近藤かすみ第一歌集『雲ヶ畑まで』
-「遅れてきた私」が「もうひとりの我」を越えるとき-


歌集を一読した後、作者の生きている場や日々の暮らし等がかなり明確に解るときと、あまりよく見えてこない場合がある。その観点でいけば本歌集は明らかに前者である。

近藤は一九五三年生まれ。あとがきには四十七才で突然、降って湧いたように短歌を作ってみようと思い立った、とある。本歌集はそれから現在までの十年間の三五一首が編年体でまとめられている。

主婦の日常。海外勤務が多く不在がちな夫。亡き父母への思い。上の息子と下の娘を育てあげどちらも巣立って最近、孫ができた。ひとり暮らしの寂しさと不安。水泳に挑戦した・・・頁を繰るごとにそんな事がざっくりとつかめる。

 カレンダーを家族の予定で埋めし日々終りていまは詳しく知らず

 亡き父の勤続三十年祝ふ柱時計が正午を告げる

 ひとびとの群れゐるることの羨ましくて家居に過ごす日曜の午後

若き日の家族の思い出にひたりつつ、静かで平和な「ひとり」の時間を過ごしていることが想像される。一首一首の歌をひたむきに重ね続けている日々のようだ。

しかしながら、心はいつも平穏なのかと読み進んでゆけば、決してそんなことはなく、内面はなかなかに繊細で複雑かつ深刻だ。気になった歌をあげてみよう。

 テーブルに置いた眼鏡がわたくしの代りに夏の手紙読んでる

 白日傘さして私を捨てにゆく とつぴんぱらりと雲ケ畑まで

 対岸を眺むればあの木下闇にもうひとりのわれ入りゆくところ

 ああ、また、ほら、喋つて止まぬ人が居るあれはさう、もうひとりの私

 ポプリンの白きブラウスに手を通すこのひとときはわたくしのもの

お解りだろう、「もうひとりの我」がよく出てくるのだ。手紙を読む、対岸を見る、話を交わす・・・すると、別のところに別の自分を見てしまう。また、二首目などは京都市街の北の山奥へ、軽妙なオノマトペとともに自分を捨てに行こうというのである。

近藤は「本当の私」を探す旅を日常の暮らしのなかで続けているのだと思う。五首目などは、そうした「浮遊感」を補正すべく、自己が自己であることを再確認するための行為なのではないか。こうした不安定な思いの周辺に生まれたのが下記のような歌だ。

 シグナルのランプの中に描かれて帽子の紳士どこへも行けぬ

 風見鶏銅の板より作られてまなこの虚ろは風に添ふのみ

 何事も「わたしのせゐ」と言いし日を袋に詰めて出す月曜日

 薔薇色の挽き肉買ひてわがために捏ねる夕べのひとりの快楽

 小さくて気にするほどのこともない石がわたしの靴のなかにある

 ティーバッグすこしやぶれて紅茶の葉いたしかたなくミルクと混じる

青信号の中のシルエットの紳士、銅板製の風見鶏、そしてゴミ袋にはもちろん近藤自身が重なっている。閉じ込められた自分の位置を、視点を変えて何度も何度も歌に託そうとしている。そして四首目、自分のためだけにハンバーグを作り、自己の舌で自己たる味覚を確かめるのだ。

五首目、靴の中の気にするほどでもない小さな石をずっと「気にし続けている」痛々しい心の様が伝わってくる。六首目にも同様の痛みを「いたしかたなく」に感じる。いずれも写実描写の奥に自己の心をまとわせる配置具合がなかなかに巧みであるが、実際、近藤はかなり危うい精神状態を経てきたのではないかと思う。

しかしながら、ではこうした心の痛みに負けてしまっているのか?といえば、どうもそうではなさそうだ。「解決の試み」を見つけ出す力は、私なんぞがちまちまと心配せずとも彼女なりにしっかり備えているのである。

 泳げない理由(わけ)を探しているうちは泳げなかった私の身体

 相応に歳重ぬるを肯へぬわれは近ごろターン覚えつ

 はじめからこんなわたしぢやなかつたわラテンのリズムで激しく踊る

近藤は水泳を始め、そしてさらに、きっと無縁だったに違いないダンスの世界にも果敢にチャレンジしている。未知の世界へ挑戦することで新たな自分を見つけ出そうと積極的に行動している。トライ、失敗、そして「できた!」の喜び・・・こうして新たに発見、獲得した「自分」の感覚こそが、ひょっとして近藤が求めていた本来の自分かもしれない。

短歌は心の浄化作用を促す力を持っている。どうしようもない不安感や鬱屈感を歌に託して放出することで心が昇華されることがある。その意味で近藤が短歌という世界で自己表現を重ね続けてきたことは非常にラッキーだったと私は強く思う。

こうした、未知の世界へのチャレンジ、あるいは作歌スタイルのさらなる進化によって、やがて近藤は「もうひとりの我」を越えてゆくに違いない。いや、本歌集の上梓によって、もうすでに越えてしまったのかもしれない。

近藤は「気まぐれ徒然かすみ草」というブログを熱心に運営していて、そこで新聞歌壇の歌を挙げて評したり、仲間や知り合いの歌集を紹介したりしている。

このブログのサブタイトルには「遅れてきた私」との表記がある。四十七歳から短歌を始めたという遅い出発を意味するのだろう。だが、それ故にか、短歌への情熱と集中力は尋常ではない。一時期、「短歌研究」投稿欄の上位常連者として毎月載っていたのを私は知っているし、連作の新人賞の上位入選者としてもよく名前が出ていたのも記憶に新しい。このほど所属結社「短歌人」の「短歌人賞」を受賞し、結社誌の運営でもかなりの仕事を任されているようである。

私は、これからの歌壇は近藤のように壮年から短歌を始め、瞬く間に頭角を出してくる歌人が続出するのでは?、という予感めいたものを以前から強く持っている。

ここのところ新人賞は十代、二十代の若者の受賞が目立つが、新人賞は決して若い世代のためだけにあるものではない。五十~六十代、あるいはそれ以上の歳の「新人」が、これからどんどん出てくるのではないか。遠からずこれらが現実になったとき、近藤はそのパイオニア的歌人として位置づけされるに違いない。もっとも近藤はこんな評価をきっと嫌がるに違いないが。


『雲ケ畑まで』
2012年8月11日発行
六花書林(発行 開発社)
2300円(税別)



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