足立晶子第三歌集『雪耳』 自然、気象、昆虫への博物学的視点 武富純一
足立晶子の第三歌集である。発刊は二〇〇一年。もう十年以上前に発刊された歌集である。今頃なぜ書くのかと言うと、もうすぐ第4歌集が出るというので、第3歌集を読んでみたのである。 タイトル「雪耳」は「シュエアル」と読む。 雪耳 銀耳(インアル)と呼ぶ名前ごと白木耳(しろきくらげ)をしゆりしゆりと食む あとがきには、 「雪耳(シュエアル)」は中国語で白きくらげのことです。今回歌集をまとめてみて、さまざまな景物が私の時間を濃くしてくれていたことに気づきました。中でも「雪耳」はその響き、字面、淡泊な食感が好ましく、集名としました。 とある。 一読後の第一印象は、その博学さであった。題材の採取域が非常に広く、その世界は自然、気象や天文、動植物、昆虫から、科学や歴史、芸術にまで及ぶ。まずは、自然、気象関係の歌をみてみよう。 初時雨、木枯一号やつて来つ 秋の西風二日は吹かぬ 花のやうにぼたん雪が雪のやうに花びらが降る四月の空を 雨傘がいつか日傘になつてをり青栗の辺に歩み来しころ ヘラクレス座より四万年後に来る返信天(そら)にひらひら花水木揺る ともしびの明石大橋かすみたる空も海まで吊り下げらるる 移動性高気圧きていよよ秋われは静電気に囲まれたるよ 季節の移り変わり、木枯らし、雪や雨、そして青葉等への柔らかい眼差しが感じられる。四首目などはヘラクレス座との距離の知識と花水木が結びついた壮大な歌である。五首目、明石大橋は人工物だけれど、下の句、「空も海まで吊り下げられる」という大胆な描写力に打たれた。 なかでも「雲」の歌が多い事に気づいた。 ひと度は目覚めしわれを引き戻す積乱雲のぶあつき眠り ふつと眠くなりふつと醒めたり西空の彩雲いつか掻き消えてをり 白雲と朱雲わくる青き雲なべてを覆ふ雪雲が来る 雲を見て上空は右 中空は左へ吹ける風を見てゐる 雪雲の真中の小さき青空が雷鳴るときに震へてゐるよ 積乱雲、彩雲などは気象学の用語だと思う。四首目、雲の種類を高度ごとに見分け、その場所での風向きが違うなんてことをうたう女性なんて、私は足立以外に知らない。また、動植物への歌も多く、その視線も独特である。 ドードーは飛べぬ鳥なり遠き日に並びて夕日を見てゐたりしが 花屋より付き来しゆゑに花よりも透きとほりをりこのかたつむり 毒茸が耳かたむけてゐる森にガサガサガサと落葉を踏みぬ 完璧な網目の中に納まりて冬のほほづき灯りてゐたり 二千年の年輪を持つセコイアよ世紀越えしを笑ひ給ふな 山鳩と鵯と雀がやってくる二月四日のまめを拾ひに ドードーは近年、乱獲によって絶滅した大鳥だ。これらの他にも牡鹿、鹿狸、鶺鴒、海蛇、河馬、ゴリラなど多彩な生き物が登場している。四首目などは植物学者の正確な描写のようだ。セコイアは書物から得た知識の裏付けだろうか。 圧巻は昆虫たちを見る目である。 ひさかたの雨上がりの坂列なせる蟻は虹の輪くぐりてゆきぬ 石の上のテントウ虫の下に群れあまたの蟻のうごめきてをり 逃げ水より逃げ水までを歩みゆくトンボの影のあとさきになり わたくしの灯にやつて来しカナブンと約束のごと眼を合わせをり 口ごもりゐたるが油蝉となり鳴き始めたり七月十日 今生れしアオイトトンボ透きとほり透きとほりゆき風となりたり 秋の日の透きゆく空気風の音バッタの鼓膜で聴きたるならば 霜月のウスバカゲロウその翅が空へ溶け出す時に気づきぬ 蟻やテントウ虫へ注がれるミクロな目。トンボと遊び、カナブンと眼を合わせ、急に饒舌になった蝉に気がつき、バッタの耳になって秋風を聴く。次々に登場する昆虫たち・・・まるで平成のファーブルではないか。 さらにその科学者的な眼点にも触れておこう。 f分の1ほどゆらぐほととぎすの声を聴きゐる夜半のわたくし 竜巻のもとは蝶々羽ばたきがアメリカ大陸の気流をそよがす 一時期、話題になった論である。風や波など、一見気まぐれで捕らえどころのない自然現象にも「ゆらぎ」という特定のリズム、周期があるという発見だ。 二首目はカオス理論に出てくるその端的な表現例。始めは無視できるようなわずかな差が、やがては大きな現象になるという理論。バタフライ効果と呼ばれている。こうした科学雑誌の記事のような情報へ着眼した歌も印象的だ。 また、こんな歌もある。 己が科をテントウ虫科かテントウ虫ダマシ科か知らず石の上にゐる ヒルガオ科朝顔ウリ科夕顔のあはひを咲ける昼顔の紅(こう) ボロボロノキ科ボロボロノキは折れ易きを誇れるらしきぼろぼろとなり 昆虫や植物を「科」とかで分類した歌を作る女性も珍しいのではないか。この人の頭の中はどうなっているのか・・・と考えていたら、こんな歌があった。 心よそに辞書を引きをり遠雷の音遠のきも近づきもせず きっと足立は時間さえあれば辞書や図鑑を読み耽っているのだと思う。ページを繰るごとに舞い出てくる科学者的な豊富な知識は、どうやらこのあたりにありそうだ。ここまでくるとさながら博物学である。そして、そんなところへ加えて「暮らし」が入ってくる。 絹延橋 鶯の森 鼓が滝すぎて降りるはわが町畦野 今日もまた「視線恐怖が直ります」の看板の前電車を待ちぬ もの置けばをりをり失せるこの机菜の花一輪今日は置くなり 右側に頭を傾けて眠るとき犬の来ること多し 夢に 階段を踏み外しさうな感じにて土曜の午後は終はつてしまふ 足立は兵庫県川西市の北を走る能勢電鉄の沿線に住む。私も何度か乗ったことがあるが、山あいの田舎の景色が続くのどかな線だ。一首目はその駅名の美しさを言いたかったのではないかと思う。二首目、ホームに立つたびに眼に入る看板が「視線恐怖が直ります」なのはなんか妙な気持ちになってしまう。いわくつきの机に置く一輪挿し、夢に出てくる死んだ愛犬、ある土曜日の午後の時間のなにやらガクッとした終わり方。こうした日常の中のなんでもない思いもやんわりとうたう。 さて、この他に気になった面に「ユーモア」の歌がある。 一つ一つ卵は日付つけられてパックされゐるはづまぬやうに 捨てられし土器盛り上がる傍らに燃えないゴミの日思ひてゐたり トンネルの入り口に咲く合歓の木にわたしを置いて来てしまひたり しら紙の裏に書きたるメモの意味忘れてしまふ 六月となる 眼球を下へ下へと沈めゆくラベンダーティーの香りの中へ 午前には<しみじみ>飲みて午後となり<のほほん>を飲みひと日終はりぬ 「先に行く」と記されてある伝言板やつぱり先に書かれてゐます 卵があのパックに入っているのは、足立に言わせると「弾まないように」なのは思わず笑ってしまう。古代遺跡の土器片の捨て場を見て「燃えないゴミの日」を思い、合歓の木のそばに、他でもない自分自身を置いて来てしまう。せっかく書き留めたメモの意図を忘れ、ラベンダーティに沈みゆく小花たちをじっと見続け、お茶のペットボトルの名がおかしくてこんな歌を作ってしまう。最後の歌などは、普段のしゃべり口調そのものを思い出してしまった。 足立のユーモアはどこか軽快で湿度が低くカラッとしている。失礼を承知で敢えて言わせていただければ「なんかカワイイ」のである。そして上品で知的でもある。 足立は私が所属する「心の花」兵庫歌会の代表である。二ヶ月に一度の歌会で短歌のあれこれをご教示していただいている。これからも厳しく指導してくださることを願っている。 『雪耳』
2001年12月25日発行 雁書館 2300円(税別) 2012/06/16 |TOP PAGE|
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