ユーモアの力

武富純一

現代短歌において、ユーモアがどのように位置づけられ、作用しているのかを考えてみたい。
ユーモアとは広辞苑(第六版)には「上品な洒落やおかしみ。諧謔」とある。現代短歌大事典(三省堂)には「短歌においては笑いを誘う表現に対して用いられることの多い言葉である」として左記の歌が紹介、解説されている。

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買いに文具店に行く
奥村晃作『鴇色の足』

空疎な詩性と短歌形式とのギャップから来るもので、ナンセンスな内容が固定化したセンスに揺さぶりをかけるという意味を持つ。

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい
穂村弘『シンジゲート』

幼児的な態度は従来の短歌観を無効化させるラディカルなユーモア感覚をもつ。硬化した精神のこわばりを解くというユーモア本来の特性が、有効に機能している。

短歌的なユーモアとはつまり、固定化した概念を軽く揺さぶり、そのズレやギャップに読み手の緊張が弛緩する際に起こる何らかの詩的な作用なのであろう。強い笑いや諧謔、皮肉となれば川柳や狂歌が本家である。短歌の装いをどこまでもまといつつユーモアを匂わせる歌を作るのはたやすいことではない。

ユーモアの歌は万葉の昔から近・現代まで多くあるが、それは決して大量とは言えない。どちらかと言えば短歌という形式はユーモアが不得手だと思う。これは心や景などを叙情的に表現するという短歌の主立った性格からやや距離あるところにユーモアが置かれてきた結果であろう。しかし、少ないからといって短歌のユーモアは決して弱い位置にあるとは思えない。

手元の歌集やアンソロジーからユーモアが感じられると判断できた歌を拾い上げてみた。
それらを分類しようとして、あれこれと切口を探ってゆくなかでまず見えてきた大きなキーワードは「発見のユーモア」と「自嘲のユーモア」だった。「発見のユーモア」とは、何らかの見聞をおもしろくうたったもの、もしくは何か異質な思いつきである。「自嘲のユーモア」とは自分自身をおもしろおかしく貶(おとし)めている歌である。

「発見」のユーモア その一

誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど
大松達知『アスタリスク』

        、 、
袖振りあふも多少の縁と五十年思い来たりて不便あらざり
中地俊夫『覚えてゐるか』

子には子の電車来るべし「白菜の内側でお待ち下さい」と言ふ
小島ゆかり『獅子座流星群』

誤植、思い違い、聞き違いである。一首目、「徒歩十二分」のはずが「十二年」。そんな物件は絶対にあるはずはなく、すぐに誤植とわかる。驚きから心を持ち直したのであろう、下の句のあきらめたような落ち着きある言葉で短歌として成立させた。二首目、正解はもちろん「多生」。でも、それで五十年、別に問題なく過ごしてきたのである。「不便あらざり」という開き直りは後に述べる「自嘲」ともつながる。三首目、子供は新しい言葉に出会うとそれまで覚えたボキャブラリーを駆使することで理解しようとする。「白線」という言葉をこの子はまだ知らなかったのだ。

いずれも、ユーモアとしてはストレートなものである。一歩間違えばギャグのような笑いになりそうなところをさすがに歌人たちは心得ていて、特に三首目の「子には子の電車来るべし」などは短歌詩型ならではの着地という感じがする。
また、ふとした思いつきや試みがユーモアとなる歌もある。

もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべし
奥村晃作『鬱と空』

端的にいわば一生はぐにゃぐにゃの赤子のからだ罅入るまでか
小高 賢『家長』

角砂糖ガラスの壜に詰めゆくにいかに詰めても隙間が残る
香川ヒサ『テクネー』

ふざけた思いつき、とぼけた想像、そんなユーモアも歌人は見逃さない。
一首目、通勤の満員電車であろう。よく考えればまことに言う通りだ。なるほどと思えたときにふっとこみ上げてくる笑いである。奥村はただごと歌の歌人として名高いので、当人は意外に真面目な顔をして考えたのかもしれない。二首目、人生というものをつきつめれば、つまりこういうことだろうという思索の妙。こういう考え方はユーモアというフィルターを通さないことにはなかなか表現し辛い。三首目などは「何を一所懸命にそんなことを…」という笑いである。

「発見」のユーモア その二

当然ながら歌人はこうした、いわば直接的な発見のユーモアだけでは満足しない。よりひねくれ、ねじれたような視点の歌が生まれるようになる。

酒のみてひとりしがなく食うししゃも尻から食われて痛いかししゃも
石田比呂志『滴滴』

口あけるゆれるもたれる車内には居眠り地蔵居眠り菩薩
小高賢『眼中の人』

虻一つつとひるがほの花に入り出でくるまでを耳こそばゆし
小島ゆかり『月光公園』

大根を探しにゆけば大根は夜の電柱に立てかけてあり
花山多佳子『木香薔薇』

美しく齢を取りたいと言ふ人をアホかと思ひ寝るまへも思ふ
河野裕子『母系』

一首目。酔ってひとりで食うししゃも。ししゃもへ問いかけることで自己の存在を笑い飛ばすようなデカダンスを感じる。二首目はよく見かけるシーンを地蔵、菩薩という言葉とつなぐことで一首がおもしろく立ち上がっている。三首目は耳がむずむずするような写実で視覚と痒みがうまく混じり合ったおかしみ。四首目、どうやって大根を落としたの?という疑問が最後まで尾を引くが、それが笑いを誘う伏線のように働いている。五首目、寝る前にもまた思ったくらいだから、実はユーモアを越えた本気の怒りかもしれなくて、また、作者の闘病中の歌でもあることを思えば意味深いが、印象深い強烈なユーモア感がほとばしっている。

いずれも対象への笑いのまぶし方が絶妙である。まずもってユーモア精神を普段から培ってないことにはこうした歌は作れまい。

「自嘲」のユーモア

さて、こうしたユーモア精神が内へ、つまり「我」の内部へと向かうと、自嘲、つまり自分で自分を故意におとしめた笑いが生じる。

ふたふさの罐詰蜜柑のるゆゑに冷し中華をわがかなしまむ
小池光『日々の思い出』

稿つひに書けざる未明の狼狽は女房のフトンにもぐれば蹴らる
島田修三『晴朗悲歌集』

女泣かせて甲斐性なけれど直腸に坐薬沈めて眠らむとする
岡井隆『夢と同じもの』

風切つて歩いてゐるがガニ股になつてゐるのも知つてゐるわい
池田はるみ『婚とふろしき』

「ワタクシは」と講じ始めていつのまにボクとなれるかボクで通さむ
安田純生『でで虫の歌』

一首目、冷し中華の真ん中に乗る二ふさの缶詰ミカンの存在を小池はどうしても許せないのだ。「わがかなしまむ」という大げさな物言いが相乗的な笑いを誘う。二首目、明け方までかかっても書き物がはかどらず、フトンに潜れば妻に蹴られるという踏んだり蹴ったり。三首目は色恋のイメージと坐薬とのギャップが楽しい。四首目はさっそうと歩いているつもりが、どこか格好悪くて恥ずかしい自己、そして結句の大阪弁での開き直りが生き生きと効いている。五首目、ちょっと変になってしまったけれど「まぁいいか」という飄々とした笑い。

これらはいずれも基本「トホホ」な格好悪い心情だが、同時に強い「照れ隠し」も潜んでいる。人に自分を笑われるには勇気がいる。その勇気は崩れた自分を自分で笑い、自己を客観視することから得られる。客観視することは自己の気持ちをより安定させる作用があるのだ。

われと立ち風に吹かれて声たてぬ海号じつは娘(こ)らのおさがり
伊藤一彦『海号の歌』

この歌の前に「おぼれいる月光見に来つ海号とひそかに名づけゐる自転車に」があるので、併せて読めば「海号」は自転車だとわかる。先の一首だけを読めばなんとロマンチックなかっこいい歌だろうと思ってしまう。

しかし、伊藤は「実はその自転車は娘のおさがりなのだ」と白状する。そのオチ加減の格好悪さが鑑賞されるとき、なんとも軽みある味わい深いユーモアが立ちのぼってくる。私はここに短歌的なユーモアの表出として最上のものを感じる。

「老い」のユーモア

さて、発見や自嘲の切口でユーモアを見てきたが、ひときわ心曳かれるユーモア世界がある。「老い」のユーモアだ。この世界は発見や自嘲の要素が混沌としていて単純にはくくれない気がする。

ユーモアを使いこなした歌人として竹山広と斎藤史をあげたい。竹山は長崎での被爆体験を元に生涯にわたり反戦を静かに歌い続けた歌人。斎藤は九十三歳で亡くなるまで老いを艶やかにしたたかにうたった。竹山も九十歳の長寿を全うしている。

もちろん、二人の歌集のなかでユーモアの歌が極端に多いわけではない。静かで深刻な歌が居並ぶなかにユーモアはさりげなく配置されていて、小さいがとても強い光を放っている。

おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにゆかぬなり生は
齋藤史『ひたくれなゐ』

携帯電話持たず終らむ死んでからまで便利に呼び出されてたまるか
〃『風翩翻』

往復の切符を買へば途中にて死なぬ気のすることの不思議さ
〃『風翩翻』

人に向きほほゑむは礼儀の一つにて老女二十四時(しろくじ)楽しきならず
〃『秋天瑠璃』

一首目、この世との別れは家出する嫁の挨拶ほどに簡単にはいかぬわい、という思い。二首目、携帯電話を生涯持たなかった矜持。「たまるか」の啖呵めいた言い切りが鮮やかだ。三首目も「不思議さ」とさらりと言っているようだが、確かにそうだなとうなってしまう深みがある。四首目はただ義理のお愛想で笑っているだけで、歳を取っても心中は決して穏やかではない気持ちを皮肉めいて吐いている。

いずれも一歩間違えば老いの気概だけが発露しそうなぎりぎりのところを機知あるユーモア精神が一首全体を柔らかに包んでいる。

斎場を出づるときすでに歌一首荒作りせりけなげなあたま
竹山広『遐年』

階段を手摺にすがりのぼるとき足でのぼれと頭は命ず
〃『空の空』

わが脈をそしらぬふりに確むる明け方の妻脈はあったか
〃『地の世』

竹山は斎藤よりもやや硬質で真面目なユーモアだ。一首目、こんなときにも歌を作ってしまう自分の頭を「けなげ」と誉めるおかしさ。二首目、階段をゆっくりとあがるその実際の事態はかなり深刻であるが、そこをこうちぐはぐな言い方にされてしまうと妙な笑いがこみ上げてくる。

三首目は入院中のベッドでそっと脈を確かめにくる妻。気づかぬふりをしての心のなかでの問いかけだろう。脈はあるに決まってるのだが、結句の問いかけにガクッとした笑いが生じてしまう。

斎藤も竹山も、現実の老いの日常はきっと穏やかならぬ辛い日々だっただろう。しかし、だからこそ、そんな自己をときに自嘲的に強く笑い飛ばしてしまわないことには辛さを打ち遣れなかったのではないか。自己を客観視することで心の平静を保とうと努力するなかで立ち上がってきた悟りや諦念の重なりから自然にユーモア的な思考が洗練されていったのではないか。

一方で、作っている本人はユーモアどころか、いたって真面目という面もあるのだろう。小高賢は『老いの歌』」の中で老いのユーモアに触れ、斎藤茂吉の「税務署へ届けに行かむ道すがら馬に逢ひたりあゝ馬のかほ」「銭湯にわれの来るとき浴槽にて陰部をあらふ人は善からず」を挙げ、作り手としては至極真面目で、別に笑いを伝えようとしているわけでなく、事実をそのまま表現したのだろう、と示し老いの歌には作者と読者のずれによって笑いの起こる作品が多いと述べている。

果たして茂吉はこの歌をユーモアと自覚し、自ら蔭でこっそり笑ったか否か…あれだけの名歌を生み出した茂吉のことであるから、私は、読み手の反応を予期したうえの老獪な確信犯ではないかとも考える。しかし、歳をとるとそんな計算は意識しなくなるのかもしれないと思うと、また解らなくなる。現在、活躍中の歌人たちの誰かが、あと何十年もたったときに、そうした老いのユーモアの謎を先人としてどうか解き明かしてはくれぬだろうか。

これから先、高齢化社会はますます進み「老いの歌」も多彩な局面が詠まれていくことだろう。「老い」は決して明るくはない大変なテーマでもあろうが、そんな世界だからこそユーモアはますます本来の力を発揮するようになるはずだ。

笑えないユーモア

宇宙食と思はば管より運ばるる飲食(おんじき)もまた愉しからずや
春日井健『朝の水』

老いではないが、こんな病の歌もある。一読で極めて深刻な事態と解る。「また愉しからずや」と言うに至るまでの経緯と心理を思えば、読者はどこまでも決して笑うことはできない。全く笑えない悲しいユーモアというのもあるのだ。

しかしこれは紛れもないユーモアである。悲しい事態をこうした思いで捉え、乗り越えようとするのはユーモア精神あってこそである。我慢ややる気、諦め等の支えだけではどうにもならなくなったとき、ユーモアは全く別の支点で弱った心をそっと支えてくれる。

ユーモアの力

-われわれは不幸を避けようと努力しますが、どれほど力を尽くしても不幸は避けられません。どんな人でも老いるし、病気になるし、最後は死にます。全力を尽くしてもどうやっても避けられない不幸な出来事に襲われたら、じっと耐えるしかないんでしょうか。そんなことはありません。まだ笑うことが残っています。(略)重要に思っていることでも、大したことはないという視点を見つけられる能力がユーモアのセンスだろうと思います。そして、その視点を見つけたときに笑いが起こるのだと思います。これこそ、人間が不幸な事態に立ち向かう最後の武器になるんです。
土屋賢二『幸・不幸の分かれ道―考え違いとユーモア―』

土屋はお茶の水大学名誉教授で専門は哲学。不幸を軽減する思考としてユーモアセンスの大切さを述べたエッセイから引用した。

ユーモアは大きな悲しみにとことん泣き通した後にこそ本来の力を発揮する。ユーモアは重篤なことを一見軽く、実はずっしりと受け止めさせる力を持つ。思わずこぼれ出た笑いが弱まった瞬間に起こる深刻な事態への突然の理解と驚き、あるいはどうしようもなく辛い状況の背後から立ち上ってくるほのかな安堵感…ユーモアはそんな心の作用を読む側にもたらす。

ユーモアでもってしか突破できない事態というものが、暮らしや人生には確かに存在する。対象との真面目ながっぷり四つや理論、硬質な叙情等だけではつかみきれない歌の世界がここにある。

始めにあげた現代短歌大事典には「ユーモアの歌は一九八〇年代以降、滑稽さや笑いを狙った歌が多くなる傾向にある」とある。そうすると現代短歌におけるユーモアの台頭はこの三十年ほどということになる。

八〇年代とは過剰な消費気分に酔ったバブル景気がピークを越えて崩壊し、先の見えない不透明な長期不況が始まった時代だ。そしてこの不安感はそのまま現在へとつながっている。不安をユーモアで笑い飛ばしてしまわないことにはやってられない時代が現代なのかもしれない。
現代短歌を見渡したとき、ユーモアのウェイトは決して大きいとはいえない。しかし、その力はこれからもっと再認識されてもいいのではないか?。ユーモアは現代短歌を形成する諸要素のひとつとして見落としてはならない力である。


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