韓国:信頼と祈りの旅


"A Horse in Its Native Village" (1995)
by Kyoji Okamoto, Meguro Illustration Club

Mostly in Japanese. Go down to the English part.

日本聖公会 中部教区では1996年秋と1997年秋に、姉妹教区に当たる韓国ソウル教区へ「信頼と祈りの旅」を実施しました。以下は、帰国後の報告からです。

1996年ソウル教区訪問記

ヤコブ 原忠雄 (長野聖救主教会) 10/10/96 Update 01/21/97-06/25/98

昨年9月20日から24日の4泊5日、今は亡き森一郎師を団長として、韓国ソウル教区を「友達作りの旅」と称して訪問した。

主教様主催の歓迎会

第1日目。金浦空港に仁川・間石教会の代表委員であり、韓国共同委員会会長の方承熹(バン スンヒ)先生が教会からのバスで出迎えてくださった。一路ソウル教区大聖堂に隣接する聖架修女院の外来宿舎に入ったのが午後6時。すぐにソウル教区長(主教)主催歓迎晩餐会が開催され、私たちは主教様始め韓日共同委員会、オモニ会の方々に拍手で歓迎を受けた。主教様の歓迎の挨拶の後、森団長の「過去に日本が犯した数々の罪をお詫びすると共に、同じキリストの肉を食し、血を飲む兄弟姉妹として、今後一層交わりを深め、相互理解を前向きに進めて行きたいのでよろしくお願いします。」という主旨の挨拶があった。その後韓国語で自己紹介をし、オモニ会の皆様心尽くしの山ほどの韓国料理をいただきながら、楽しく談笑して一日は終った。

日本軍によって抹殺された村民

第2日目。午前7時に修女会聖堂のミサに参加させていただく。美しく聖堂に流れる32数名の方々の歌ミサに心が洗われる思いがした。朝食後、教区で働いている通称「サラさん」の通訳で堤岩里(チェアムリ)事件として有名な堤岩里教会に行き、姜信範(カン シンボム)牧師より当時の状況の説明を受けた。1919年4月15日午後2時半、30数戸のこの村で、日本の警察と有田中尉の指揮する憲兵隊一個小隊は、3・1独立運動の中心的役割をしていたキリスト者を抹殺するため、騙して31名の男性を礼拝堂に閉じ込め、焼き払い、さらに射撃を加えて全員を死亡させた。又、教会の庭で夫の助けを求める妻ら2名の婦女子を惨殺した。この説明を聞き、狂った軍国主義時代の日本軍の残酷さに、犠牲になった人々に対する申し訳なさに、顔を上げられない痛烈な恥ずかしさを憶えた。堤岩里を後に、韓国中部天安心近くの独立記念館へ向かった。

独立記念館での思い

この独立記念館の食堂の女主人は聖公会の信徒で、日本語が非常にお上手で、韓国の食事で何が日本人に適しているか親切にお世話してくださった。独立記念館は、120万坪の広大な敷地に7棟の展示館とその他の施設からなる。特に植民地時代の日本の警察が行った拷問の模様の蝋人形の前では、直視することができなかった。独立記念館を後に、ソウルに戻り、中部教区主催の晩餐会に出席、ソウル教区の方々と相互に歌の交換と話合いで親善のひとときを過ごした。

3,500人の野外ミサ

第3日目は、聖架修女院での朝食後、聖公会大学校で行われたソウル教区43教会、33,522人名が参加した聖召主日の野外大ミサに出席し、共に祈り、聖餐の恵みに与かることができた。昔のことは何もなかったように、暖かく接していただいたことは聖公会の幹に連なる同志ならでは感謝の気持ちで一杯だった。

分かち合いの家

聖公会大学を後にし、仁川・松洞ミカエル福祉館(分かち合いの家)を方先生のご案内で訪問した。方先生の説明によると、この地区は仁川で最も貧しい人たちの住む集落で、趙神父はすすんで地区内の古い家屋を改造して居住し、学校にいけない子供たちの教育やこの地区のあらゆることの相談者として、伝道活動しているということだった。無認可のため教区からの援助は一切なく、経済的に本当に苦しく、ご自分のお給料と心有る人々の支援でやっと自活しているとのことで、文字どおり、ぎりぎりの生活の様子がよくわかった。夫人がお茶の接待をしてくれたが、私たちの乗ったバスが見えなくなるまで手を振っていた趙神父の姿は今も忘れることができない。

ミカエル福祉館を後にして、仁川・間石教会委員会主催による歓迎晩餐会に出席した。教会会館には、十数名の男性やオモニ会の人々が焼き肉を作ったり韓国料理を盛り沢山用意して待っていてくださった。それぞれ混席で会が始まり、少々のお酒も入り、私たちから日本民謡、間石教会の方々からは韓国民謡が出て踊ったり手拍子をしたり、大変賑やかに、そして和やかに楽しいひとときを過ごさせていただいた。その夜は信徒さんの経営するホテルに宿泊する。

韓国式建築の教会

第4日目。方先生のご案内で最も古い教会(韓国式建築)へ向かって出発。それは江華島の教会で柳(リュウ)神父から教会の歴史等をお聞きする。特に聖鐘が韓国の仏教寺院の鐘と同じ形のものが用いられていたのが印象的。昼は温水里教会マザーズユニオン主催の手作りの韓国料理を感謝のうちに頂き、教会の皆様の見送りを受け、ソウルに向って出発、途中ショッピング・センターで買い物をし、夜6時から、ソウル教区国際交流委員会、韓日共同委員会主催送別晩餐会に出席。数日のうちにすっかり打ち解けて名残を惜しみつつ最後の夜を過ごした。

第5日目。方先生お出迎えのバスで金浦空港へ。正午発の便にて名古屋空港へ、中央線で長野市に帰着。

35年間の憎しみを癒すために

この旅を始終お世話して下さった方先生に心から感謝申し上げたい。また特に感じた事は、日本の植民地時代に受けた傷痕は、韓国の人達の心にいかに深いかということである。神父様の中でも特に年配の方は私たちに対し笑顔を見せてくださるが、目の奥に真の笑みが見られないと感じたことがままあった。その一方、本当に心から愛の眼差しを持って接して下さったのは、修女の皆様方だった。このように複雑な感情を持つ韓国の人々の中にあって、ソウル教区は、信仰の上に立って将来の両国のために中部教区と姉妹の交わりを持つことになった意味を私たちは良く認識し、口先だけでなく身を持って親しい交わりをし、よく話合い、よい人間関係を作る意外に日本人に対する日本支配下の35年間の憎しみを取り除く方法はないと思った。

長野聖救主教会「世の光」No. 51 (1997年3月23日)から

1997年ソウル教区訪問記

フランシスコ 三上吉彦 (長野聖救主教会) 10/18/97 Update 12/13/97-06/25/98

'97年10月9日に名古屋空港から出発して、日本聖公会中部地区の18人のみなさんと一緒に「信頼と祈りの旅」というグループ旅行(4泊5日)をしました。ソウルとその郊外の江華島(カンホァド)にある韓国聖公会の教会を訪ね、日韓の歴史も学び、韓国の教会員とも友好を深めるという目的でした。西原廉太司祭(岡谷教会)、香山洋人執事(東京教区からソウルの聖公会大学校に留学中)、バン・スンヒさん(方承熹、仁川廣城市間石教会、大韓聖公会国際交流委員会)、その他大勢の方々のご努力で実現したものです。

日本聖公会の朝鮮聖公会収奪

泊ったのはソウルの中心に近いところにある聖架修女院(ソンガスニョウォン)。ソウル駅から景福宮(キョンボクグン、元の宮城)へ至る世宗(セジョン)大通りという目抜き通りに面してソウル市役所がありますが、この向かいの聖公会ソウル大聖堂(Seoul Cathedral)の脇にあります。隣りは英国大使館という、地下鉄利用にも便利だが静かなところでした。毎朝修女さんの、焼いたパンを冷えて湿気を帯びることがないように立てかけて置くというような、心尽くしのアメリカン・ブレックファストをいただきました。下記注1参照

私は韓国は2度目で、前に学んだハングル文字も多少思いだしました。前回は「ネットワーキング・フォーラム'91 in ソウル」と「アジアBBSシスオペ会議」と称する草の根的国際会議に出席したもので、竜山(ヨンサン)のパソコン・ショップ街などには行ったのですが、ソウル見物もろくにしていません。今回はソウル大聖堂でカトリック的な(と私は感じた)礼拝に感激の参加をできたのはもちろん、景福宮の敷地内をきれいに晴れた空の下で今井寅三さん(長野教会)とご一緒にじっくりと回り、「千秋殿」という建物はそこで世宗大王が15世紀にハングルを造りだしたことを発見して、写真も撮ってきました。韓国では10月9日が「ハングルの日」に当たり(休日ではない)、ハングルは大切なものとして祝われています。

以前韓国の歴史を学んだことがありますが、出発前に西原さんから「日本聖公会の戦争責任に関する宣言」(1996年)のコピーが送られてきていて参考になりました。出発時に名古屋空港で李在禎著「韓国聖公会史概観」なども西原さんからお借りできたので、日本聖公会が工藤義雄司祭を1941年に朝鮮聖公会総監司祭に任じて、翌年に朝鮮聖公会教区長にして朝鮮聖公会を収奪していく模様も読んで理解できました。

安重根記念館

安重根記念館はソウルの南山公園にあります。丘の上にあり、ここは以前日本が朝鮮神社を建てて、東方に向かって宮城を拝むのを強要したところです。初代首相を勤めた明治の元勲、伊藤博文が晩年に初代朝鮮総督、枢密院議長を歴任し、ロシア代表と東洋の分割統治方法について会談をするため当時ロシア領のハルビンに来た時に(1909年)、駅頭で安重根に暗殺されます。韓国の人々はこの「暗殺」という言葉は間違いで、韓国併合の悪を代表する伊藤博文を韓国軍人(つまり義士)として射殺したのだと主張します。記念館にある彼の筆になる書、漢詩、遺書「東洋平和論」などを見る限り、暗殺者のイメージとはかなり違い、多少の美化は当然あるものの、かなりの思想家であったようです。下記注2参照

安重根がカトリック信者であったのは始めて知りました。射殺事件の直前に悔告でカトリック神父にこの計画を打ち明けて、驚いた神父がヴァチカンに報告し指示を仰いだが、ヴァチカンは返事をしなかったらしいという説が、韓国では広く信じられているようです。神父は悔告の内容を他に話してはならないが当時の宗教者は神父といえども政治的な行動なしには生きられなかった、ヴァチカンは政治的にはおそらく日本を支持していなかった、と想像もできます。安重根は人を殺したという点から、カトリックでも認められず、やっと1994年になって韓国の枢機卿が声明を出し、聖人に準ずる扱いをし始めたということで、リアルさも増してきます。

江華島

江華島はソウルの港町である仁川(インチョン)の沖合の島で、現在は江華大橋(700m)で簡単に渡れます。13世紀に元軍が押し寄せる中、高麗王朝が最後まで立てこもった地で、これについては井上靖の小説「風濤」に書かれています。15世紀後半に豊臣秀吉の朝鮮侵攻が朝鮮半島を疲弊させた元凶であることを韓国・朝鮮人はよく指摘しますが、我々日本人は日本帝国の韓国領有中の残虐さに声をのみ、この元寇で侵攻してきた元軍のほとんどが朝鮮半島出身者であること、もともと高句麗が唐・新羅連合軍に滅ぼされた7世紀以前から中国に翻弄され続けた朝鮮半島の避難者を日本は受け入れてきたことなどを指摘する勇気もありません。また、1875年の江華島条約(日朝修好条約)の地として私は知っていました。江華ウプ教会は聖公会最古の、韓国の伝統的な様式の建物です。隣りに貴族階級に相当する両班(ヤンバン)様式の牧師館もありました。そのあと、高麗王朝が立てこもった江華山城に行き、石の門をくぐった高台から北朝鮮を海峡越しに見ました。さらに海峡の海岸まで降りると、北側のはげ山が手にとるように見える中、うしろの丘の大スピーカーからは北側への宣伝の言葉と音楽が聞こえます。いろいろ聞いてはいますが、実際に見るとショッキングな光景でした。この近くの松山教会にも行きましたが、ここは韓国聖公会でも最北端にあるものです。

韓国人の伝説の祖である壇君はケソン市(開城市)で栄えますが、始めは江華島のマニ山(摩尼山、568m)に降り立ったというのは知りませんでした。行きの道中の左手の小高い山がそれで(江華島のほぼ南端に当たる)、ここのチャムソンダン(塹星壇)というところで毎年韓国体育大会の聖火リレー用採火式が行なわれると、バンさんが教えてくれました。この山から北の中国国境の朝鮮族伝説のペクト山(白頭山、2744m)まで、南の済州島のハンラ山(漢拏山、1950m、ハルラ山ともハラ山ともいう)までがそれぞれ等距離であると、さらにいわくありげに教えてくれました。近くの仁川港から中国の山東省煙台(イェンタイ)、北京の港、遼寧省大連までは黄海(韓国では西海と呼んでいる、日本海は東海)を渡って簡単に行けるので、ここは中国文明が来朝する道すがらに当るから、こういう神話が生まれたのではないでしょうか。

インターネット

出発前にインターネット上の日本聖公会電子会議室で、香山さんからあらかじめ連絡があり、韓国の家庭電源はほとんどが240ボルトで丸穴コンセントに変わっているので、日本の100ボルト用の電気器具を使うにはその対策をしておくこと、電話線にはメス・メス・コネクターを使うとよいこと、などの貴重な情報を教えていただいていたので便利でした。おかげで、持参のパソコンで聖架修女院の電話機から毎日市内電話料金で電子メールの送受信ができただけでなく(ibm.netは長野市にもソウル市にもポートがある)、旅行報告を旅行中に日本聖公会電子会議室へ入れて日本のみなさんにも読んでいただくことができました。大韓聖公会のインターネット・ホームページ(http://anck.peacenet.or.kr)作りの中心になっている朱洛R(火+玄)さん(チュ・ナッキョン、Joseph N. Joo、聖公会大学校の学生)が管区事務所に手伝いに来ているところをお会いして長野オリンピック・グッズを差し上げることができました。また、この旅行で中部教区というものが多少実感で分ったので、帰国後中部教区の日がある10月中に中部教区ホームページ(http://www.threeweb.ad.jp/logos/seikokai/chubu.html)をスタートすることができました。

同じ教会でも普段あまりお話しもしていない今井寅三さんに、帰途の名古屋から塩尻経由の長野行き中央線の車中で木曽の車窓風景や彼のギデオン協会聖書配布の奉仕作業も含めて、いろいろと教えていただきました。帰朝報告会は今井さんと、10月19日に教会での礼拝後に行ないました。ソウル大聖堂、江華島教会、なども含めた「韓国巡礼の旅」があってもいいのではないかと思い、韓国の司祭さんにぜひ中部教区の教会へ赴任していただきたいとお願いもし、いま個人的に進めている「日本カンタベリー物語」にも新しい着想が浮かび、大変実り多い旅でした。

日本聖公会中部教区長野伝道区「韓国 ---信頼と祈りの旅--- 1997」文集 (1999年10月)に収録

参考資料:

注1:ソウル大聖堂はおそらく極東随一の壮麗な聖公会建築物で、ロマネスク風な建物ですが、誰かれとなく次のような話を聞きました。資金が十分集まらず当初の設計の半分の大きさで1926年に建てられたもので、1996年にもともとの大きさに拡張・再建されました。再建の話が始まった1990年代の始め、ソウル市からは市の歴史建造物だからとなかなか建築許可が下りず、最後にもともとの設計図があればと言われたそうです。第二次大戦、朝鮮戦争を経た今、もともとの設計図などあるはずもなく、みな途方にくれたようです。ある日見知らぬ英国人が聖堂を訪れ、この話を聞き詳しい話を聞かせてくれといい、ソウル聖堂は英国の自分の教会とそっくりで、確かその図書室に韓国の聖堂の設計図もあったといったそうです。実際連絡を取ってみるともともとの聖堂の設計図が発見され、無事再建を進めることができました。その英国人はどうなったかというと、そう、もうどこにも見当たらず、みなこれは神様が贈ってくれた人だったのだろうとウワサしたそうです。

注2:日本で唯一の安重根の顕彰碑が宮城県若柳町大林寺境内にあります。若柳町出身の千葉十七(とうしち)は旅順で裁判中の安重根を獄中で看守す役であったが、安重根は千葉の人間性あふれる対応に感激したといわれ、死の直前に「為國献身軍人本文」(国のため身を献げるは軍人の本文なり)と墨して贈っています。千葉は帰国後も安義士の遺影と墨書を大切にし、彼の死後も遺族が70年間この墨書を大切に保管し、安重根の生誕百周年(1979年)に、ソウル市内にある安重根記念館にこの遺墨を供え、1981年に千葉の菩提寺である大林寺に顕彰碑が宮城県知事の言葉と共に建てられました。千葉十七は、林業家で朝鮮陶磁器を研究・紹介した浅井巧と同様、韓国で尊敬されている日本人だそうです。

リンク:

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Korea: A Pilgrimage of Trust and Prayer

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The Diocese of Chubu of the Anglican-Episcopal Church of Japan arranged trips to Korea in fall, 1996 and 1997, eintitled "A Pilgrimage of Trust and Prayer." Two reports by the participants are found below:

A Pilgrimage of Trust & Prayer in 1996: Tadao Hara's Report

A Pilgrimage of Trust & Prayer in 1997: Yoshi Mikami's Report

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Created by Yoshi Mikami at the Nagano Seikyushu Kyokai on June 22, 1998. Last update on July 5, 1998.