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アトムフォーク
幼い頃の忘れ得ぬ記憶を二十四の散文で結晶にしてみました 1. アトムフォーク 水棚の引き出しの奥に昔から一本のフォークが入っている。柄の部分に腕を前に出してつま先から火を吹いて空を飛んでいる鉄腕アトムのついたものだ。今では色もはげ落ち、銀色の地肌だけになっているが、当初は奇麗な赤と黒と肌色でアトムの全身が塗り分けてあった。私は三度三度の食事にそのフォークを使っていた。箸は使ったことがなかった。このフォークを左手に把み、私は幾種の食べ物を突き刺しただろう。どれぐらいの量を口に運んだことだろう。当時と全く変わらぬカタチと輝きのまま、アトムフォークは今も水棚の奥で眠っている。 2. 雪 雪が降り始めるといつも私は慌てて庭に飛び出した。顔を真上に向け、曇天の奥の奥から視界いっぱいに広がって後から後から向かってくる雪片に口を空いて対峙し続けていると、いつしか私は静止した無数の雪片の合間を足元の大地もろとも垂直にゆっくりと等速度で上昇し始めていた。私は、星々に満ちた宇宙空間を上昇する巨大な宇宙船の先端にいた。 3. 終 末 幼稚園へ通い始めた時分だろう。その朝は早く起きなくてもいい日曜日の午前だった。目が覚めても起き出さず、湿っぽい布団の中にいつまでもぐずぐずやっていると、突然捉え難い不安感が私を包み込んだ。それはこの自分自身も母も父もみんなそのうちどこにもいなくなってしまうのだ、いついつまでも今のこんな状態が続くわけじゃないのだという、例えようもなく寂しい寄辺のない不安感であった。私は泣きじゃくっているところを起こしにきた母に見つかったが「どうしたの?」という問いに何も答えることができなかった。その悲しみはすぐに去って行き、その後2度と私を包むことはなかったが、私が初めて感じた、「終末」への不安感であった。 4. ハレーすい星 小学校4年の時、ハレーすい星の話を本で読んだ。何十年かに一度地球に近付いてきて、昔はその度に悪い事の怒る前兆と騒がれたとあった。「この次は1986年に地球に近付きます」という箇所を私は幼い頭にしっかりと焼き付け、頭の中で足し算し、そのころには25歳というリッパな大人になっているのだと思った。時が過ぎ、25歳になった年、ハレーすい星はマスコミの話題になり、世間ではめったに優勝しない球団が優勝したりした。しかし、私は思っていたような「しっかりした大人」にはならず、幾つになっても人はその年相応の愚かさを持つことを知った。 5. ヒグラシ もう薄暗くなりかけた夕日に向けてカナカナカナと速射される純銀の声に追われて、私は遊び過ぎた山中の小道を大急ぎで家へ駆けていた。 6. 線路の絵 その頃、私の一家はとある文化住宅に住んでいた。どこへかは忘れたが、もうすぐどこかへ連れていってもらえると聞き、出掛けるまでの時間を未来への期待の思いで一杯にしながら、玄関横の白い壁にクレヨンで思い切り線路と電車の絵を描いた。線路は次第にどんどん伸びていった。私を邪魔するものなど何もなかった。未だかって、あれほど伸び伸びと、あれほど自由に絵を描いたことはない。 7. オレンジの輝き 夏の日の午後だった。私は一人で台所にいた。開け放たれた裏口から見える、酷暑に白熱した世界とはうらはらに、台所は薄暗くいつもひんやりと涼しかった。冷蔵庫の小さなモーター音の他は何も聞こえなかった。冷蔵庫の上部にはそれが作動していることを示す四角い小さな明かりがついていた。クリスタルガラスのように細かくカットされた表面はいつも淡いオレンジ色に輝いていた。その光を私は何かこのうえなく涼しい色、心地よいものとして見つめながら夏の日を過ごした。 8. 疑 問 「空気」なんてコトバはまだ知らなかった。「息」というコトバも知らなかった。“自分はイキヲシテイル”という概念は持ってはいたが、それをコトバでどう表現するのかは知らなかった。ある日、“イキヲスルコト”を止めたらどうなるのだろうと思い、不意に息を止めてみた。私はすぐに苦しくなり、大きく息を吐き出した。あの日、私を包んでいたたくさんの空気。わずかの間、私の小さな肺に閉じ込められた一陣の空気。それは私の人生で初めての、疑問を確かめるための偉大な実験であった。 9. 母に負われて 熱でも出したのだろう。何日か寝込んだ後、母に背負われて久し振りに外へ出た。病気でもない限り私はもう母におんぶされる年ではなかった。歩く度にゆっくりゆっくりと揺れる背の上で、私は半ば眠りかけていた。「いいねぇー、純チャン、おんぶしてもらってー」。立ち話をしていた近所のおばさんに思いがけず声をかけられた私はひどく恥ずかしい気持ちになり、母の背中に顔を伏せたまま、ただひたすらに眠っている振りをしていた。 10. 父を迎えに 父が仕事から帰ってくるのを母と迎えに行った日があった。夕方というにはまだ明るい白い一本道の途中で待っていると、やがてまっすぐな小道の向こうから、父は顔いっぱいに笑いながら私の元へぐんぐん近づいてくるのだった。その時、まだ若い父と母にどんな会話が交わされたのかはわからない。ただ、私は幼い日のある夕刻のひとときが満ち足りた大きな安堵とともにあったことを今でも大切に思い出すのだ。 11. デパートの帰り 山合いをゆるゆると進む電車の中は強い西日に射られて黄色く輝いていた。ある日曜日、街のデパートで母にオモチャを買ってもらった帰りである。耳にこもる電車の単調な響きと揺れにその日一日の心地よい疲れが重なり、いつしか私はうつうつとまどろんでいた。時折、何かの加減で目が醒めると私の心を満たすのは、オモチャを買ってもらったという、何かしっとりと落ちついた充実感だった。小さな満足を乗せた電車は夕暮れの迫る山々の間を登り続けていた。 12. 蟻の巣 ある日、庭の隅にある花壇石をはがしてみると、一面に蟻の巣の断面が現れた。暗黒の平和から突如日の元に晒され、ただわらわらと動き回る無数の蟻たち。白い巨大な卵をくわえ安全な場所へ移動させようとあせる蟻たちもいた。そんな一大事を私は子供にしかない冷厳な目でもって眺め終えると、そっと石を元の位置に戻した。 13. 熱 熱を出して寝込んだ。私の額を包むようにして手を当てる母の心配気な顔から漏れた深いため息……。 14. 肩 車 父に肩車をしてもらうと私は落ちないように両手でしっかりと父の頭をつかんで離さなかった。歩調に合わせた規則正しい上下の揺れに身を任せているとやがて両手が 何か得体の知れないものでベトベトになった。後年、ポマードと知ったが、降ろしてもらった後もしつこく両の指の間から離れない妙な感触と匂いは今も私の手の中に残っている。 15. オニヤンマ オニヤンマを捕まえた。しばらくして逃がしてあげたら、翌日庭の同じ場所を何回も飛び抜けて行った。私は同じオニヤンマが逃がしてくれたお礼を言いにきているのだと固く信じていた。 16. 鼻 水 三輪車に乗った幼児がふと動作を止めボーッとしているのに目が会った。すると彼の鼻から鼻水がずずーっと垂れ始めたのだ。私の興味はどんどん伸びていく鼻汁に集中した。やがてその先端が今にも地面に届きそうになったので私は心配で声をあげそうになった。その瞬間、彼は深呼吸をするかのように大きな音をたてて鼻をすすり、長く伸びた鼻汁は一気に元へ収まってしまった。ボンヤリした顔から地に着きそうに伸びた鼻水の異様な長さ、そしていきなりジュルジュルと鼻へ戻っていく有り様が今でもコマ割り写真のように鮮明に浮かぶ。もともと入っていたものとはいえ、よくあれだけの量がと今でも時々感心しているのである。 17. タンスのキズ 木でてきた大きなトラックを買ってもらった。後ろから勢いよく押すと正面のタンスにぶつかり、白い小さなキズがタンスについた。幼い私の発した「前進」という小さなエナジーは実家の和室の隅に今もそのまま保たれている。 18. 鏡 小さな楕円形の鏡に自分の顔と背景を映しながら、私は鏡の後に手をやり、その不思議な世界に手を触れようとやっきになっていた。何度見当をつけて手をやってもそこには何もなかった。しかし幾度かの試みのうちについに触れたと思えた感覚があったのだ。私は鏡の中に触れたのだと信じた。 19. 雪 窓 ふり始めたと思うと瞬く間に教室の窓の景色はかき消され、猛烈な量で落ちてくるぼたん雪のパノラマが窓一面に広がった。どこまでも白い奥行きと高さでとめどなく降りしきる勢いに圧倒されながら、私は積もることを当然のように期待した。他に何が起こるでもないのに、ただ見ているだけで心が踊り嬉しくなった。こうした雪はたいていすぐ衰えて、積もることもなく陽に溶けてしまったのだが、あの時の完ぺきで純粋な期待感は今も持ちたいと思う。 20. おしっこ ある夜、無理に寝つかされた布団の中で私はわざとオシッコをした。気づいた父と母が大あわてで布団を替えてくれた。が、その新しい布団に私はすぐまたオシッコをしてのけた。せっかく新しく替えてくれたのにと思うより強く、小さな悪事を誰にも知られずやってのけたという満足で私はひとりニヤリとした。 21. ウルトラQ 「ウルトラQ」を見ていた。そのメロディーが始まるといつもテレビの左側にあったドアが開いて今にも怪獣が入って来そうな気になってひどく不安だった。 22. お日様の匂い 国語で習ったあるお話の最後に「干した布団はお日様の匂いがしました」という一行があった。「お日様の匂い」とはどんな匂いかと母に聞くと母は少し困ったようだったが、ある日「これがお日様の匂い」と干した布団を示した。西日の差す畳部屋で私は布団に鼻を付け思いきりその匂いを吸い込んだ。乾いて温かく少し塩っぱいような記憶は今も鼻口の隅に残っている。 23. 父親参観 小学2年のある日、父親参観日があった。どんな授業で何を思ったのか、すべてかき消えているが、忘れ得ぬ記憶がある。参観の後、私は安本先生に、若い女性らしい弾んだ声でこう聞かれたのだ。「あなたのお父さんは何か偉い人なの? 最後までずーっとニコニコしてて、いつもあんなにニコニコしてるの?」。予期せぬ問いに私はただ黙ってしまった。父が先生にとても良く見られたという思いでいっぱいになり、どう答えたものかまるでわからなかったのである。 24. 歯が抜けた日 芯一本だけでつながり、グラグラになった下の奥歯を、取れないように取れないように大切に舌の先でもて遊ぶ。何日かをそうして過ごすうちに、ある時、慣れた舌先で押したひょうしに、あっけなく乳歯は歯茎を離れた。ほんの幾日かの忘れ得ぬ舌先の感触。母に教えられ、そっと屋根へ投げた。カラカラと硬い音がして幼児のかけらは樋で止まった。 続く
アンモナイト 人を待つ 新築ホテルのロビーの壁に アンモナイトの化石を見た 造物主の精緻を込めた螺旋模様が 死とともに寸断されて いつしか石に閉じ込められて…… 内から外へ 太古の命が築いた 螺旋の奥の数億年 私はイライラと 約束時間を過ぎた人を ただ待っているのだが あなたが生きて そして石に密閉されるまでの時間の長さを 全くもって理解できない 剥き出しの螺旋を前に 気が遠くなりかけている私に やがて待ち人が遠く手を振る |TOP PAGE| |