母乳育児を巡る幾つかの誤解」
のその5:出生直後から赤ちゃんを母子同室にすると、感染症が増えるのでは。この質問に答える形で感染防御システムについては既に簡単にお答えしました。ここではその答えを補足する形で、このテーマについて触れます。
母子異室制導入の歴史的背景からもお分かりのように、今日まで母子同室異室の優劣を討論する場合、常に主として感染予防の面から論ぜられる場合が多かったようです。しかし今日では医学や生活レベルの向上に加えて、抵抗力の弱い赤ちゃんを細菌やウイルスの侵襲から守るために、人体に設けられた真に愕くべき自然の仕組み、感染防御システムの知見が得られた結果、上述の言い訳は全く色褪せてしまいました。
(第一の防御バリアー)
赤ちゃんは生れる前に子宮の中で、経胎盤的に麻疹や風疹を初めてとしてインフルエンザなどのウイルス性感染症に対する免疫物質をIgGという形で受け取ります。しかしこれは同室・異室いずれも同一条件です。
(二番目の防御システム)
内なる環境破壊の「ミラクル初乳」の項で説明したように、腸管乳腺経路・気管支乳腺経路のようなルートで作られた S-IgAの働きに加えて、初乳中に含まれる抗体は、経胎盤的に得られる抗体とは種類が異なっていて、百日咳、ブドウ球菌、サルモネラ菌などの細菌のほか、ポリオ(T、U、V)、コクサッキー、エコーのようなウイルスに対する抗体が含まれています。
(第3の段階)
乳腺自体が局所免疫組織としての働きを併せ持つ(Lodinova) 。例えば赤ちゃんの口の中に大腸菌が存在すると、その大腸菌は直接乳腺を刺激して、この抗原に対するIgA特異抗体を作らせ母乳中に分泌されます。つまり乳腺は外敵に対する抗体を作って自らを感染から守ると共に、赤ちゃんの感染防御をも同時に併せ行うという実に合理的な免疫システムが存在します。。この事は授乳という行為は、母乳という栄養を赤ちゃんに与えるだけでなく、母親の乳房から直接授乳するという行為それ自体も、感染防御の面から大きな意味を持っている事が理解されます。自然は私たちのジュニャーに実にいい仕組みを用意してくれていますね。
(第4の備え)
マクロファージュやリンパ球、T細胞のような細胞成分やその他何百種類という感染防御の働きをする生理活性物質が含まれています。例えばマクロファージュは新生児壊死性腸炎を予防し、殺菌能を有し、ラクトフェリンは抗生物質のような働きをし真菌や細菌の増殖を抑制し、リゾチームは大腸菌やサルモネラ菌に対して溶菌作用を有し、補体は特にグラム陰性カン菌にたいして静菌的に作用し、リパーゼはトリコモナスなどの原虫を殺し、母乳ガングリオシッドは細菌毒素に対する中和活性を有し、脂肪酸は抗ウイルス作用を持ち、オリゴ糖はウイルスや細菌の感染から乳児を守り、細菌毒素を中和し、ビフィーズス菌増殖因子は文字どうり腸内細菌群をビフィーズス菌優位にし、腸内環境を酸性に保って、他の病原細菌の発育を抑制するほか、更に様々な感染防御の働きをする生理的活性物質を含み、特に初乳中には高濃度に含まれていて、赤ちゃんを感染から守る働きをします。
(5番目のバリアー)
赤ちゃんは分娩中、そして産後の母との共生生活を通じて、お母さんの持っている健康な(?)常在細菌を貰って皮膚や腸管に定着させます。これらの細菌の殆どは非病原性であるうえ、その菌に対する抗体も胎盤経由で、ついで母乳経由で受け取ります。その結果として生後数日で赤ちゃんには母親と同一の常在細菌叢が出来上がり、以後外敵の侵入を妨げる役目を果たします。例えば、母乳(初乳)栄養児の場合、母乳中のビフィズス因子などの働きによって、その腸内にはビフィズス菌叢が完成して、以後大腸菌やサルモネラ菌の侵入、繁殖を許しません。しかし出生直後から人工乳を与えていた場合には、このように上手く行ってはくれないでしょう。
これに対して、母子異室制の赤ちゃんは、母親以外に看護要員の細菌に曝されることになりますが、かかる人たちの持っている細菌は概してより強い病原性を持っており、多くの抗生物質に対して耐性を持つだけでなく、お母さんの母乳中にもこれらの細菌に対する抗体は含まれていません。
このように母乳、特に初乳の持っている様々な感染防御システムは生れてまもない赤ちゃんを、幾重にもバリアーを張り巡らすことにより、細菌やウイルスの侵襲から守る役目を果たしています。然もこのシステムの多くは母と子が同一の部屋で生活することによってはじめて完成し、効果的にその役目を果たすことが出来るのです。
この様に母と子は不分離・不可分の存在であり、なにも健康な赤ちゃんを異室に隔離しなくとも、赤ちゃんが新しい環境にいち早く適合できるように、、自然は実に巧みな仕組みを用意してくれているのです。
一方新生児室はその性格上、ひとたび感染が発生するや、多くの赤ちゃんがいっせいに被害を被るという痛ましい特徴を有していますが、実際に現実の世界でも、此れ迄数多くの新生児室が細菌やウイルスの集団感染、特に新生児流行性下痢症の苦い歴史を有している事はご存知のことと思います。
このような観点から母子同室・異室制を考えると、かつては新生児を感染から守るために母子異室制が勧告されましたが、今や逆に健康な新生児には感染防御のためにも母子同室が望ましいことが理解されます。
尤も日本人の慣例として、出産後間もない時期にもかかわらず、誕生祝いに産室を訪れる方を多く見うけますが、これは赤ちゃんにとっては未知の細菌やウイルスをお祝いの名を借りて持参される歓迎されざる訪問者であり、このような悪習は十分反省の余地があるようです。
蛇足です。昨年私の住む堺市では学校給食が原因で大腸菌のO−157による大規模な集団食中毒事件が発生しました。流行期間中の夏休みには、私のホームグラウンドの泉北ニュウタウンは、多くの感染児を出した事からかなりのパニック状態に陥り、一時期ゴーストタウン化した状態になりました。特に罹患児を持つ家庭では、家族への家庭内感染に戦々恐々でした。家庭内感染の可能性を心配する授乳中のお母さんに、私は”そのような心配は取り越し苦労ですよ。完全な母乳育児をしている貴方の赤ちゃんの場合、O−157の感染の可能性は〇に近いですよ、そしてもし仮に少量のO−157が侵入する事が起きても、必ず貴方の赤ちゃんはO−157に打ち勝ちますよ。心配しないで母乳育児を楽しんで下さい”と申し上げましたが、誤っていたでしょうか。
‘97 8月27日の毎日新聞夕刊号のトップ記事として、次のような母乳で赤ちゃんを育てているお母さんにとって、とてもうれしい内容の記事が掲載されました。
「病原性大腸菌O−157に感染した母親の母乳に、菌を殺す抗体が多く含まれていることが初めて確認された。
三重県立志摩病院産婦人科の田中会長と同病院内科の研究グループは、o−157に感染し、血便などの症状の出た妊娠9ヶ月の妊婦を産後まで血液や母乳、赤ちゃんの発育状態などを追跡調査しました。
その結果、お母さんの血液中の出来たO−157に対する抗体が、母乳からも検出され、その濃度は血液中の2倍近くもあった。然も、血液中の抗体が産後2ヶ月で消えてしまっても、母乳中には残っていた。
この抗体は体内で免疫機能を担う免疫グロブリンという蛋白質の一種で、O−157菌の表面にある物質と結合し、菌そのものを殺してしまいます。」
O−157の流行時、先に紹介してあるように、母乳育児のお母さんは赤ちゃんへの感染を心配しないで良いと申し上げていましたが、このように母乳から感染の心配はないばかりか、むしろ感染予防になるのではという研究結果が発表されました。O−157感染症の発生は、その後全くなくなったのではなく、今でも散発的にその発生が報告されたいます。どうか母乳育児中のお母さんは安心して母乳育児を楽しんでください。