FAQ Seikokai


"A Crow" by Kyoji Okamoto
of the Meguro Illustration Club, Tokyo.

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キリスト教と聖公会についてよく出る質問
(Frequently Asked Questions)

このページの目次:

はじめに

Q: こんにちは。近々聖公会の信者と結婚することになったので、近々洗礼も受ける予定です。キリスト教や聖公会について質問したいと思いますので、よろしくお願いします。

A: こちらこそ。私も実は、ごく最近洗礼を受けました。以下に述べる答は、私が短期間に勉強を兼ねてまとめたもので、長い経験からにじみ出るような話ではありません。私自身以下のような文書を読んでいたら大変助かったなぁ、と今まとめながら思っています。また、すべて個人的見解で、聖公会の公式見解ではありません。多少間違ったことを書いていると思いますので、気が付いた方は私あてにご連絡ください(Tel/Fax: 026-226-9690)。至急訂正します。私自身の英語の勉強もかねて、英語の用語も併せて書いておきました。

Q: 参考のために、あなたのキリスト教との係わり合いを教えておいてください。

A: 私は中学時代の英語の先生(区立の学校の先生でその後米国へ留学)の影響で、高校時代には英語で聖書を読む聖書研究会にも出席したりしていました。大学はキリスト教系(プロテスタント)で、聖歌を歌うのが楽しみで教会の礼拝(水曜日の午前11〜12時)へ行きましたが、専攻が物理学で忙しくて、いろいろと考えをめぐらし洗礼を受けるまでの余裕はありませんでした。宗教についてはその後すっかり忘れていて、思い出したようにバハイ教(ユダヤ教とキリスト教とイスラム教の融合)や幸福の科学(大川隆法の「新・太陽の法」)などについて読んだりしたことがありましたが、数年前から横浜山手教会(聖公会)へ5回ほど通い、'97年1月に長野市へ単身赴任することになった機会に、ここの聖公会の教会で3月に洗礼を受けました。つまり、すべて頭で理解していて実行が伴っていませんが、徐々にということでご理解ください。東京の実家は曹洞宗ですという訳ではなく、群馬県(父の実家)と長野県(母の実家)にいる知り合いの曹洞宗のお坊さんに来ていただいていますので、般若心経などはよく読まされました。

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キリスト教と聖公会の特長

Q: キリスト教の特長をひと言でいうと何ですか。

A: それは愛(あい)なのだと思います。ユダヤ教のきびしい厳格な父のイメージに対して、優しくあたたかい、女性的なイメージももったキリスト教が生まれたと私は考えます。肉親や友人、また近所の人や遠くの人に対して、愛をもって接しなさいということは現代でも大いに通じる命題で、非常にパワフルな考え方です。この答えは個人によって違うと思いますから、何人かに聞いてみてください。

キリスト教全般については最近「キリスト教の本」(学研、1996)上(4-05-601248)・下(4-05-601249-0)が出版されていて、写真が多く使われているので読みやすい本です。全体に理性派の人々が多く書いているので、時々キリスト教と教徒に関する批判も加えられているが(例、上p.128)、私自身はカトリックやオーソドックスの考えなど大変参考になりました。

Q: 聖公会はカトリックですか、プロテスタントですか。

A: キリスト教は歴史的に見て、ローマを中心に中世に君臨したカトリック教会(the Roman Catholic Church)と、西ローマ帝国と分離してコンスタンチノープルを中心にギリシャやロシアや東ヨーロッパ諸国へ広まったオーソドックス教会(東方正教会、the Eastern Orthodox Church)と、カルビンやルッター(ルーテル)などに端を発したプロテスタント教会(the Protestant Church)という3つの大きな流れがあります。日本へは日本ハリストス正教会(ハリストスはギリシャ語でキリストの意味)に所属する東京のニコライ堂以外はオーソドックス教会の影響は少なく、我々日本人の頭の中には、キリスト教はカトリックとプロテスタントに分れていると焼き付けられていると思います。

聖公会の人々は、聖公会はカトリックとプロテスタントの中間にあり、橋渡しの教会(a bridge church)であるという表現を好みます。聖公会はもともと、英国のヘンリー8世(Henry VIII)が16世紀に離婚はまかりならぬとローマ法皇に言われた時に、それなら独立すると言ってカンタベリー大主教を中心にして英国教会(the Anglican Churchまたはthe Church of England)としてカトリックから独立したものと私は理解していて、プロテスタントの人は儀式的にカトリックとよく似ていると思うでしょうし、カトリックの人は牧師が結婚しているのはプロテスタントと似ていると思うでしょう。ただし、聖公会はその後英国で排出したあらゆるプロテスタント宗派を排除しながらも、次第にそれらから多くの影響を受けて、また内側からの改革もあり、徐々に進歩的な考え方も包含してきました。

聖公会は各地で他のキリスト教教会と仲良くやっていると思いますが、特にカトリック教会(1971年のウィンザー合意声明)と福音ルーテル教会(1996年のポルヴォー合意声明英文で)とは制度的に似ているからでしょうか協調路線を取っていて、洗礼を受けた者をお互いの儀式に同等の資格で参加させたり(この部分確実ではありません)、子供のキャンプを合同で行なったりしていると聞いています。聖公会、カトリック教会、福音ルーテル教会など伝統的な宗教の特長は、ある過激な考えを押しつけて信者を1つの方向へ走らせるということがないことです。個人が自分で気が付いて、自分で学んで、自分で自分の意見を確立するのをじっくりと待つ、ということを実践しています。初心者が1つの方向に向かっていればいいということはありませんから、人によってはその点で多少さびしい思いをするかも知れません。

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洗礼式と堅信式

Q: 洗礼とはどういう意味がありましたか。

A: 礼拝が終ったあとの時間に「洗礼を受けたい」と司祭さんに相談すれば、時間をとってお話ししてくれると思います。私はウィークデイの夕方7時から、4回ぐらい各1時間半お茶を飲みながらお話しをする機会を設けていただきました。自分のこれまでの経歴とか、キリスト教について考えていることとか、司祭さんもご自分のことを話してくれ、結果的には洗礼に際しての心の準備を行ないました。聖公会の洗礼では洗礼志願式、洗礼式、堅信式をそれぞれ1〜2か月の間を置いて日曜日の礼拝の中で行ないますが、内容は祈祷書に書いてあります。

司祭さんとのお話しでは、祈祷書にある教会問答(the Catechism、p.256〜267)を繰り返し読んだり、説明を聞いたり、私の考えをいいました。教会問答は34の問いと答えで、教会、使徒信教、信仰、公祷、聖餐、洗礼など、聖公会が公認した考え方を学ぶものです。なぜ聖公会を選んだか聞かれた時、聖公会はカトリックの儀式的なところとプロテスタントの進歩的なところをミックスしてもっているようなのでと答えたことを憶えています。また、洗礼名(Christian name)は東洋・日本に布教にきた聖人からと思い、気に入った2〜3の中から1つ(フランシスコ)を司祭さんと一緒に決めました。それから、洗礼の際の教父母(god parentsまたはgod father and god mother)は、知り合いが少なかったので、やはり司祭さんにおねがいして頼んでいただき、私も電話でお願いしました。

私も今まで誤解していたのですが、洗礼はキリスト教学習または実践の終局目的ではなく、その第一歩で、始まりです。ですから、キリスト教に興味がある人は、気軽に洗礼を受けたいとか、洗礼とは何ですかと司祭さんに話しかけるといいと思います。

Q: 堅信式とは耳慣れないですが、何ですか。

A: 私の場合は、洗礼式に先立って2月の大斎節第1主日に洗礼志願式(祈祷書p.268)、3月30日の復活日に洗礼式(同p.272)、洗礼後5月11日の聖堂聖別記念日に堅信式(同p.288)を受けました。洗礼志願式と洗礼式は教会の司祭さんから受けましたが、堅信式(Confirmation)は名古屋市におられる教区の主教さんがこられて、私の頭に両手をおかれて祝福していただきました。そのあと、説教でも堅信式について簡単に触れられ、また愛餐会でもお隣りに座って話す機会もあり、感激でした。洗礼前にも、堅信前にもみなさんに祈っていただいたことも含めて、非常にいい経験でした。堅信式が終わらないと1人前のクリスチャンとして扱われなくて、下の礼拝の項で述べるように、パンとぶどう酒もいただけません。

Q: 聖餐(せいさん)とか聖奠(せいてん)とか似たことばがありますが、何ですか。

A: 聖餐(Holy Communion、Holy Eucharist)は、日曜日の礼拝の間にパンとぶどう酒をいただく儀式で、次項の礼拝を見て下さい。聖奠(Sacrament)は、「祈祷書」の教会問答(p.265)に書いてありますが、キリスト教信者の一生で経験する洗礼、聖餐、堅信、聖職按手(司祭などの就任式)、聖婚(結婚式)、個人懺悔、病人の按手と塗油すべてを指します。この内、個人懺悔のみは会衆に間ではあまり行なわれていないという印象です。

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礼拝、聖書、祈祷書、聖歌集

Q: 礼拝はどんな内容ですか。

A: 主日(日曜日)の礼拝を、聖公会独特の言葉で聖餐式(Holy Communion、Holy Eucharist)と呼んでいます。礼拝堂の入り口を入ったところで、週報(1枚の紙)を受け取り、名前を出席者名簿に書きます。礼拝堂の後ろ脇にある本棚から、祈祷書と賛美歌集と古今聖歌集増補版も借りるといいと思います。司祭が入場して、祈祷書に書いてある式次第(p.159以降))に週報にあるその週の式次第で補足して、司祭「主イエス・キリストよおいでください」に対して、会集一同「弟子たちの中にたち、復活のみすがたを現されたように、わたしたちのうちにもお臨みください」と唱和して、式は進みます。

「主よ、憐れみをお与えください」ではじまる「キリエ・エレイソン」(Kyrie Eleison)と大栄光の歌(Gloria)を唱えた後、2人の信徒が説教台でそれぞれ旧約聖書、新約聖書の使徒言行録を読み、続いて司祭が新約聖書の福音書からの引用を読みます。次に「わたしたちは、唯一の神、全能の父、天地とすべて見えるものと見えないものの造り主を信じます」にはじまるニケア信経(the Nicene Creed)を読んでから、信徒代表が代祷といって日本と世界のいろいろな人々へ向けた祈り(長野では1997年春から信徒が読むようになりました)をささげます。次に説教を10分くらい聞いて、床に膝をついて懺悔して、平和の挨拶を交わして、献金を行ない、陪餐といってまず「天にいますわたしたちの父よ」で始まる主の祈り(the Lord's Prayer)を唱え祭壇へ行きパンとぶどう酒を司祭からいただきます。(かぜをひいている人、洗礼と堅信を受けてない人は、席に留まっていてもいいし、祭壇に行き胸に両手を斜め十字に組み合わせると、司祭が頭に手を置いて祝福してくれます。)他の人が陪餐中は静かにお祈りをして、最後に司祭「ハレルヤ、主とともに行きましょう」、会集一同「主のみ名によって、アーメン」で終わります。礼拝の全体は70分くらいで、聖歌は4つ歌うのが普通です。

礼拝後は、信徒と司祭からの連絡事項(週報に書いてあるものもある)を話す機会です。また月の第1・2・3週は愛餐会といって婦人会が用意してくれた簡単な昼食をみんなで取ります。

日曜日の礼拝を、カトリックと同様にミサ(英語でthe mass、フランス語でla messe)と呼ぶ人もいます。ミサという言葉は、もともとローマ教会のラテン式文で聖餐式の前半の終りで「イテ・ミッサ・エスト(Ite, missa est)」(行け、あなた方は去らしめられる)といって未信徒の退場をうながし、また式の全部が終わったところでも同じ表現が使われたことから起こった名称だそうです。森譲「信仰を生活する」(聖公会出版部、1968、p143)に書いてありました。

Q: 婦人会をG.F.S.っていうのですか。

A: 婦人会はG.F.S. (Girls' Friendly Society)といっています。全国的な組織があるかどうか分りませんが、婦人会はバザーの準備、その他のあらゆる活動にたずさわっていて、教会レベルでは男子よりも活躍しているように見えます。男子の会はB.S.A.(聖アンデレ同朋会、Brothers of St. Andrew)といい全国的な組織になっていて、あの長野県・清里KEEP協会を設立したポール・ラッシュが作ったもので、現在は信徒叢書発行や研修会の開催等の活動(BSA東京支部、03-3436-4325)を続けていて、'97年には「BSA70年史」が出版されています。

Q: 聖書について話してください。

A: 私の学生の頃の聖書は戦後完成した(何年?)口語訳聖書(1954/55改訳1964発行でマタイ6章9節は「天にいますわれらの父よ、御名(みな)があがめられますように。」)が使われていましたが、その後改訂訳、新改訂訳(1973)、リビング・バイブル(いのちのことば社、1984年)が出て、現在は旧約、旧約続編、新約からなる新共同訳聖書(日本聖書協会(03-3567-1987)、1993年)を使っています。初版が1978年に新約聖書共同訳として出版されたものの改訂版(1987年)で、カトリック、プロテスタントを含めて広く使われていると思います。マタイ6章9節は「天におられるわたしたちの父よ、御名(おんな)が崇(あが)められますように。」です。聖公会では旧約続編(アポクリファ)も使っています。2か国語版には、和英対照新約聖書(カタログ番号NITEV255DI、2,200円、日本語共同訳・英語TEV版)、和西対照新約聖書(カタログ番号 NIVP255DI、2,233円)は在庫があり、日本語・ポルトガル語対照新約聖書(ブラジル用)は在庫がないそうです。最近出席した聖書研究会で発見したのですが、新共同訳聖書のヨハネの黙示録5章5節で「ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので」と翻訳されており、蘖(ひこばえ)とは樹木の切り株や根本から群がり生える若芽(三省堂の辞林21)のことらしいのですが、多分次回の改訂でもっと分りやすい言葉に置き換えられるのでしょう。(下に述べる英語聖書TEV版では「The Lion from Judah's tribe, the descendant of David, has won the victory...」とあり、「ダビデの子孫」という分りやすい翻訳になっています。)

英語の聖書については、この間東京・銀座の教文館へいった時、英国のThe Revised English Bible (Cambridge University Press, 1996, 通称REB版)と米国のThe Good News Bible in Today's English Version (The American Bible Society, Second Edition, 1992, 通称TEV版)を買ってきました。それぞれ英国で1990年(The New English Bibleの新約部分が1960年から出版されたもので、その改訂版)、米国で1976年(First Edition)が完成したものです。Mathew 6:9は、それぞれ「Our Father in heaven, may your name be hallowed.」と「Our Father in heaven: May your holy name be honored.」になっていて、英国版が「to hallow」という日常使わない難しい言葉を使ってます。これらの聖書はプロテスタントで主に使われる版あるいは広く使われている版でしょうか。また、The Bible Gatewayには聖書の英語訳、NIV (New International Version)、NASB (New American Standard Bible)、RSV (Revised Standard Version、1952年)、KJV (King James Version、1601年)、Darby (Darby's Translation、古い?)、YLT (Young's Literal Translation、古い?)がインターネットに載っています。ASV(American Standard Version、1901年)、NRSV(New RSV、1989年、Oxford University Press)、CEV(Current English Version)もありますね。1997年6月東京の丸善本店には、英国のKJV、NEV、REV、RSV、NRSV、米国のASV、TEV、TIV、CEVなどが置いてあり、フランス語版La Bibleの文語版「Lorsque Dieu commanc,a la cre'ation du ciel et de la terre, ...」と口語版「Au commencement Dieu cre'a le ciel et la terre. ...」、中国語繁体字および簡体字の文語版「起初、神創造天地」と口語版「太初、天帝創造天地」(Today's Chinese Version、香港で出版)などもありました。選ぶのに大変ですね。

最初の日本語訳聖書は、1549年にフランシスコ・ザビエル(1506-1552)が鹿児島へ持ってきた「マタイ福音書」といわれているが、現存していません。完全な形で現存している最古のものは、1837年にマカオで翻訳されてシンガポールで出版されたギュツラフ訳聖書「約翰福音之伝」(ヨハネ福音書)と「約翰上中下書」(ヨハネの手紙)だといわれています。訳文は「ハジマリニ カシコイモノゴザル」(始めにことばがあった、の訳)で始まり、名護屋出身の北米漂流民3名が、ハドソン湾会社に助けだされてマカオに行き、そこでオランダ伝道協会のカール・ギュツラフが指導してアメリカ聖書協会の資金援助で訳したもので、当時の名古屋弁をそのまま反映しているといわれていますが、残念ながらこの聖書は日本へ届けられることはありませんでした。明治になって、1871年にゴーブル訳のマタイ福音書、1872年にヘボン=ブラウン訳聖書のマルコ福音書とヨハネ福音書ができましたが、このヘボン(James Curtis Hepburn)さんは米国長老派教会の宣教師・医師で、和英辞典「和英語林集成」第3版(1886)で羅馬(ローマ)字会が制定したローマ字を使い、これが後にヘボン式ローマ字と呼ばれるようになりました。

Q: 聖書は楽しい読み物だ、とこの間いっていたのはどういう意味ですか。

A: 聖書はまじめに読むものですが、この間若者の飲み会があった時、「飲ミニケーション・ファンド」」と書かれた飲み代の集金箱に、詩編104:15「ぶどう酒は人の心を喜ばせ、油は顔を輝かせ、パンは人の心を支える。」、イザヤ5:22「災いだ、酒を飲むことにかけては勇者、強い酒を調合することにかけては豪傑である者は。」などが書いてあり、多少ふざけた行為でしたが聖書により親しみを持つことができました。特に箴言23章とシラ31章は絶品で、みんなで読み合って抱腹絶倒しました。聖書のどこに何が書いてあるかの索引はコンコーダンス(concordance)と呼ばれていて、「新共同訳聖書コンコルダンス」(キリスト新聞社)、「Computer Concordance新共同訳語句事典」(教文館、旧約・旧約続編・新約が別々に出ている)などを司祭や聖書を多少研究している人が持っていますので、ぜひいろいろ調べて聖書に親しむのに利用してください。

Q: 祈梼書についても話してください。

A: 祈祷書(日本聖公会管区事務所、第4版、1996)には、聖公会の式次第がすべて書いてあります。これに週報に書いてある聖歌、聖書の引用を使い、聖餐式も行なっています。なお、主の祈り(p.180)は「天にいますわたしたちの父よ、み名(な)が聖(せい)とされますように。」ではじまっています。(上記の各日本語訳・英語訳聖書の翻訳文も参照のこと。)プロテスタントでは祈祷書に相当するものは、少なくとも信徒の目に触れる形ではないと思います。カトリックでは、昔「公教要理」(英語名?)という本を見たことがありますが、これが祈祷書に相当するのでしょうか。どなたか英国または米国の祈祷書をお持ちでないでしょうか。

Q: 祈祷書についてもう少し話してください。

A: 祈祷書(The Prayer Book)こそ、聖公会たるゆえんのような気がします。森紀旦編「聖公会の礼拝と祈祷書」(聖公会出版、1989)を読んで私なりに解釈すれば、それまでラテン語で行なわれていたものを、トマス・クランマー(Thomas Cranmer)大主教が1549年に英語で第一祈祷書(The Book of Common Prayer)、1552年に第二祈祷書を完成したという革命的行為がありました。前者はカトリック的で、後者は福音的で、なぜ彼が短期間にこうした相反する祈祷書を作ったかナゾとされていますが、聖公会の歴史を見ればこの命題が常に議論されてきたのが分ります。(最近Diarmaid McCulloch, "Thomas Cranmer: A Life" (Yale University Press, 1996)という本が出版されて評判なので読んでみたいと思います。)その後第五祈祷書まで作られました。

英国教会では今世紀になってもいろいろな改革が提案され、戦後の1955年にLiturgical Commissionがスタートして、「シリーズ1/2/3」など口語訳も含めた実験の後、1980年の併用祈祷書(The Alternative Service Book 1980、Cambridge University Press、0-521-50712-X)が発行されて、現在は少数の教会を除いて英国のほとんどの教会で使用されています。この内容は、例えばThe Order for Holy Communion, Rite A(p.119)では、The minister: The Lord be with you or The Lord is here. All: and also with you. or the spirit is with you. になっていて、Rite B(p.179)という、The minister: The Lord be with you. All: and with thy spirit. のも併記されています。

米国では、1974年の総会で採択され1979年に出版された祈祷書で、聖餐式の名称(Holy Communion)も聖なる感謝の祭り(Holy Eucharist)と改められ、礼拝形式は比較的伝統的なもの、簡素で行動的な新しい式文を使ったもの、式の大筋の順序だけが指示してあるものの3つが用意されています。また、聖別祷も代祷もいくつかが用意されていて、司祭または会集が選択して用いることができるようになっているようす。全て口語ですが、聖餐式やその他一部に文語も併記されています。1976年のミネアポリスにおけるEpiscopal Convention(聖職を女性になどの決定された)で採用された諸々の改革に反対して、新しい管区を作り、1928年版祈祷書を使うところもあり、米国は全体的に教会ごとに60ページくらいの祈祷書を作り使用するのが普通のようです。

日本では、1878年に聖公会祷文が始めてでき、いくつかの改訂版(英国王への祈りにならって天皇・皇族への祈りが入ったものもある)を経ましたが全て翻訳が中心で、1959年になって始めて日本独自に作成した日本聖公会祈祷書が出版され、さらに1986年に口語による改正祈祷書が出版されました。上の英国および下の米国状況から見ると、日本の祈祷書は1959年版がそのまま生きていて、生きた信仰を生きた言葉で表明するという点からは全体主義的に保守的だといわれています。つまり、ある教会で新しい式文を実験的に試用し、それを修正して公式なものとして完成していく伝統があまりないということらしいのですが、少人数なのでこのようになっているのでしょう。

Q: 聖歌集について何かいうことはありますか。

A: 現在「古今聖歌集」(Hymns New and Old、日本聖公会管区事務所、1994)と「古今聖歌集増補版'95」(日本聖公会管区事務所、1996)を併せて使っています。前者は聖公会第25総会採用(第1刷、1559)とあり、歌詞は文語調のものをそのまま使っていて、後者は「すみわたる大空に」(第35番、曲はドイツ民謡)のように歌いやすい最近の訳(口語調)が入っています。聖餐式で用いる「聖なるかな」(Sanctus)、「神の子羊」(Agnus Dei)などは両聖歌集にありますが、教会により(教区により?)、伴奏が違います。英語版聖歌集は英国の「The Hymns Ancient and New」と米国の「The Hymnal 1982」というのを見たことがあります。

プロテスタントでは聖歌を一般に賛美歌と呼んでいて、かなり共通な歌があると思います。最近新しい賛美歌集「賛美歌21」(日本基督教団、'97年2月)が出版され口語訳の歌詞も大胆に取り入れられています。図書館から借りてきて調べてみましたが、377番「神はわが砦」(ルッター作曲)の歌詞は私が知っているものとたいして変わっていませんが、27番「父・子・聖霊のひとりの主よ、栄えと力はただ主にあれ、とこしえまで」(ヘイスティングス作曲)は、もとは「父・み子・みたまのおおみ神に、ときわに絶えせずみ栄えあれ、み栄えあれ」で、大きく変わっていました。

Q: 聖書などはどこで手に入れますか。

A: 聖書は一般書店の哲学・宗教の棚にも置いてあります。祈祷書と聖歌集は、司祭さんに頼めば聖公会出版(03-3235-5681、Fax: 3235-5682、JR飯田橋駅から外堀通りに出て更生年金病院の裏)から有料で取り寄せてくれます。この時「聖公会手帳」(ポケット版、1,200円)も一緒に入手することをお勧めします---ダイアリーの他に、日本全国の各聖公会教会の住所などが書いてあり、便利です。英語やその他の言語の聖書は教文館(東京・銀座4丁目)、聖公会出版(東京・飯田橋)や丸善(本店ではエスカレーターで2階に上がったところの左)、紀伊国屋などの洋書店に売っています。

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使徒信経、宗教書、宗教小説

Q: 使徒信経(しとしんきょう)というのは、般若心経(はんにゃしんぎょう)に相当するのでしょうか。

A: 般若心経は玄装三蔵が7世紀に中国語に訳したものが日本では使われていて、漢字262文字の短い内容でこの世は空であるという仏教の神髄が書いてあり、私も実家の曹洞宗の7回忌などではお坊さんと唱和した経験があるので、キリスト教の使徒信経を仏教の般若心経に相当するというのはいい例えかも知れません。ニケア信経(the Nicean Creed、「祈祷書」の聖餐式p.166にある)と使徒信経(the Apostles' Creed、「祈祷書」の教会問答p.258にある)は大変よく似た内容で、それぞれ毎日曜日の礼拝、洗礼式や教会問答で信仰告白として使われています。

使徒信教は古ローマ信教(the Old Roman Creed)とも呼ばれ、2世紀末から3世紀始めにローマで使われたギリシャ語・ラテン語のものが、いろいろな変遷を経て現在の形になりました。ニケア信教はニケアで行なわれた第一回公会議(325年)でコンスタンチノープル信教(the Creed of Constantinople)として書かれ、その60年後(381年)に精霊に関する項目が追加されたもので、公会議以降のキリスト教主流的考えである三位一体の教えを説いています。

また、上の2つの信経とは大分違う形式のアタナシオ信経(the Athanasian Creed)が1963年から聖公会祈祷書の付録(p.927)に入れられ、三位一体主日(5月始め)に読むようにと書いてありますが、実際には今は使われていません。これはアリウス派に対して三位一体論で闘って勝ったアタナシウス(Athanasius、293〜375年)の名で後の人が書いたもので、東方正教会ではまったく認められていなく、特に同信条の2節と42節に含まれ「呪いの言葉」(damnatory clauses)が現代にふさわしくないという理由のようです。

学生時代にポール・ティリッヒか誰かが書いた使徒信教の解説本を読んだこと思い出して、最近C.E.B.クランフィールド著「使徒信経講解」(新教出版社、1990、関川泰寛訳)を買ってきて読みましたが、難しくてまったく歯がたちませんでした。例えば「使徒信教の第一項と第三項は、その重要な中間項である第二項の光に照らしてのみ正しく理解される。」(p.45)と書いてあり、書く方も書く方ですが、訳す方も訳す方で、非常に残念でした。

Q: 聖公会の宗教書で何か読みやすいものはありますか。

A: 教会の司祭さん、信徒のの中で文学的な趣味のある方々と相談したり、カナダ聖公会の人たちのお薦めの本などで調べといいと思いいます。C.S.ルイス宗教著作集4「キリスト教の精髄」(新教出版社, 1977, 4-400-52054-4, \2,039; 原著 C.S.Lewis, "Mere Christianity," Fontana Books, 1952)がいいと思います。彼(1898〜1963)は北アイルランド生まれで、1929年に無神論者からクリスチャンになり、後にケンブリッジ大学の教授になった人で、この本はBBCのラジオ放送(1942年)のまとめで、分りやすいのでおすすめです。

Q: 小説的なものはどうでしょうか。

A: 私も実はさがしています。図書館に行くと、カトリックの遠藤周作(1923〜)の「白い人」、「沈黙」、「死海のほとり」とか、犬養道子の「旧約聖書物語」、「新約聖書物語」とか、プロテスタントの三浦綾子(1922〜)の「氷点」、「塩狩峠」などが宗教的な内容も含めた小説があり、なかなか読みやすく、結果的に多少キリスト教とカトリックの理解もできていいですね。どうやら、聖公会信徒の作家というのは日本ではいないようです。最近司祭さんから貸していただいた清家智光「牧会談話」(甲府聖オーガスチン教会、1982)が多少面白かったですが、司祭さんの仕事に興味がある人のために常識的なことしか書かれていません。日本キリスト教文学会(ICUの斉藤和明学長が会長?)があるようで、もっと一度調べてみます。

英国の小説は大なり小なり聖公会の考え方を反映しているに違いないという訳で、チョーサー(Geoffrey Chaucer、1342〜1400)の「カンタベリー物語」(聖公会に礼賛的?)とハーディー(Thomas Hardy、1840〜1982)の「ダーバービルのテス」(聖公会に批判的?)などを見てみました。「カンタベリー物語」は岩波文庫3巻の完訳があり、冗長だけど、面白いですね。詩人・小説家・評論家ハーディーは私も高校時代から「ウェセックス物語」を読んで知っているもので、最近図書館からトマス・ハーディー「チャンドル婆さん」(東京:千城、1985)を借りてきましたが、この中にある「チャンドル婆さん」(Old Mrs Chundle)と「医者が伝えた話」が、それぞれ英国国教会の副牧師の話、古い寺院を無視してその上に屋敷を新築したら骨が沢山でてきて困った資産家の話で、大変面白かった。

堀越喜晴さんに教えていただいたので、英国の聖公会信徒作家Clive Staples Lewis、Richard Hooker、John Donne、Thomas Stearns Eliotをこれから見てみます。C.S.ルイス(1898〜1963)は、評論「愛とアレゴリー」、宗教書「キリスト教の精髄」(Mere Christianity)、「悪魔の手紙」(The Screwtape Letters、1942)、児童文学「ナルニア国物語」(The Chronicles of Narnia)などがあります。日本C.S.ルイス協会(清泉女子大の山形和美さんが会長?)もあるそうです。T.S.エリオット(1888〜1965、実際はAnglo-Catholic)は、詩集「荒地」(The Waste Land、1922)、「聖灰水曜日」(Ash Wednesday、1930)、「四つの四重奏」(Four Quartets、1935-42)、詩劇(play in verse)「寺院の殺人」(Murder in the Cathedral、1935)、「カクテル・パーティー」、批評「詩の効用と批判の効用」(The Use of Poetry and the Use of Criticism、1933)などがあります。まぁ、キリスト教内の宗派は気にしないで読みましょう。

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牧師、信徒、教会、修道会

Q: 聖公会の牧師さんはどんな方々がなっていますか。

A: いろいろな経歴の方々が牧師さんになられていると思いますが、たまたまお会いしたお2人の司祭さんが、両方とも聖公会の牧師の家に生まれていました。おそらく信徒の方々も同じような傾向かな、と思っています。

Q: 牧師さんの教育はどのようにやっていますか。

A: これも私の経験では、お2人の司祭さんとも立教大学(東京都豊島区西池袋)を出られて、聖公会神学院(東京都世田谷区用賀)に行かれています。前者はどちらでもよく、国立大学その他へ行った方々もいるみたいですし、後者は聖公会の聖職になるのに必須なのでしょう。(聖公会手帳には、ウィリアムス神学館というのが京都にありますね。)ただし、お2人の神学校卒業後の歩みは多彩で、お1人はニュージーランドとイギリスで働いた経験をお持ちで、もうお1人は若いころ長らく沖縄におられました。なお、聖公会の教育事業として聖公会手帳に書かれているのは、東京の立教大学、立教女学院、香蘭女学院、聖路加看護大学、名古屋の柳城学院、平安女学院、大阪の桃山学院大学、神戸の神戸国際大学などです。

Q: 教会の経営はどのようにやっているのですか。

A: まだよく知りません。簡単に名前のことだけを話しておきます。各教会の牧師(minister)は司祭(priest)と呼ばれていて、通常鈴木司祭とか鈴木先生とかいっています。教会内で信徒は総務(庶務・広報)、宣教(礼拝・伝道)、財務(会計・管財・会計監査)などの役割を分担し(vestry)、バザー、百年祭実行委員会などにも参加しています。信徒は通常お互いに田中さんというように呼んでいますが、書き物ではヨセフ田中護兄とかマルタ田中道子姉とかを使います。

教会の集まりをほぼ各県単位で伝道区(英語名はmissionary area?)と呼び、例えば長野伝道区の合同スポーツ大会や合同礼拝が年一回行なわれて、後者では礼拝後昼食、講演を聞くことが行なわれています。いくつかの伝道区が集まり教区(diocene)になり、その主要都市に教区を監督する主教(bishop)がいて、堅信式などで各教会にもでかけます。例えば、愛知/岐阜・長野・新潟伝導区が集まって中部教区(Chubu Diocese)となり、名古屋市に主教さんがおられます。司祭は各教区に所属し、人事交換も教区内で行なっているようです。聖職には司祭、主教の他に執事(deacon)があり、病気の信徒を訪問したりしています。主教が古代キリスト教会の使徒職(12使徒の後継者)である監督(ギリシャ語でepiskopos、英語でBishop)、司祭が長老(ギリシャ語でpresbyteros、英語でPriestまたはElder)、執事は執事(ギリシャ語でdiakonos、英語でDeacon)、会集(一般信徒)は民衆(ギリシャ語でlaos、英語でlayman)を反映しているといわれます。カトリックと違い、聖公会では聖職者は多くのプロテスタント教会と同じように、普通結婚しています。

日本には北海道から沖縄まで11教区があり、詳しくは「聖公会手帳」ポケット版(聖公会出版、日記帳で毎年発行)を見るとよいでしょう。例えば、横浜教区は千葉県・神奈川県・静岡県・山梨県で、神戸教区は中国・四国地方すべてと兵庫県の神戸市のみになります。日本の全主教が参加する主教会議から主座主教(Primate)が選ばれ、日本管区(Province of Japan)の代表となりますが、これは主教を兼任したままです。世界の全管区が全世界聖公会(the Anglican Communion)を構成しています。

日本聖公会の在籍信徒数は、古い資料ですが日本聖公会教務院編「信徒ハンドブック」(日本聖公会出版部、1968)p.255に25,522(1948年)、40,000(1957年)、48,015(1966年)人となっています。男女比率は、男42対女58で女性が男性より多少多くなっています。現在もあまり当時と変っていないのではないでしょうか。カトリック教徒の数がこの10倍程度、日本のキリスト教徒が全体で日本の人口1,200万人の1パーセントにも満たない、というのがおおまかな統計だと思います。これに対して、韓国では全人口の4分の1がキリスト教徒だといわれています。

Q: 教会のついでに、聖公会には修道会もあるのですか。

A: 修道会(monastery)は古くからありましたが、カトリックの全盛期に特にイタリア、スペイン、フランスでフランシスコ修道会などが作られ盛んになり、イギリスでも多く作られ中世に活躍しました。聖公会がカトリックと分れた時に、修道会も強制的に分離されましたが、名前はThe Society of St. Francisなどとして今も残っています。修士または修女は清貧、貞潔(独身を通す)、服従からなる3つの誓願をたてて、生活します。日本では、男子のヨハネ修士会と聖使徒修士会がありましたが、いまは中止になっています。日本聖公会でも何々神父、ブラザー何々と呼ばれる方々がおられますが、修士会に何らかの関わり合いがあった方々です。女子のナザレ修女会(三鷹、沖縄、仙台)は祈りを中心に、神愛修女会(和歌山県)は労働を中心に神に使えるものです。

Q: 献金はどの位すればいいのでしょうか。

A: できる範囲でというのが答えだと思います。洗礼が終わったからいくら寄付しなさいとか、堅信式が終わったから月額いくら寄付しなさいとか、ここで聖書と祈祷書を買いなさいとか説明はありませんでした。献金は大切な勤めですという説明はありましたが、すべて自発的に行なっているようです。(日本聖公会教務院編「信徒ハンドブック」(日本聖公会出版部、1968)p.155には、献金額は自分の収入の20分の1ぐらいが適当とされますと書いてあります。)日本のキリスト教会は戦後の一時期まで海外からの豊富な寄付金にめぐまれていましたが、今は経済的に独立していて、できたら海外伝道にも役立ちたいというのがあると思います。大きな教会では寄付金の一部を教区に出し、集まった資金を比較的小さな教会に再配布するというようなことをやっていると思います。

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キリスト教の実践

Q: お祈りやキリスト教の実践はどのようにしていますか。

A: この件についてはここに公に書くのは大変むずかしいことが分りましたので、書きません。

Q: 日曜日の礼拝に私のような若い人たちが見当たらなく、役員の話もほとんど高年齢層を中心の話のようですが。

A: 一般的に若い人たちが礼拝や教会の諸活動に参加していないというのは、第二次大戦以降の既成宗教の大きな問題になっていると思います。私の印象では、若者を中心とした活動は、日曜学校のお手伝いやクリスマス頃の音楽会などを除いては、教会単位でなく県単位(伝導区単位)または全国規模で行なわれているようで、一度司祭さんに直接、または司祭さんに相談して若者の活動の中心になっている人を紹介してもらって聞いてください。

私も実は「'97年長野伝導区青年の集い、共に創る祈りの食卓」というパンフレットを教会で見つけたので、この東京YMCA野辺山高原センター(長野県)で行なわれた2泊3日(金曜の夕食から日曜昼食まで)の行事に参加してきました('97年7月11〜13日)。約20〜30名の人が、かごを編む、チャリスとパテン(それぞれパンとぶどう酒をいれる器)を作る、ステンドグラスを作る、パンとぶどう酒を作る、十字架を作る、写真を撮るの6つのグループに分れて共同作業を行ない、土曜日夜にグループ発表も兼ねて祈りの会を行ない、日曜日朝は聖餐式が行なうというものでした。激しい梅雨の中あるいは雨間をみてグループ作業を行ないました。私は若いころこういった行事に参加したことがないので、大変新鮮に感じたのといろいろな勉強になりました。

カトリックや福音ルーテルの方々も何人か参加していたのと、テゼ・コミューニティ(Taize Community)から始まった単純な歌も多く使われていたので、これは意図されたものではないでしょうが、私自身はエキュメニズムの多少の勉強と経験をしました。また、人見知りをする、自分の意見をあまりうまくしゃべれない、というのは若者の1つの特長ですが、そういう人も何人かいて、こういう自分を受け入れてくれてありがとうというような発言もあったのは大変いいことだったと思います。8月には長野県で全国規模の集会、9月には野尻湖で祈りの会が開かれるようです。若い人たちおよび心の若い人たちが中心の集まりになるのでしょう。

Q: テゼ・コミューニティーとかエキュメニズムって何ですか。

A: 第二次大戦中にスイス合同教会出身のブラザー・ロジェ(Bother Roger)が、フランスのブルゴーニュ地方のテゼ村(彼の母の故郷)に行きユダヤ人をかくまったことから発して、1949年にキリスト教の宗派にとらわれない修道会「テゼ共同体」(the Taize Community、Taizeの最後のeの上にはフランス語の鋭アクセントがある)を作りました。祈りも、ろうそくを立て、ギターの伴奏で繰り返しの多い単純な歌を歌います。テゼ共同体は戦後の若い世代に多くの共感を呼び、現在テゼ共同体には常時2,000人の巡礼者が滞在されているといわれていて、全世界に支部があります。最近教父の方からいただいた「祈り---信頼への源---」(サンパウロ、1992年)という本は、ブラザー・ロジェとマザー・テレサの往復書簡集で、大変良い本です。ご存知のように、インドのカルカッタにあるカトリック教会の女子修道会で貧しい人たちを助けているマザー・テレサは、超教派的に世界のみんなが応援しています。

エキュメニズム(ecumenism)はキリスト教会一致運動(ecumenical movement)とも呼ばれ、同じキリストを信じる教会が同じでないのは不便だという発想から生まれたものです。宗教改革後の戦争が終った頃から古くある発想ですが、近年大変具体的になってきました。例えば、聖公会もカトリック教会とウィンザー合意を、福音ルーテル教会とポルヴォー合意を発表しています。最近の米国福音ルーテル教会、長老派教会、合同教会、改革派教会の話し合いはフル・コミュニオン(Full Communion)を目指していますが、これは相互聖餐だけでなく、合同教会の設立や聖職の交換までしようというものです。ただし同性愛者の扱いなど簡単に合意できない部分もあり、前途は多難だと推測します。

Q: 私は他の教会へいってもいいのでしょうか。どんな風に受け入れられますか。

A: 年に1回は、他のキリスト教会へいってみることは大切なことだと思います。その教会の考え方も理解でき、自分の教会の再発見にもなり、私の経験では、学校を出てから、海外へいって始めて日本の良さが分りました。福音ルーテル教会('97年7月)とカトリック教会(まだです!)へいった経験をお話ししましょう。

ルーテル教会は、日本へはアメリカから(日本福音ルーテル教会)と北欧から(福音ルーテル教会)入ってきているようで、私がいったのは日本福音ルーテル教会が1961年に始めてこの地で礼拝が持ったということでした。教会堂は1979年に新しく建てたもので、聖公会の大多数の古めかしい教会堂と比べて、シンプルな木造りの明るい教会でした。礼拝内容は聖公会のものとよく似ていて、だだしパンとぶどう酒の儀式は毎月第一日曜日のみで、台の上から自分で取るのだそうです(聖公会では司祭から直接いただきます)。

礼拝は「礼拝と洗礼」と書かれた本(日本ルーテル教会出版部、1983年、81ページ)の式文Aで行なわれ(式文BとCもありどう違うか分らない)、ニケア信教は使徒信教でもよく、主の祈りは(イ)口語文と(ロ)文語文が併記されています。聖書は週報に転記されていることはなく(週報にはその意義が載っていて、これは欠席者のためなのでしょう)、聖書を旧約と使徒書を信徒代表が読み、福音書は全員で読みます(聖公会では必ず司祭が読みます)。聖歌は「教会賛美歌」(聖文舎、1974年、the Lutheran Hymnal)からで、口語文を中心としたものです。説教が比較的長く、25分くらい続きました。礼拝が終ってから、みなさんとオリンピック時の宗教的共同作業などについて雑談をしました。

Q: 近所の神社またはお寺を中心としたお祭りに、キリスト教徒として参加していいのでしょうか。

A: この件についてもここに書くのは大変むずかしいことが分りましたので、書きません。

Q: 聖公会でインターネットはどの程度使われていますか。

A: 突然の質問ですね。いま調査中、参加中です。パソコン通信とNIFTY-Serveのパティオ(電子会議室)はこの2〜3年使われてきました。インターネットの電子メールは、聖公会の経営に係わる人たち、特に海外との連絡が必要な方たちもかなり使っているし、聖公会のことを議論するメーリング・リスト(参加者が自分の意見をある指定されたサーバーへ送ると参加者全員に自動的に配布される仕組み)も広く利用してます。ホームページに関しては、日本全国で13の教会がボランティアを中心として発信をしていますが、まだ組織的な活動ではないと思います。

海外でも、信者数と技術にめぐまれたカナダ聖公会のボランティアが一番盛んに行なっているようで(Anglicans OnlineThe Prayer Book Society of Canadaなど)、下の日本および長野県でのカナダ聖公会の活動の項に述べたように、共に注目したいと思います。

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世界の聖公会

Q: 世界の聖公会についても話してください。

A: 聖公会は英国教会(the Anglican Churchまたはthe Church of England)として生まれ、新大陸の米国、カナダ、オーストラリアなどへ広まりました。英国のカンタベリー大聖堂にいるのが、大主教(Archbishop)です。米国では、独立後the Episcopal Church of U.S.A. (episcopos/episcopusはギリシャ語/ラテン語で監督者overseerという意味から、主教bishopの意味)という言葉が使われています。日本の聖公会(Nippon Sei-Ko-KaiまたはNSKK)の英語訳は、the Anglican-Episcopal Church of Japanです。各国の聖公会は独立していて、カトリックのように法皇(the Pope)の下に一枚岩でという訳ではありません。女性が司祭になるというのが数年前から大きな議論の対象になっていますが、各国ごとに決定が行なわれています。ただし、世界の全管区が全世界聖公会(the Anglican Communion)を構成し、定期・非定期に会合をもっていて、10年に一度は英国でランベス会議と呼ばれる大きな会議を開いています。

Q: ランベス会議について教えてください。

A: ランベス会議(the Lambeth Conference)は、英国で10年毎に行なわれる全世界聖公会の全主教が参加する大会議で、前世紀の1867年に始まりました。ロンドンにあるカンタベリー大主教のレジデンスであるランベス宮殿(Lambeth Palace、テームズ川にかかるランベス橋を東側に渡ったところ)からきた名称ですが、最近1978年からはカンタベリー大聖堂で開かれています。次回は1998年に開催されますが、全世界から744人の全主教が招かれていて、会議はカンタベリー大聖堂市(City of Canterbury Cathedral)にあるケント大学(University of Kent)で行なわれるようです。それから、現在のカンタベリー大主教のお名前はジョージ・ケアリー(Abp. George Carey)で、イギリスではカンタベリーだけでなく、ヨーク(York)にも大主教(Archbishop)がおられて、イングランド全体はカンタベリーとヨークを中心とする2大教区に分れているようですね。

Q: 海外の聖公会教会ではどんな礼拝をしているのですか。

A: 私自身海外で聖公会教会にいったことがありません。しかし、日本には東京・芝公園の聖アルバン教会(St. Alban's Church)など英語で礼拝をやっているところがあり、世界中どこでも大体似た形式の礼拝になっていると思います。この間の日曜日('97年6月29日)10:00のSung EucharistへSt. Alban's(聖アンデレ教会の隣り、地下鉄日比谷線神谷町下車で東京タワーの手前左側)に行ってきました。祈祷書はお手製の「The Eucharistic Liturgy of St. Alban's Church, Tokyo, according to the use of Nippon Seikokai」という67ページの左側が日本語、右側が英語のもの(主の祈りは「Our Father in heaven, hallowed be your Name」)、聖歌は「The Hymnal 1982, according to the use of the Episcopal Church」(The Church Hymnal Corp., NY, NY)を使っています。多少違っていたのは、女性の司祭さんがいること、福音書朗読は信徒が中央通路でかかげる大きな聖書を司祭が会集の方に向いて読むこと、代祷がThe Prayers of the Peopleと呼ばれていること、説教が終り平和のあいさつを交わした直後お知らせや自己紹介などがあって一段落してから後に献金と聖餐が行なわれたことでした。全体的に、上の祈祷書の項でのべた米国聖公会の3つの礼拝形式の内、どれを使っているのでしょうか。自己紹介では手を上げて、指名されたら「My name is Yoshi Mikami. I'm on a visit here from Nagano City.」といいました。英語に慣れていないせいでしょうか、非常に速いテンポで礼拝が進んだ気がしました。

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日本の聖公会

Q: 聖公会はどういう経過で日本に広まったのですか。

A: 小布施教会で聖公会長野伝道区の集会が開かれた時に('97年6月15日)、塩入隆さん(日本キリスト教団長野本郷教会、もと長野工業専門学校と長野県短期大学教授)が「長野県のキリスト教---聖公会を中心として---」という大変興味深い講演をされました。私が調べたこととこの内容も参考にしながら、徐々に書いて行きますね。

日本は江戸末期の下田・函館の開港(1854年)および横浜(1869年)・神戸(1867年)の開港後、アメリカ聖公会が江戸を中心に、英国教会が大阪と長崎を中心に、カナダ聖公会が名古屋を中心にキリスト教の布教を行なったといわれています。(次の項で詳しく述べるこのカナダ聖公会の役割は、司祭さんにお借りした日本聖公会教務院編「信徒ハンドブック」(日本聖公会出版部、1968)p.144で完全に無視しています。) 正式に聖公会の宣教活動が始まったのは、米国聖公会のリギンス、ウィリアムズ師により1859年から。英国聖公会はC.M.S.(Church Missionary Society、1799年創立)が1869年、S.P.G. (Society for Propagation of the Gospel、1701年創立)が1873年から。1887年にウィリアムズ、ビカステス両主教の指導下に大阪で開かれた第1回総会で日本聖公会が誕生しました。英国教会で使われている39か条(The 39 Articles of Religion)は日本聖公会綱憲には入らず、代りにシカゴ/ランベス四綱領(Chicago/Lambeth Quadrilateral、1886年米国聖公会で可決、1888年ランベス会議で合意)を載せています。(その内容は、1.旧約・新約聖書、2.ニケヤ信教と使徒信教、3.イエス・キリストの教えと洗礼と聖餐、4.主教と司祭と執事の3聖職。)ただし経済的にも海外の聖公会に依存し、外人主教の監督下の状況は長く続き、やっと布教開始以来64年目の1923年に東京と大阪に教区が誕生して、それぞれ元田・名出主教がはじめて日本人主教として聖別(就任)されました。

1941年の第20回総会には上記2教区と8地方部があったようです。また、このころ宗教団体法を根拠にした合同問題に関する弾圧があったようで、指導者で投獄された人もあり、日本聖公会は日本キリスト教団(1941年創立)に参加していますが、まだよく分っていないので、後程書きます。

Q: この間日本聖公会の歴史の話があった時、ハイチャーチ、ロウチャーチの考え方という言葉を聞きましたが。

A: 英国聖公会でハイチャーチはカトリックの伝統的な考え方で、ロウチャーチはより進歩的な考え方で、こうした(多少)違った考え方も聖公会では大切にしている、という以外は私はあまりよく分っていません。どなたかよく知っている人に聞いてください。

Q: 聖公会の日本人が海外で宣教した例はあるのでしょうか。

A: カトリックが大多数を占めるブラジルの日本人社会が、自主的に行なったものがその例ですね。聖公会手帳に11教会が登録されています。弓場繁(ゆばしげる)著「ブラジル開拓伝道物語」(日本福音クルセード、1990)に、伊藤八十二(長野県下伊那郡出身、聖公会神学校出)という個人伝道師が後継者を苦労して日本の神学校に送ったのが聖公会の神学校で学び、3人目の後継者弓場繁さん('90年当時大司祭、現在は退任)からブラジル南部のポルトアレグレにあるブラジル聖公会神学校(米国聖公会の援助)で聖職者を組織的に教育されている模様や、ブラジル移民80周年(1988年)に80万人を越える日系人のために日ポ対照新約聖書(日本聖書協会)を1万冊出版したことなどが書かれています。アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、中国・台湾、韓国などの非日本人社会へ伝道した例もあると思うので、今後もっと調べてみます。

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長野県での聖公会の歴史

Q: 長野県に聖公会がきた経緯についても話してください。

A: 新しい授洗者に対して、その土地の聖公会の歴史を教えておくのも大切なことだと思いますが、あまり組織的には行なわれていない感じですね。上記の塩入隆さんの話も入れて要約すると、カナダ聖公会のウィクリフ・カレッジ(Wycliffe College)伝道協会(ロウ・チャーチ系)のJ.C.ロビンソン司祭(J.C. Robinson)が1888年に来日し、大阪から九州を中心に伝道を行っていたC.M.S.(Church Missionary Society、1799年創立)と協調して、名古屋で伝道を開始し、今日の聖公会中部伝道区(愛知/岐阜、長野、新潟)の基となっています。また、トリニティー・カレッジ(Trinity College, University of Toronto)内外伝道協会(D.F.M.S.、Domestic and Foreign Missionary Society、1883年結成、ハイチャーチ系)のJ.G.ウォラー(John G. Waller)司祭は1888年に来日、1890年には福島から長野町へ移って伝道を始め、1898年現在の長野聖救主教会を献堂しています。来年('97年)5月31日には、礼拝堂聖別100周年記念をお祝いします。同じくカナダ聖公会のジェニー・スミス(Jenny Smith)は1893年に慈恵医館を神戸に設立、後に慈恵医館看護学校を1896年に長野市に設立、1899年病気で引き上げる時に(長野に日赤病院が設立されたこともあり)看護学校は東京の聖路加国際病院へ移管(現在の聖路加看護大学)しました。これとは別に、やはりカナダ聖公会はリチャード・スタート(Richard Kemp Start)医師を中心に結核の療養施設として新生病院を小布施市に1932年設立、第二次大戦中はカナダへ強制送還されましたが、戦後再び小布施に戻っています。結核が少なくなった現在、新生病院はホスピス病棟も1996年12月に完成して、ユニークな地域への貢献を続けています。

他方、日本メソジスト教会(Canadian Methodist Churchが中心で設立)は、1991年に現在の長野県町(あがたまち)教会を設立、ウィリアム・プルーダム(W.W. Prudham)宣教師のあと、1901年からダニエル・ノーマン(Daniel Norman)宣教師が赴任し、1934年まで滞在しました。聖公会のウォラー司祭もノーマン宣教師もトロント出身でお互いに仲がよかっただけでなく、長野市付近の教会の配置を見ると、どうやら千曲川の左岸を主に聖公会が、右岸をメソジストが担当して教会を建てたらしいと推測する人もいます。県町教会は1967年に旭幼稚園を本郷に移し、その跡地にホテル国際会館(現在のホテル国際21)ができ、献堂100年祭の1992年に本郷教会を旭幼稚園の隣りに追加設立しています。福音ルーテル教会が長野市で活動を始めたのは比較的最近(1961年)のことで、フィンランドの福音ルーテル教会の援助によるものだそうです。長野、吉田、篠ノ井の3カトリック教会はヨーロッパのシレジア管区、軽沢周辺のカトリック教会は南米のボリビア管区と関係があると聞いたことがありますが、どんな経緯だったのでしょうか。

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Written by Yoshi Mikami of the Nagano Seikyushu Kyokai, Japan, in mid-June to July, 1997, (thanks to Kenji Nagata in Nagano City for asking these questions!) and translated into English in August-September, 1997. Created on June 19, 1997. Last update on Sept. 10, 1997.