられた。
 どうやら、立っていた位置座標の感覚を狂わされていたのか、途中まで間近にいたはずのイルリツアと、大きく分断させられていたらしい。
 そして、こちらの前には蛇夫宮の出口が大きく口を開けていた。

「僕らを各個撃破するつもりかと思っていたのに」
「いかがいたしましょう。我ら二人がここに残ってイルリツア様を待ち、ゼスティルム様方はお先へ進まれては」

 提案したのはカガツである。
 ファタハ、カガツの両名はこれまで、ゼスティルムの命を受けて陰に陽にイルリツアの監視役も努めてきた。
 処女宮にて天舞宝輪で五感を飛ばされたときを除けば、ここまでその役目はほぼ漏らすことなく務めてきたが、ついにここにきてイルリツアから離れたことになる。
 ここに至るまでにイルリツアが見せた小宇宙と技の数々は、ゼスティルムが密かに警戒しておくにふさわしいとすら言えるものだった。
 星闘士ナンバー1たるイルピトア、ナンバー2たるゼスティルムに、あるいは勝るとも劣らない。
 むしろ今まで、これほどの実力を隠し通してきたのかと感心するほどだ。
 そのイルリツアを単独で残してよいのか。
 懸念は確かにゼスティルムを悩ませていた。

「そうだな。お前たちはイルリツアが抜けてくるか、後から追いついてくるザカンとアクシアスと合流した後に追いかけてきてくれ。
 この幻影を仕掛けた聖闘士は、イルリツアを片付けてから追いかけてくるつもりであろうが、いかに傷ついているとはいえイルリツアがそう容易くやられるものではあるまい。
 うまく合流できれば、イルリツアとともにこれを仕掛けた聖闘士を倒せ」
「はっ」
「心得ました」
「では、我々は先を急ぐぞ」
「別に急がなくてもいいと思いますがね」

 出口を向き直ったゼスティルムに、冷水を浴びせるような声を掛けたのはもちろんアーケインだ。
 彼方に見える火時計はすでに射手座の火も勢いが落ちている。
 だが、神聖闘士ゴッドセイントたちの伝説ならばいざしらず、今の星闘士たちに急ぐ理由は何もないのだ。
 この火時計はアステリオンが仕掛けた、星闘士たちを焦らせるための純然たる嫌がらせなのである。

「わかっておるわ。わかっておるが、それでも時間に間に合わねば星闘士の名折れであろう」
「おっしゃると思っていましたがね。
 やれやれ、アステリオンのヤツめ、心底いい性格してやがる」

 アーケインとしても教皇の間を強襲したときにアステリオンを殺しそこねたのは痛かったと思っている。
 だが、今度は双魚宮まで突破して、真正面から今一度攻め込んでその首を取ってやればよいかと考え直した。

「じゃあ行こう。次の人馬宮は僕が引き受ける」
「うむ。もはや残っている聖闘士など物の数ではあるまい。いっきに十二宮を突破する」
「それなら俺が磨羯宮担当となりますかね。アクシアスとザカンはさっさと追いついて来て欲しいもんだ」

 頷き合うと三人は速やかに幻の蛇夫宮を抜けて次の人馬宮への階段を駆け上がっていった。



「どういうことだいガイスト!あとの面子は宮内に閉じ込めておくはずだろう!」

 星闘士たちを分断させるところまでは計画どおりだったものを、宮内に残ったのはわずか三人で、後々の本命となるはずの青輝星闘士三人があっさりと人馬宮へ向かったのでシャイナは思わず声を荒げた。
 これではイルリツアに対してこちらの居場所を告げるようなものだが、さすがのシャイナも冷静さを欠いていた。
 これはガイストが失敗したのではない、と返答を聞くまでもなくすでに薄々推測がついていたからだ。
 だが、その推測の行き着く先を、シャイナはどうしても認めたくなかった。
 かつては妹分として目をかけていたこのガイストが、まさか自分を裏切るなど。

「いいえ、お姉さま。もっと前から、これが手はず通りなのです」

 だがガイストは誤魔化すこともなくまっすぐにシャイナに相対し、そのシャイナのかすかな期待をもきっぱりと裏切る答えを放った。

「そこですか、ガイスト。
 約束通り、貴女と貴女の敬愛する次期教皇のところまでやってきましたよ」
「はい。確かに貴女は第二の約束をお守り下さいました。
 次は、私が約束を守る番です」

 幻影を貫く怜悧な声とともに、ゆっくりとした足音がシャイナの後ろから近づいてくる。
 ガイストが作り上げた幻の蛇夫宮の中で誰が近づいてきているのか、それはもう一人しかいない。
 その近づく音の方へ向かって、ガイストは恭しく膝を付き頭を垂れた。

「ガイスト……おまえは」
「ようこそおいで下さいました、イルリツア様。
 お姉さま、紹介致します。こちらは青輝星闘士乙女座バルゴのイルリツア様。
 お姉さまがかつて一度お会いしたというアルゴ座のイルピトア様の実妹でいらっしゃいます」
「先日は兄がお騒がせ致しました。
 次期教皇候補たる蛇遣い座オピュクスのシャイナ殿。
 ただいまご紹介に預かりました通り、私は星の闘士星闘士の中で、最強を誇るアルゴ座のイルピトアを兄と戴く妹、乙女座バルゴのイルリツア。
 兄イルピトア、遠縁の大伯父ゼスティルムとともに、星闘士最古の一族に連なる者です。
 以後、お見知りおきを」

 その青輝星闘士は、星衣の全身の各所が破壊されてなお優美さを失わない仕草でゆるやかに一礼した。
 告げられたそれらの事実は、シャイナにとってはすでにアステリオンから聞いていたことの再確認に過ぎない。
 だが、淡々と交わされるそれらの紹介と挨拶は、ガイストが星闘士のトップと完全に繋がりがあり、この場をセッティングする実行役として始めから計画されていたということを雄弁に物語っていた。
 心中驚愕と怒りが渦巻いているが、よもやの事態に冷静さを失うなと己を律する。
 己を裏切ったことが明白とはいえ、可愛い妹分の前なのだ。

「……話を聞いてやる。後でサンダークロウを覚悟しな」
「ええ。そう仰ってくださると信じておりました。もちろん、覚悟はしております。
 お姉さまにお願いしたいことは、突き詰めればたった一つです。
 イルリツア様の味方になって頂きたい」

 その願いはこの状況からして予想された内容だった。
 だが、微妙にシャイナの予想と異なっていたところがある。
 それがために、一蹴することをためらった。

「……星闘士の味方、じゃないのかい」

 目的はわからないが、星闘士に味方しろという話になると思っていた。
 だが、考えてみれば単に屈服させるだけならば、ゼスティルムたちが揃っている圧倒的状況で行うはずだ。
 わざわざイルリツア一人を残し、アステリオンとのテレパシーすら届かなくなっているこの隔絶した環境で話をするからには、よほどの意味があると見るべきだった。
 考えてみれば、おかしなことが多々あった。
 かつてイルピトアが聖域に襲来したとき、アステリオンとオリオン座のエルドースの両名を相手取りながら、これをイルピトアはほとんど無傷で一蹴している。
 直後にシャイナが駆けつけて数をもってイルピトアを取り囲んだものの、正直言ってあのときには全滅すら覚悟していた。
 あのときは運良くイルピトアが退いてくれて助かったと思っていたが、あれは運良くなどと言えるものではなかった。
 イルピトアがその気ならば、アステリオンの首をはねて直後に離脱することも十分可能だったはず。
 だが結局あの襲来で、アステリオンもエルドースも後遺症なく復帰できている。
 そして、二人以外は雑兵の一人とて傷ついていなかったのだ。

 宣戦布告というには、あまりにも穏当すぎる襲来だった。
 あの時点ですでにジャミールにて戦端は開かれていたというのに。

「ええ。星闘士の、というと正しくありません。
 星闘士の中にはゼスティルムとアーケインという、イルリツア様とは潜在的に対立する方々がいらっしゃいます。
 少なくとも星闘士の半数は削らねばならなかった。
 ですが、この聖域の戦いでそれはすでに半ばまで達成されつつあります。
 彼らが全滅すれば、イルリツア様とイルピトア様の目指すところは、お姉さまの目的と対立するものではないのです」
「なん……だって……!?」

 さしものシャイナも思考が追いつかなかった。
 半数を削る必要があり、それが達成されつつあるということは、この聖域決戦自体がゼスティルム派を排除する目的で仕掛けられていたことになる。
 しかも、そのガイストの飛躍したとも言える発言に、イルリツアは静かに頷いて見せたではないか。

「あんたたちの目的は……」
「ガイスト、防御は完璧ですね?」
「はい。ゼスティルム様はすでに宮外に。残るカガツ様らも大きく位置を離しています。
 十二宮外に1つ……いえ、2つ強い小宇宙がありますが、彼らの目も耳も決して通しはしません」
「結構です。では」

 シャイナの質問に答える前に、イルリツアはガイストに念を押すように確認した。
 それはつまり、その回答が知られては困る真実であるということを示唆している。

「イルリツア様らの目的は、神々すべてを滅ぼすこと」
「!!……すべて、と言ったか」
「はい」
「星闘士たちの纏う星衣といい、あんたたちの上には神々の誰かがいると思っていたんだけどね」

 アポロンやアルテミスのような十二神クラスの可能性すらあるとシャイナは考えていた。
 海闘士を抱えていたポセイドン然り、冥闘士スペクターを抱えていたハーデス然り、相応の鎧を備えた軍団を神話の時代から維持し続けるには、神話の時代にルーツのある相応の存在が上にいなければおかしいからだ。
 それがトップにいる限り、最終的には星闘士との間で決戦になることは避けられない。
 ヒルダを目覚めさせればなんとかなったアスガルドのようにはいかない。
 そのはずだった。

「さすがはお姉さま。
 ええ、ですから、ゼスティルムのいるところではお話しすることができなかったのです。
 本音を言えば、ゼスティルムがここまでの戦いで倒れてくれればよかったのですが、さすがにそこまで都合よくはいきませんでした」
「なるほど。あのゼスティルムってのは星闘士の上にいる神々の忠実な信奉者ってわけかい」

 そうして、あらためてイルリツアに向き直る。
 ここまでのガイストの言動を否定したり制止したりしないところを見ると、すでにガイストとイルリツアとの間でここまでの情報開示について密約ができていたのだと推測がつく。

「そして、あんたたちはさしずめ双子座のサガやカノンのような立場と」
「双子座の双子に喩えていただけるとは、喜んでいいのかいささか迷うところですが、過分な評価を頂いたと思ってよろしいでしょうか」
「褒めたつもりはないんだけどね」

 サガがアテナに反逆しようとした決定的な動機は今もってわかっていないことも多い。
 アフロディーテやデスマスクらと対戦した瞬や紫龍からの証言を組み合わせると、幼少のアテナでは地上を守ることなどできず、自らが立つべきだと考えたらしい節が伺える。
 もちろん、相応の野望があったことも否定できないが、地上を守るという動機においては、サガは聖闘士としての有り様に忠実であったとも言えなくはない。
 これに対してカノンは、サガへの敵愾心があったにせよ、おそらく地上を支配しようとする野望を抱いていたことが直接的な動機であったと考えられる。

 だがそれらのどちらとも、今のイルリツアの立場は大きく異なるようにシャイナには思えた。
 地上を支配しようとするならば、組織の維持や支配は必要不可欠であり、星闘士の組織を半壊させるのは愚の骨頂だろう。

「お姉さま、改めて伺いましょう。
 イルリツア様の味方になって頂けますか」
「愚問だよガイスト。
 先程とくと語ったつもりだけどね。
 アスガルドと海界を通してアテナの傍で戦ったこのシャイナが、共にアテナを滅ぼそうなんて誘いに乗るとでも思っていたのかい」
「いいえ」

 誘ったその口で、即座に、一片の躊躇いもなく、ガイストは自分の行動を否定する。

「……何?」
「この程度の話で自らを翻すようなお姉さまだとは、もちろん思っておりません。
 ですから、ここからは聖闘士として説得させていただきます」

 アテナに反旗を翻すと言いながら、同時に聖闘士として説得すると言った。
 つまりそれは、

「ガイスト。自分が何を言っているのかはわかっているんだろうね」
「ええ。よくわかっております、お姉さま」

 ガイストの握り込んでいた両拳が解かれ、禍々しさを迸らせた爪が小宇宙とともに伸びる。
 蛇にも似たその動きは、シャイナにとって、鏡を前にしているような錯覚を抱かせた。
 いや、鏡に写った自らよりも、あるいは。

「いい度胸だよ。
 久しぶりにその根性、叩き直してやろうじゃないか」
「お手柔らかに、とは申しませんよ、お姉さま。
 どうか見せて下さい、全力の貴女を。
 この十年、私は貴女を目標にして修練を積み重ねてきたのです!」

 速い!

 蛇が鎌首をもたげるような気配から、攻撃に転じる流れがあまりに自然で無駄がない。
 わかっていても不意を打つようなその動きから繰り出される拳は、その唐突さによる印象よりも早く、そしてまぎれもなく速い。

「くっ!!」

 亜光速で展開される無数の拳は、アスガルドでゼータ星アルコルのバドとやりあった経験が無ければおそらくかわせなかっただろう。

「さすがですお姉さま!さあ!続けましょう!!」

 拳と共に駆け抜けたかと思ったガイストが、次の瞬間にはヒールを翻して尾を振り切るような蹴撃を飛ばしてきた。
 さらにその蹴撃に追いつくがごとく、跳び上がったガイスト自身が蹴り足を振り下ろすようにして落ちてくる。
 その動きは、十年前ガイストの前で見せたシャイナ自身の動きに似ていなくもない。
 確かにガイストは、十年間私を目標にしてきたのだろう。
 だが、そのキレ、速さ、小宇宙は、断じて十年前のシャイナなどではなかった。

「イヤアアアアッッ!!」
「チイイィィッ!」

 振り下ろされたヒールの先を砕けよとばかり、シャイナも蹴り足を勢いに乗せて叩きつける。
 だが止まりきらない。
 止まらないというのなら、そこを叩き伏せるまで!

 降りてきたガイストの機先を制するつもりで、蹴り足を叩きつけた勢いをそのまま腰のひねりから右の爪に乗せてガイストの顔面を狙う。
 だがその動きを待っていたとばかりに、ガイストもまた右の爪を繰り出していた。
 二匹の蛇が絡み合うように、二つの爪が互いにかすめながら火花を散らして交錯する。
 両者の爪が両者の仮面を捉えた瞬間は同時。
 その瞬間にのけぞるどころか、首を前へと振りかざすことで、仮面の丸みを使って爪の勢いをそらし、絡み合った腕を支点に組技へと持っていこうとする。
 捉えようと繰り出された左手の掌底同士が、がっつりと組み合う。

「……ガイスト、おまえ……」

 この数合の間にどれほど感嘆させられたことか。
 息をつく間もなかったが、その感嘆を声にせずにはいられなかった。

「お姉さま、私はこの十年貴女を目標にして生きて来ました。
 でもそれは、十年前に見せていただいた貴女を目標にしてきたのではありません」

 組み合ったまま、ガイストの声には隠しきれない誇らしさが滲んでいる。

「こうして、いつか再会できるときを夢見ておりました。
 その再会はいつになるか、五年後か、それとも十年後かと。
 そうして教皇の座に駆け上がられたお姉さまを思い描いて、その姿に追いつこうと自らを鍛え続けてきたこの十年でした!!」

 その言葉に一切の嘘偽りも無いことを示すように、ガイストは小宇宙を燃え上がらせる。
 星闘士たちを待ち構えている間も薄々とは感じていた。
 だが、こうして目の前で見せつけられてはどうにも否定できない。
 今のガイストは、今の自分よりも強くなっている。
 だからといって、こうして自分を追いかけ続けてきた妹分に対して、はいそうですかと屈服していいはずがなかった。
 ならばなおのこと、負けてやるわけにはいかないのだ。

「いいだろう!!」

 燃え上がるガイストの小宇宙に負けてなるものかとシャイナも小宇宙を燃え上がらせる。
 力の限りに組み合ったこの姿勢からなら、一旦力を抜いて相手の体勢を崩してから投げ飛ばす方が楽なのはわかっている。
 だが、目の前にいるのは、この十年聖域に呼び戻してやりたいと、守りたいと思い続けてきた妹分なのだ。
 その妹分が全力で自分に歯向かってきているのに、引いてなどいられるものか。

「ハアアアアアアアッ!!」
「ハアアアアアアアッ!!」

 渦巻く小宇宙と小宇宙がぶつかり、間に幾重もの紫電めいた火花が走る。
 シャイナが小宇宙を高めるのに応じるかのように、ガイストの小宇宙もさらに高まっている。
 星と星とがぶつかって新たな星を生み出すかのように、ぶつかる小宇宙が輝きを増して幾重にも積み重なっていく。

「お姉さ……ま……っ!!」
「ハアアアアアアアッッ!!!」

 爆風めいた星間風に吹き飛ばされそうになるが、小宇宙以上に意地にかけて踏みとどまる。
 ガイストはたまらず体勢を崩し、一跳びして距離を取った。
 少しは矜持を見せつけてやれたかと思う。
 だが、無理をしているのは承知していた。
 ガイストの纏っている聖衣にはまだ損傷はないが、無理に踏みとどまった自分の白銀聖衣はショルダーの先端などに幾つかヒビが入っている。
 小宇宙の強さだけを比べれば、自分の方が押し切られていたはずだ。
 それでも踏みとどまったのはやせ我慢のようなものだ。

「やはり……、お姉さまは私の思っていた通りの方でした」
「安心されても困るんだけどね。私を説得するんじゃなかったのかい」
「ええ。それではそうさせていただきましょう。
 お姉さま、先程、サンダークロウを覚悟しろとおっしゃいましたよね」
「ほう。言うじゃないかい」

 ガイストにはかつて、未完成だったサンダークロウを見せたことがある。
 十年に亘って目標としてきたと豪語するからには、間違いなくガイストはサンダークロウを身に着けているはずだ。
 いや、自分なりに昇華しているに違いない。
 ならば、やるべきことは一つだ。

「いいだろう、比べてやろうじゃないか。
 今のおまえにできる全力で、おまえのサンダークロウを撃ってきな」
「お姉さま……、ええ、ええ!
 今の私にできる、全身全霊全力で、お姉さまを超えようとしてきたサンダークロウをお見せしましょう!!
 燃えよ、私の小宇宙……、黄金聖闘士たちを超えて、お姉さまに届くまで、燃え上がれ!!」

 燃え上がる小宇宙が紫の毒蛇を操る蛇使いの姿のオーラとなって立ち上る。
 星闘士たちのような星の輝きを表す白や青の小宇宙ではなく、紛れもなく聖闘士としての小宇宙だった。
 そうだ。
 やはりこのシャイナの目に狂いはなかった。
 ガイストは、本来ならばこのシャイナと蛇遣い座の聖闘士の座を争うはずの存在だったのだ。

 ……星矢にとっての、カシオスのように。

 お互いがオーラとなって背負う蛇遣いから、鎌首をもたげる蛇が牙をむき出しにして小宇宙をほとばしらさせる。
 視覚や聴覚に頼るような合図など何もいらない。
 お互いの小宇宙と小宇宙が呼び合うように、間に星の瞬きさえ許さぬほど完璧なタイミングで、二匹の蛇が激突する。

「サンダァァァクロウ!!」
「サンダァァァクロウ!!」

 当たりは互角に見えた。
 だが、激突するよりも早く否が応でも思い知らされていた。
 振るう拳も纏った紫電も、ガイストの方が紛れもなく速い!
 光速へと至ろうとする聖闘士の闘技において、より速く、より光速に近いものほど、強大な小宇宙を持つのが道理。
 お互いの伸ばした爪の先同士が激突した瞬間に、シャイナの爪は打ち砕かれ、右腕から全身を駆け巡る紫電が走る。
 止めきれない。
 均衡が破られた星間嵐が、駆け抜ける蛇の牙とともにシャイナを容赦なく吹き飛ばす。

「うあああああああああああああああ!!」

 初撃を追いかけるように畳み掛けられる衝撃が聖衣のヘッドパーツを砕き、まき散らしていく。
 冗談じゃない。
 妹分の目の前で、このまま頭から落下するような無様な姿を見せられるものか!

「キエエエッ!!」

 ぎりぎりのところで身を翻して両足から石畳に着地する。
 勢いのままのブーツが石畳を削り、辛くも踏みとどまったところで、この石畳すらガイストの作り出した幻影だったことを、揺らぐ頭の片隅で思い出した。
 この戦いの中でも幻影を乱すことすらない。
 驚異的だった。

「あいつら共々、修行は……、怠らなかったようだね」
「ええ。この十年に積んだ修行の厳しさならば、聖域の誰にも負けなかったと自負しております。
 お姉さまにもけっして引けを取るものではないと、こうして胸を張って告げることができるように」
「なるほど……ね。合格だよ……。
 十年間、あの魔界島で生き延びただけじゃなく、そこまでの強さを身につけるまでよくぞ鍛えたもんだ……」
「ああ、お姉さまにそうして褒めて頂けることを、この十年心待ちにしておりました。
 私も、……三羽ガラスの皆も」

 その漏れ出た言葉は嘘偽りの無い本心なのだろう。
 だが、この強さを味わったからこそ疑問が生じる。

「おまえは、三羽ガラスたちとどれほど修行を積んできた……。
 おまえ達は魔界島周辺のカリブ海からは出ることがなかったと聞いている」

 このガイストが、十二宮を突破する前の星矢に敗れたなどということが、そもそもありえるのか。

「…お姉さま。私達は、小宇宙のなんたるかを知らずに修行し続けていたのです」

 その答えは、シャイナが口に出さなかった真の疑問への回答だった。

「星矢と戦ったあのときまで、私の寄る辺は十年前にお姉さまから受けた基本中の基本だけでした。
 強いて言えばあとは三羽ガラスたちがギガース様から教えを受けた基礎教練のみ。
 どうすれば小宇宙を高めることができるのか。
 小宇宙とはなんなのか。
 私と三羽ガラスたちは、独学でなんとかするしかありませんでした」

 とは言っても、聖域から追放される前より、三羽ガラスたちはエーゲ海で暴れまわっていた。
 元より、ガイストだけでなくあの三人も十分に才能はあったし、努力も怠らなかったのだろう。
 彼らをポセイドンとの闘いの先鋒に据えようとしたギガース参謀長の見る目は確かだったといえる。

「修行の過酷さだけなら、この地上のいかなる者にも負けなかったと自負しております。
 それでも、あるべきときにお姉さまの指導を受けることができなかった私達は、どうしても伸び悩んでいたのです。
 死の縁から戻ってきたことは、百や二百ではありません。
 そのたびに、死んでなるものかと、お姉さまに再びお会いするまではと、生にしがみつき、戻ってくることで強くなれると思っていたのです。
 それがゆえに、五感をも薄れた中で、その先にある小宇宙の真髄に、ついぞ気づかないままに」
「……そうだろうね。自ら小宇宙の真髄に気づくことができる者はほとんどいない」

 本来、小宇宙とは人間だれもが持っているものだ。
 だが、神話の時代から遥か時を経たこの現代にあっては、それらの大半が忘れられている。
 生命そのものであることから、生と死のはざまを潜り抜けることで小宇宙が強くなるのでは、と考えたガイストたちの着眼点は決して間違っていない。

 今のガイストの言葉は、今のガイストがその小宇宙の真髄を掴んでいることを物語っていた。
 それができた理由。
 できるようになった時期からして、考えられる回答は限られる。
 状況から考えられるその最有力候補は、この場にいた。

「……察するに、あんたか。イルリツア。
 星闘士は世界中から有望な戦士をスカウトしているとは聞いていたが」

 ここまでひたすらに傍観に徹している青輝星闘士に対して確信を持って視線を向ける。
 イルリツアはこたえた様子もなく、涼しい顔で頷いた。

「ご明察です。
 聖域から終生遠島となったほどの逸材として、実のところ十年前からガイストたちは我々のスカウト候補ではあったのですよ。
 ただ、下手に動けば我々の活動を聖域に気取られることになるため、なかなか動くことができなかったのです。
 ガイストたちがペガサス星矢たちと戦った後になって、ようやく堂々と動けるようになりました。
 もっとも、そのために三羽ガラスたち三人をスカウトしそこねることになったのは我々にとっても痛恨でしたが」

 白銀聖闘士でさえ、星矢たちとの戦いを経て生き残った者は数えるほどしかいないのだ。
 もっと助けられなかったのか、と言える立場でもなかった。
 不本意ではあるが、ガイストを救助してくれたことには内心で感謝せざるを得ない。
 口に出すつもりはないが。

 おそらく、イルリツアが前々からガイストたちをチェックしていたのは事実だろう。
 自分とて、ガイストたちが星矢たちに敗れたとの知らせを聞いて、ギガース参謀長の制止を振り切ってすぐさま魔界島に突入したのだ。
 おそらく決着がついてから3日と経っていなかったはず。
 にもかかわらず、砕かれた聖衣の破片とわずかな生活の痕跡だけを残して、ガイストも三羽ガラスも、まったく見つけることができなかったのだ。
 一旦は、全員海底に沈んだものと諦めていた。

 だからこそ、ハーデスとの戦いが終わった後に、ガイストから連絡が来たときには心底驚いたものだ。
 星矢たちに敗れた後に海を漂流し、魔界島に掛けられた呪いのために再び魔界島に漂着したと説明を受けてはいた。
 だが、今にして思えばイルリツアたちが自分に先んじて魔界島に突入して、ガイストを救助していたに違いない。

「そうして、ガイストに星闘士としての闘法を伝えたのか」
「過酷な修行で下地は十分すぎるほどにあると見ました。
 ですから、闘法を教えたというよりは、聖闘士に対する一つの助言をしたに過ぎません」

 小宇宙を高めるために、ガイストが長年行き詰まっていた壁を突破させた助言。
 それは紛れもなく、星矢たちをして十二宮を突破させたムウの助言と同じであろう。

「セブンセンシズ……」
「ええ、そうです、お姉さま。
 究極の小宇宙の正体、小宇宙の真髄とは、人間の持つ五感、第六感を超えたその先にある第七感、セブンセンシズであると。
 そう教えられた私は、ひたすらに生き延びることを目指すのではなく、五感を絶ってその先にある感覚を求めました」

 セブンセンシズ、あるいはエイトセンシズといった、壁を超越したその先にあるものには、気づけという方が無理なものだ。
 星矢たち神聖闘士でさえ、何の助言も無しにセブンセンシズに到達したのは一輝だけだったと聞いている。

「そうして……、掴みました。
 星矢に遅れること何ヶ月かというのが癪ではありますが、これがセブンセンシズだと」

 星矢に遅れを取ったのが不満というのは冗談でもなんでもなくガイストの本音なのだろう。
 もはやいない星矢に対して、今ならば負けぬとばかりに確かな闘志をほとばしらせるように、ガイストが小宇宙を燃え上がらせる。
 星矢たちが戦ってきた強敵たちを直に見てきたからこそわかる。
 今のガイストは、あの黄金聖闘士たちや神闘士、海闘士七将軍たちにも匹敵する小宇宙を持っていると。

 だが、ガイストの次の攻撃は拳ではなかった。

「お姉さま。
 なぜ、カシオスに、小宇宙を伝えなかったのですか」

 それは質問ではなく、明白なる糾弾だった。

「……カシオスに、小宇宙を?」

 呆然と、あまりにも無防備に、聞き返していた。

「それは……、カシオスには……」

 小宇宙の素質がなかった?
 そんなはずはない。
 いや、青銅聖闘士の候補生とすることがもったいないくらいに、カシオスには間違いなく才能があり、だからこそシャイナは彼を弟子として最も鍛え上げたのだ。
 事実、星矢に敗れてから小宇宙のなんたるかを知ったカシオスは、その才能を遺憾なく発揮した。
 獅子宮では聖衣もまとわずに紫龍と瞬の二人を一蹴し、最期には獅子座のアイオリアを相手にさえ渡り合ったのだ。
 そのカシオスに、小宇宙の素質がなかったはずがない。
 にもかかわらず、星矢に敗れるまで、カシオスに小宇宙のなんたるかを伝えなかった。

「お姉さまは、追放される前の私に聖闘士としてのあり方の基礎を教えて下さいました。
 ギガース参謀長とお姉さまからお教えいただいたことで、私は小宇宙を燃やして戦うことを身につけることができました。
 カシオスにだって、同じことができたはずです。
 いいえ、あの男ならばきっと私よりもはるかに素晴らしい聖闘士になれたはず!」

 そうだ。
 シャイナ自身、確かにそう思っていた。
 ガイストは残念ながら追放されてしまったが、カシオスはガイストのようにはさせてはならないと。
 カシオスならば、仁智勇を備えた真の聖闘士になれると信じていた。
 そうだ、だからこそ思ってしまったのだ。
 そのカシオスが、

「カシオスが……、おまえのようにされてしまうことが、怖かった……」

 これ以上、自分の手元から失われてはいけない。
 教皇に睨まれて、修行半ばで聖域から追放されるようなことがあってはならない。
 幸いにも、カシオスの身体能力は聖闘士候補生の中でも群を抜いていた。
 聖衣を手に入れるまでは、カシオスに小宇宙を教えるまでもない。
 小宇宙を燃やす根本となる身体の育成に力を注ぎ続けてきた。
 カシオスもまた、ガイストたちを守れなかった慙愧の念から、己を痛めつけて鍛え上げることに躊躇がなかった。
 その考えは間違っていなかったはずだった。
 伝説に謳われるペガサスの聖衣を手に入れるため、選びぬかれた候補生たちとの壮絶な生き残り戦であっても、カシオスはその身体能力だけで歯牙にもかけなかった。
 すべて一撃で、苦しめることなく終わらせた。
 九人まで。
 ただ、最後の一人を除いて。

「お優しいお姉さま。
 確かに追放されたことでお姉さまのお心を煩わせたのは、このガイスト一生の不覚です。
 私の追放がなければ、カシオスはきっとお姉さまから小宇宙の手ほどきを受けて、間違いなくペガサスの聖闘士となっていたでしょう。
 ……ありえないことですが」
「何?」

 ガイストは、吐き捨てるようにつぶやいた。
 今まで隠し続けてきた嫌悪感を、これでもかというほどに顕にして。
 だがその嫌悪感は、シャイナに向けたものではなかった。

「伝説となったペガサス星矢。
 イルピトア様の見立てによれば、星矢こそはかつて神話の時代に冥王ハーデスの肉体に傷をつけた伝説の聖闘士の生まれ変わりとのこと。
 信じがたいことですが、星矢が為したことを思えば、それが真実であったと納得せざるを得ません。
 神話の時代よりはるか経た、アテナに付き従う神聖闘士の再来。
 ならば、星矢がペガサスの聖闘士となって帰ってくることを、アテナは待望していたのでしょう。
 そのために、カシオスの才能は邪魔だったはず」
「……ガイスト、おまえ、何を言っているのかわかっているのか!?」

 ガイストが告げようとしていることが、自分が今まで信じていたものを根本から揺るがすものであると、言われなくても気づいている自分がどこかにいた。

「ええ、とくとわかっておりますよお姉さま。
 カシオスは、あの優しい男は、なんのために星矢と戦わされたのですか。
 星矢という神話の時代から選ばれた駒がいたのなら、同じくペガサスの聖衣を競ったカシオスたちはなんだったのですか。
 初めから星矢の踏み台とするために、彼らは死んでいったというのですか。
 アテナを守る聖闘士、そんなもののために!
 その理不尽を……、お姉さま、貴女は、誰よりも、わかっていたはずです!!」
「ガイスト!
 おまえが言っていることは!カシオスの敗北が予め定められた運命だと言っているんだぞ!」
「いいえお姉さま、運命などではありません!
 断じてあんなものが運命などであってたまるものですか!
 だからこそ、なおのこと、私はアテナが許せない!!
 お姉さまのために、全身全霊を賭けて己を鍛え上げていたカシオスを、己が愛する聖闘士のための踏み台にしたアテナの策謀を、私は断じて許せない!!」

 十二宮にあらざる幻の蛇夫宮にて、その糾弾はここにはいない女神へと届けとばかりに響いた。
 自分に向けられた糾弾ではなくても、否応無しに思い出させる光景がある。
 いけ好かない魔鈴の弟子に、日本人の星矢に、カシオスが翻弄されるあの光景。
 あのとき、どうしてカシオスに、小宇宙の闘技を教えておかなかったのだと後悔させられていた。
 あの日本人のボウヤなどが小宇宙を感じることなどできるはずがないと思いこんでいた。
 後から考えればその考えがおかしいことは誰の目にも明らかだ。
 他ならぬ日本人の魔鈴が、白銀聖闘士になっていたというのに!!

 どうして自分はあんな楽観をしていたのか。
 まるで、そうであることが、自然であるように……。

 マスクの中で冷や汗が流れるのを無視できない。
 いや、この滂沱たるものは冷や汗などではない。
 ガイストの言葉は、ずっと目を背けていた自分の疑問をも正確に貫いていた。
 考えがまとまらない。
 いや、考えようとすればするほど、ガイストの言葉が真実であるように思えてしまう。

「よく、わかっているんだね。カシオスのことを……」

 逃げようとしたわけではないが、ぽつりと、そんな言葉が口からついて出た。
 ガイストがカシオスと顔を合わせていたのはおそらく一年かそこらのはず。

「ええ、よくわかっているつもりです。
 カシオスは、三羽ガラスたちと同じでしたから」
「同じ……、同じか」
「ええ、彼らは、私を女神のように……いえ、アテナであるかのように忠誠を捧げてくれました」

 その光景は想像がつく。
 絶海の孤島に年端も行かぬ少女と、三人の少年たち。
 彼らが生きていくための希望であり、よすがであり、目的であった。
 そのために、彼らは自分たちが聖闘士となったように振る舞った。
 元の名前を捨てて、ガイストのための聖闘士になったのだろう。

「でも、彼らはポセイドンとの戦いのために自らの技を鍛えていたのです。
 私は、彼らを海闘士との聖戦に連れて行ってやりたかった。
 連れて行ってやらねばならなかった!
 こんな私のような小娘の庇護で終わっていい聖闘士たちではなかった!!」

 そうだ、ギガース参謀長が危惧していたのも道理。
 現にテティスとの戦いでも、地の利のある海闘士たちと海界で戦うことの不利は嫌というほど感じさせられた。
 星矢たち神聖闘士たちという例外中の例外が無ければ、聖戦の前哨戦ともいうべきポセイドンとの戦いでどれほどの犠牲が出たのかわからない。

 来たるべき聖戦のために己を鍛えるのが聖闘士の常であり、その聖戦を前にして死んだカペラたち白銀聖闘士たちの無念はいつも心のどこかにある。
 だが、戦うべき相手を明確にして、その目標のために邁進していた三羽ガラスたちの無念も、カペラたちのそれに勝るとも劣らないだろう。

「この無念、誰よりもお姉さまにはお分かりいただけるでしょう。
 カシオスこそが!あの仁智勇に溢れた男こそが!
 ペガサスの聖闘士としてこの最終聖戦の時代に戦うべき男だった!
 神話の時代から舞い戻った女神の随伴たる亡霊などではなく、今に生きる我々こそが、この地上の愛と正義のために戦うべきだったのです!」

 わかっている。
 言われずとも、嫌というほどわかっているとも!
 星矢たちとともにアスガルドを、海界を駆け抜けて戦ったときに、思ったとも。
 口には出さなかったものの、どうして思わずにいられようか。
 そこにいるのが、その聖衣を纏ったカシオスであったら、と。

「ガイスト。
 おまえの言っていることは正しい。
 そんなことはわかっている……」

 だが、現実はそうではなかった。
 そして、そうでなかったことに納得もしたのだ。
 十二宮で、アスガルドで、海界で、星矢が起こした幾度もの奇跡を目の当たりにしたのだから。

「だが、おまえもわかっているはずだ。
 三羽ガラスたちも、カシオスも、もはや取り返せない。
 取り返しがつかないことを突きつけても、わたしを説得できるとは思わないことだ」

 強がりだ、と言っている自分がわかる。
 仮面が無ければどんなに歪んだ顔をガイストに見せてしまっていたことか。
 それでも、よもやハーデスを復活させて三羽ガラスやカシオスを復活させるなどという与太話を言うわけでもあるまい。
 でなければ、どれほど口惜しくてもこの無念は、繰り言に過ぎないのだ。

「そうですね。
 お姉さまが私と同じ無念を抱かれているというだけで今は十分です。
 ただ、私は信じているのです。
 お姉さまは、必ず、アテナを倒さねばならない、と」

 そのとき、ガイストの仮面越しの瞳に射抜かれたような気がした。

「……何を言っている。いかに無念があろうと、私にはアテナを倒す理由なんて……」
「ありますよ。
 いえ、言い直しましょう。
 必ず、蘇りますよ」
「……まさか」
「蘇らせるのです。星矢を」

 ハーデスを蘇らせるなどという、先程頭をよぎった世迷い言を見抜かれたかと思った。
 その衝撃から立ち直る前に、ガイストが畳み掛けてくる。

「予定の刻限を過ぎたのでお伝えしてもよいでしょう。
 グラード財団を強襲して星矢の身体を奪取しているのは、星矢の長兄である風鳥座エレシオナスの魁。
 そして、星矢とは星座を巡る因縁の宿敵となる、暗黒聖闘士ブラックペガサスのリザリオン。
 どちらも、イルピトア様直々の盟友として、この作戦のために投入された切り札です。
 イルピトア様は、魁とリザリオンに対して約束されました。
 星の闘士、星闘士の長の名に賭けて、必ずや、星矢を蘇らせると」
「!!!」

 それが何を意味するのか。
 いや、もうガイストには全て見抜かれている。
 ガイストは、そしてイルリツアは、それをとくとわかった上で誘いをかけているのだ。

「星矢に……もう一度」

 揺らぐ声のままに、その名前を、口に出してしまった。
 この感情が何かを否応なく思い知らされる。
 これが果たして、仮面にまつわる掟に強いられたものだったのか、単なる結果に過ぎなかったのかは今となってはわからない。
 思えば、ひどい矛盾だ。
 女であることを捨て去るために仮面を被るという掟があった。
 ギリシャ神話に数々の悲恋や泥沼の愛憎が謳われることを思えば、その掟が制定された背景もわからなくはない。
 そしてまた興味本位に女聖闘士の仮面を取ろうとする者が多発したことも容易に想像がつくため、それに対する抑止策として仮面の下の素顔を見た者は殺すしかないという掟もまたわかる。
 だが、その例外はいったいなんなのか。
 素顔を見たその男を愛しろとは、誰がどんな狙いで定めたものか。
 そうなってはもはや掟に何の意味があったのかもわからない。
 だが仮面を被るときに教え込まれた掟は、神話の時代からの重さとともにこの身この心を縛る。
 結局、自分には星矢を殺せなかった。
 殺せないまま、星矢は冥王ハーデスに殺されてしまった。
 だから自分には、星矢を愛し続けるしかないというのに。

 神話の時代から続く掟はその男を愛しろという。
 その掟を作ったはずのアテナにとって最愛の男を。

 それでも、会える、という言葉は無理やりに飲み込んだ。

「……イルピトアは、と言ったね。
 今ガイストが言ったことは、少なくともあんたは承知しているということかい、イルリツア」
「ええ。ガイストにはこれらの事情を全て話した上で、同意してもらいました。
 それを約束の一つとして、ガイストにはこの任務を引き受けてもらったのです。
 兄に代わりましてこの場で貴女ともお約束致しましょう。
 ペガサス星矢を、必ず、蘇らせてみせると」

 イルリツアの答えには微塵も揺らぎがなかった。
 本来ならありえないはずの蘇生という奇跡であるはずなのに。

 だが、考えてみれば、自分たちはすでに幾度もその奇跡に直面している。
 エリスは古の聖闘士を亡霊聖闘士として蘇らせて手下とした。
 アベルは十二宮で倒された黄金聖闘士たちを蘇らせた。
 ハーデスに至っては、過去の聖闘士も今代の聖闘士も、まとめて復活させて十二宮攻めの先鋒として使った。
 彼らに匹敵する神々が星闘士の裏にいるのならば、星矢を蘇らせるという話も信じるしかない。

 だが、ガイストは先程、イルリツアの目的は神々すべてを滅ぼすことだと言ったではないか。
 星闘士の上にいる神々を利用して星矢を蘇らせて、イルリツアは何をしようというのか。

「それを担う神は……、ゼスティルムが信奉しおまえたちが倒そうとしている神の名はなんだ!」
「さすがはお姉さま。その疑問を抱かれるのはもっともです。
 ですが……、それは、残念ながら言えません。
 言うことができないのです」
「それで信用しろというのは虫が良すぎるんじゃないかい」
「お姉さま、ご理解下さい。
 お教えできないのではありません。
 言うことができない、のです」

 ガイストの声には、言い逃れしようとする気配はなく、むしろ口惜しささえあった。
 イルリツアもまた、ガイストの言葉に深く頷いた。
 何かがあるのだ。
 ハーデスに十二時間の命をもらったサガたちが真意を告げることができなかったように。
 今、ここで、ガイストが言うことを留める何かがあるのだ。
 名前を秘する神ならば、あるいはその名を告げた途端にイルリツアの星衣が何かを起こすのかもしれない。

 シャイナはそこでようやく冷静さを取り戻せた。
 少なくとも、裏にハーデスがいるなどと嘘偽りで誤魔化すつもりはないのだということはわかった。
 現在暗躍しているエリスによって復活させるという、亡霊として星矢を拘束するものでもないこともわかった。
 少なくとも、ガイストもイルリツアも本気なのだ。
 本気で、星矢が蘇ると考えている。

 星矢が蘇ったとき、確かにこの思いに向き合わねばならないだろうとシャイナは思い知った。
 だが、そのときに無様な自分を星矢に見せるわけにはいかない。
 アテナと戦うなどと大それたことかと思っていたが、考えてみれば自分はとうにそれをやっていた。
 もともと、ジャミアンともども、城戸沙織に、アテナに拳を向けた大馬鹿者だったではないか。

「……そうだったね。何を今更悩むことがあったのか」
「お姉さま、おわかり頂けた、と思ってよろしいでしょうか」
「ああ、おまえが嘘偽りを言っているわけでも、空手形でわたしを乗せようとしているわけでもないことはよくわかったよ」
「それでは、共に来て下さいますね。
 我らを謀った、カシオスや三羽ガラスたちを踏みにじった憎きアテナを倒すために。
 神々すべてを倒し、我ら人間が踏みにじられることのない世界のために!」

 仮面の下に歓喜の表情を浮かべているであろうことがよくわかる。
 まっすぐにこちらに手を伸ばしてくるガイストに、応えてやりたいという気持ちがないわけではない。
 だけど。

「そうだね。昔のわたしならその思いに賛同していただろうね」
「お姉さま?」

 ガイストが小首をかしげる。

「それはないんだ。ガイスト。
 アテナはそんな策謀ができるような女じゃない」
「……どういう、ことですか?」
「多分、私は今生きている聖闘士の中では、かなりアテナのことを知ってる方だろう」
「ええ、そう伺っております。
 アスガルドにも同行され、海界にまで赴かれたのですから、おそらく神聖闘士たちに次ぐくらい、アテナのことをご存知でしょう」
「わたしが忘れられない顔がある。
 ポセイドンにさらわれる瞬間のアテナだ」
「ポセイドンに、というとアスガルドの件が終わった折のことですね。
 ……どう、だったのです?」
「ただの、小娘だよ。星矢に助けを求めるだけのな」

 ため息とともに思い出す。
 ポセイドンが起こした、海界へといざなう巨大な渦潮に飲まれようとしたとき、とっさに星矢の名を叫んで、星矢へと手を伸ばそうとした。
 アテナを守れなかった、という悔恨がいくばくかあった。
 だがそれ以上に、あのときの、アテナではない城戸沙織の顔が、忘れられずに記憶に残っている。

「……お姉さまの口から聞いているのでなければ、到底信じられない話です」
「だろうね。
 だが、少なくとも星矢と共にいるとき、あの城戸沙織に、確かにアテナではないものをわたしは見てきたんだ」

 そのときに覚えたかすかな感情のことは、いや、否定しなくてもいいだろう。

「一方でね、私はアテナの凄さも嫌というほど見ているのさ。
 ジャミアンの奴と一緒に城戸沙織をさらおうとしたときも、さっき言ったアスガルドの時だってな。
 ヒルダやポセイドンを向こうにして戦ったことがあるからわかる。
 あれらと比べても、確かにアテナは神なんだよ。人間が及ばない、神だ」

 とてつもなく強大無比なあの小宇宙もしかと覚えているのだ。
 忘れられるわけがない。
 アスガルドの折には、北極と南極の氷が融解する地球規模の動きすら、あの祈りで止めて見せたのだ。
 あの小宇宙は、さすがはオリンポス十二神の一角というべきなのだろう。
 後にエリシオンから降り注いだタナトスの小宇宙と比べても、アテナの方が強大だったと断言できる。
 あれに匹敵するのは、海底神殿で真正面から対峙したポセイドンくらいのものだ。

 その人間が及ばないであろう神との戦いを、星矢に託したのだ。
 自分はその場にいなかったが、エリスやアベルとの戦いでも、きっと星矢はああだったのだろう。

「……だから、だから何だとおっしゃるのですか!
 人間が到底及ばないというのなら、その神が人間を弄んできたのがこの最終聖戦の結果ではありませんか!」
「そうだな。
 許せないことは山とある。
 だけどね。
 あんな小娘なのに、結果を見ればアテナは確かにこの地上を守ってきたんだと確信できるんだよ」

 アスガルドのときも、海底神殿でポセイドンの魂を封じ込めた様も確かに見た。
 冥王ハーデスとの戦いでも、最後はアテナ自らがハーデスを打倒したという。
 ……その直前に、星矢にかばわれて。

「だから、わたしはアテナを守る。
 星矢が蘇るというのなら、城戸沙織って小娘とは堂々と勝負してやる。
 いや、あんな小娘は叩きのめしてやっていい。
 でも、嫌いじゃないんだよ。
 そのことは、私の中では両立しているんだ」
「わかりません。どうしてもわかりません!
 お姉さまのおっしゃってることは明らかに矛盾しています。
 そうしてまで、アテナを守ろうとされるお姉さまの理由はなんなのですか!」

 自分でも言っていてわけがわからないのだから、もちろん必死になっているガイストを騙せるはずもなかった。
 何が理由か。
 どうしてそうしてまで、自分はアテナを守ることに躊躇がないのか。

 マスクの中で目を閉じる。
 小宇宙の深淵に手を伸ばすように、自分の中の思いにひたすらに手を伸ばしていく。
 そうして、思い浮かんだのは、星矢でもアテナでもなく。

「……地上の愛と正義のために」
「お姉さま……?」
「わたしの下で修業を始める前に、あいつは、そう言った。
 カシオスは、地上の愛と正義のために、アテナの聖闘士になろうとしていたんだ。
 ならば、それを、わたしが裏切るわけにはいかないだろう」

 わかってしまえば、そんな単純なことだった。
 単純で、そして、どうしても譲ることができない一線だった。
 たとえ可愛がっていた妹分の頼みであっても、これだけは、譲ることができなかった。
 本当に、ただ、それだけだったのだ。

「そう……ですか」

 がっくりとガイストが崩折れて、自らが作り出した石畳の上に膝をついた。

「ありがとうございます……お姉さま。
 それならば、私が勝てなくてもいいです。
 私はアテナに負けたのではありません。
 お姉さまを守ろうとしたカシオスに負けたのです」

 そうかもしれない。
 そうなのだろう。
 深く深く噛みしめるようなガイストの呟きにもはや迷いは感じられず、ようやくに、ガイストが納得してくれたと思った。
 だが。

「私のすべきことは決まりました。
 申し訳ありません、イルリツア様。
 しかと、そこで御覧ください。
 私が、為すべきことを為すのを」
「残念です……。
 ですが、約束には応えましょう。
 必ずや」
「ありがとうございます。では」

 ぞくりと、した。
 いつの間にか立ち上がったガイストの姿勢には、欠片ほどの揺るぎも無かった。
 蛇遣い座を思わせるオーラとなって立ち上る小宇宙は、熱く熱く、だが同時に、構えるその爪の先のように鋭く研ぎ澄まされていた。
 その爪の先に込められた小宇宙が紫電めいた輝きを見せる。
 まるで星々を生み出す引き金のように、その小宇宙の中に新たな星々さえ作り出すかのように。
 先程までが全力でなかったというわけではないはずだ。
 だが、明らかに先程までのガイストとは違っている。
 決死の覚悟、とでもいうのか。
 いや、まるでこれは、ポセイドンを前にした星矢のような……

「お姉さまが見せてくださったサンダークロウ。
 元は、電撃を受けたかのような衝撃を与える技でしたね」

 鋭く輝きを増す小宇宙とは裏腹に、ガイストの口調には一切の敵意が感じられなかった。

「それを鍛え続けることで、いつしか電撃そのものに昇華された。
 私の思い描いていた理想は、間違いではありませんでした。
 お姉さま、ご存知ですか。
 これはもはや、神々の領域の技であることを」

 確かに、ポセイドンとの戦いでも電撃を浴びせられた覚えがある。
 アスガルドでヒルダと相対した星矢たちも、ニーベルンゲンリングによる電撃に苦しめられた。
 タナトスがエリシオンから繰り出した攻撃も電撃を伴っていた。

「そうかい。
 じゃあ、アテナと喧嘩するときにはこれが相応しい技ってわけだ」
「ええ。
 できればその光景を見たかったのですが……」

 マスクの中で、ガイストがはっきりと笑ったような気がした。

「今の私にできるすべてを乗せてお見せ致します。
 星矢たちがしたように、この生命そのものを燃やして、限りなく、限りなく……!」

 ガイストの両爪の先に燃え上がる小宇宙がさらに鋭く輝いていく。
 あまりの強さにその輝きだけでも星々を払いそうなほどに。
 さらにその輝きに、ポセイドンの三叉の鉾を思わせるほどの紫電が幾重にも重なっていく。

 敵意はなくとも、ガイストがこうして向かってきているのなら、それに応えよう。
 ああして、ひたすらに十年間、自分を追いかけてきてくれた妹分が、全霊を賭けてきてくれた願いを拒絶したのだ。
 せめてこの小宇宙に応えなければ、このシャイナの女がすたる。
 命そのものを燃やすのだと、確か瞬が言っていた。
 星矢がエリシオンにおけるタナトスとの戦いで六感はおろかセブンセンシズすらも絶えようとする中で、神聖衣を生み出したときに、そうしたのだという。
 この身体に纏うはアテナの血を受けた聖衣ではなく、ただの白銀聖衣だが、それでも、星矢たちとともに戦ったこの自分にも、できるはずだった。
 自分は、星矢とペガサスの聖衣を競ったカシオスの師。
 できないなどと泣き言を言うなとこの口が何度言った。
 できるのだ。
 現に今、その様を妹分が見せてくれているのだから。
 いやさ、そのガイストの思いを超えねばならない……!!
 この身体に、この手に、かつてない強大さで燃え盛る小宇宙を感じる。

 いや、まだだ。
 まだ足りない。
 自分が超えなければならないのは、あのアテナの、とてつもなく強大無比な小宇宙なのだ。
 あれに勝つと言ったのだ。
 神々なにするものぞと戦った星矢たちのように。
 それに届こうとした、目の前にいる妹分のように。
 自分は、その先へ、行かねばならない。
 行ってみせるのだ。

「燃えろ……わたしの小宇宙よ。
 あの小宇宙をも超えるまでに限りなく……!
 ガイスト、あんたに応えよう……!!」
「ああ……、それでこそ、私の信じた……。
 参ります!お姉さま!!」

 互いの小宇宙がぶつかり合って光り輝いている中、もはや空気を震わせて伝える音など届くはずもない。
 だが、五感を超えたセブンセンシズの世界に到達している今、光速を超えてお互いの声がはっきりと届いた。

『サンダァァァァクロウッッッッッ!!!』

 視線を交わすまでもなく、床を蹴るタイミングは寸分たがわず同時。
 星々の誕生のようにひしめき合った紫電がぶつかり合う互いの中点へ到達し、光速に届けとばかりに振るった腕の先に、確かに光速の紫電が、

 ぶつからなかった。

「な…………!?」

 振るった手の先の、万物すべてを貫く自信があった紫電の爪が、確かに、貫いていた。
 ガイストの、胸の中心を。
 ごふりと、ガイストが盛大に吐血したような震えが、背中まで貫いてめり込んだ腕を伝ってくる。
 からり、と、ガイストの仮面が床に落ちる。

「さすが……です。
 おねえ……さま……」

 どう見ても、助かるはずのない致命傷だった。
 それなのにガイストは、血を溢れさせた口元で確かに微笑んでいた。
 意味がわからない。
 ただ、私はガイストをたたきのめして、再び聖闘士として立ち上がらせるつもりだったのに。

「燃えよ……私の小宇宙よ……、今、ただこのときだけでいいから……」

 その致命傷も顧みず、ガイストはなお倒れることなく小宇宙を燃え上がらせる。
 それが、星の死を意味する超新星の輝きであることはあまりにも明らかだった。

「よすんだガイスト!今ならまだ手当をすれば……!女神の泉へ行けば……!」

 叫んだ自分が信じていない。
 何十という候補生たちの死を見送ってきた経験から、これは絶対に助からないとわかっていた。
 その死を前にしてガイストは何をしようとしているのか。
 最期にしようとすることを、自分は受け止めなければならないのでは……。

「黄道に……座した、黄金聖衣たちよりも……強く……強く……」

 ガイストを貫いている腕が、太陽を手にしているかのように熱い。
 燃え上がった小宇宙はまさしく星のように。
 ガイストの全身に纏った聖衣すらその小宇宙に耐えきれず、太陽風に吹き飛ばされるかのように次々と吹き飛んでいく。

「これが……、エイトセンシズ……!
 これが……私の……、最期の力……!!!」

 エイトセンシズとは、セブンセンシズよりもさらに先にある。
 本来、人間には死んでから初めて発現するものと聞いていた。
 今のガイストは、目前に迫った死よりわずかのひとときだけ先んじて目覚めたエイトセンシズで動いているのだ。

 その只中で、ガイストは文字通り最後の死力を振り絞って右手を高く掲げる。
 その爪の先は、もはや直視することもできぬほどの眩い輝きに覆われていた。
 これが、ガイストの最期の一撃だというのなら、自分は甘んじてそれを受けよう。
 妹分の思いに、せめてそれだけは応えてやらねば。
 その輝きに向き直る。
 放てと。
 ガイストの胸を貫いたまま動かせぬ右手に代わり、左手で自分のマスクを取る。
 この素顔は、ガイストへの餞別のつもりだった。

「ああ、お優しい……お姉さま……、これは、すべて……私のわがままです……。
 きっと……カシオスが願ったとおりに……あなたは、どうか、そのままで……」

 そうして、サンダークロウが振り下ろされた。

 ガイスト自身の首に。

「………………!」

 長い髪が軽々と宙を舞うのと同時に、残された身体から星の光を圧するように鮮烈な真紅が噴き出した。
 降り注ぐ。
 ガイストが燃やしていた命そのものの灼熱をそのままに、ガイストの血で濡れた聖衣が、全身が、熱く熱く燃えるようだった。
 白銀聖衣のすべてが真紅に染まり、それらすべてが自ら燃え盛って星の光となって空へ還っていく。

 そうして、右腕に最期まで感じていた命の炎が、紛れもなく、消えていった。
 力を失って倒れ込むガイストの身体を、考えるまでもなく左腕で抱きとめ、支えきれずに膝からくずおれた。
 その座り込んだ石畳が、周囲を取り囲んでいた石柱が、蜃気楼のように崩れ行く。
 ガイストが作り上げていた幻の蛇夫宮が消滅し、元の十二宮の石段の踊り場へと戻っていった。

 幻惑が終わったとき、眼前には長い髪を広げたガイストの首が、静かにこちらを向いて転がっていた。
 何一つ、恨みも後悔も無いとでも言うかのように、幸せそうな微笑みを浮かべたままで。

「……ガイスト」

 おまえは、何を求めていたのか。
 私に殺されたかったのではないだろう。
 罪滅ぼしのためにこんなことをしたのではないだろう。
 わからない。
 ……何も、わからない。

 そっとガイストの身体を横たえ、離れてしまっていた首を抱き上げる。
 驚くほどに軽い。
 瞳を閉ざしてやり、絡み合った髪を梳いてやってから、そっと首元に置いてやった。
 その間に攻撃をしてこないであろうことは確信を持っていた。
 そうして、マスクをかぶり直して、ようやくにして向き直る。

「……仕掛けたのは、あんたかい。イルリツア」

 大理石の土台に腰かけたまま、これまでの戦いに一切手だしせず、口出しすらほとんどしてこなかったイルリツアが、静かに立ち上がった。

「どちらが主体か、と問われると難しいところですが、少なくとも了承済みであることは否定しませんよ」
「聞かせてもらおうか。その事情をね」
「いいえ、その前に、私はガイストとの約束を果たさねばなりません」
「約束……だって?」
「ええ。ガイストが約束を果たしたのに、私が応えないわけにはいかないでしょう」

 静かに、だが紛れもなく青輝星闘士の強大さを持って、イルリツアの青く輝く小宇宙が膨れ上がる。

「もう一つあえて申し上げれば、私もね……、それなりに、
 八つ当たりというものをしたい心境なのですよ!!」

 イルリツアの右腕から、瞬時にして空間を制するような無数の光速拳が放たれる。

「それは……こちらのセリフだよ!!」

 ガイストとの対決で燃え上がらせていた小宇宙のおかげで、全身がその動きについていく。
 こちらがかわしたとみるや、イルリツアはさらにもう一連撃の光速拳を放ってきた。
 見える。
 おそらくはゼータ星アルコルのバドにも匹敵するであろう光速拳が、今は、自分の目にもはっきりと見える。
 それらをさらにかわして、イルリツアの懐へと飛び込んでいく。

「そうでなくては……、ガイストが賭けた意味がないというもの!!」
「それを、喋ってもらおうか!!」

 三連撃めを放とうとしたイルリツアの鼻先で機先を制するように、爪ではなくヒールを翻して、イルリツアの足元を払う。

「こう、来ますか!」
「直接、蹴飛ばしてやらないと気がすまないんでね!!」」

 体勢を崩したイルリツアの顔面へと、膝蹴りを叩き込もうとする。
 だが、イルリツアはその倒れ込む動きを加速して、こちらの膝が届く前に空中で一回転して、こちらの頭に踵を叩き落としてきた。
 顔を逃したこちらの膝がイルリツアの背を蹴飛ばすのと、当たりはほとんど同時。

「そういうところは、ずいぶんと気が合いますね!!」
「ずいぶんと、泥臭い戦いができるじゃないか!星闘士ナンバー1の代行ともあろうものが!」
「褒めていただいたと解釈しましょう!」

 空中で体勢を自在に変えたイルリツアが、宙に浮いたまま今度は真正面から生身の拳で殴ってきた。
 イルリツアはおそらく、サイコキネシスも使うのだろう。
 それで直接攻撃してくるのではなく自分の体勢を変えるのに使って、身体で殴りかかってくるのだから、八つ当たりというのも本当だろう。

 なるほど、イルリツアにしてもガイストを好きで使い捨てたのではないとわかった。
 少なくとも、その憤りに嘘がないことは、しかと感じることができた。
 受けて立ってやろうじゃないか!

 イルリツアの右拳をマスクの額で真っ向から受け止める。
 いや、拳に対して思い切り頭突きをぶちかましてやった。

「信じられないことをしますね!あなたは!
 ガイストの前ではずいぶんと気を使っていたということですか!」
「妹分の前だったんだ!格好つけるに決まってるだろう!」

 恥も外聞もなく、叫んでいた。
 マスクが外れていたら泣き顔を晒すことになっていただろうが、それすら気にならなかった。

「その言葉を聞いて、安心しましたよ!」

 突き出したこちらの顎にイルリツアの生身の左拳が振り抜かれる。
 売り言葉に買い言葉となるイルリツアの声は、自分と同じくらいに怒っているような気がした。
 ぐらつく頭を振り直して無理やりに意識を食い止める。
 お互いに、これが聖闘士と星闘士の戦いかと呆れるほどに、大きく肩で息をしていた。
 イルリツアは歯を食いしばるようにして、怒りを抑え込むように何度か大きく息を吐き直し、思い出したように一旦踵を翻す。
 視線が外れたところで、多分自分も同じ顔をしているのだろうと思い、こちらも息を吐き直す。

 堂々と見せた背中に、殴りかかる気はしなかった。
 二十歩ほどの、もっとも聖闘士の戦いに適した距離まで離れたところで、改めてイルリツアは向き直ってきた。
 素顔のままながら、仮面をかぶり直したような冷徹さを取り戻した顔になっていた。

「……失礼しました。
 次期教皇を相手にする戦い方ではありませんでした」
「どうもアンタたちはわたしを買いかぶりすぎじゃないかと思うんだけどね。
 で?堂々とやり直そうってのかい」
「ええ。少しは気が晴れましたので。
 危うく約束を果たさずに貴女を殺しかねないところでしたが」

 イルリツアが改めて、はっきりとした構えをとる。

「今度は、私の全力全霊をもって、貴女を打ち据えるとしましょうか……!」

 先程までの八つ当たりは感情に任せたものではあっても、到底全力などではなかった。
 それがはっきりとわかる。
 イルリツアの小宇宙が恐ろしく強大になっていく。
 ここまでの小宇宙は黄金聖闘士たちでもそうはいないだろう。
 青輝星闘士の名に恥じぬ青く煌めく小宇宙は、まさしく星を眼前にしているかのようだった。
 乙女座バルゴの星闘士というが、あのシャカと戦ってもおそらく遜色ないのではないか。
 事実、ここに来るまでにイルリツアは処女宮でバルチウス、シヴァ、アゴラというシャカの高弟たち三人を3対1で撃破してきているのだ。

「ここまで登ってくるまでに、私自身も大苦戦を強いられました。
 処女宮では二度も死の淵まで追い込まれるほどの激闘でした。
 ですが、バルチウスたちに受けたダメージで私が弱体化しているなどと、ゆめ思わないでいただきましょう
 あの戦いによって私の小宇宙はさらに強大になっているのですから!!」

 なるほど、イルリツアの星衣の各所が砕かれていたのは処女宮での激闘によるものだろう。
 彼らを撃破するのに、おそらくは天舞宝輪すらも食らっていただろう。
 だがそれを生きて突破した以上、一時的にしろ五感を失ったことで、ただでさえ強大だったイルリツアの小宇宙がさらに強大になっているのは間違いない。

 これが、神々すべてを滅ぼそうとする星闘士の全力だということか。
 その誘いを断ったが、こちらも女神アテナと喧嘩する気はあるのだ。
 神々に届くまでに、小宇宙を高めてやらねばどうする。

 ガイストが何を求めて何をしようとしていたのかはわからない。
 だが、イルリツアに対して、敗れるような私を見たかったわけではあるまい。
 不甲斐ない私を見たかったはずがないのだ。
 命をかけて私に何かを託してくれた。
 それが何かわからないが、少なくともそれは、この戦いの先にあるはずだった。

「この蛇遣い座オピュクスのシャイナは……、神聖闘士ペガサス星矢にさえ恐れられた聖闘士なんだ」

 纏っている聖衣が熱い。
 十二宮の加護があるとしたら、白羊宮に座して待つよりも、ここで幻の蛇夫宮として待ち受けるべきだと考えたのは正しかったのか。
 それがために、ガイストに託した幻影の宮は無駄になった。
 いや、それも無駄になっていいはずがない。
 ガイストの作り上げた宮で、ガイストがやろうとしていたことがあるはずだ。

「燃えよ……わたしの小宇宙よ……」

 小宇宙が、限りなく高まっていく。
 ガイストと本気で向き合っていなかったわけではない。
 だが、明らかにガイストと向き合っていたときよりも高く熱く小宇宙が燃え盛っている。
 セブンセンシズに目覚めたガイストとの戦いが、このシャイナにとって果てしない意味があったことがわかる。

「カシオス……、ガイスト……、見ていな。
 おまえの師は、おまえの姉貴分は、生き残った聖闘士の中で最強であると見せてやる……!!」
「星の闘士たる星闘士の末裔として一つ問いかけておくことがありました」

 イルリツアは、身体の前に構えた両手の間に、轟々たる銀河団のごとく煌めく小宇宙を果てしなく増大させながら、その小宇宙とは裏腹に静かに告げてくる。
 もちろん、すでに空気を震わせる声が届くような状況ではなく、お互いに五感を超えた意思の伝達だった。

「貴女の星座、蛇遣い座が戴くのはギリシャ神話に謳われる、死者すら蘇らせた万能の医師アスクレピオス。
 冥王ハーデスの理すら覆した彼を危惧し殺したのが、大神ゼウスの雷でした。
 にもかかわらず貴女が、サンダークロウなどという技を使うのは、いっそ神々への敵愾心として小気味よいのですが」

 その評価が世辞ではないと告げるように、イルリツアはそこでかすかに微笑んだ。

「そんなサンダークロウという技には、貴女の真の必殺技を覆い隠す意図があったのではありませんか」

 驚いた。
 それはたしかに誰にも、ガイストにすら見せたことがない、聖域で誰一人として知らない秘密だった。

「そして、断っておきましょう、シャイナ。
 私は貴女とガイストとの戦いを、しかと拝見しています。
 この意味が、わかりますね」

 わかるとも。
 聖闘士に、星闘士に、一度見た技は二度とは通用しない。
 まして、シャイナとガイストとの双方が全力を駆使して交錯させた技をイルリツアの前で見せたのだ。
 サンダークロウはこのイルリツアにはおそらく通じないと見ていいだろう。

「ああ、わかっているさ」

 ゆえに、聖闘士は得意技を破られたときのために秘奥義を持たねばならない。
 これを教えてくれたのは、ギガース参謀長だったか。

「いいだろう。
 この技を人に見せてやるのは初めてだけど、ガイストへの手向けだ。
 いつの日か、ペガサスの聖闘士になった暁にカシオスに授けてやるつもりだった、
 このシャイナの最大最強の奥義、とくと受けてみるがいい!!」
「やはり……、そうでなくては意味がありません。
 ガイストが夢にまで思い描いていた奥義、とくと見せていただきましょう!」

 そうか、と仮面の中でつぶやいた。
 ガイストは、そんなことまで予想していたのか、と。

 シャイナの小宇宙がオーラとなって燃え立つ。
 蛇遣い座が象徴するは、ギリシャ神話における最高の名医アスクレピオス。
 彼が手にする杖を取り巻く蛇が、その星座の名前の由来とされている。
 だが、今シャイナが燃え上がらせているオーラは、一般に知られている伝説のそれとは違っていた。
 杖を取り巻く蛇が、一匹ではない。
 髪の毛のように絡み合う無数の蛇が、威圧するようにその瞳をイルリツアへ向けてなお輝かせている。

「……やはり、これは、メデューサの」
「さすが、占星術師をやっているというだけのことはあるようだね……」

 アスクレピオスが星座になった経緯には、ギリシャ神話に名高い怪物メデューサが関係している。
 髪の毛がすべて毒蛇からなり、その目を見た者すべてを石に変えたといわれるメデューサは、英雄ペルセウスによって首を刎ねられた。
 ペルセウス座の聖衣には、それを象徴するメドゥサの盾が備わっている。
 英雄ペルセウスはメデューサの首から流れる血を集め、女神アテナに献上した。
 医師アスクレピオスはそのメデューサの血を薬として使い、死者を蘇らせてしまったのだ。
 神ならぬ人の手で死者を死の国から奪われた冥王ハーデスは激怒し、大神ゼウスへ訴えた。
 神と人との秩序を乱すものとして、大神ゼウスの雷に撃たれてアスクレピオスは死んだが、医師としての功績を讃えられて天へと上げられ、現在の蛇遣い座となっている。
 アスクレピオスが手にして駆使する蛇とは、すなわち、そのメデューサの血を象徴するものでもあるのだ。
 その小宇宙が蛇夫宮のあった場を飲み込むばかりか、イルリツアの小宇宙までも飲み込まんと膨れ上がっていく。

「なるほど。並大抵の人間ならばこの視線一つで死に至るほどの猛毒。
 神聖闘士たちと同行している際に、貴女がこの技を使えなかったのも道理。
 では……、ガイストとの約束に賭けて、その最大奥義に私も全力で応えましょう!」

 飲み込もうとするシャイナの小宇宙に呼応するかのように、イルリツアの小宇宙もさらに果てしなく高まっていく。

「……否定はしないよ。
 だけどね、本当の理由は別にある」
「!?」
「これはわたしの技であって、わたしの技じゃない……。
 星矢の前で、この技を出せるわけがないだろう!」
「これ……は、まさか……っ!!?
 ならば……、このイルリツア最大の一撃を打ち砕けるものか、この一撃で見定めましょう!」

 イルリツアの小宇宙が、飲み込まれようとする寸前から膨れ上がっていく。
 両手にたぎらせていた小宇宙を頭上で重ね合わせるとともに、目映い星の光が爆発した。

「スターバースト・センセーション!!!」

 対するシャイナの小宇宙がメデューサを冠する毒の紫から一瞬にして相転移する。
 星の誕生そのもののような純白。
 ペルセウスがメデューサの首を落としたとき、その首からメデューサの血とともに誕生したものがある。
 それは、

「これが、わたしとカシオスの、永遠の師弟の絆となるはずだった奥義……。
 ペガサス・ファンタジー!!!」

 ペガサスが、カシオスが纏うはずだった天馬がメデューサから羽ばたく。
 メデューサの死から現れるペガサスの生誕は、死者すら蘇らせたというアスクレピオスたる蛇遣い座とペガサスを繋げるものであり、
 それは、ペガサスの聖闘士となったカシオスと、その師となるこのシャイナを永遠に繋げる絆となるはずの技だった。

 爆発する星の輝きと、星々を携えて飛翔するペガサスとが激突する。
 星と星との激突が新たなる星の誕生を促す光景さながらに、蛇夫宮のあった広場の一面が溢れる光の奔流で宇宙空間さながらの光景へと変貌する。

「恐るべき……、だが、こんなものではないはず!
 ガイストが信じた貴女の力は……こんなものではないはず!!」

 処女宮でシヴァたち三人を正面から吹き飛ばした自身の奥義を真正面から受け止められながら、イルリツアは驚愕するのではなく叱咤の声を上げた。
 光の奔流の中でその声ならぬ意識は、小宇宙よりも激しくシャイナに叩きつけられる。

「燃えろ……!高まれ……!
 星矢がそうしたように……、カシオスならば到達したように……!」

 イルリツアが放った星の輝きにあぶられているわけでもないのに、全身に纏っている聖衣が途方もなく熱い。
 ガイストの血を受けた白銀聖衣が、この体から溢れる小宇宙に応えるように鳴いている。
 遠く、遠く、神話の時代から積み重ねた年月をこのひと時呼び寄せるかのように、果てしなく。

 それは、もはやありえなくなったはずの鳴動だった。
 黄金聖衣のうち、五つは冥界でタナトスによって砕かれ、その存在は星矢たちの神聖衣と一体になっている。
 だから、十二の黄金聖衣が揃うことはないのだ。

 だが、その共鳴は十二の黄金聖衣が揃ったときだけ発せられるのではない。
 黄金聖衣たちが、神話の時代から積み重ねられたその意識で、ここにない黄金聖衣を呼ばんとするときにも、また響き渡るものなのだ。
 そうして、白銀の輝きをさらに上回る新たな輝きが、幻となった蛇夫宮に降誕する。

「ガイスト……、見ていますか!
 この光景をもって、貴女への弔いとしましょう!」










蛇遣い座の黄金聖衣


 シャイナの纏う蛇遣い座の聖衣が、紛うことなき黄金の輝きを放っている。
 これに類似した光景を、シャイナ自身目にしたことがあった。
 かつて海皇ポセイドンに挑んだとき、星矢の纏っていたペガサスの聖衣が星矢の小宇宙に呼応して確かに黄金聖衣のごとき輝きを放っていたのだ。
 それはもうありえないはずの光景だった。
 だが、聖域全土に響き渡るその音色から、事態を察する者もいた。

「アステリオン……、まさか、これは……」
「……星矢たちの聖衣は、黄金聖闘士たちの血によって蘇った後に、星矢たちの小宇宙に呼応して黄金の輝きを見せたことがあったという。
 黄金聖闘士たち亡き後、もはやそんな奇跡は望めないと思っていた」

 ガイストのファントム幻惑拳に包まれている間は、教皇の間にいるアステリオンとスパルタンにも事態は杳として知れなかった。
 幻惑拳が晴れた後に、自害したとしか思えないガイストの遺体を確認したのみだった。
 イルリツアによる策謀だろうということはすぐにわかったが、それが為そうとすることの意味がわからなかった。
 その意味が、聖域すべてに響き渡るこの響きによって明かされる。

「だが、聖衣に血を与える者が、セブンセンシズに目覚め、一瞬でも黄金聖闘士たちの位にまで、いや黄金聖闘士たちを上回るまでに小宇宙を高めることができたのならば……」
「いや、神話の時代から積み重ねられた黄金聖衣とはその程度で再現できるものではなかろう。
 それならば過去に修復された聖衣にも同様の現象が起きていてもおかしくはない」

 スパルタンの指摘ももっともだと考えこんだアステリオンは、そこで戦慄すべき事態に思い至った。

「……おそらくガイストは、この決戦、この状況すべてをこのために用意したのだろう。
 シャイナが纏っている蛇遣い座の聖衣が、黄金聖衣と並んで神話の時代から太陽の光を浴び続け、黄金聖衣に等しい力を受け続けていること。
 それを呼び起こすために、十二宮の中で伝説に謳われた蛇夫宮の地において最大限の加護を受けられるようにしたこと。
 星座を争うべき自分を相手にさせることで、シャイナの小宇宙を最大限に高めさせること。
 そして、血を与えるガイスト自身が、セブンセンシズを超えて命すべてを注ぎ込んだこと。
 すべては、今この最終聖戦の時代に、蛇遣い座の黄金聖衣を生誕させるために。
 ……シャイナを蛇遣い座の黄金聖闘士とするために」

 終身遠島の罪を解くようにとのアステリオンへの要請の時点よりもさらに前から、星闘士のトップと手を組んでまで。
 その想いには、かつてのカシオスを連想させずにはいられない。
 アステリオン自身はカシオスとはそれなりの知己でもあった。
 元々同じ白銀聖闘士としてシャイナとの交流はあり、そのシャイナの弟子として注目していたのだ。
 アステリオン自身が星矢に勝ちながらも魔鈴に手ひどく敗れた後は、その魔鈴の弟子星矢に敗れた男として、妙な親近感すらも覚えるようになった。
 何度も出会えば、カシオスの秘めていた想いなど当然のようにサトリの法で察せられてしまう。
 それを察していると告げることもなかったし、シャイナに伝えることもしなかったが。
 それでも、カシオスだけでなく、シャイナの周辺にいる面々がこぞってシャイナを慕っていることはよくわかっていた。
 カシオスほどではないにしても、シャイナのためならば命など惜しくはないという奴などこの聖域には両手で足りないほどいるのだ。
 妹分であったガイストがどれほどシャイナを慕っていたのか、直接面識がなくてもアステリオンにはおおよそ想像がついた。

「だから俺などではなくおまえが教皇になるべきだったのだ……」

 教皇代行なぞに祭り上げてくれた恨みが、本人に聞こえないとわかりながら言わずにいられない。
 その人望、仁智勇まであり、そうしてついに今、黄金聖闘士の一人にまで数えられるようになったのならば、もはやシャイナに文句など言わせまいとアステリオンは思う。
 しかし、

「シャイナに大恩あるガイストがそうしたことはわかる。
 だが、奴は……、イルリツアはなぜ、シャイナを黄金聖闘士にしようとしたのだ」

 スパルタンが口にした疑問はアステリオンも抱いていたことだ。

「……単に聖域に黄金聖闘士が欲しかったのではないはずだ。
 それならば貴鬼を牡羊座の黄金聖闘士にしてしまった方が手っ取り早い。
 わざわざ神話の時代から蛇遣い座の黄金聖衣を復活させようとした理由があるはずだ……」

 かつてアステリオンとオリオン座のエルドースを一蹴したアルゴ座の青輝星闘士イルピトアを思い出す。
 あのときにイルピトアはシャイナと顔を合わせている。
 おそらくはそれをきっかけに何らかの策を思いついたのだろうが。

「蛇遣い座の黄金聖衣に、何があるというのだ……」




 黄金聖衣を纏った聖闘士が相手では、白銀聖闘士が何人かかろうが相手にならん、とはかつてアイオリアが星矢に告げた言葉である。
 そのときシャイナ自身は当のアイオリアのライトニングボルトを受けて意識を失っていたので、その言葉を間接的に伝え聞いたのは大分あとになってからだったが。
 それはそうだろうと頭では理解していたつもりだったその言葉を、シャイナはようやく本当の意味で実感していた。

「これが……蛇遣い座の黄金聖衣……!!」

 イルリツアが放った奥義と拮抗していたペガサスが、黄金の輝きを纏った瞬間に勝負が決した。
 星々の爆発をも正面から突き破ってペガサスがイルリツアへ向けて瞬時に駆ける。
 その瞬間にシャイナは半ば無意識のうちにわずかに右腕をよじって、イルリツアの真正面に直撃するはずだったペガサスの突進を、足元側へとずらした。
 結果、ペガサスが駆け抜けた直後に、イルリツアは天空高く吹き飛ばされていた。

「……ガイスト、お兄様、これで……全て、揃いますよ……」

 十二宮の遥か上空でイルリツアが満足げに呟いた言葉は、生きている聖闘士たちの誰の耳にも届くことはなかった。
 力を失ったイルリツアは、砕かれた星衣の欠片を星屑のように散らばせながら、ガイストが蛇夫宮を築いていた地の中央に落ちる。
 既に石畳を失っていた宮の跡に、岩盤が大きく穿たれて、砕かれた瓦礫に埋もれるようにイルリツアは動かなくなった。
 だが、その光景をシャイナは見ていなかった。

「……おまえはこれを、わたしに託したかったのか」

 勝敗が決するとともに、黄金の輝きが霧散して再び白銀へと戻った聖衣を抱きしめるように、自らの両腕を聖衣のパーツごと掻き抱いていた。
 マスクの中であふれる涙で、視界もままならない中、それでもガイストの遺体の方を見つめようとする。
 瞑目したままのガイストの首は、もちろん何も答えてはくれない。
 だが、閉ざされた瞳で、きっとその光景を見てくれていたのではないかと、シャイナは思わずにはいられなかった。

「こんな……わたしのために……」

 カシオスも、ガイストも、どうしてそうしてしまったのか。
 女神でもない、自分のために。

「でも……、おまえたちの死は決して無駄にはしないよ。
 この蛇遣い座オピュクスのシャイナが、今この時代に生きていた運命を必ずや……」

 そのためには、話せる者には話してもらわねばならない。
 ぎりぎりのところではあったが、イルリツアを殺したという手ごたえはなかった。

「必ず生き永らえて、話してもらうよ。
 ガイストが、そしてあんたが、イルピトアが、何をしようとしてるのかをね……」

 ガイストを葬ってやりたかったが、今はイルリツアを死なせてしまうわけにはいかない。
 必ず後でカシオスと並んで葬ってやるからと心に誓って、シャイナは意識を失ったイルリツアの身体を担ぎ上げる。
 尋問と治療と、両方のためにまずは女神の泉へ向かうつもりだった。
 その使命感ゆえに、シャイナは気づかなかったことがある。
 一つは、瀕死の重傷だったイルリツアの身体が、わずかずつではあるが癒されていっていること。
 もう一つは。

「……信じられん」
「だが、間違いなく、イルリツア様は意図的にこの事態を起こされた」
「わかっている」

 背後の瓦礫の中に隠れていた、二人の星闘士の存在に。
 監視役として蛇夫宮に残っていたカガツとファタハの二人である。
 幾度もの小宇宙の激突の余波に巻き込まれて散々な目に遭ったものの、それでも正規の星闘士として、なんとか監視役としての役目を全うして生きながらえた。
 蛇夫宮がある間は何が起こっていたのかはわからなかったが、少なくともイルリツアがシャイナをけしかけて、シャイナがそれに応えるかのように黄金聖衣を出現させたことは確認できた。

「……どうしますカガツ様?今ならシャイナは我々の存在に気づいておりません。
 殺れると思いますが……」
「いや、悔しいが今の我々では、あのイルリツア様を上回ったシャイナを相手に、初手をしくじれば勝ち目はない。
 それよりも、この事態をゼスティルム様に伝えねば大変なことになる」
「確かに蛇遣い座の黄金聖衣……この目で見ても信じられません」
「それを、イルリツア様は意図的に起こされた。
 おそらくは、イルピトア様もご承知の……」
「俺は信じられません。
 陛下に最も忠誠心篤きイルピトア様が、聖闘士に助力することを計画されていたなどと」
「それは私も同じ気持ちだ。だからこそ、そのことをゼスティルム様にお伝えせねば」
「……わかりました、カガツ様」

 二人の星闘士も去り、その場にはガイストの遺体だけが残された。
 静かに満足した笑みを浮かべたまま。






「改めて、我が魂よりの感謝を申し上げます、イルリツア様。
 三羽ガラスたちの魂を弔って下さったこと、このガイスト、その恩義に必ずやお応えいたします」
「私達星闘士の存在意義でもありますからね。
 とはいえ私としては、既にその報酬は支払って頂いたつもりなのです。
 小父様方にも気づかれずに話せる場を作る貴女の力、有り難いものなのですよ」
「重宝して頂いているのに申し訳ありませんが、あと数日でこの居城を離れねばならなくなりました」
「ということは、やはり貴女の敬愛する姉から連絡が来たのですね」
「はい。ようやくにして教皇代行アステリオン様のご許可を頂いたと」
「貴女の敬愛する姉は、貴女の思っていた通りの人であることが確認できたわけですね。
 聖域への帰還おめでとう、と、敵である私が言っていいのかしら」
「よろしいかと。
 すべてが終わった暁には、聖域とイルピトア様とは手を取り合うことになるのでしょう」
「では、改めて、貴女の故郷への帰還を祝いましょう。
 ワインの一つでも用意すればよかったのでしょうけど、気を抜くわけにはいかないのでね」
「紅茶を用意いたしましょう。
 これでもカリブ海の海賊行為で生きてまいりましたので」
「いいですね。
 シェインに聞いたのだけど、最近では太陽神アベルすら紅茶を嗜んだそうよ。
 聖闘士も星闘士も神々すらも揃ってイギリス趣味なのが現代らしいわ」

「貴女の姉はどこで私達を迎え撃つと思いますか」
「白羊宮で迎え撃たれる可能性もありますが、それですと十二宮の加護が十分ではありません。
 もしお姉さまが白羊宮に待機されるおつもりなら、なんとか天蠍宮と人馬宮の間で待機されるように説得します」
「ガイスト。……考え直す気は、ありませんか」
「ええ。幻朧魔皇拳を受けたとしても、諦めませんよ」
「貴女がシャイナを説得できたら手の打ちようはあるとお兄様はおっしゃいました。
 私としてはそうなってくれることを願うのですが」
「全力で当たるつもりではありますが、お姉さまが言葉による説得でどうにかできるような甘いお方だとは思いません。
 おそらく、この生命を賭けることになるでしょう」
「貴女の提案は、私達にとって渡りに船だったことは否定しません。
 蛇遣い座のシャイナが覚醒すれば私達にとってこれ以上ない助けになるでしょう。
 ですが……、私としては貴女自身も惜しいのです」
「過分なご評価に感謝を。
 でも、私というカードを引き換えにしてでも、覚醒されたお姉さまはきっと貴女様の、いえ、人類すべての希望となるでしょう。
 私の力はしょせん、ただの戦力に過ぎません。
 ですが、お姉さまはきっと、アテナなどに負けはしない、人類の救い手になってくださいます。
 それは、貴女様とイルピトア様の計画の最終段階で、きっとお役に立つでしょう」
「……私はね、貴女の力ではなく、貴女自身が惜しいのですよ。
 お兄様には悪友が何人もいますが、私にはこうして話せる友人がそうはいないのです」
「それは……、困りました。
 少しだけ決心が揺らぎそうになってしまいます」
「駄目ですか。
 貴女の、敬愛する姉への信頼には勝てませんか」
「ええ。
 私の代わりと言ってはおかしいでしょうが、貴女様に勝ったお姉さまは、きっと貴女様の信頼できる盟友となってくれるはずです」
「そこは見解の相違がありますね。
 シャイナが蛇遣い座の黄金聖衣を出現させたとしても、私は負ける気はしませんよ」
「イルリツア様、貴方様には感謝いたします。
 でも、断言します。貴女様であっても、お姉さまには勝てません。
 私の信じるお姉さまは、誰にも負けません」
「その信頼が本物になれば私としても望むところです。
 いいでしょう。貴女の信頼に賭けるとしましょう。
 あとは、私がシャイナに殺されないように上手く図ってください」
「そこは安心してください。
 お姉さまは貴女様を殺せません」
「ほう?シャイナは聖域で恐れられていたとも聞きますが」
「恐れられていますとも。
 でも、私の知っているお姉さまは一度たりともだれかを殺したことはないのです。
 ……いえ、殺せないのです。
 強がっているけど、本当は誰よりも優しいお方なのです。
 そのお姉さまを守るために、カシオスは、自分こそがお姉さまの前に立って敵を殺すだけの力をつけねばならないと、冷酷無比に徹しようとしていました。
 お姉さまの手を煩わせる前に、すべての敵を一撃で倒せる男になるのだと。
 彼も、本当は優しい男だったのに」
「本来ならばペガサスの聖闘士になるはずだった男ですね。
 いえ、シャイナのための聖闘士になるはずだったのかもしれません。
 でもそれでは、シャイナが誰一人殺せないというのならば、貴女の最後の一手は果たされないのではありませんか」
「ええ。
 お姉さまの手を煩わせるつもりはありません。
 カシオスが守ったお姉さまを汚すつもりもありません。
 最後の一手は、お姉さまではなく、私自身が決めます」
「……わかりました。
 貴女の命を賭けた覚悟、しかと受け取りました。
 私は必ず、貴女とシャイナの待つ蛇夫宮までたどり着きます。
 友よ。貴女と私で、貴女の敬愛する姉を、必ずや黄金聖闘士に到達させましょう」
「ええ。
 私の生涯ただ一人の友と、確かに約束しましょう」




第三十二話へ続く

聖衣デザイン、挿絵、カステラ氏
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