親と子の絆

この「親と子の絆」は堺市の産婦人科医会会報に寄稿したものを、若干修正したものです。

1)可愛いはずなのに愛せない

わが国では、わが子に保険金をかけ、わが子を殺すことにより金をせしめようとした母親の記事が新聞紙上を賑わせています。一方、親子の絆の衰弱という点では先進国といえるアメリカでは、少し古いデータですが、1993年の一年間に、100万件の児童虐待・放任が確認されただけではなく、その内1300人の児童が虐待で命を落としたと報告されています。
アメリカで生じた社会問題を数年遅れで追いかけているわが国の事、このことが決して他人事ではありません。皆さんの中にも、関西テレビのコマーシャルの時間に流れる「こども虐待ホットライン」のテロップをご記憶の方があると思いますが、1990年に設けられたこのホットラインに発足以来3000件を越す相談が寄せられているだけではなく、マスメディア上に児童虐待事件の多発する様子が報道されています。

しかもこのような虐待事件は、その発生件数が増加の一途を辿っているだけではなく、質的にも従来は見られなかったような、新しいタイプの相談が現れてきています。“可愛いはずなのに愛せない”というようなタイプの訴えがそれです。従来の訴えは、例えば母親自身が幼少時に母親から虐待を受けたという幼児体験を持っているとか、超低体重出生児や障害児で、数ヶ月の入院治療後退院しても、母親がわが子としての愛情が湧かないといった例のように、虐待の理由として何らかの理由なり解釈が可能でした。

所が従来の例のような範疇に入らないニュータイプの訴えが現れています。例えば、恵まれた家庭に生まれ育ち、愛し合って結婚し、望んで子どもをもうけ、他人からは幸せな家族そのものと考えられていたような、ごく普通の家庭の母親からの訴え・・・“可愛いはずなのに愛せない”とか“このままではわが手で自分の子を“・・・というような悲痛な叫びが寄せられているといいます。一体今育児中の母親に何が起きているのでしょうか。

2) 乳幼児期の重要性

従来の虐待問題のみならず、青少年の異常行動やパーソナリティーの歪み、更にはサイレントベビーなどの発生要因として、近年漸く人生の始まりである乳幼児期に焦点が当てられるようになりました。その人生の原点における親子関係の歪みや育児の手抜きが、今日の青少年問題の遠因と考えられるようになりました。

この乳幼児期の重要性について、
Erikson,E.H.は”母と子の基本的信頼(basic trust)は生後一年間の母と子の関係によって 形成される”また、
Bowlby,J.は”乳幼児期に与えられる母親の愛がパーソナリティーの正常な発達に重要である”、そして
Ainsworth,M.D.S.は“子どもに心の安全基地(a secure base)を提供する“ことの重要性を、更に、
松尾(「母子関係の臨床心理」の著者)は、”生後一年間は、ヒトがヒトらしく成長する基本となる時期であり、甘えの受けいれが大切”と、
いずれも異口同音に乳幼児期の母子関係の重要性を強調しています。そしてこのようにして育まれた母と子の心理的一体感は、その後の子の母からの自立をスムースにしてくれます。

3) 特命リサーチ200X

最近の社会情勢を真剣に受け止めて、最近ではマスメディアの方たちも、この人生の原点に関心を持ち始めたようです。昨年6月ごろ、日本テレビの特命リサーチ200Xの取材チームの方方から、ホームページのE−メールに次のような趣旨の相談をいただきました。
この頃自分の子どもを虐待する母親が増えているが、私達はこれらの虐待事件を”単なる虐待事件”としてではなく、親子、特に母と子の絆に異常をきたしている社会問題として、「母性」「子育て」というテーマで取材を始めており、どんな些細な事でも教えて欲しいというものです。10回ほどのメールのやり取りがありましたが、そのテーマに対する着眼点と熱意の高さに驚くと共に、私自身もいろいろと教えられました。放映されたその番組については、後にまとめてお話したいと思います。

4) 母性の未成熟

この頃母性を十分持ち合わせていない、このような女性に対して、母性の崩壊、母性の衰弱というような言葉で表現されますが、私は母性の未成熟、つまり、母性がまだ十分に育っていないのだと言う理由から、このように表現しています。そしてこの母性の未成熟そのものが、今日の親子の絆の崩壊や児童虐待の発生の原因として、大きなウエイトをしめています。
そこで現在のわが国で、この母性の未成熟、母性を成熟させる、言葉を変えれば、母性の醸成を妨げる原因を考えてみたいと思います。
  @  女性を取り巻く社会環境の変化
  A  産後の不自然な我々の二世達の受け入れ態勢
大きく分けると、この二つが考えられます。そこでこのテーマについて考えてみましょう。

@ 地域社会の崩壊と核家族化

まず、幼女時代から女性を取り巻く社会体制の変動についてです。今日のヤングママの多くは母性喪失が顕著であるとの定説が、巷間流布されています。しかしその原因の全てをヤングママの責任とするのは些か酷といえます。なぜなら住んでいる社会そのものが彼女達の母性の成熟を阻害する方向に動いているからです。
敗戦以前のわが国では、常に各家庭に、向こう三軒両隣に、そして母子の住む地域社会に、そして子供の遊びの中にさえ育児がありました。大多数の女性は幼い頃より日常生活を通じて、染色体上の膨大な遺伝子に、あらかじめセッティングされてる“母性の成熟”に関わるプログラムにスイッチが入れられ、知らず知らずのうちに生育するに連れて母性が育つに適した土壌が醸成されていったものです。ところが戦後、特に最近では地域社会の崩壊とか、核家族化が益々進んだ結果、母性成熟へ向けてのプログラムにスイッチを入れる、つまり母性の成熟されるに適した土壌に醸成される機会が失われてしまい、母性が醸成されるに十分な基盤が形成されないうちにわが子を迎えてしまうヤングママが増加してきています。
この状況を農業に例えてみますと、以前は冬の間も、畑は何回も耕され、有機肥料をたっぷりと鋤きこみ、作物が自然に良く育つような肥沃な土壌が準備されていたため、春がきて種をまくと、あとはなんら手を加えなくとも、太陽と雨という自然の恵みが与えられるだけで、作物はすくすくと成長したものです。所が最近では春に備えてろくろく畑を耕しもせず、肥料も与えていないという準備が殆どなされないままに、わが子を迎えているというのが現状ではないでしょうか。

A 不自然な新生児受け入れシステム

母子にとって不幸な事に、このような母性にとって不毛の社会情勢に加えて、私達日本人は、出産直後からの母子の分離を行うという、哺乳動物の掟を破った母子別室制というシステムを採用してしまいました。この別名ブロイラー方式とも言われる母子分離システムは、母と子の絆の形成を大きく妨げることは言うまでもありません。そこで、ここでは母性の成熟を阻む母子分離システムつまり、母子異室制によって生じるであろう好ましくない点について眺めてみましょう。

  ◎  母子分離が子どもに与える影響

さて、母子分離がこどもの側に生じるデメリットにはどのようなものがあるのでしょうか。
 まず重要な生理的変化として成長ホルモンの分泌が停止するだけではなく、その受容体(receptor)の機能も停止してしまう事が知られていて、赤ちゃんの身体の成長がとまってしまいます。
 又、ポリアミンの合成が阻害され、脳を含めた全身の臓器において、成長や、機能発達、分化、たんぱく質・核酸合成が阻害されます。
 精神面では、近年注目を集めている母と子の絆の形成が阻害される事が知られており、情緒の分化の障害も生じている事が、重要視されるようになりました。
 おまけに免疫能低下をきたす事がわかってきています。

 ◎  母子分離が母親に与える影響

 一方、母親の側ではご承知のように母性行動の喪失が促進されます。
 又、乳汁の産生と射乳の抑制などの生じることが実証されています。

母子の分離により、両者にこのような不利益が生じる事が知られていながら、わが国では7割を越す病医院が、依然として出生直後から母子分離を促すシステムを採用しているのが、悲しいながら現状です。
所が今日ではわが子を抱くまで、赤ちゃんを抱いた事のないお母さんが、新米ママの約半数を占めるまでに増加しています.また、他人の子であれ、食事をさせるとか、オムツを替えるといったような育児の未体験ママの数もまた同様です.しかも産後の育児実習のゴールデンタイムを異室制施設で無為なるままに過ごした母親群。加えて巷には匂いのない育児マニュアルを満載したマタニティー雑誌の氾濫.そして退院後は核家族という現実.従来のように祖父母(但し、この世代の育児した時代は、アメリカ式自律強制方式による育児の体験者・信奉者が多いが)や向こう三軒両隣の先達からのスキンシップにあふれた育児分化の伝承は困難となっているのが現代なのです。

さて、此れまでに知られている完全な母子の分離例と、分離の影響の具体的な症例についてみますと、比較的に短い期間の観察による知見が殆どで、長期且つ完全な分離例としては、狼少女アマラとカマラやアベロンの野生児のように単発例が知られているくらいでしたが、先の紹介した特命リサーチ200Xの構成案に紹介されているルーマニアの孤児たちの悲惨な状況を聞いて全く驚いてみました。皆さんの中には1月末の日曜日、午後8時からの同番組「子どもの脳に異常をもたらす児童虐待・・・正しい育児とは」をご覧になった方は、アウシュビッツの悲劇にも匹敵する子供たちの悲惨な状況を見て驚かれた事と思います。・・・この番組は良く出来た作品にもかかわらず、意外と見られていないので、そのストーリーが後に紹介します。

 ◎  ルーマニアの孤児たち

独裁者ニコライ・チャウセスク時代、ルーマニアでは食糧難に加えて、四人の子どもをもうけるまで、避妊と堕胎は禁止されたため、全国の孤児院は10万人の孤児たちであふれたという。そして政権転覆後、18ヶ月で2000人の孤児たちが養子縁組でカナダに渡った。サイモン・フレイザー大学の発達心理学教授のエームズ博士は養子縁組から8年後、75人の養子について調査したところ、30%の養子に複数の重度発達障害(カウンセリングが必要なほどの行動障害・85以下の知能指数・体をゆする反復行動など)を認め、障害が全く認められなかったのは全体の1/3に過ぎなかった。又調査した少女のPETスキャン画像では脳の活性が全体に低く、感情や感覚を司る前頭葉の活動が全く低かったという。そしてこの彼女は今も恐怖や警戒心が強く、痛さを感じなく、いきなり激怒したり、制止しないと吐くまで食べつづけるなどの異常行動や、学習障害、多動性障害を認めている。彼女達の生後2年間の生活は、親からは全く隔離され、部屋から連れ出される事もなく、、殆どまる一日ゆりかごの中に放置された上、オムツを取り替えてもらうこともなく、ゆりかごやベットの周りは糞尿だらけで悪臭が漂っていたと いう。
カナダでの8年間の愛情と栄養にあふれた生活にもかかわらず、最初の2年間の母子分離とスキンシップの欠如の影響は取り返す事の出来ないものでした。その孤児たちの示した症状は、此れまではハーローや富山博士によるサルを用いた親子隔離実験に際して、隔離後のサルが示した症状と余りにも類似している事は、まさに驚くばかりです。このように出生直後からの社会から、両親からの隔離実験に際して見られるのは、肉体的にも精神的にも共通している著しい心身の発育の遅れであり、他人とのコミュニケイション能力の欠如であり、無表情、無感動と、余りにもサイレントベビーの症状とも類似しているのは驚きでした。


このように母と子を分離し、母と子の心の交流をシャットアウトする事によって生じるであろう様々な不利益は、ルーマニアの孤児に見られるような重症の例もあれば、帰宅後のスキンシップあふれる育児によって容易に修正可能な歪みもあるでしょう。しかし何れにせよ、このように母子異室制は、母乳の確保に不利であるばかりではなく、育児のノウハウの習得や母性の醸成に、そして母と子の絆の形成に不利なシステムである事は今日常識となっています.そしてこのようにして母性の未成熟なまま子をもうけ、そして育児している母親たちこそ.先に述べた”可愛いはずなのに愛せない”と悩む母親たちの予備軍なのです.
では、母子同室の場合はどうでしょう.

◎ 母子同室の場合:

産後の母と子は一つの単位であり、不可分である事は、子ども権利条約にも、その第9条に明記してあります.出生直後から母と子を同室にする事により、赤ちゃんから発せられる様々なシグナル、具体的には泣き声やその視線に対して、母親はすばやく反応し、授乳し、、オムツを替えてやり、話し掛け、そして抱っこを行います.するとそれに対して赤ちゃんは、早期から養育者である母親が自分に関心を向けているかどうか(間主観性intersubjectivity)を敏感に察知しながら発育するといわれます.そして母親からの働きかけに対して、赤ちゃんも又反応し、互いに暖かい交流が展開されます.
この母子相互作用により赤ちゃんには母親に対する愛着(アタッチメント)が育ち、母親の母性はより豊かに醸成され、母と子の心理的一体感が育まれると共に、親子の絆もまた強固なものに育ってゆきます.

5) 最後に

私達が当たり前の医療システム・医療行為と思って採用している母子異室制が、結果として親子の絆を脆弱なものとし、今日青少年に多発している問題行動や性格異常のような社会問題そしてサイレントベビーの大きな発生原因となっている現状を紹介しました.
大袈裟かもしれませんが、日本民族の将来を左右しかねない大きな鍵の一つが、私達産科医療者の手の中に委ねられているのです。産科医療に携わる諸先生方、徒に母親のアメニティー指向に迎合することなく、このような産科医療の問題点について、改めて考慮していただきたいものです。


最後に

「この地球上に二つの飢えた地域がある。

一つはアフリカ.もう一つは日本。

前者は物質的な飢え.後者は精神的な飢えである。

・・・マザー・テレサ・・・」