細溝洋子/第一歌集『コントラバス』 武富純一
「自分が自分であること」にどうしても馴染めず、終始、違和感を感じているタイプの人たちが、この世にはいる。そういうタイプの人は、得てして絵画や文学等、芸術系の世界で独自の表現術を発揮することがある。細溝洋子、この人もそうした一人かもしれない。 スクランブル交差点斜めに渡るとき高層の窓にわれの目のある この第一歌集の巻頭を飾る歌だ。 交差点を渡るとき、高層ビルから不意に感じた自己を見下ろす“自己”の目…それは作者の繊細な意識であると同時に、「自分イコール自分」となれない心への違和感でもあろう。 当然、こうした違和感の持ち主は、とりとめのない不安感の漂う世界を持ってしまうことになる。 不揃いな食器のように落ちつかぬ心と思う手足と思う 私(わたくし)がふいに見えなくならぬようカーソルで消す「かしこ」「草々」 人の流れに乗っていくのが楽しい日楽しくない日 改札を出る 地下鉄の鏡に映る一瞬が見知らぬ人にとってのわたし 人の靴見比べているわれの靴も誰かに見られながら 地下鉄 真剣に必要とされるはずもないネットの中に肘ついており 心と手足のバラバラ感、何度も書き直す手紙、群れの中の自分、気になる他人の目…。 六首目の歌は、おそらく「ネット歌会」の思いだと想像する。 彼女が所属する短歌結社「心の花」には、全国の歌会の他にインターネット歌会がある。こうした組織の中での自分の立ち位置、評価等を冷静に客観的に見つめようとしている別の目がこの歌にはある。 彼女はネット歌会立ち上げ初期より、既にリーダー的な存在である。にも関わらず、こうした不安定な感覚は彼女から常に離れないようだ。 しかしながら、本質的なところで彼女は決してこうした違和感に潰されることはない。不安感は止まらないけれど、どこまでもどこまでも、それに押し潰されたり打ちのめされたりすることは絶対にないのだ。 アンケートまた頼まれて名前なき私がえがくいびつなる円 わたあめのような一人の時間なり階段のいちばん下に座って 我の中に小さな森があることをときおり空が見えないことを 危険水位に近づく想いすれ違いざまのジョークを一つはずして 「ただ、」という接続語もてやわらかくねじ伏せて次の話題に移る 頼みごとは笑顔で受けて一応の○を付け、一人の時間を大切にし、会話のミスを気にかけ、迷いつつも言うべきことはしっかりと言い、たとえ相手を言葉で言い負かしたい時でもあっても、飽くまで柔らかくねじ伏せる、のだ。これらはいわば彼女の身上なのである。 歌集を読み切り、私が全体から感じた大きな要素は、こうした「周囲への気遣い」である。 こまごまと利点説明されしのち静かに待てる自転車を買う テーブルを囲みいるとき我に流れあるいは我より流れ出る水 人工芝のような彼女の無神経長く耐うれば静かに慣れつ 待つときの立ち位置常に迷いつつドアが開けば人に遅れる 誰かもうきっと気づいているはずの誤字の混じれる看板を過ぐ お互いの香りにむせることなきか花舗にひしめくやわらかな花 そうですねそうでしょうねと行き来するメールの言葉に揺られていたり 人に聞くことじゃないわと水色の削除のキーをかちかち叩く ささやかな苦言を言いてしばらくを黄金虫のごと光りていたる 本当は聞きたくもない熱心な説明を黙って最後まで聞き、人の無神経に長く耐え、相槌をうちつつ、言いたいことはやっぱり削除、でも、やっと言ったと思ったら、あとでとっても気にしている…。 気遣いはまた文章にも現れる。私はネット歌会で彼女の書き込みを読んだり、メールをいただいたりすることもあるのだが、時に、こちらの方が痛々しい気持ちになってしまうくらいの気遣いに満ちた文面を見ることがある。 私なんぞはすぐにストレートに意志を伝えてしまい、それが逆効果となって相手の怒りを買うこともままあったりするのだが、彼女は決して前に出ず、幾重もの気遣いの言葉を準備し、そして、その上で相手に言いたいことを伝える。そんな柔らかき彼女のメールに怒る相手は決してないだろうとさえ思ってしまう。 一方で、健全で可愛い歌や冒険作も数多い。 「ありえなーい!」ことはそんなにありえないしばしの若さ駆け抜けてゆく 秒針がちゃかぽんちゃかぽんと聞こえきて眠れずなりぬちゃかぽんちゃかぽん などは、おどけた感じがストレートに読む者に伝わってくる。 また、最後の章「風の手紙」二十首は、すべて動物の歌で、昆虫、は虫類、魚、ほ乳類、鳥たちが自在の姿で登場する。これは「心の花賞」受賞の連歌である。 かたつむり小さく突けば「やれやれ」と角を振りつつ殻に入りたり お節介して叱られてばかりいるスズメがきっとあの中にいる 私の方がきっと正しい 証明をしたがる栗鼠のしっぽをつかむ こうした歌に暗さや不安は感じられず、健全で愛らしい。第18回歌壇賞受賞、心の花賞受賞、角川短歌賞佳作と華々しい実績の成果としての本歌集である。「心の花」全国大会では全体歌会でステージに立ち、評者として活躍しているし、短歌雑誌にも執筆中だ。 鳥の群れいっせいに向きを変えるとき裏返さるる一枚の空 空を“一枚”としてとらえ、鳥の群の力を借りていきなり裏返してみせる力を持つこの歌人は、さらなる感性と落ち着きを獲得しつつ、これからどんな歌を作っていくのだろう。 『コントラバス』
本阿弥書店 2600円(税別) 2010-10-18 |INDEX|
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