題詠とパソコンの気になる関係

武富純一
「心の花」2011.6月号掲載


昨年度のNHK全国短歌大会の作品集を見ていた。冒頭「選者のことば」で、選者の一人、小池光は-「明」という題詠で「行方不明」や「明智光秀」が出てきてびっくりした-とあった。

即座に私はその原因への想像がついた。パソコンである。つまり、ワープロソフトの「検索機能」を活用し、自作歌リストのファイルから「明」の語を検索して抽出したのではないだろうか。

もちろん、全ての人がこんなことをしているわけではないだろう。普通に手書きで歌作しても突飛な語が飛び出すこともままあるだろう。しかし、それでも私はパソコンの普及がこうした現象を大きく押し上げていると思っている。

最近、私が参加したある歌会の題詠は「新」であった。新たな歌がなかなか浮かばないので、自作歌ファイルを探してみた。つまり「新」の入った在庫(?)を片っ端から検索してみた。新聞、新芽、新緑、新大阪、更新、最新、新曲、新家、新人類、新た、新本、新しき…これらが私の歌の中にあった「新」の全てだ。

題詠が出されると、普通、人はその脳内でイメージできる世界を懸命に構築しようとする。だから題詠によってはどうしても通り一編の域を出ないこともあるだろう。しかしながら、パソコンはそんな感情など一切お構いなく、ただただ、それこそ“機械的に”目的の語の入った歌だけを抜き出して見せてくれる。

だから、自分でも「オレは<新>でこんな歌を作っていたのか…」と思いも寄らぬ歌が出て来てビックリさせられることがある。当人でさえそうなのだから、それを読む選者先生が驚くのは無理もない。

私は気になる歌を数首チェックして絞り込んで修正し、首尾良く「新」の題詠に出詠することができた。

大量の情報の中から目的のものを取り出す作業はパソコンが最も得意とするところであり、同時に人間が一番不得意とする部分でもある。インターネットの検索機能は、その最たるものだろう。昔は図書館に何日も通ってようやく得ることができた情報や知識が、うまく検索すればわずかな時間でいくらでも簡単に出てくる。

「検索」は短歌の歴史本来の「題詠」の概念からすれば、いささか邪道なのかもしれない。でも、もはや禁じ手とは決して言えないだろう。

小池光は、先の言葉に続けて、-「明」という漢字が使ってあればそれでよいというキマリなのでこれでもいいわけである。題詠という概念もだんだん変わってゆく-。と述べている。

パソコンやインターネットが短歌に及ぼす影響はすでに多く語られているが、私はパソコンなんぞに短歌を本質的に変える力は無いと思っている。万年筆で書こうが鉛筆で書こうがキーを押そうが、短歌は短歌である。そんなもので変わるほど短歌は弱くない。

しかし、こうした題詠へのアプローチ手法は、「題詠」の位置付けは確かに変えてしまったといってよいだろう。ただし、私の場合、いくら検索しても在庫が無い(?)題詠もよくあったりするので、その場合は一からちゃんと題詠に取り組む他ないのはもちろんであることを最後に申し添えておきたい。


2011-06-03


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