釣り・・・なかでも防波堤釣り、磯釣りはもう趣味の領域を遙かに通り越して、一時は釣りが生きがいになってたような時期もありました。このエッセイの連載後、釣り雑誌「月刊つりのとも」の編集部に入社して、仕事まで釣り関連になったくらいですから。
狙った魚を釣り上げる事はもちろん楽しいのですが、今では、それよりも釣りする人の心、情緒、情感の世界を話したり書くのが好きです。


釣れづれ草



はじめに


「釣れづれ草」は、1992年の11月から1993年6月までの約半年間、25回にわたって週刊釣場速報(つりそく)に連載されたものです。もともとは「つりそく」に何回か釣り関連の駄文を投稿しているうちに、編集長から「釣りの周辺のハナシで連載はできないか?」と誘われて調子に乗って書き始めたのが発端でした。

連載しているうちに、「せっかく書いたのだからNIFTY/釣りフォーラム」にもと厚かましく思いつき、転載の承諾を得て「つりそく」とほぼ同時進行でUPさせていただきました。思いつきやすいタイトル名故、過去にいろいろなカタチの他の「釣れづれ草」があったとある人から聞きましたが、私が以前から楽しんでいるパソコンの釣行記録データベースの名前が「ツレヅレグサ」だったので、安易ながらタイトルにさせていただきました。

全25回分をここにまとめるために、ざっと読み返してみましたが、「無知は強し」ですね。今なら恥ずかしくて絶対にこうは書かないというものもいくつかあります。まあ、自分自身の初期の釣りの記録としての意味も込めたから、それでいいのかもしれません。また、ちょうど時期を同じくして公私ともに変転の時期だったので感慨深いものもありました(このあたりは最終回に書いています)。

感想なんておこがましいものは初めから期待しておりません。こうした読み物は毎日の家庭で作られる食事と同じで、いちいち感想なんて言うのも聞くのも煩わしいものです。私だって人の書いたエッセイをいちいち感想を考えて読んだりしないですから。いつか誰かが、気まぐれで読んでいただいて、共感なり反感なり少しでも何か感じていただければ、それだけでありがたい事だと思っています。

1993年6月 JETこと武富純一



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釣り1年目を振り返って

本格的に釣りというものをやり始めてから一年がたった。
たいした経験も知識も教えを乞う人もないまま、夢中になってドップリ釣りにはまり込んだ一年間であった。この間の釣行記録はすべて日時、場所、釣果、仕掛、天候、潮、感想等の項目別にパソコンでデータベースにしてきた。一年間の釣行回数は88回。ほぼ4日弱に一回だから我ながらよく行ったものだと思う。

この一年間をざっと振り返ると、11月の矢倉海岸、垂水のルアーでのシーバス狙いから始まり、冬場の須磨や和田防での投げ釣り、2月の垂水漁港のサヨリ、3-4月は北港でハネ、5-8月は北港でチヌや近くの猪名川へブラックバス、9月からは武庫川沖一文字でタチウオ、10月からは垂水沖一文字でのグレといった釣り物である。須磨や平磯の海釣り公園へも何度か出かけた。須磨沖のスズキの船釣りや和歌山への磯釣りにも挑戦した。

過去のデータを魚種や釣り場、潮の具合と釣果の関係などで検索すると、目的に関係したデータだけを簡単に抽出できる。そうすると、一回ごとの釣行ではわからない思わぬ発見があって楽しい。私のもうひとつの釣りの楽しみである。また、釣果で検索すると、大釣りと自分で思えるのは数回だけであとはどうしようもない貧果ばかり。北港のハネは7回通って7匹、そのうちの3回はボウズである。チヌは16回行って釣れたのはわずか3匹。猪名川のブラックバスは9回狙って一匹釣れただけ。ルアーでのシーバスにいたっては未だその姿を私は知らない。長年のキャリアの人からすればどうしようもない記録であろうが、すべてのことが手探りだった初年度の記録としてはこんなものかと納得している。

データを分析して役立てるまでにはまだまだデータ数が少なすぎる。2年目は記録としてだけではなく、もう少しましな釣りをして先の釣行に活用できるものにしていきたいと思っている。


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道具も知識も身についた、さて!

海には"シーバス"というルアーで狙う私の知らない魚がいて、ヒットするとファイトぶりが凄いというのを何かで読み、いつか自分もその"シーバス"とやらを釣りあげてみたいものだと思っていた。それが誰でも知っている"スズキ"の別名であることを知ったのは、恥ずかしながらそう昔のことではない。
平磯海づり公園へサヨリ釣りに行った時、「タナはヤビキ」と教えられた。長さは周りの人を見て理解できたが、その言葉の意味がずっとわからなかった。ある日、"ヤビキ→矢引き"と思いつき、矢を引く真似をしてみて突如目の前が明るくなったこともあった。

新聞を読んでいてデスクという文字があると、これがテグスと読める。工事中のビルのクレーンを見上げて、竿から延びた釣り糸を連想してしまう。売店で「オツリ」という言葉が「釣り」と聞こえる・・・いずれも釣りを始めて、魚なら何でも、とにかく釣ることに夢中だった頃のことだ。釣り場では穂先を折ったり、鈎の結び方が弱くて鈎だけ持って行かれたり、鈎だけならまだしも小サバに竿、リールごと全部引っ張っていかれ途方に暮れたこともあった。欲にかられて投げ、ウキと何本も竿を出して自分の竿同士でオマツリしてしまい、往生したこともある。

こうした中、本や情報誌でせっせと知識を仕入れ、釣り具店へ通い詰め、どうにかやっと少しは余裕を持って掛かった魚の引きを楽しんだりできるようになってきた。しかし、キャリアと腕だけは時間を費やさないことにはどうにもできない。まあ、オリンピック選手だって地方予選から勝ち進むのだ。どんな名人だって最初からうまかった人はいないはずだ。
タックルもひと揃い整った。基礎の知識と技術もどうにか身についた。あとはガンガン釣りまくるだけ、のはずなのだが・・。



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擬似餌で釣るタチウオ

タチウオの引き釣りは疑似餌ですることにしている。

疑似餌といっても一般のルアーではない。ドジョウの姿そっくりの形をした合成樹脂製のもので、タチウオ用に市販されているものである。始めの頃は多くの人と同様、タチウオテンヤに生きたドジョウを針金で縛りつけていたが、これがどうも私の好みに合わない。クネクネヌルヌルとのたうつドジョウを苦労してつかみ上げ、喉元をブスリと刺して固定し、それでものたうつ全身を針金でグルグル縛りつけるというのがどうにもイヤでたまらない。地面に叩きつけて動かなくなってから付けると楽だとも知ったが、これも何だか気が進まない。それでも引き釣りはやりたいから、我慢してドジョウを使っていた。

そんなところへ見つけたのが、この疑似餌だったのである。さっそく武庫川沖の一文字で何回か試してみた。食いが悪い時は、ドジョウで釣りまくる人の横で数匹しか釣れない日もあったが、何回かの釣果をならしてみたらそれほど極端な差はないように思える。なにより生きたドジョウを付けるあの面倒がいらないし、あらかじめ数個のテンヤに疑似餌を付けて出かければ釣り場でのセットが非常に楽である。私は何もドジョウで釣る人に意見するつもりはない。釣りの仕掛けは各人の自信(と希望と思い込み?)である。各々が思い思いの仕掛けで釣れたらそれで楽しいのであり、私は疑似餌にこだわってみたいだけである。

それに私はたくさん釣りまくりたいとも思わない。家族で賞味できる量が釣れればそれで満足だ。とりわけ、釣りたてのタチウオの刺身は絶品で、魚屋さんでは手に入らない格別の味だ。もっとも、一家で食べるにはあまりに少ない日もあって、これは少々困ったものではあるが‥‥。



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「釣りは運、勘、根」を自問すると‥‥

「釣りは運、勘、根」と昔から言われているそうだ。
故開高健氏のあるエッセイで初めてこれを目にした時、「うーん、言えてる」としばし感心したあと、これら三つの要素が自分にどうあてはまるかを考えてみた。
まず、運だが、どう思い返しても運がよくて釣れたという記憶はない。強いて言えば初めて上がった磯のポイントがたまたま良く、他の人より少し数をあげたくらいのものか。

勘の方はいつも「今日は釣れそうな気がする」という勘しか働かない。貧果が続いても「今日こそ釣れそうな気がする」と変わるだけ。まして釣れそうなポイントなどは数読んだ本や雑誌の知識が明滅するだけだ。

最後は根だが、これは少しはあるようだ。雨降りしきる中、だんだん人が減っていく波止で朝から粘り続け、夕方前の突然の時合いでたくさん釣ったサヨリ。チヌを狙ってある波止へ通い詰め、初めて手にした一匹。天候の悪化で二時間足らずで強制帰還された磯でもう一泊粘って結構釣れた日、どれもとにかく粘っただけという結果が多い。

運はただ待つのではなく、自ら獲得していくものだろうし、釣行回数が増えるにつれて良い運も悪い運も増えていくのだろう。勘は塩辛いキャリアの持ち主だけが語れる要素で、今のところ縁がない。そして根、これだけが私のような素人が、何を考えてるのかてんでワカランお魚に立ち向かえる唯一の力なのである。最近はどの釣り場へ出かけても運、勘、根を兼ね備えたそれらしき人物を見かけるのでますます「オレは根で勝負じゃー」と思わずにはいられない。

「釣りは運、勘、根である」と述べた後、開高氏は続けてこう結んでいる。「つまり、人生だな」--道は長いのである。



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食えない魚の悲しさ

昨年の春、大阪湾のある波止で初めてセイゴを釣った。30センチほどの大きさだったが、いそいそとクーラーに入れて持ち帰った。ところが、いざ食べてみるとこれがひどくアブラ臭くて食べられたものではなかった。自分が釣った魚が、料理してみると臭くて食えない‥‥これは悲しい体験だった。後に工業臭と呼ばれているものと知ったが、遅まきながら自分の生きている時代の本質をかいま見たような気になった。

スズキ(ハネ、セイゴ)は内湾性の魚で汚染には比較的強い。汚染されたスズキは臭くて商品価値がない故に漁師に捕られることなく、あるいは釣り人が釣ってもゲームとしてリリースされる確率が高く、生き延びていられるという説を読んだことがある。少々逆説じみて言えば、そこのスズキは汚染されることによって種の存続を保っているとも言えよう。これは人と自然の悲しい関係だ。

持ち帰った魚はおいしく食べたいというのが私の釣りの基本である。賞味することも釣りの一部なのだ。(もっとも、持ち帰って家族に食べてもらわないと、何か完璧に自分だけが楽しい思いをしているようで、気がひけるという理由もあるが)。

現代の釣り人は新鮮な魚のおいしさを知っていると同時に汚染の現実をも体感しているはずだ。流れてきた垢状の浮遊物でウキが見にくくなったり、巻きとった道糸が茶色く汚れるという経験を持っているのは私だけじゃないはずである。
年輩の方々は決まって「昔は海もキレイで魚も今よりよく釣れた」とおっしゃるが、このまま私が年を取れば、「昔は汚染で食えない魚もいたが、釣れるには釣れたんだ」と言っているかもしれない。こんなことは言いたくない。「昔は食えなかったのがやっと食べられるまでに戻った」そう回想していたいものである。



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磯つりゲーム

コンピュータゲーム(ゲームボーイ)に”海戦ゲーム”というのがある。
8×8、計64個の正方形のマス目の中に位置がわからないように配置された3種類の敵船にミサイルを撃ち込み、先に3つを撃沈させれば勝ちというゲームだ。1マスしかない船は一発当たれば沈没するが、あとの2隻はそれぞれ3マス、5マス全部を当てていかないと沈まない。

ミサイルは一発ずつが基本だが、武器として2連発と5連発が一回ずつ使える。また、レーダーを使って、一回の攻撃で4マスの範囲で敵艦がいるかどうかを探ることができる。一つのマスに命中すると、その上下左右を狙えばまた当たる確率が高いから、一発当たれば、その周辺を2連発のミサイルで攻めたり、なかなか当たらない時には見当をつけてレーダーで探ったり、5連発でメチャ撃ちをしたりする。手持ちの武器が無くなれば、後はひたすら勘で撃っていくしかない。

このゲーム、読み、勘、ターゲットの捜索、命中したポイント周辺への攻撃、運等の要素がとても釣りと似ているのである。そこで、この延長で”磯釣りゲーム”はできないものかと想像してみた。時期や潮、サラシの具合やエサ取りの有無等、様々な条件を持つ磯に上がると、プレーヤーはその条件に合わせて鈎やウキ、オモリ、ウキ下、エサ等の仕掛けを選択する。

ポイントを決め、仕掛けを投入すると海面に浮かぶウキが映し出される。小さなアタリや掛けた時の竿の曲がり、釣れた魚の種類や大きさも表現される。また、素バリを引いたり、ハリスが切れたりなど可能な限り現実に近い磯釣りがキー操作で遊べるのである。もちろん実際とは比べようもないが、何かの理由で釣りに行けず、部屋にたれこめたりした時、結構楽しいと思うのだが、ひょっとしてどこかで売っていないだろうか?



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生きたオキアミがあれば・・・

波止釣りで、今までに使ったことのあるエサはどれくらいあるか考えてみた。マムシ、イシゴカイ、ミズゴカイ、オキアミ、アミエビ、アオイソメ、クモガニ、イガイ、ドジョウ、キビナゴ、アケミガイ、シラサエビ、バイオワーム、練りエサ‥‥。これらを釣行のたびに、あせる指で、かじかんだ指で、慣れた手つきで、不慣れな手つきで、ある時は期待を込めて、ある時は自信たっぷりに、ある時はぞんざいに付けまくってきた。これだけたくさんのエサを買って付けてきたのに、ちゃんと食いついてくれた魚の数は何故こんなに少ないのかと思うと、釣りというのはつくづく計算ではやってられない世界だなと思わせられる。

釣果でも回数でも一番お世話になっているのは虫エサ類だろうか。特にマムシやアオイソメは投げ釣りや脈釣りには欠かせない。キレイに釣りができるのは何といってもシラサエビだ。逆に汚くなって仕様がないのがオキアミ、そしてムキ身のアケミガイ。私のやり方が下手というのもあるだろうが、これらを使うといつも竿の握りやリールの取っ手がベトベトになって閉口する。

ところで、まず入手不可能とわかっているが「これは絶対釣れるんじゃないか」と思いついたエサがある。"生きたオキアミ"だ。四角く窮屈そうに冷凍され、まるでブロックのようにして売られているのが私たちの知るオキアミの姿だが、元をたどれば一匹一匹元気に南氷洋を泳ぎ回っていたはずである。ピチピチ跳ねるオキアミ(どうにも想像しにくいが)を指先でつまみ、おっとりした仕草でシラサエビのようにして鈎に付け、大釣りをしてみたいのである。死んでダラリとしていてもあのパワーなのだから、生きたこれにはどんな魚もたまらないのじゃないかと思う。

しかし、ここまで想像してふとやめた。今まで以上のエサ取りの猛攻に会うのが関の山じゃないかと気がついたからである。



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ウキ釣りと投げを同時にやる日

ウキ釣りと投げを同時平行してやることがある。主に、垂水の一文字でだが、内向きの潮のヨレにグレを狙いつつ、同時に沖向きを投げで攻めるのだ。本命はグレの方である。釣れている日はもちろんこれ一本なのだが、どうも釣れそうもないとわかった時は、すぐに投げ竿をセットする。ならばグレの仕掛けをしまって投げ専門にすればいいじゃないかとなるだろうが、まだ朝も早いうちに、しかもグレに格好の潮ヨレを眼の前にしてそのポイントを立ち去るのは若葉マークの私にはチト辛いのである。今はアタリもないけれど、もうすぐしたら…の淡い期待はいつも私をジリジリと焦がし続け、そうあっさりとは消えてくれない。もうすぐ…が延々続いてジ・エンドになるのを何度も経験しておきながら、今日もまたという感じである。

ずっとウキ釣りの軽い仕掛けを操っていて、ふと投げの方が気になると、数メートル高くなっている沖向きへのハシゴを一気に登り、おもむろにリールを巻き取りにかかる。ウキ釣りのリールをいじっていた感覚で投げのリールを巻くと、とんでもなくハンドルが重く感じられる。一瞬、どんな大物かとドキリとするが、何度も内と外をウロウロするうちに、感覚のスイッチを入れ換えてから竿を握れるようになる。これを何度も繰り返すのだから、とてもせわしない釣りになってしまう。その場で手に入る獲物は何でもクーラーに納めたいという欲しかそこにはない。

「椅子はたくさんあるけれど、自分の座れるのはただひとつ」という昔聞いた洋酒のCMが頭をかすめる。「カゴとフカセを同時にやれんか」と聞いた釣り人に「そんなんやっとったら仕掛けづくりに追われるだけや」と笑っていた船頭さんを思い出す。ワカッテイル、そんなことはわかっているのだ……。
いつになったら悠々たる釣りができるだろうか。



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思い通りに釣れたら

あるテレビ番組で、ラジコンやドライブの趣味が流行っていると紹介していた。どちらも自分の思い通りに操ることができ、したいことを極めて素直に聞いてくれるのが共通点ということだ。何事も思い通りには運ばない現実社会、これらでひとときの憂さを晴らすというのはまさに現代的な趣味かもしれない。

さて、ご存知のように釣りの世界はそうはいかない。何日も前から予定を立て、道具を点検し、潮時表を確かめ、週間天気予報もちゃんと聞いて、最初はあのポイントであの仕掛けでこうやって、何時頃には潮が変わるからあそこへ移動して……などと毎夜、布団の中で思いを巡らせるのは楽しいが、いざ当日となるとたいていは思いもよらない何かが起きる。荒天で中止は些事として、出かけてみると渡船が休みとか、竿袋を開けたら穂先が折れていたりとかである。

そして、首尾よく釣る段になると、今度は希望のポイントが空いてなかったり全然アタリが出なかったりする。頭の中では完ぺきに釣れる条件を満たしているはずなのに全くダメというのもままある。あまりに何も釣れなくて、ストレス解消どころか逆に本当に胃が痛くなったことも実はある。

しかし、考えてみれば、もしも釣りする技術がとんでもなく高度になって、誰もが思った通りに釣りたいものが釣れるようになったりしたら、釣り人たちはあちこちの波止や磯や飲み屋の隅で一斉に「オモチロクナイ」とブツブツ言い出すに違いない。次々と予期せぬ事が起こるたびに、頭をフル回転して対策を練り、選択枝を選りつつ水面下の様子をあれこれ想像し、やがて来るに違いない魚信を待つ。もし釣れなくても、この過程そのものも楽しめるようになってきたのは最近のことだ。

だからこそ、狙いを定め、工夫して自分の思った通りに釣れた時の喜びはあんなにも大きいのだろう。そんなこと、あんまりないけど。



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釣りする人の顔

昨年末、スペースシャトルで宇宙へ行った毛利さんの無重力下での実験の番組を見た。一連の貴重な実験を紹介した後、毛利さんは、容器から出してきれいな球形に浮いた水玉の中に桜の花びらを入れて“桜の水玉”を作ろうとしていた。その時の彼の表情がやけに楽しそうだったのが強く印象に残った。顔中に好奇心と期待が満ちあふれていたのである。

こんな顔はどこかで見たことがあるぞと思ったら、釣り情報誌に載っている、釣れた魚を持つ人の顔と同じだと気がついた。彼らの顔はどれもこれも大抵笑っている。目が輝いている、ニヤけている。中にはゴツい顔もあって口も堅く閉じてはいるが、やっぱり目がきちんと笑っている。みんないい顔なんである。

さらに、何でこんなにいい顔ばかりかと考えていたら、これはみんな遊びに夢中の子供の顔になっているのだと思いあたった。毛利さんは、この実験は正規のものではなく、ひと通りの使命をやり終えたら、彼自身が日本の子供たちに見せるためにぜひやりたかったことだったと解説していた。だから、あの表情は使命である正規の実験に伴う強い緊張もほぐれて、全くの遊びの時と同じだったのだろう。

哲学者ホイジンガは人間をホモ・ルーデンス(遊戯人)と規定した。ニーチェは、男が夢中になれるのは危機と遊びだけであると言った。エサ取りにエサをかすめられ、残り少なくなってきたエサで必死に釣り続けるというのは、遊びの中で危機を迎えているわけだから、もう最高に夢中な状態じゃないかと思うのだがどうだろう。釣り場で出会うたくさんの遊んでいる顔も、普段、仕事に没頭している時はきっとシビアな顔してるんだろなと思う。いくつになっても、釣りする時くらいは夢中で遊ぶ子供の顔でいたいものである。



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海に消えたオモリ

普段は全く気にならないが、何かの拍子にふと思い始めるとしばらく頭を離れないということが誰にもあると思う。近頃の私の場合、それは「これまでに投げ釣りで海に消えていったオモリはどれぐらいの数になるのか」ということである。

スピニングリールの到来で本格的に投げ釣りが始まって以来、メーカーはずっとオモリを作り続けている。キャスターたちもずっとオモリを買い続けている。これらが全部各人の道具箱に留まっているとはとうてい思えないから、買われ続けているということは、ほとんどがいずれ海で無くなっているということになる。

全国の釣り場で毎日どれくらいのオモリが失われているのか、私は見当のつけようもないが、自身のわずかな経験でも根がかりや高切れ等でかなりの数が海の底から戻ってこなかった。私一人でこれだから、海に眠るオモリはかなりの量に違いない。海底の砂上やあちこちの岩々の間に一面にぶちまけたように、くたびれたハリス付きのオモリが点在しているのを想像してしまい、何やら暗たんたる気分になるのである。些末なこともしれない。釣り場のゴミの方がよほど深刻な問題に違いない。それでも私は杞憂としてうちやることができずにいる。

そこで、思いつきでしかないのだが、オモリを購入する際に回収費を含んだ金額で買ってもらい、その費用で定期的に海底から回収し、新品より安く再販売するようなシステムは不可能だろうか。肝心の回収技術の難度が私にはわからないので無責任な言い方になるが、根がかりのポイントは大体決まっているから回収エリアだってある程度限定されるだろう。少し勝手は違うが、使い捨てカメラのケースや牛乳の紙パックのリサイクルも実現しているし、メーカーも理解が要される時代に来ているのではないだろうか。

余談だが、ドイツのある車は新車として製造される段階から、いずれ解体、リサイクルされやすいように、始めから計算された設計がなされているということである。



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ウキ作りの楽しみ

棒ウキや中通しウキを自作して楽しんでいる。棒ウキは板バルサ、中通しウキはセンターに穴のあいた円柱の桐材を近所の釣り具店から買ってくる。

始めは物の本に習っていたのが、次第に自分なりの工夫やズボラが随所に出てくるようになった。仕上がりのカタチを想定して周囲をおもむろにカッターナイフで削りこんでいく。なかなか真円にならないのを片目で眺めやり、少しずつ回しながらチビチビ削り込んでいくのは結構楽しいものだ。第1号から通し番号をつけてきたが、そこそこ使えるものになってきたのは20号に近づいた頃からだ。感度は幾分不安でも自作のウキでアタリをとって釣った魚は嬉しいものである。

作っては試しを何回もやっていると、テキストではわからなかった様々なことがわかってくる。棒ウキで、トップと本体の間をウキゴムで繋ぐわけがわからず、ウキゴム無しで使っていると、何度目かにトップが根元からボキリと折れたので、ウキにかかる意外に強い力とクッションの役割を体得できた。早く使ってみたいあまり、塗料が半乾きのまま釣り場へ持って行くと、他のウキとくっついて塗料が剥げてしまったこともある。乾かすのに便利だろうと中通しウキにツマヨウジを差し込んだままエポキシコートを塗ったら、ツマヨウジごと固まってどうしても取れなくなってしまい、完成間近で泣く泣く手放したこともあった。他にも塗料や油性マジックとコーティング材の相性や乾燥までの日数など、いろんなことを学ばせてもらった。

餌箱づくりもやってみた。ある釣具店で竹の節を底に利用したものを見て、これなら作れそうだとやってみたら、我ながら結構うまくできたので小ぶりのをもう一個作ってオヤジの還暦祝いに持って行った。様々な事情で次はいつ釣行できるやらわからない時など、これらの製作でウズウズを静めにかかったりするのは私の釣りのもうひとつの楽しみである。



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釣りする朝

午前3時30分、セットした時間より少し早いが、どうにもじっとしておれずフトンをはねのける。いつもアラームをセットはするが、釣行の朝はそれで目覚めたことはない。洗面の後、着やすいように重ねておいた釣りルックを順に身につけていく。荷物は全部玄関にまとめてある。クーラーに製氷皿から氷を移す時、ガラガラとビックリするような音が未明の静寂を破り、寝ている家族にハッとして動作が一瞬止まる。前夜の残り物をかき込み、ひと息入れて玄関に向かう。リュックを背負い、クーラーは左、竿袋は右の肩と決まっている。なるべく静かに玄関を出るように気をつけるのだが、扉にクーラーがぶつかって賑やかな音をたて、またまた恐縮してしまう。

暗闇を自転車で駅に向かい、4時34分発の始発電車を待つ。各停だから電車はすべての駅を丁寧に嘗めていく。リュックから開高健氏の釣魚エッセイを出して読みふける。途中、2度乗り換える。2度目の乗り換え時に、降車駅の出口に一番近い扉のそばに座る。

駅に着くと弾けるように電車を飛び出す。早足で階段を降りる時、一人の釣り人を追い抜く。改札を抜け、海沿いを走る国道に出る。たいてい赤信号にぶつかるので、さっき追い抜いた釣り人が悠々と追いついてくる。ジリジリ待って信号を渡り、エサ屋の前を通る。多くの人はここでエサを買うのに立ち寄るが、前夜とっくに調達済みなので速度を緩めず一文字への渡船乗り場へ急ぐ。6時の1番船は始発電車でも間に合わないのでいつも2番船になる。先頭に並ぶと船の奥に座ることになり、降りる時に遅れをとるので、前に4、5人並んでいる時の方がありがたい。

波止に着くと、以前大釣りできたあのポイントへ急ぐ。すべての荷を下ろし、やっとホッとしてしばし海面と対座する。時計は6時12分、あたりはまだ暗くライトを着けないと手元が見えない。仕掛けをセットした1号の愛竿をしっかりと伸ばし、じっと日の出を待ちにかかる。あの日も、ここまでは、完璧だったのだが……。



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“スレた魚”の意味

よく、「魚がスレた」という。鈎付きのエサに何度も遭遇するうちに学習によって鈎に掛かりにくくなることと理解したが、始めはどうして個々の魚が学習できるのかがわからなかった。一匹一匹の魚はそれぞれ一度の命であり、その魚が釣られてしまうとまたウブなのが寄って来るわけだから賢くなるなんてなるはずがないと思っていた。やがて、この意味するところは、バラシによって懲りた魚の数が、釣り人口の増加につれて増えていき、全体として賢さのレベルが上がったために釣れなくなってきたのだと納得した。

しかしながら、そのうちに、少し前にハリス切れで逃した魚がまた鈎に掛かることもままあるということも聞いて、またわからなくなってきた。そんな時、科学朝日(92年2月号)に興味ある記事を見つけた。それによると、同種の魚の中でも、釣られやすい魚と釣られにくい魚の個体差があるというのだ。魚は鈎の経験を積んで賢くなるのではなく、釣られない魚は初めから釣られない、逆に釣られる魚は何度も釣られる傾向があるというのである。ティラピアでの検証だからすべての魚がそうだとは言いきれないが、人間にも車の運転適性で事故を起こしやすいタイプと起こしにくいタイプがあるのだから、魚がそうだとしても不思議はない。

これを読んで、磯釣り初心者の私に浮かんだのは当然、グレであった。グレにもこの検証が当てはまるなら、釣られやすいグレが少なくなっただけで、釣られにくい方(これがよく言われる“食い渋るグレ”か?)はまだいっぱいいるはずということになる。よく釣れた昔などまるで知らない私にとって、いきなり“食いしぶるグレをどう釣るか”がスタートなのである。
「人間、40になってもボンクラはいっぱいおるけど、グレの40越えた奴にボンクラはおらんデ」と吐いた、ある釣師の名言を思い出した。



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開高健、秘伝の巻物

福田蘭童、井伏鱒二、開高健と伝わった、アユの餌釣りに爆発的な威力を持つ餌についての秘伝がある。蘭童氏は戦後「笛吹童子」「紅孔雀」などの作曲で脚光を浴びた作曲家。井伏氏、開高氏はご存知の通り作家、いずれもたいへんな釣師である。蘭童氏はかつて、アユが一日に200匹も釣れる凄い餌を開発した。普通は生のアジやシラスであり、これはたいていのアユ師が知っているらしい。蘭童氏は長い間、秘中の秘として誰にも語ることはなかったが、文壇きっての釣師として信じるに足る人物と見たのだろう、釣り仲間の井伏氏にそっとその餌を教えたのである。

その後のある日、井伏氏はいっしょにお酒を飲んでいた開高氏に「蘭童がとうとう吐きましたよ」と言った。長い間ひたかくしにしていた奥義をついに蘭童氏はあかしたと言うのである。そして「自分もそろそろ年でアユ釣りに行くこともできないが、この知識を死蔵するのはどう考えても惜しいから、いずれあなたに伝授さしあげよう」と言う。

これを聞いていたく感動した開高氏は、氏の気の変わらぬうちにと、さっそく最高級の巻物を買ってきて、井伏氏にその秘伝を署名捺印付きで厳かに書いてもらい、開高家唯一の家宝として大切に保存した。開高氏は、自分がいずれ老いて川へ入っていけない年齢になったら、釣師として人格、識見ともにたのむに足る人に、この名文の後に短文を付け署名捺印し、その人に伝えることとしようと、あるエッセイに書いた。併せて巻物の内容も掲げられているが、肝心の餌のところだけは……と伏せられている。

誠に惜しいことに、開高氏は昭和64年12月9日、食道腫瘍と肺炎の併発で帰らぬ人となってしまった。その家宝を生前誰かに伝えたという話を私は知らない。アユ釣りを私は知らないが、巻物は今どこにあるのか、秘伝の餌とはいったい何か、一介の釣人の心理としてどうにも気になって仕方がないのである。(参考文献/列伝日本の釣り師金森直治著、完本白いページ開高健著)



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もつれた糸

大阪南港のセル石がまもなく埋め立てられてしまうという。
以前から気になる釣り場だったのだが、自宅からの距離が半端だったため今まで行きそびれていた。行ってみると、なるほど、ハナシに聞いた通りの光景である。ざっと左右を見渡すと“閉じた”海面であることがはっきりとわかる。左から迫る土砂まではもうわずかの距離だ。

自作の棒ウキをセットして黙々とアタリを待つ。早朝のひと時、無風の海面はまるで池のように穏やかで、ヘラ浮きが活用されるのも理解できる。しばらくすると、トラックや散水車が動き始めたのが間近に見えた。対岸ではクレーンがテトラを積み始めた。さらにその奥で数台が作業をしているのは生コンの流し入れだろうか。やがて、白いヘルメットの幾人かを乗せた小型ボートが目の前を何度か行き交い始めた。着実に、冷厳にコトは進められているのだ。時折、砕石を積んだトラックが荷台を傾けるたびに、ガラガラと耳障りな音があたりに響く。

予備にブッコミで出していた短竿の道糸の乱れを直そうとしたらもつれてしまった。アタリも期待薄なのでゆっくりとほどきにかかるが、手がかじかんでうまくいかない。元はまっすぐな一本の糸だから、きちんと手間さえ惜しまなければほどけるはずなのに、しびれが切れ、つい歯で噛み切ってしまった。埋める側、何とか残したい側、双方の糸も、こうしてもつれたまま切り捨てられてしまうのだろうか。

昼前に向かい風が強くなり、釣りづらくなったので納竿とした。私の見る限り、この日は誰も釣れてなかった。いつもならこうなると例の落胆を必ず伴うのだが、なぜかそう感じなかった。釣るというより、見に来たという意識が働いたからだろうか。船を降りた時、助手役の丸高渡船の女性と話した。埋め立てのハナシになると「まあ、もうじき埋まるやろな。スズキの1mくらいの“主”がおるはずやから、アレ最後に誰か釣ってもらわんとな」と笑った。



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ハトにエサを蒔く

3つになる息子を連れて、現像のあがった写真を公園で見ようと思った。ベンチに座り、写真を袋から出したら、それだけで数羽のハトがエサと間違えて飛んできた。磯では渡船が来るたびに、エサ取りが急に増えるという話を思い出した。釣り人が作った磯の魚たちの条件反射である。ハトたちは目的のものがないと解るとさっさと消えた。

しばらくしてコンビニで買ったカッパエビセンを投げてみた。3つ目くらいで近くの住宅の屋根にかたまっていたうちの1羽が目ざとく飛んできた。高く蒔くと目につきやすいのか残りのハトも一斉に飛んでくる。磯でのエサ取りの分離方法を思い出し、どうなるだろうと足元に大量に蒔いてから少し遠くに投げてみたが、群れが少し散っただけだった。捕まえようとチビが追いかけるが、三才児に捕まるハトなどいない。あわてて少し離れるが、すぐにエサに寄り再び群れ始める。磯で青物がやってきたらこんな感じになるのだろうか。頭の中でチビが青物に見えたり、磯の釣師に見えたりした。

じっと見ていると、エビセンが少し大きいのか、せっかくつまんでも飲み込めずに口から落ち、それをまた他のハトがつついている。小さく割ってやったら、すんなり食べた。手に持って差し出してやると、膝どころか手元まで止まりにくるのがいる。一番にエサにありつけるわけで、勇気あるハトだと思うが、これが魚だったらまっ先に釣られる奴である。自分も時々口に入れながら、少しずつ途切れないように蒔いていると、群れはずっと散らない。磯のセオリーはここでも正解のようだ。試しに蒔くのをやめてみると、群れがだんだんとばらけていく。しかし、また蒔くかもしれないのを、見ないようでしっかり見ている感じである。現金なものだ。ハトも磯の魚も同じである。半ばあたりまえの結論が出たので、残り少なくなったエビセンをハトたちの頭にかぶせ、公園を後にした。



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釣りインストラクター

釣りインストラクターになった。といっても、そうした職についたわけでも釣りがうまくなったわけでもない。全日本釣り団体協議会(全釣り協)が主催する公認釣りインストラクター資格試験に受かったまでのことである。

釣りに関して大したキャリアも教えを乞う人も無かった私は、知識を教えてもらえるのだったら受けて損はないだろうと、軽い気持ちで講習会を受講した。昨年11月のことである。釣り技術、マナー、ルール、事故防止、安全指導、水産資源保護、気象、漁業法、釣り場の環境保全、釣り指導法等、その内容は思ったより幅広いものであった。釣り関係のマスコミでもかなり取り上げられたようだが、全釣り協として初めての試みだけに中には批判的な声も少なからずあったようだ。私も、“個人の趣味”の領域にこうした制度を設けることに抵抗がないわけではない。すべての釣り人がちゃんとしたマナーとルールを守る自覚を持っていれば本来無用の制度であろう。釣り公害とまで言われる釣り人のマナーのあまりの悪さに抗して“やむを得ず”発足した制度であるところに何かやりきれない気もする。実のところ、私も釣りインストラクターになって何をするのかと聞かれたら正直よくわからない。今まで以上に釣り場環境に敏感になり、目に余るルール違反にはしっかり声を上げようという程度の思いぐらいだろうか。

しかし、将来、こうした制度がさらに充実して数も増え、底辺がしっかりしてくれば意義ある制度に育つ可能性は大いにあるだろう。規定の登録料を払えば、やがて釣りインストラクターのワッペンやバッジが送られてくるはずだ。これらを身につけて釣行すれば、「ヘタなことはできないな」というちょっとした緊張が私にはある。もちろん釣果ではない。マナーの方でである。

<付記>
この2年ほど後、思うところあって、インストラクターの登録を抹消してもらいました。つまり私も進化するわけです(^^)



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幸福の象徴としての魚

かのライアル・ワトソンはある著作の中で、魚について以下のように言及している。彼は“なくした指輪が、たまたま釣り上げた魚の中に見つかる”という話がほとんどどこの民話にも登場するということに触れ、いくつかの実例や民話をあげたのち、“きらきらするものを呑み込む習性のほかに魚で重要なのは、魚が「あらゆる富の源」として母性や子宮を強く想起させる象徴であることで、完全性の回復や再会、再統合に魚がかかわるのはその意味で少しも不思議ではない”と述べている。昔から魚は富や再統合等の象徴とされてきたらしいのである。

これを目にした時、私は以前からおぼろげに感じていた、釣りという行為の裏にある何かが見えたような気がした。釣り人たちが日夜あれこれ工夫を凝らし、やっきになって狙っているのは紛れもなく魚なのであるが、本当に私たちが釣り上げたいのはひょっとして“幸”そのものなのではあるまいか。だから貧果はイヤだし、少しでも人より多く大きく、となってしまうのではないか。狩猟本能としての釣りはよく言われることだが、別にこんな見方もできると思った。そしてまた、この狩猟本能こそ“幸”を狙う行為そのものじゃないかとも考えた。

太古の昔、日々の糧を求めて、男たちは森へ分け入り狩りをした。現代からすれば稚拙な武器で、満足な量の獲物を常に確保するのはかなり困難だったに違いない。うなだれて手ぶらで住み家に帰る日も多くあったに違いない。食わんがため生きんがための狩り、それはまさに食糧という“幸”を求め続けた古代人たちの原始の行いだったのではないだろうか。そして今日、アタリも何もないのに、ひょっとしたら次の瞬間に来るかもしれない魚の引きをずっと期待し続ける釣り人は皆“幸の狩人”なのではないだろうか。さっそく、釣りに行きたくなった。幸を釣りに。



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串本のエサ屋で

初めて串本大島までグレを釣りに行った。新大阪を夜行で起つと午前3時40分に串本駅に着く。駅前のエサ屋でオキアミを買い、集魚剤を混ぜ、近くでラーメンを食べたら6時過ぎの乗船まで何もすることが無くなった。エサ屋の奥の待ち会いに座ってボンヤリと時間を過ごす。平日だったせいか地元の常連らしき年輩の人が多い。彼らの雑談を寝不足の頭で聞くともなしに聞いていた。

「この前、大阪行ったらな、天王寺の駅で迷てもて出口どこかわからへん。もう、どーこ行っても壁じゃぁ」「壁?ハハハッ」と二、三の笑いがこぼれる。「息子が表示見たら分かる言うたけど、そんなん見えへんわな」「うん、そや、見えへん見えへん」と数人が相づち。「大阪駅でも出口間違えたらもうぜんぜん分からんもんな」「そや、都会は分からんわ」「ああ、分からん、分からん」「ところで今日はあん人来るかな?」「あー、あん人か。あれは今日はこん、今日はあん人は病院じゃ」何やらほのぼのした気持ちにさせられ、彼らの背後で一緒に笑う自分がいた。
結局、グレは手の平に数匹乗るようなサイズで終わってしまった。串本駅で切符を買うと「どや、釣れたか?」と窓口の駅員さん。「いや、コッパばっかり」「これくらいか?」と両手を広げて示す。「いや、もっとちっこいわ」「そーかぁ、この時期みんなゴツいのよーけ釣って帰りよるけどな」
ほっといてんか!

列車を待っていると、行きの車中で出会った釣客とまた会った。「どーでした?」「おかげさんで、何とか30センチオーバー……」(なぜかその数は言わなかった)「えっ、凄い!」「そっちは?」「コッパばっかり10匹ほど」「手の平?」「まあ、そんなもん……」と私。
何でこんな見栄張らにゃいかんのやと思ったが、おそらく彼の方も、大きいのはそれほど数じゃないに違いないと思った。ともに相手を実際より大きく解釈したらしく、うなだれて別れた。



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釣りとパソコン通信

「一般の新聞に“チヌ”に関する記事は載っているだろうか?」。そう思ってあるパソコン通信ネットの新聞記事データベースを検索してみたことがある。膨大な記事の中からキーワードに関係するものだけを拾い出すという、生身の人間にはまず不可能な作業をコンピュータは淡々とこなす。チヌは週末の釣り情報や調理の方法としていくつか紹介されていたが、その中に「ルーマニア、血塗られた歴史」という、まるで関係ない記事が混じっていた。「これのどこがチヌやねん!」と思ったが「血塗られた」の部分に確かに“チヌ”を含んでいると分かって笑ってしまった。コンピュータには時折こんなトボけたところもあって楽しい。

また、こうした活用とは別に、大手パソコン通信ネットには同好の趣味を持つ人たちの集うコーナーもある。もちろん釣り好きの集まりもあり、連日様々な釣りの話題で盛り上がっている。ちょくちょく自分の意見をやりとりしたりして次第に昂じてくると、やがて一緒に釣行することになったりする。ある日、そうした釣行に初めて参加したが、ふだんパソコンの画面でしか知らない人たちと実際に会うのはかなり刺激的な体験だった。

現時点ではこうした集まりは“ある趣味(興味)”と“パソコン通信”という二つの趣味を持つ人たちが多いように思えるが、パソコン通信はやがてかなり一般的な通信手段として浸透していくのは間違いないだろう。車を趣味としている人はいるが、便利な移動手段のひとつとしてあたりまえのように利用している人の方がはるかに多いことを考えれば分かりやすい。車の詳しい機構は知らなくても免許が取れれば車はちゃんと運転できるのと同様、通信技術に関して大した専門知識はなくとも通信はできる。そのあたりがもっと理解され、無数の釣り場で出会うごく普通の釣り好きな人たちが増えて年齢層が幅広くなれば、こうした集いはより大きく育つに違いない。何も遠い先ではなく近い将来の現実の話である。CD、ワープロ、携帯電話等、便利な新技術を受け入れる意識の浸透は結構早いものである。

<付記>
この原稿を書いたのが1993年。それが今、こうしてインターネットのホームページで見られるだなんて……。



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釣具屋の大先輩

近所の小さな釣具屋さんで、グレ鈎を買った。「磯釣り行くんか?」。奥から出てきたのは、もうかなりご年輩の方である。以前バイオワームを買おうとしたら、「置いてないワ」と言いつつ、奥の冷蔵庫から取り出してきたのはまさしくバイオワームだった。「これ一回使てみよ思うて、ちょっと使て置いとったんや。よかったらこれやるわ」。
何度もお金は払うと言ったが聞いてくれなかったのでありがたくいただいた。垂水の一文字で試したらカレイが2匹釣れた。以来、足を運んでいなかったので、その話をしたら打ちとけてしまい、狭いカウンター越しに釣り談義が始まった。

「串本は昔よう行ったもんや、もう何十年も前やけどな」と、大島のいろいろな磯の名が次々出てくる。その中にニギリメシという自分が行った磯が出てきたので、この前そこへ上がったと言うと懐かしそうな顔になった。「ウキでも今の人は完全フカセや何やいうて高いウキ使とるやろ、わしら初めての人来たらこのウキ勧めますんや」と傍らの丸いオレンジのウキの入ったビンを示す。「これでもちゃんと仕掛けしたら釣れるねん。これ一個20円や、そやからウチ儲かれへんのや」と笑う。「今の雑誌とか読んどったら最新釣り法や言うてよう出てくるけど、わしら昔やっとったのと同じようなんがいっぱいあるわな」とあれこれと仕掛けの工夫の話。

そのうちに、危ない目に会った話になった。「わし、磯で死にかけたことあるんや。渡船が横波うけて転覆してな、一時間半ほど漂流したんや、正月2日やったかな。それで恐なってもう釣りやめよか思たけどやっぱりあかん。たまらんようになって8日くらいに行ったら、その時一緒に恐い目に会うた仲間も来ててな、何やお前、また来たんか、てなもんや」。

こんな話の後、「救命胴衣は絶対着けとかなあかんで」と強く言われた。今度、大島の地図持ってくるからポイントを教えてほしいとお願いして店を出た。



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タックルの自信

釣りを始めて間もない頃、タックルというものは狙う魚に応じて厳格に決められていると思っていた。なにしろチヌバリはチヌにしかだめだと思っていたほど知識や経験が乏しかったので、モノの本の通りにタックルを揃え、仕掛けを作り、まるでそれでしか釣れないかのように解釈していた。

しかし、いろいろな本や雑誌をつらつら読むうちに、ヘラのスレバリでグレを釣る人やフライ用の小バリと改造渓流竿でチヌの落とし込みをやる人がいることを知った。ブラックバス用のルアータックルでアイナメのブラクリや磯竿にオモリで投げ釣りをやる人も大勢いる。要するに、釣れると考えればどんなものも使っておかしくないわけである。

そのうちに慣れてくると自分でもいろいろ試したくなる。小さな袖バリでカレイやアイナメを狙ってみたら、ちょっと鈎が伸びたがちゃんと釣れた。チヌバリでももちろん釣れた。別に“流線”でなくとも釣れたのである。外国と比べて日本は鈎の多様性が突出しているそうだ。それぞれが対象魚に合った合理的なカタチであるのはわかるが、ここまで細分化されるとメーカーの思惑や釣り人の希望的観測もかなり入っているに違いないと思い始めた。

自作のウキでもちゃんとアタリが取れた。ホ先を詰めたチヌ竿でタチウオの引き釣りもできた。釣れないシーバスロッドはいつのまにか投げ釣りの中投用になっていた。そのうちに、ブラックバスのワームでガシラも釣れるのでは、と考えていたらある雑誌でしっかり紹介されていた。

考えてみれば、こうした個人の工夫も趣味のうちだし、いろいろな試みのうち、多くの共感を得たものが一般化され、やがて店頭に並ぶことになるのだ。最近では近くの猪名川で、波止用の短竿と余った“落とし込み専用バリ”に小さなオモリをつけて、ブッコミでニゴイを釣って遊んでいる。道糸は意味のよくわからぬ“チヌ専用”で、エサはシラサエビである。



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歴史と創意

「アイザック・アシモフの科学と発見の年表」という本を買った。古代から現代までの科学、発見の歴史を年ごとに軽妙なコラムでまとめたものだ。パラパラと読んでいると、理論は確立してもそれを形にできる技術が当時まだ無かったために実現されなかった例というのが随所に出てくる。また、先人の残した業績を基礎として開発された技術や、ごく一部でなされていた事に目をつけ、広く世に出して成功したという事例も多くある。

釣り技法の歴史も同じようなものだろう。磯釣りや投げ釣りも、元は「あそこへ仕掛けを入れられたら」という釣り人の想像の結果だろうし、渡船のシステムやタックルの進歩なしには普及し得なかった釣りだ。各地に伝わるその土地独自の釣法も同じだろう。その他、私たちが当たり前のように使っているタチウオの引き釣りテンヤなど、あの形やドジョウを針金で縛る工夫はどのような経過を経て完成されたのだろうか。マキエに初めてニンニクを混ぜた人の非凡さにも感服してしまうし、サビキのギジエに猫の皮というのも無数の試行錯誤のたまものだろう。

創意、挑戦、ため息、反省、体力、そしてサイフ、ひとつの技法が確立、定着されるまでに、一体どれだけの釣り人のエネルギーが注がれたことだろう。先述の本の「1903年」の頁には、ツィオルコフスキィという学者がロケットの理論を発表し、宇宙服や人工衛星、そして宇宙ステーションの可能性について初めて提案したとあるが、この年は同時に、なんとライト兄弟が人類初の動力飛行に成功した年なのである。また、これは別の話だが、その一週間前のある新聞は、「飛行機の研究など時間と金の浪費である」と書いたそうだ。「こういう事ができれば、こんな技術があれば」という釣り人の熱き創意は昔も今も変わらないが、この先、どんな“釣り”が出てきても、むやみに驚いたり馬鹿にしたりするわけにはいかないのである。



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最終回

約半年間にわたった「釣れづれ草」は今回をもって終わりとさせていただきたい。
連載の発端は、本誌に何度か釣りに関する駄文を投稿しているうちに、辻浦編集長から「釣り周辺のハナシで連載はできないか?」と誘われて調子に乗って書き始めたことからだった。釣り雑誌等へはしばしば投稿していたが、もちろん連載などは初めてである。内容はともかく、回数だけは当初のお約束通り半年間続けることができた。

また、この掲載のおかげも少々あって望み通りある釣り雑誌の出版社への転職のメドがたった。失業中、釣りざんまいのヤクザで不規則な日々の中、週一回の本誌への掲載は自分を律する唯一のペースメーカーであった。私に書くチャンスを与えて下さった辻浦編集長に感謝したい。それにしても氏の「働かない身で釣りを続けると釣りが荒れますよ」との忠告はかなりこたえた。定年後や老後の楽しみの釣りはともかく、私のような働きざかりの年の者が無職のまま釣りに没頭することは、結果として不毛しかもたらさないことを時がたつにつれて感ずるようになった。

釣行の行き帰り、あるいはじっとアタリを待つ間、様々な思いや悩みが去来し、それなりに得るものはあったのだが、要するに“息抜き”がずっと続くと息抜きでなくなるのである。頭ではわかっていたが、釣りというものは仕事やそれに伴う緊張や苦労や努力の日々の合間にする“息抜き”だからこそ、存分に楽しめるものと実感できた。そして、長い失業期間中、3才の息子と赤ん坊を放りっぱなしで釣りに明け暮れた留守を守ってくれた義理の母(バーチャン)にも感謝したい。二人を保育所へ預けるまでのこの間、育児の世話をしてもらえなかったら今の私は無かったと思うと感謝の念でいっぱいである。ありがとうございました。そして3日と空けず釣行を繰り返す私を横目で睨みつつ毎日マジメに出勤していた妻にも…。(完)

武富純一 [E-mail]



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