ダイオキシンと母乳


私たち母乳育児推進運動に携わっている者にとって、今日マスメディアを賑わしているダイオキシンの問題ほど煩わしいテーマはありません。環境問題として討議・解決されるべき問題が、現実には人乳と牛乳の何れを選択すべきかと言ったテーマにすりかえられてしまって、お母さん方を不安に陥れ、その結果充分出ている母乳を止めて、牛の乳に替えるお母さんまで現れているからです。
この度、日本母乳の会の運営委員長である聖マリア病院母子総合医療センターの橋本武夫先生とIBCLC(国際認定ラクテーション・コンサルタント)の本郷寛子さんが、助産婦雑誌誌上に連名で「母乳とダイオキシン」と言うタイトルで、この問題に対する見解を特別寄稿されました。
そこでこの論文の要旨を紹介し、小児医療に携わる科学者としての冷静な考えを知っていただき、いたずらにお母さんの恐怖心を煽る今日のマスコミの報道に惑わされないようにして頂きたいと思います。



先生は先ず始めに

・・・はじめに・・・

『 1993年4月20日、朝日新聞朝刊第一面のトップに、日本の母親の母乳中に含まれるダイオキシン含量がヨーロッパ諸国に基準に比べて10〜200倍も高いと言うニュースが報じられた。これを発端に"しのびよる人体汚染"としてのダイオキシンの恐怖がマスコミによって繰り返し叫ばれ、現在なお一般のお母さんを始め医療関係者においてもダイオキシンに対する疑問と不安を抱えている現状である。その結果、母乳育児を放棄する母親さえ見られる。』

と、此れ迄のマスコミ報道によって生じているお母さん方の母乳育児に対する戸惑いと不安の現状を紹介し
、そして、
『これまでの母乳汚染の報道と類似するが、一般の母親の恐怖心を煽るこの報道は、ちょうど20〜30年前の未熟児網膜症の頃を思い出させる。ある新聞に酸素投与はもちろん「保育器に入れると目がつぶれる・・・・」と言う大きい見出しで、未熟児網膜症の恐怖が述べられていた。それらを見た家族らは1500グラムにも満たない赤ちゃんの入院に際して「うちの子を保育器に入れてくださるな・・・・」と嘆願してきたのである』。
そして対象は異なるが、不安の矛先は同じ発想であるとして、此れ迄に何回となく繰り返されてきた同じパターンの報道のもたらす危険性を指摘しておられます。

・・・問題のはき違えから・・・

次いでこのダイオキシンの本質的な問題点を整理して、正しい方向に進路を修正したいとして、問題の発端となった長山助教授の著書の内容が紹介してあります。

冒頭の新聞記事の出所もとである九州大学医療短期大学の長山先生は、世の中の反響の大きさと困惑に対し、翌年、「しのびよるダイオキシン汚染」と題する一冊の本を出版したが、その「はじめに」の一部を紹介している。

” 地方新聞の記事では、母乳のダイオキシン汚染の問題から短絡的に話が進んで、赤ちゃんには母乳と人工乳のどちらを飲ませるのが良いか、と言うことを問題にしていました。しかし、本当に問題とすべきことは、母乳か人工乳かと言うことではなく、ダイオキシンの環境汚染なのです。この時私は、私たちダイオキシン類の専門家と一般社会の人々との認識の違いを強く感じました。・・・・・本当に問題とすべきことはどこかえ行ってしまって、母乳か人工乳と言う選択の問題が一人歩きして、大きな社会反響となって私に帰ってきたのです。・・・・・しかし事はもっと重大なのです。母乳のダイオキシン汚染の問題は、根本的に私たちの生活そのものに原因があります。これを取り除かない限り本当の解決はありえないことを一般の人に知っていただく必要があります。・・・・・”と。

以上のことが出版の意図のようであり、又その本の「おわりに」でも、母乳は赤ちゃんにとって危ない、、人工乳の方が良いのではないか?とする危惧に対して、次のように強調してあります。

”・・・・・私はこれはとんでもない考え違いだと思います。なぜかと言えば、私たちは人類は哺乳動物だからです。自分の子どもに自分の乳を与えることによって、子どもを育てる動物なのです。その哺乳動物が、子どもに自分のお乳ではなく、牛のお乳を与えなくてはならない状況になって、地球上に長く生存できるでしょうか。
私は子どもに自分のお乳を与え、子どもを育てる哺乳動物であるヒトから、それを奪ってしまえば、もはやヒトはヒトではでなくなると思います。それは哺乳動物であるヒトとして、最も重要な生命基盤の一つだと考えます。ですから私は、他の食物がいろいろな化学物質で汚染されて、子どもに与えるのが危険だと考えられるようになっても、母乳だけは安心して子どもに与えられるような環境を作らなければならないと思います”。
そして最後にくどいように、
” いずれにしましても、私は本書を通じて最も言いたかったことは、人類は哺乳動物であること、環境汚染のターゲットは人類そのものであることです。私たちは、素晴らしい地球環境を子孫に残す義務があるのです”。と

・・・最近のマスコミ報道から・・・

以上紹介したように、ダイオキシン報道の震源地となった長山助教授は科学者として真摯な態度で、この問題と取り組んでおられるようです。しかしその一方、センセイショナルなマスコミ報道の現状は、今も日本列島を津波のように揺り動かしています。そこで橋本先生は最近のマスコミ報道に見られるお母さん方の恐怖心を煽るような一方的な記事内容について、科学者としての立場から、その危険性を次のように冷静に且つ具体的に指摘しておられます。

『 此れ迄にもPCB,DDTを含めて「母乳が汚染されていて赤ちゃんが危ない!」などと言うセンセイショナルな記事がマスコミに出され、授乳中の母親をパニックに陥れたことは再三経験されてきた。しかし、その後の赤ちゃんの問題例の発現は皆無と言って良い。そして又最近のマスコミ報道では、「母乳の子に多いアトピー性疾患」とか、動物実験から「甲状腺ホルモン分泌異常により脳や体の発育おくれ・・・・・」などと、まさにパニックに陥らせるような報道が相次いである。

更にはアカゲザルやねずみの実験から、子宮内膜症や性の成熟の遅れなどに至る報告まで見られる。しかし、それらに対して、本年(1997年)7月米国での世界ダイオキシン会議に参加された摂南大学薬学部教授の宮田は「現在の汚染レベルでは問題ない」と述べているし、これらは未だ仮説の域を出ていないもので、正確な疫学調査も皆無と言える。

アトピーに至っては、疾患の原因そのものが未解明であ利、又、人工乳より母乳の子に多いとするサンプルも極めて曖昧であるのが現状である。すなわち日本では母乳栄養児と言っても、アトピーと診断された乳児の何%が、生後すぐからの母子同室、人工乳を一滴も病院で飲まされずに、完全母乳児として育てられたかと考えると、そのサンプルの実態からして「母乳の子にアトピーが多い」と言う結論は危険が大きいと考える。』

*:ここでわが国の新生児栄養法の現況を紹介しますと、わが国の大多数の産科施設は、ご承知のように母子異室制を採用しています。そして、かかる施設では母乳が十分に分泌されるまでは、日常ルチーンのシステムとして人工乳が投与されています。しかも医療者側から予め人工乳投与の説明とか了解を母親に求めることは殆どないようであり、又、母親自身も人工乳の投与を当然のことであるかのように受け止めています。従ってその後母乳の分泌に恵まれ、母乳だけで哺乳が可能となっている場合、出産直後の人工乳投与の既往は全く意識にのぼらず、その結果このような赤ちゃんは母乳栄養児の項に入れられています。又統計を取る側も、恐らくそのような視点は考慮外だと思います。又このような研究結果を報道する場合、一方向からだけの一方的なデータや分析結果だけでなく、それに反する方向も含めた、あらゆる視野からの研究結果も併せ報道することにより、読者が冷静その問題について考えあられるようにすべきではないかと述べておられます。なお、橋本先生は引き続きアトピーの問題について、

『 母親を休ませると言う名目で、夜中に人工乳を入院中与えられただけでも、赤ちゃんによっては、それが原因で牛乳の蛋白質に感作され、後にアレルギー症状を呈することもあり(La Leche League International)、また、Wrightらは、母乳以外のもの(人工乳も含む)を早い時機に与えられることが、アレルギー性鼻炎になる危険性を高めていると述べています。その他にも完全母乳栄養児にはアレルギーが少ないと言う報告は多く、Saarinenらも母乳育児は思春期のアトピーの予防に効果があるとも報告している。』

更に先生は、このようなデータを取る場合の基本的な注意として、その統計処理の問題点を指摘し、

『 また、基本的なことではあるが、母乳中の成分や物質を測定する場合、一時点での授乳による測定は正確ではなく、例えば脂肪成分でも一回の哺乳の前乳と後乳では約2倍の差が認められるのであり、母乳中の汚染物質も日により、時刻によっても異なることが分かっている。よって一時点での授乳による結果の分析から、理論的に計算による母乳中のダイオキシンの総量を求めることは、統計学上でも成り立たない。更にそれから乳児が1年間に摂取するダイオキシン量総量を単純に推計するなどと言う結果は論外である。
恐怖を煽るような一方的な報道のみでなく、多くの研究の結果を併せ報知すべきであろう。』

・・・世界の動向と研究から・・・

『わが国のみでなく、ダイオキシンの問題は世界の環境汚染の視野で論じられ、研究されているが、現時点ではそれらの資料もふくめて、母乳育児を抑止する報告は殆ど見られない。

・・・・・内容省略・・・・・

その他にも多くの研究があるが、チェリノブイリやベトナムでの枯草剤散布による悲惨な結果が示す地域的なもの以外では、母乳汚染による明らかなもんだいはまだみられていない。』

・・・わが国のダイオキシンリスク評価の現状・・・

『 母乳栄養が乳児の健常な発育に及ぼす影響はよくしられており、わが国においても厚生省は、昭和50年から「1.5ヶ月までは母乳のみで育てよう」などの三つのスローガンを掲げて母乳推進運動を進めてきた。しかし、ダイオキシンが人に摂取されて乳汁中に分泌され、乳児に移行することが知られ、母乳推進のための安全性の確保を図る目的で「環境庁ダイオキシンリスク評価検討会」が組織され、その中間報告が厚生省児童家庭局母子保健課から配布された。その概要は、

1、要旨
わが国においては、乳児に与える母乳中に一定程度のダイオキシンが含まれてはいるものの、その効果および安全性の観点から今後とも母乳栄養を進めていくべきである。
2、 母乳栄養を進める理由

  1. 母乳中のダイオキシン類の摂取が、乳児に与える影響は直ちに問題となる程度ではない。
  2. 母乳が乳児の発育、感染防止、栄養補給に与える効果が大きい。
  3. わが国よりも母乳中のダイオキシン含有が多い諸外国においても母乳栄養を規制していないこと。


3、 今後の対応

  1. 発生源対策 : 母乳中の安全性を確保して行くため発生源について適切な施策を講じる。
  2. モニタリングの実施: 検査定点を設け、食品および母乳中などに含まれるダイオキシン類の濃度を継続的にモニタリングする。
  3. 研究の推進 : ダイオキシン類の環境における分布の状況や、迅速かつ簡便な検査法の確立など関連機関において研究を推進する。
  4. 情報の収集の継続 : ダイオキシン類の国内外の疫学的データや諸外国の取り組み状況などを収集し、今後の適切な施策の推進に努める。


・・・実際的な生活上の注意点・・・

『以上のような観点から、現状では授乳婦人においては危険性は殆どないと思われる。
また、現在マスコミの注意は母乳中の汚染物質の量に向けられているが、あらゆる化学物質による障害は妊娠初期の8週間が、出生後の授乳期よりもっと重要である。
ゴミ焼却場を含めた居住地や仕事によって、その危険性は異なり、化学薬品を使う農村部、特にその噴霧器を使う地域では危険性が高い。又、化学薬品が使用される工業地帯、汚染された水の近くの住人もそうである。
以上のような観点から、尚研究の成果を見守って行かねばならないが、とりあえず両面から危険環境にある場合に、具体的に各個人が注意すべき点を挙げておく。

  1. 汚染されていると分かっておる地域で取れた淡水魚を摂取しないこと。
  2. 非有機野菜や果物は食べる前に良く洗い、皮をむくこと。
  3. 脂肪分の多い肉、魚は避けて、低脂肪食を摂ること。
  4. 害虫駆除薬を避けて、dieldrinで白蟻駆除された家屋・建物を避けること


尚こうした地域からの脱出を考える人もいるが、それでは根本的な対応にならない。地域住民全体で、ダイオキシンの発生源をなくす運動を展開することが根本である。』

・・・おわりに・・・

『 母乳の神秘はまだまだ未解明なものを多く残しながら、又新しい神秘性を少しずつ開いてくれる。母親が感染にかかれば、その感染症の抗体が沢山入っている母乳が出るが、最新の研究でも、O−157に罹患した母親の血液中の抗体は3〜4ヶ月で消失して行くが、母乳中の抗体は7ヶ月まで残存していると言う報告が見られた。まさに神秘で、乳房中では計り知れないメカニズムが働いているのであろう。
未熟児には未熟児に一番適した母乳が分泌されるように、自分の子にぴったりの母乳を分泌させられるのは、その子どもの母親しかいないのだ。母乳育児は子どもにとって最善のものなのだ。特に最近の育児にまつわる社会現象を考えても、、母乳栄養と言うより、授乳行為の重要性が強調されている。母乳育児は母にとっても、子にとっても身、心、脳作用を有するのである。
こんな現状の中で、ダイオキシン問題にとって、今、一番大切なことは、ダイオキシンに関する科学的な関心が、母乳の安全性に疑いを投げかけたり、母乳育児をする母親に罪悪感や恐怖心を与えるような方向に向けられるのではなく、そうした化学物質を私たちの環境から取り除く方向へと向けられることなのである。

この「母乳とダイオキシン」は、母乳とダイオキシンの問題について語るには、余りにも根拠としうるデータの乏しい時点で書いたものです。その後の状況の変化と共に、幾つかの論文を書き上げ、ホームページにも載せています。ダイオキシン問題に関心をお持ちの方は是非アクセスし、正確な知識と情報を身につけてください。