伊藤一彦の第十二歌集。2007年から2012年までの三八七首が三章構成で並ぶ。この間、2009年に第十一歌集「月の夜声」を出しているので精力的な作歌ペースと言っていいだろう。
宮崎県の看護大学教授を定年退職後の日々をベースに、全国各地への旅、そして県内で突如起きた口蹄疫感染と東日本大震災の歌が織り込まれている。後記にはこれらの大事件を『どれだけ「当事者」意識で表現し得たか』と歌人として突き当たった深刻な思いに触れている。
私は雑事を片付けてからじっくり味わおうという計画で、ある日に集中して一気に読み抜いたのだが、期待の通りしみじみと安心して鑑賞できた歌集であった。エエなぁと思わず呟いた歌が何首もあった。二読目で付箋をつけたのだが、どの頁も付箋だらけで収拾がつかなくなってしまった。
暁(あけ)早く鳥の声せり若からぬおのれ未知とし一日始まる
冒頭はこの一首で始まる。
朝、一日の始まり。六十代後半の御年は比較的「若からぬ」ではあろうが、この一首から湧き出ているのはまさしく「若さ」ではあるまいか。「おのれ未知とし」に前向きでエネルギッシュなパワーがここまで伝わって来そうである。
致死量の日向(ひうが)の空の青にまだ殺されずわれ生きてゐるなり
頁をめくり、三首目にしていきなりこんな歌が出てきてギョッとさせられた。
本来、良きものであろうはずの日向の青空に、いきなり「致死量」などという負の言葉を故意に被せている。きっと、日向の空の青さは「過ぎたるは及ばざるが如し」ぐらいにまで青過ぎるのだろう。
自殺率高き宮崎 場合により明るさも人を耐えへがたくするや
私はこの歌と併せて鑑賞した。のんびりとして自然がいっぱいでどう見てもいいところなはずなのに自殺率が高いという情報がまず驚きで、それは明るさ故かと言われてしまうと、なんだかとても複雑な気分にさせられる。
啄木をころしし東京いまもなほヘリオトロープの花よりくらき
かつての伊藤の名歌であるが、私はこの歌にまで連想が飛んだ。
いずれも「殺」を間にして、伊藤の中にある「日向」と「東京」の構図が見えてくるのである。そんな、地方vs大都会の構図は、伊藤が一貫して追いかけている大きなテーマのひとつである。
まずは日向のある宮崎県の自然に関するものを挙げてみよう。
名をもたず流るる渓の水のおと生夕暮のひびきあかるし
瀬の音を左右の耳に集めをり吊橋の上にまなこつむりて
われよりも明日を知らざる鶺鴒に導かれ行く朝の畦道を
日すがらを潮の音きける山ざくら海に散りゆく一片のあれ
日向晴の三月の空 果てもなくひろがりにつつ余剰はあらず
一首目、生夕暮(なまゆうぐれ)、辞書で調べて初めて知った。たそがれの強調的な言い方でもあろう。私は夕暮は何度見たことあるけど生夕暮は確かに見たことないなぁという気にさせられた。二~四首目は宮崎の溢れるような自然。五首目の日向晴という語も知らなかった。こういう言葉が地元ではごく日常の会話のなかに生き生きと使われているのであろう。
対して、東京の歌。
地下のわれいづこにをりやはらわたのごとき階段続く東京
人工の鳥のこゑする地下街を人らいそげり聴くことなしに
にべもなし きのふとけふと表情の変はらぬ地下の白き階段
しろがねの銀座の店に宮崎の焼酎ゐならぶ愛嬌(あいぎやう)見せて
東京を去らず死にたる友のため悪口言ひて魂(たま)しずめなす
「ふるさと」を捨てず東京に持ち行きし東北びとの斎藤茂吉
一首目、東京の地下街に正にはらわたのごとく複雑に階段が広がる。みんなよくこんなところを行き来してるなぁ、という呆れた思いかもしれない。二首目、日向の自然の鳥の鳴き声を知る作者には、都会のこうした人工の鳥声はどうせ誰も聞いていないのだし、実にばかげたものだろう。三首目、都会の無機質感。ここには日々の変化や季節感が全くない。
四首目は高級店に見つけた郷里の焼酎を「愛嬌見せて」とうたう。
五首目、郷里に帰らなかった友、いや帰れなかったのかもしれない死者への気持ちが強く出ている。死んでしまっても悪口が言える仲というのはなんかすごい。六首目、茂吉はふるさとを捨てることなく、そのまま東京に持ち込んだとする切り口がユニークだ。
東京から離れずに死んだ友、東京を去った作者、そして東京へふるさとを持ち込んだ茂吉・・・伊藤のなかに死や茂吉を媒介とした東京と日向への思いが交錯する。
東大寺また薬師寺に行かずともここに菩薩の月光そそぐ
重ければ乳母車に乗りわが家に来し冬瓜のすずしき緑
二つある改札口のどちらにもヒウガカボチヤの立つを見に来よ
いずれも都会とは対局の歌だ。奈良なんぞまで出向かなくてもここ日向にも佳き月光があるのだという自負。二首目、宮崎の冬瓜はこうして家にやってくるのだ。三首目、「見に来よ」の命令形に郷里への誇りが見える。
「どうだ東京、真似できんだろう?」みたいな生粋の日向人・伊藤の矜持が爽やかに立ち上がってくるではないか。
随所に漂う品の良いユーモアの歌も、思わずため息を誘うようなほのぼの感がある。
腰弱き日向のうどん食べ終へてともあれ今日を締めくくるなり
人の妻多く居ならぶ居酒屋に芒となりて身を細めゐつ
花咲ける時にのみ集ふにんげんを桜あかるく照らしてやまず
逆走はあやふけれども愉しきかハイウェイのみならず人生も
薄曇る空ゆくけふの太陽はとりわけ親し禿頭(とくとう)に見え
一日一生言ひかへるなら一日一死こよひなく死なむ温き布団に
蛇嫌ひの人の来ぬまま待ちゐたり心の蛇に気づかれたるか
一首目、うどんは当然ながら日向の名物ではない。だからこれはきっと不味い。それを食べて「ともあれ」一日を終える。なんか冴えない一日だけどそこに暗さは微塵も感じられない。二首目、よりによって女性ばかりのにぎやかな居酒屋に入り込んでしまったのか。小さくうつむいて窮屈そうにお酒を飲む伊藤の姿が浮かぶ。
三首目、そう、桜の木は年中存在しているのに花が咲くときだけ人は桜を利用する。四首目は、愉しき「か」だから安心できるが、こういう思いつきを歌に整えるのはなかなかに難しいことだと思う。
五首目、太陽にはいろいろな比喩があるけど禿げ頭のような太陽というのは初めて会った。六首目、温い布団のなかに「こよひなく死なむ」という反語的おもしろさ。七首目、待ち人来たらず、そういえばあの人は蛇嫌いだったなと、ふと思ったときのおかしみ。いずれも伊藤の人柄がしみじみとにじみ出ていて、機知に富んだ明るい健全なユーモアが読む者を柔らかく包み込む。
飛ぶ鳥の風切羽に切られたる空気よろこぶ秋のおほぞら
極月の路上にありし鳥の羽を家に持ち帰りものがたりさす
庭にをる宝鐸草の黒き実を時どきは思ひ出してやるなり
ユーモアとは別に、こうした絶妙に立ち位置の転換された表現の歌にも惹かれた。一首目、鳥の風切り羽に切られた空気を喜んでいるのは「秋」さんである。羽根に物語りを「さす」、黒き実を思いだして「やる」。こうした位置が転換された絶妙なあしらいに歌人としてのキャリアの長さを感じずにはおられない。
さて、これらから一転して、突如として宮崎県を襲った口蹄疫騒ぎの歌はどれもリアルで凄惨である。
牧場が戦場となる現実を挨拶として一日始まる
「宮崎県が牛三頭に口蹄疫感染の疑ひを四月二十日に発表。」
畜舎の中に弱りゆく姿を見る日々。
ワクチンを接種後いつ殺処分さるるか飼主は通知待つのみ
一首目、二首目とも詞書が実に効いている。(詞書部分は歌集には小さく表記されている。)
殺してから否(いや)生きてゐるまま運ぶか何れにしても殺処分なり
息絶えし母牛の腹の中にゐる赤ちやんしばし動きて已みぬ
親と子は同じリボンを付け置きて一緒に埋むるを頼むもゐたり
殺さるる運命(さだめ)しづかに受け入るると牛を聖のごとくに言ふな
九州内のスポーツ大会に出場の辞退求めらるる宮崎チーム
解説は無用だろう。
凄惨な時事詠としてマスコミ情報では捕らえられない裏の真実を歌人の目で見据えている。
同様に、このあと続く東日本大震災の歌も厳しい自己考察の目が光る。
東日本大震災を語りをりたつた一人の遺体も見ずに
新聞もテレビも遺体見するなし見すべきものに無論あらねど
当事者のごとく歌ひしことあるを月が薄目を開きあばけり
遺体が映らない報道への素朴な疑問をくっきりかつ柔らかに問う。日本のマスコミは報道倫理に基づく自主規制で遺体の映像はほぼ流していない。素朴だが深遠な疑問である。
我々が見たのは意図的に編集加工された、決して真実とは呼べない映像だ。テレビで見ているのは掻き集められたマイナーかもしれず、削り取られたメジャーかもしれない。
三首目はさも現場で見てきたような歌への自省の念でもあろう。
最後にお酒の歌を紹介しておきたい。
日本酒が恋人ならば芋焼酎わが友にして敵といふべし
要するに日本酒も芋焼酎も大好きなわけである。そういってしまえば実もフタも無いところをこのように恋人や友やライバルの関係と言ってのけられると「うへぇ!」である。私も伊藤に負けないぐらい酒飲みなので、どれも旨いよなぁと思わず昼間から一杯やりたくなってしまった。
常温の酒こそよけれ常温の人こそよけれ四時を通じ
そう、本当の日本酒好きはもう絶対に「常温」である。冷やでも熱燗でもぬる燗でもなく、常温。長年、大量の酒を喉に流した経験から、酒飲みはこれがもっとも味わえる飲み方と知っている・・・ということを言っているのかと思ったら、もっと深いと気がついた。
眼目は常温の酒ではなく「常温の人」の方である。熱くもならず冷めもせず、常に平常心でいなさいと、酒の味わい方という羽織を借りて、ものすごく深い思いを込めている。歌会なんかですぐ血が上って喋ってしまう薄っぺらな私なんかへの警告と勝手に解釈した。
私は2008年に「心の花」に入会したのだが、古参の方から「うちの入会資格は歌がうまいか酒が強いかのどちらかですよ」という冗談を聞かされた。私はもちろん後者ですんなり(?)入れたわけだが、大親分の佐佐木幸綱をはじめ、この結社には酒好きの先生が幾人もそろっていて何より嬉しく思ったものだ。
この書評を書くにあたり、本歌集の三読めを終えた今、いちど日向へ行ってみたいと猛烈に思った。宮崎の大自然に触れ、日向晴れの青空を仰ぎ、生夕暮を見たあと、日向の地酒を常温でキューッと・・・。
そしてその前に伊藤がにっこり座って大声で「やぁ!」と言ってくださったら・・・嗚呼、もう最高なんじゃないかと思う。
『待ち時間』
2012年12月19日発行
青磁社
2800円(税別)