藤島秀憲/第二歌集『すずめ』 -すずめに重ねた自己の変容-


第一歌集『二丁目通信』から三年半を経ての第二歌集である。
母を亡くした後、さらに老いゆく父の介護、そしてその死を軸に自己や日常を静かに見つめる歌が並ぶ。

一読後の第一印象は「前とえらく変わりましたね!」だった。第一歌集にあった凄惨さや、ときに叫びともとれるようなエネルギッシュな歌、固い意志、ニヒルな歌、アイロニー等が消え、余分な気負いがふっと抜けた自由な感じの歌が多い。そう思いながらあとがきを見たら、

 以前のような歌がもう作れなくなりました。
 以前のわたしに「さようなら」を告げる歌集になりました。

とあった。

長い日々をずっと両親の介護に費やしてきた人である。その重苦から解放されれば、そりゃ歌も変成するというものだろう。しかし、それにしても大きな変容ぶりである。

介護詠にみるユーモアの力

 いま父の前には昭和の天皇がいるらし幼馴染のように

 ゆるキャラのコバトンくんに戦ける父よ 叩くな 中は人だぞ

 新聞の兜を父は折らんとす今度五十の息子のために

 夏椿さらさらと咲きお父さんパンツを脱いだらパンツを履こう

 わが顔とテレビ画面を見比べて父が困った表情をせり

 百万円入りのズボンを捜す父、サンチョ・パンサを演じるわたし

 解説に藤島親方出ていれば父が返事す呼ばれるたびに

 ショートステイより帰り来し父その夜のおむつ替えればすみませんと言う

 いちにのさんで父は湯舟に移されるもはや土管の重みのなくて

まずは一連の父の介護の歌を追ってみよう。
父の昭和天皇と会話し、ぬいぐるみを怖がり、壮年の息子に兜を折り、パンツを掃き忘れ、テレビに返事する惚けた父。決して笑える状況ではないのであるが、こうしてユーモアをたっぷりまとって見せられると、かえってその悲しい現実がじわりと湧き出てきて介護や老いの本質を私たちに教えてくれる。

現実の介護の現場はきっと壮絶である。しかし、藤島はそんな場面を決してそのようにはうたわない。なぜならそれらをユーモアでもってどこまでも包み込む技量を持っているからだ。こうした独自のユーモアの腕前は第一歌集での鍛錬を経て、もう完全に自己の作歌作法として確立されている。ユーモアという手法はこうした場所でこそ本当の力を発揮することを藤島は身をもって体得したのだと思う。

終行の歌は第一歌集の「乱暴に、たとえば土管を持ち上げるように庭から父を抱き上ぐ」
を踏まえている。続けて読めば、昔はこれでもまだもっとましだったという、老いが容赦なく進んでいく現実がありありと浮き出てくる。

そんな父の死は、ある日ついにやってくる。

 わたしには死んでいる父 手加減をしながら心臓マッサージをする

 たばこ屋のおばさんがもう泣いている路地より父が運び出される

 太田光に似ている医師の腕時計正確ならん父は死したり

 みぞれふる菊坂われに肉親と呼べるひとりもなくみぞれふる

 藤島家最後のわれは弱冷房車両に乗りぬたまたまでなく

いよいよ来てしまった父の死。一首目、二首目の死の確信の予感から三首目の断定へ。この間、「延命処置を拒否」との詞書の歌もある。四首目、両親が亡くなるということはつまりそういうことなのだろう。初句と結句の「みぞれふる」のリフレインに、不意に湧き立つどうしようもない「孤」への寂しき思いが覗く。五首目、結句の押さえで弱冷房車を自発的に選択する心がもの悲しい。

 母が逝き父が逝き二十四時間がわれに戻り来たまものとして

長かった介護の日々を終えての正直な安堵感であろう。あとがきによると十九年もの年月だったようだ。この日々が無くなったのだから確かに大きな変化であろうが、同時に藤島の題材やテーマの主要な部分でもあったので、こうした世界を通過し終えた藤島の次なるテーマが何になっていくのかが楽しみである。

すずめに重ねたもの

さて、本歌集のタイトルである「すずめ」についての一考察である。
「すずめ」の入った歌をあげてみた。(他にも見つけたのだが別テイストに思えたのでここには入れなかった)。


 もうみんな大人の顔つき体つき冬のすずめに子供はおらず

 来る人と去る人の数合っていて結局ひとりぼっちのすずめ

 雨どいに溜まりし水を初恋の味のごとくにすずめは飲めり

 お手玉になった気分でとびはねる雀よ ぼくにも好きな人がいる


一首目は巻頭歌。かわいい表現を装っているのだが、実はとても力強い歌だ。いきなり結論めくが、このすずめはつまり藤島自身の姿ではないのかと思う。

その持てる力を全て出し切ったかのような第一歌集『二丁目通信』はさいたま文芸賞短歌部門準賞、現代歌人協会賞等の評価を得た。ここで歌壇界でのデビューと一定の認知を得たのちの第二歌集だからこそ、気負いを抜いたこのような歌集ができたのではないか?。そんな自己の成長を密かに「大人になったすずめ」に重ねたのではないか。「どうだ、おれはやったぞ!」という安心と矜持を私はこの歌に見るのである。

二首目の孤独なすずめは正に藤島自身であろう。三首目からは恋の歌。ここにもすずめを登場させて淡い恋心と重ねている。自身を投影させる生物として、普段からすずめに格段の目を注いでいるのかもしれない。
恋の歌にはかなり惹かれるものがあった。

 一羽かと見れば二羽いる目白かな われは苦しい恋をしており

 川からの風に露わとなる額理性が恋を長持ちさせる

 クマノミがイソギンチャクにまた隠れあなたを見ればぼくを見ている

 それぞれの鍵を持ちつつ木曜の午後深海をあなたと覗く

 湯気のたつごはんがあって父がいてあなたにたまに逢えて 生きてる

 脱ぐときの乱れる髪の 着たあとの整う髪の 海に向く窓

 成就することが罪なる恋をして枯れたら枯れたでいい梅もどき

一首目、すずめではなく目白だが、ここでもペアの鳥たちに苦しい恋心を映している。二首目は感情を無理に抑えたかのような思考。三首目、四首目は水族館でのデートのようだ。およそ情熱的とは言えない、大人の落ち着いた恋が垣間見える。

六首目にはゾクリときた。いささか失礼ながらこれが藤島作か?と思ってしまうほど色っぽい完成された歌だと感じた。そして七首目の諦めのような倦怠感もまた若い世代にはない恋愛感情だろう。

「となり」の歌

あと、もう一点、気づいた点がある。「となり」の歌がけっこうあるのだ。

 となりからとなりへ冬の回覧の春の修善寺日帰り旅行

 春はそこ猫はそこそこ色気づき学習机がとなりにとどく

 焦げているとなりの煮物春の夜の窓と窓とが細目に開く

 あついあついと隣の家族帰り来て、となりはこれがいいという声

 関東のここは平野のど真ん中となりの家に空き巣が入る

 隣室の風呂使う音聞きながら明日のチラシを整えており

やたらと隣が気になる人である。
人が家で暮らすとき、家族以外で一番近いところの人間がつまり隣人である。普段は書を友に家にいてあまり外出しない方のようだから、音、声、匂いなどの隣近所の様子が始終、自然に入ってくるのだろう。それらの情報を得ることで外界と繋がっている安心感を得ているのかもしれない。ベタベタの近所づきあいはあまり望まない反面、どこかで常に外界と繋がっていたいという深層心理なのかなと思ったりもする。藤島は本来とっても寂しがり屋なのかもしれない。

またもや三丁目へ

 数々の短歌をわれに詠ましめし父よ雀よ路地よ さようなら

 越してゆく町はふたたび三丁目金魚の鉢を細かく割りぬ

 落としたる青きりんごを追わぬまま坂ある町に暮らしはじめる

紹介する歌が前後してしまったが、長年住んだ思い出多き家を売り払い、坂のある町へ引っ越して独り暮らしを始めるところで本歌集は終わる。

故意か偶然か、引っ越し先の住所はまたもや「三丁目」。第一歌集のあとがきに「タイトルは二丁目だが、住んでいるのは三丁目」として『二丁目通信』のフィクション性をにおわせるくだりがあるのだが、さて、「新たなる三丁目」に腰を落ち着け、藤島は次の表現世界をどう創造してゆくのだろうか。


『すずめ』
2013年4月18日発行
短歌研究社
2000円(税別)

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