中国以外のあれやこれや


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目次:

アメリカ・ヨーロッパ

アジア太平洋

アメリカ・ヨーロッパ

ハワイのモロカイ島とマウイ島(2004)
(この部分を中国語で

3年前の春においがハワイ(中国語でのの解説は「Aloha火山之城」がいい)の主要都市、ホノルルがあるオアフ島(西南端のKo Olina Chapel)で結婚式をやり、親類中でハワイへ出かけましたが、今度は私の娘がホノルルからまたわざわざ飛行機に乗り換えて行くモロカイ島(Molokai Is.)で結婚式をやるというので、親類とお友達に来てもらいました。新婦はフラ・ダンスを熱心にやっており、モロカイ島はフラ・ダンスの発祥の地で、新郎もサーフィンでハワイに何回も来ているからでした。私は日本出発2日前に中国から日本へ帰り、翌日はDVC(ディジタル・ビデオ・カメラ)などの買い物をして、10月終わりの時期に1週間のハワイ旅行へ出かけました。第1日目(日曜日)は一家で22:00発のNorthwest Airlines(Boeing 747-400)に乗って、同日7:50ホノルル着。さっそくタクシーでみんな(ワイフ、もう1人の娘、ワイフの妹、私)でホノルルの町へ出かけ、アラモアナ・ショッピングセンターで私は昔アメリカ滞在中によく行ったRitz Camera、Radio Shack、Sam Goody(昔のLPレコードはなくて、すべてCD & DVDに変っていた)などがどうなっているかを見て、昼食はみんなで3FのCalifornia Pizza Kitchenで遠く海岸を見ながら食べて、そこから分かれて、私はタクシーでWard CenterにあるBorders Books、ホノルル港のAloha Towerの近くにあるCompUSA(パソコン・ショップ、ソニーのDVD+RW2層記録ドライブが出ていた)へ行き、そこへ皆が集合して、ホノルル空港15:55発のIsland Airline(37人乗りDehaviland Dash 8 Series 100)に乗り、30分後にモロカイ島に到着、レンタカー(Dodge Stratus)でカウナカカイのホテル・モロカイ(Hotel Molokai、808-553-5347)へ。

第2日目はホテルの海に面したレストランで朝食を済ませたあと、10時からレイ・メイキング(首飾りにする花輪作り)をして、11時からホテルの海に面した庭で戸外結婚式。そのあとすぐレストランの一角を借り切ってルアウ(ハワイのパーティー料理)を食べて、娘が友人とフラを踊るのを見ながらの披露宴。私はDVC(ディジタル・ビデオ・カメラ)で撮影するのに忙しかった。午後の神殿遺跡ツアーが少し前の大雨で道路がふさがったためキャンセルされたので、あとはホテル近くでぶらぶらして、夕方には島の北のカラウパパ・ルックアウトまで行ってきました(ダミエン神父の救ライ・センターが見下ろせる)。第3日目は山の上のシェラトン・ロッジへ移り、ホテルのプールで泳いだりして、午後は結婚したばかりの娘も来て皆で乗馬をして、夕方はカウポア・ビーチへ行ききれいな夕日が海に沈むのをを眺めた。第4日目は午前中に、モロカイ島の東端のハラワ渓谷(Halawa Valley)で結婚式を取り仕切ったローレンスの案内で自然観察をしながらモロカイの歴史と文化を聞いて、ポリネシア人はハワイへ2度に別れて渡ってきて、1回目は5世紀のマルケサス諸島人、2回目が12世紀の好戦的なソサエティー諸島人。帰り道にエルサレム教会やダミエン教会の写真を取ったりして、飛行場へ。午後6:40発の飛行機でマウイ島へ飛んで、またレンタカーで島の中央、南のキヘイ(Kihei)にあるコンドミニウム(自炊可能)、マウイ・バニヤン(Maui Banyan)へ行き、泊まった。

第5日目はレンタカーで西マウイの西端のホノルア・ベイまで出かけ、戻ってラハイナ(Lahaina、ここは1795年にハワイを始めて統一したカメハメハ大王の時から1850年までハワイ王国の首都でした)のFront St.のロンギーズ(Longhi's)でイタリア料理を食べ、午後3時にキヘイのホテルへ戻って、太公望の星空教室に参加して、岡田典之さんが運転・案内するバンでハレアカラ山(海抜3,000m)に一気に上って、雲の中を抜けて、頂上で夕日を見て、Visitor Centerで大噴火口を見て、少し下に歩いて下り銀剣草(Silversword)を観察して、夕闇が迫るころMeade 25cm反射望遠鏡とMiyauchi 20倍双眼鏡を使って、白鳥座のアルビレオ2重星、琴座のM57惑星状星雲、さそり座のM7散開星団などさまざまな恒星・星雲・星団を観察しました。(日本の彗星観測家、木内鶴彦(Swift-Tuttle彗星の再発見者)本の「生き方は星が教えてくれる」に関する話が面白かった。)第6日目は、午前中にプリンス・クヒオ号(Prince Kuhio)で小さなモロキニ島近くに行きシュノーケリング、船の中で昼食が出て、またマウイ・プリンス・ホテルの沖合いでシュノーケリングして亀を追いかけたりして、楽しみました。午後はまたラナイへ行き、カネァリー・モールで買い物、夕食はまたFront St.に行き、海岸側のFish Co.で。最後の第7日目は、朝4時半に起きて、カフルイ空港6:50発Aloha Airlineでオアフ島ホノルルへ行き、9:40発のNorthwestで出発、東京・成田へ翌日(日曜日)の13:15に着きました。旅行の計画と予約はすべてワイフがやってくれました。ハワイへは若い時に米国留学途中で寄って以来、もう6回ほど行っているでしょうか、何回行ってもいいところですね。(2004.11.28.)

ベルギー、イギリス、フランス、ドイツ、デンマークへ調査旅行 (1974)

ドイツ出張中にライン川下り(1983または1984)

イタリア・ギリシャ旅行 (1985)

英国巡礼2001

英国巡礼2001を見よ。

初夏のフランスとスイス、ドライブ&ハイキング旅行 2007

  6月末に大連から日本へ帰ったついでに、2週間連れ合いとフランス・スイス旅行をしてきた。東京からパリへ入り、10日間をフランスで過ごし、4日間をスイスのフランス語地区に滞在した。ワイフとの2人旅で、訪れたのは で、旅行計画と予約はワイフがおもにインターネットでやってくれた。


写真は左から、パリのロダン博物館、ブルゴーニュのヒマワり畑、フランス・アルプスでハイキング

1)パリ近郊(Paris, 中国語:巴黎)

まずエール・フランスで東京・成田を10:30に出て、飛行機はAirbus A330で、てっきり北極回りかとむかし風の考えでいたら、各座席の画面を見ていると、まずハバロフスクの上空を通り、ロシアのウラル山脈が北極海へ落ちるあたりを抜けて、ストックホルムとコペンハーゲンの真上を通り、機内で昔学生時代に習ったフランス語が通じるかどうか乗務員と「パリの国会議事堂はどこにあるか、なぜ観光名所でないか?」などとフランス語で試しているうちに(フランス語が通じた!)、パリ空港(L'Aéroport Charles de Galle)へ16:10に着いた。そこから近郊電車RER(Réseau Express Régional)B線と地下鉄Metroでボンヌ・ヌヴェル駅(Bonne Nouvelle)近くの下町風のところのホテルに3泊して、パリでは1日は地下鉄でウロウロしたあとアンヴァリッド(Les Invalides)駅から近郊電車C線に乗って(セーヌ川沿いのいい線路だった)、西郊外のVersaille-Rive Gauche駅まで行き、ヴェルサイユ宮殿(Chateau de Versailles, 凡尓賽宮)を見て、もう1日はモンパルナス駅(Gare de Montparnasse)から国鉄SNCFに乗って、やはり西郊外のシャルトルのノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres, 在夏尓特的聖母大教堂)を見にいった。

ヴェルサイユ宮殿は、そこで第1次大戦終了のヴェルサイユ条約が調印されたという「鏡の回廊」(Galeries des Glaces、)の改修工事が丁度終ったところで、そこからよく見える庭園もゆっくりと回り、右手前方のガーデン・レストラン「La Petite Venise」で昼食を取り、ルイ14世(Louis XIV, 路易14)がマントノン夫人のために建てたというピンクの大理石でできた大トリアノン(Grand Trianon, 大特麗亜儂)、隣りのルイ15世がポンパドゥール夫人のために建てたという小トリアノン(Petit Trianon, 小特麗亜儂)と庭園まで見にいった。シャルトルでは、大聖堂を見た後、昼食時だったので、裏のウール川(L'Eure)まで降りていって、ポルト・ギヨーム(Porte Guillaume)古門近くのクレープ専門店「Les trois lys」(クレープが40種類くらいあった)で昼食を取って過ごしたりした。

パリはずっと以前来たことがあるので、市内はほとんど見ず、ただロダン美術館(Musée Rodin, 羅丹博物館)で丁度「日本の夢Le rêve japonais」という特集をやっていて、雑誌「白樺」の人々との交流などの展示や、彫刻「カレーの市民」(Les bourgeois de Calais)の実物などを見て面白かった。そういえば国会議事堂(L'Assemblée nationale)はパリの観光名所でないなと思っていたら、近くにあったので脇を通ったが、確かに大したことがなかった。夕方パリの国鉄SNCFの北駅(Gare du nord )に行き、フランスご自慢の高速鉄道(TGV = Train à grande vitesse)の切符を自動販売機でVisaカードを使って何とか買った。(多分ストライキだったのだと思う、窓口がすべて閉まっていた。) パリのタクシーは駅とか特殊なところまたは予約でしか利用できず、移動には電車を使ったので、地下鉄と近郊電車には大分慣れたかな? パリでの夕食は、時差もあり疲れていたので、1日はホテル近くの中華店まがいの店でフランスの代表的ビール、クローネンブール(Kronenbourg)も飲んで済ませ、他の日はやはりホテル近くのブラッスリー(brasserie, 軽食堂)で食べた。

2)ブルゴーニュ地方(Bourgogne, 布尓戈尼)

翌日パリ北駅からTGVに乗り (何だ、高速鉄道といっても、在来線に高速電車を走らせているだけか!)、一路ディジョン(Dijon, 第戎)へ。 ここはむかしブルゴーニュ大公国の都で、ブルゴーニュ大公宮殿(Palais des Ducs et de L'État de Bourgogne)などを見た。名物のマスタード(moutarde)を買い(中国の山西省名物のお酢みたいなもので、フランスのマスタードはほぼディジョン製)、いよいよそこでEuropcarのレンタカーを借りて(車種はRenault Clio 1400cc、ヨーロッパの車はみなマニュアル・シフト車で30年ぶりにクラッチを踏んだ)、3泊ほどホテルを転々としながら、フランス・ワインの2大産地の1つ、ブルゴーニュ地方の中心、城塞都市のボーヌ(Beaune)でワイン博物館はスキップして、往時の貧民救済病院・オテル・デュー(L'Hôtel Dieu)を見た。このあと、ブルゴーニュ・ワインのドメーヌを訪ね歩き、シャトー・ド・ポマール(Chateau de Pommard)とかシャトー・ド・ミュルソー(Chateau de Meursault)とかに寄り、試飲をして(試飲にさせてくれたのは、パリ出身で、ボーヌのワイン醸造大学を出た若い男)、ブールカン・ブレス(Bourg-en-Bresse)の地鶏料理やその他のブルゴーニュ料理を食べたりした。ブルゴーニュ地方の牧場で見る牛はすべて白で、これが有名な肉牛、シャロレー(Charolai)牛だったのだろうか。(あとでスイスで見た牛はすべて黒色で、大きい。)

ディジョンでレンタカーを借りての初日は土曜日で、まずフラヴィニ(Flavigny)という古き良き町(村)を訪ね、、その日に泊まることになったスミュール・アン・オソワ(Semur-en-Auxois)という城塞都市の観光案内所でモンフォール(Montfort)村の古城(Chateau Montfort)で「聖ヨハネの火」(le Feu de Saint Jean)という行事が行われるという広告を見たので行ってみると、大きな城壁跡の公園に近在の人々が大勢集まり、バンドがフランス古謡風の歌を歌い、夕日がが落ちて夕闇がせまるころ、22:50に城壁の上で火を一斉にたき、ドライアイスだったかこの煙が真っ赤になる演出をして、それが終ると前面に積んだ薪に火をつけ、まるで日本の田舎のドンド焼きのような行事だった。先住民のケルト族の夏至の祭りが現代に生きているのだろうか、興味深々であった。

ブルゴーニュ地方は中世にそれまでのベネディクト派修道会に対してクリューニ修道院(Abbaye de Cluny)、続いてシトー修道院(Citeau)が改革運動をやった土地柄のせいで、そうしたロマネスク風の教会や古いローマ時代の教会(églises romanes)も多く、まずディジョン近くでフォントネ修道会(Abbaye de Fontenay、シトー派)あとを見て(小高い山の中のきれいな小川の水が豊富なところ)、その他いろいろな教会あるいは修道院あとを訪ねたりした。中性に巡礼の対象になったヴェズレー(Vézelay)の聖マドレーヌ・バジリカ聖堂(Basilique Sainte Madeleine)では日曜日のミサにも出席できて、パンとぶどう酒をいただいたが、何と、さすがは赤ワインも白ワインもおいしいブルゴーニュ地方で、ミサのワインは白ワインでした!(パンはキリストの体、ワインはキリストの血を象徴いるので、通常世界中で赤ワインを使う。) この日は夕方オタン(Autun)という、ローマ帝国のアウグスト帝が築いたころはローマと並んで勢いがあったという町(本当だろうか?)でも、聖ラザール大聖堂(Cathédrale de Saint Lazare)の夕方のミサに出席できて、ここは完全に歌ミサで、合唱隊も、パイプオルガンも、聖堂もマニフィーク!(Magnifique!)、すばらしかった。ヴェズレーからオタンへ行くにはモルヴァン山地を通り、ここは地域自然公園(Parc naturel régional du Morvan)になっていて、120kmにわたる自然遊歩道などもできている地域で、ローマの軍団と戦ったケルト民族の英雄ヴェルサンジェトリックス(Vercingétorix)の伝説もあるらしい。

クリューニ修道会の少し北に テゼ共同体 Taizé Communityがあり、私は特にそこの聖歌(賛美歌)が好きで、また日本人友人も訪れているので、そこへ寄った。第2次大戦中にのちに初代指導者になった、スイスの改革派のブラザー・ロジェ(Brother Roger)がユダヤ人などをかくまったことで始まり、のちには世界のプロテスタント/カトリックあらゆる宗派のクリスチャンが自分自身を発見するためのリトリートに集まるところになり、また毎年ヨーロッパの1つの都市を決めて1週間の集会をやっていることでも知られていて、この日はドイツから1年間ご奉仕に来ているファレナVarenaさんが案内してくれた。ブラザー・ロジェはインドのマザー・テレサ(Mother Teresa)とも親しく、共著の本なども出しているが、最近亡くなっており、近くの村の教会にお墓があった。

そこからオートルート(Autoroute、有料高速道路)を飛ばして、フランス第2の都市、リヨン(Lyon, 里昴)に2時間滞在した。むかしは絹織物が盛んだった町だそうで、北からのソーヌ川(Saône)が東のアルプスからのローヌ川(Rh?ne)へ合流してそこからアヴィニョン(Avignon, 亜維濃)・マルセーユ(Marseille, 馬賽)へ下る水の町で、日本の大阪みたいなところなのでしょうか、でも滞在が短かったのと、駐車場さがしで手間取り、サンテクジュペリ(Antoine de Saint-Exupéry)の銅像も見そこない、リヨンはよく見ていない。

3)フランス・アルプス(The French Alps, 法国阿尓卑斯山脈)

次にまたオートルートを飛ばして、美しい湖のほとりのアヌシー(Annecy, 安納西)に寄って(市内で道に迷い、大雨に降られたりした)、今度はクネクネとした国道を登って、フランス・アルプス登山の中心地、シャモニ(Chamonix, 夏木尼)へ着いた。途中 「シュトラスブール(Strasbourg)までxx km、ジュネーブ(Genève)までyy km、ミラノ(Milan)まで445 km」 などの案内標識を見て感激することしきりで、いよいよフランス・アルプス登山のメッカ、シャモニに着いた。(シャモニの手前で右へ、モンブラン・トンネルを抜けると、イタリアに出れる。)注:今回旅行ガイド「地球を歩く、フランス」(ダイヤモンド社)最新版をよく使い便利だったが、シャモニの山岳鳥瞰図だけは、上がほぼ南で(通常は北)、左下のスイス方面へ徐々に下がっている(実際は徐々に上がってゆく)ような常識はずれの構図で、おかげで私は自分の位置がよく分かるのに2日ほどかかり、これは早急に直す必要があると思った。

シャモニには3泊して、天候が全体に不順だったが、3日有効のケーブルカー/登山鉄道用マルチパスでシニア割引をがあるのを見つけて52.80ユーロで買って、1日目はモンタンヴェール(Montenvers、高度1910m)の氷河を登山電車で見に行き、そこから2時間ハイキングをしながら、シャモニまで下った。2日目は午後から晴れ間が出るという天気予報だったので、ケーブルカーでエギュイーユ・デュ・ミディ(L'Aiguille du midi、昼の針)展望台(高度3842m)まで行ってシャモニ名物のモンブラン(Mont Blanc, 4810m, 勃朗峰)を見ようとしたが、雲が出て全然だめで、いそいで下山して、向かいのブレバン(Brévent, 2525)までケーブルカーで行き、中腹のプランプラズ(Planpraz, 1999m)まで戻って、ラ・フレジェール(La Flegère, 1877m)まで2時間40分歩いて、連日のハイキング.で疲労困憊したが、この町の観光案内所で無線LANが自由に使えることが分かり、夕方また元気で街へ出た。

3日目にやっと天候が回復して雲ひとつない快晴になり、またエギュイーユ・デュ・ミディ展望台までケーブルカーで行ったら、モンブブランがバッチリも見えて、またまわり360度は雪をいただいたフランス・アルプスの世界。この日は本当に見通しがよく、遠くのマッターホルン(ドイツ語名Matterhorn, 4478m, 馬特霍恩山、案内板にはそのイタリア語名から来たらしいフランス語名Le Cervinと書いてあるでなかなか気づかない)やモンテ・ローザ(Monte Rosa)連山までがよく見えて、めずらしいことだという。そこからプラン・ドゥ・レギーユ(高度2310m)へ降りて、前々日に行ったモンタンベールまでのハイキングを4時間、きつかったけど楽しんだ。途中でナント(Nante)から来た大学の先生(地質学専攻)ご夫婦と一緒になり、フランス語で植物の名前を教えてもらったりした。

このあたりのローヌ・アルプ県(Rhône-Alpes)は、ナポレオン3世の時代にフランスにイタリアから併合された、通常サヴォア(Savoie)地方と呼ばれる所で、冬季オリンピックが開かれたグルノーブル(Grenoble)やアルベールヴィル(Albertville)もあるので、長野冬季オリンピックの時にこのあたりは長野県と姉妹県になっていると聞いていたので、大変親近感があった。夕食は3回とも、地元ワインとサヴォア料理のペラ(Pêla、土地のソーセージなどのグラタン)、ラクレット(Raclette、3角形の大きなチーズの塊の1辺を徐々にコンロで溶かし、それを少しずつ削って生ハムなどに付けて食べる)など、チーズをふんだんに使った田舎料理を楽しんだ。

4)スイス・アルプス(The Swiss Alps, 瑞士阿尓卑斯山脈)

シャモニからクネクネとした国道で、マニュアル車を急カーブは曲がる前にを3段ギアから2段ギアに落としてアクセルを踏みながら走るなど慣れない運転を続け、途中エギーユ・ルージュ(赤い峰)自然保護区(Réservé naturelle des Aiguilles rouges)を通り、国境では国籍を聞かれただけで、するりとスイスへ抜けて、まずマルティニ(Martigny)という街でオートルートに入り(ここからグラン・サン・ベルナールCol du Grand Saint Bernard峠の下のトンネルを通るとイタリア)、高速道路はタダなのでいい気で時速130kmでタコメーターを4000回転に上げて飛ばして、ツェルマット(Zermatt, 策馬特)のある谷(マッターホルンなどが眼前に見える)のもう1つ手前のアニヴィエの谷(Val d'Anniviers)にSierreから入り、グリメンツ(Grimentz)に着き、そこに3泊した。近年花を街中に飾って有名になった小村で、翌日から近くのお花畑のある小道を散歩したり(St-Luc村)、悪天候のつかぬ間の晴れ間にダン・ブランシュ(Dent Blanche白い歯、ドイツ語名Weisshorn)と呼ばれる山のモアリ氷河(Glacier de Moiry)までハイキングして、朝スーパーで買ったサンドイッチの昼食をほばりながら、ワイフとふたりで、眼前の氷河を独り占めにした。

あとで地図を見て調べたら、ここらあたりはフランス・スイス・イタリア国境の、イタリア語でペンニネ・アルプス(Pennine Alpi)といわれるところで、モンブラン〜ヴァイスホルン〜マッターホルン〜モンテローザへ続く山脈だと分かった。スイスの牧場で見る牛は首に大きな鈴を付けていて、すべて黒色で、大きかった。

グリメンツのホテルのレストランで、土曜日にスイス伝統音楽のバンドが入って、小さなアコーディオン3人、ベース1人の合計4人構成で、あとで聞いたらフランス語は話さず、ドイツ語を話す人たちだった。(ドイツ南部の有名な民謡“Drunten im Oberland, Da ist sehr gut!”を知っているか聞いたが、知らないといっていたので、ドイツとはあまり交流がないらしい。)隣りのテーブルに3組の初老の夫婦が来ていて、みなこのバンドの音楽に合わせてかわるがわるに踊りだしたて、そのうちの女性1人がグリメンツの出身で、ジュネーブからウィークエンドに来ているとのこと。「これはマズルカだ」などといっていたので、年齢的には同世代だと思うが、ジルバーやマンボ以降の我々には歯が立たなかった。

このレストランのウェイターがフランス西部から来た気のいい若者で、少し話したら、スイス・フランス語はフランスのフランス語と少し違い、70はseptante、80はhuitante、90はnonanteと簡単ないい方で(フランスでは、以前のケルト民族の習慣の名残りと聞いているが、それぞれ60+10、4x20、4x20+10と複雑な言い方をする)、また、スイス人はフランス人に比べてなかなか外国人と打ち解けない、オープンでない、といっていた。多分なかなか土地のガールフレンドができないという意味でしょう。

5)レマン湖畔で(On Lake Leman, 在莱蒙湖)

旅行最後の日は、帰りの飛行機に乗るためにスイスのジュネーブへ向かい、モントルー(Montreux)でレマン湖(Lac Léman)が見え初め、これに沿って進み、レマン湖に面したきれいなニオン(Nyon, 尼永)という、ローマ時代に建設された町に寄って古城やローマ時代の遺跡を見た。(大連に帰ってから同僚のスイス人がニオン出身と分かり、先週はモントルー音楽祭の最中で、今週末にニオン音楽祭もあるので帰郷するといっていた。)そろそろ車の運転に飽きてきて、レンタカーを早目に返すことにしたが、ジュネーブ空港は半分スイス・半分フランス領にあり、そのフランス領で返さねば料金が高くなるので、まず一旦空港のレンタカー返却所(スイス側)へ寄って聞いて、そこを出てローザンヌ(Lausannne)方面へ戻り、フェルネイFerneyへの道路標識に従って行き、フランス国境を越えたところのスタンドでガソリンタンクを満タンにして、そこですぐ左へ曲がるなど、苦労してやっと返却場所を探し当てた。走行距離は合計140kmで、10日間借りたから、1日平均140km走ったことになる。

空港で3時間ほど時間があったので、ジュネーブ(Genève, 日内瓦)の町を見ようと思い、また空港のスイス側へ行き、スイス連邦鉄道SBB CFF FFS(CFF = Chemins de Fer Fédéraux Suisses)で急いでコルナヴァン駅(Gare de Cornavin)に行き、そこから歩いて、ローヌ川の橋を渡って、レマン湖畔の有名な花時計を見て、旧市街のサン・ピエール聖堂(Cathédrale Saint-Pierre)などを見た。この聖堂は、スコットランド出身のジョン・ノックス(John Knox)もジュネーブの英語会衆の担当牧師だった、プロテスタント改革派の総本山の1つ。駅への帰りの路面電車で若い男に料金の支払い方法を聞いたら(停留所の機械で買う自己申告制)、イタリア語地区出身の弁護士さんで、スイスの多国籍企業のコンサルティングはほぼ英語でやる、ガールフレンドと一緒に住んでいるが結婚はしていないなど、いろいろ英語でお話しができて面白かった。

またすぐ急いで電車でジュネーブ飛行場へ戻り、空港駅(空港のスイス側)の端にあるミグロス(Migros)というスーパーでチーズ・チョコレート・お酒などあらゆる買い物を安くできて、また空港のフランス側へ戻り、エール・フランス国内便20:30出発でパリへ行き、パリからの国際便は22:30出発で、梅雨真っ只中の東京・成田へは翌日18:00に着いた。日本、続いて2日後に中国・大連へ帰って、1週間は時差ぼけで午後1〜3時ごろ眠くて困った。フランスのドライブとハイキングはなななか面白かったので、また学生時代に習ったフランス語がうまく通じることが分かり、来年あたりフランスのトゥレーヌ(Toureine)地方(ロワール川La Loire沿いの「フランスの庭Jardin de France」)〜ボルドー地方(Bordeau)〜ピレネー山脈〜スペインのバスク地方などへ行ってみたい。 (2007.07.11.)  

フランス西南部 2008

9月末から10日間、フランス西南部へ旅行する機会があり、もっとも最近フランス化されたカタール地方、もっとも最近スペインからフランスへ併合したカタロン地方、トゥールーズのエアバス製造地を見て、ピレネー山脈の山にも登ってきた。まず、第1日目は、成田12:00発のエール・フランスで、パリに17:30に着き、すぐ18:30発の飛行機で飛んで、19:50にトッールーズに着いて、すぐEuropcarを借りて、その晩は空港近くのホテルに泊まった。2日目は、朝MoissacのEglise abbatiale Saimt-Pierreの回廊(Cloitre)を見て、Cahorの町でサンドイッチを食べて、午後は崖の上の町Lapopieに寄り、夕方Figeacの町の郊外のLe BourgにあるMas de la FeuilleというCharleとSugakoが経営する田舎屋に(牛小屋を改造したらしい)、その日から3日間泊まった。3日目は、朝少し遅く出発して、Montigniacでラスコー洞窟(Lascaux II)の入場券を手に入れて、そこで昼食を食べ、町もチョット見て、14:30から郊外のラスコー洞窟英語ツアーに参加して、壁画を見た。帰りは18:00にRocamadourという岩の上に張り付いたような町に寄り、19:30に田舎屋に帰った。第4日目は、午前中にCereという町のそばの山の上にあるJean Lurcaの美術館を見て、断崖の下のAutoireという田舎町で昼食をして、そこから河をさかのぼり滝を見て、Loubressacという村でSt Jean-Baptisteを見て、早目に田舎屋へ帰り、近くの泉へ水汲みにいった。

5日目は、いよいよConquesという山間のサン・ジャックへの巡礼路に当たる教会へ寄り、そこでランチを食べ、午後St. Leonsにある昆虫学者ジャン・アンリ・ファーブルの生家へ寄った。彼は日本では子供の物語にもなっているが、フランスでは昆虫学者とだけ知られていて、子供向けの本は出ていない。また、ファーブルの子供時代はこのあたりはラングドック語(Langue d'Oc)という言葉が使われていて、彼の父はフランス語もできたので、法的な手続きなどの簡単な翻訳の仕事で生計を立てていたというし、ファーブル自身も沢山のラングドック語の詩も書いている。そこから、ミヨー橋(Viaduc de Millau)と呼ばれる、高速道路の大橋(高さ343m)を見て、超えて、この晩はこれはまた田舎のAuberge Val Mourezeに泊まった。6日目は、日曜日にあたり、10;00にSt Gilhelm le Desertへ着き、11:00からそこでミサに参加、聖書は旧約のエゼキエル、新訳の手紙はフィリピ、福音書はマタイ。午後、カルカッソンヌ(Carcasonne)でHotel Pont Neufに泊まる。夜、古城めぐり、Pont Vieuxからも見る。

7日目は、スーパーGeantで買い物、電源アダプターとのこぎりを買う。Limoux-Quillan-Axat、Gorges de St. Georges、Rockfortを経て、道端で昼食、Col de Jau峠(1506m)を経て、CastelのホテルLe Molliereへ到着。夕方L'Abaye Saint-Martin du Canigouへ登り、ツアー(5ユーロ)に参加して、下山。夕食はVernet-Les-BainsのLe Colibri Bar-Brasserie-Pubで食べたが、まずかった。8日目は、8:20にピックアップしてもらい、8:40から25?でピレネー山脈のカニグー山(Pic du Canigou、2785m)へのツアーで、オープン四駆(ポルトガル製のumm)で出発し、10:15にシャレー(Chalet des cortatets、2200m)へ到着し、10:30にここから登山開始し、12:10最後の登り手前、13:000登頂&昼食。13:30に下山開始し、13:50にコルへ、14:50にChaletへ戻り、15:20には四駆で下山し、17:00にはホテルでビール。夕食。9日目は、9:20に出発、9:20にAbaye de Cuixaへ、12:00にMont-Louis(Vaubanが作った旅行地の一つ)で買い物をして、外で昼食。 15:30にCol de Paiheres峠(2001m) へ、18:00にトゥールーズの南郊外のAuteriveにあるLa Maison Pierretteで宿泊。10日目は、9:30に出発、10:45にトゥールーズ市内のPont St. Pierreの脇のガロンヌ川沿いに駐車して、トゥールーズ大学I(UT1: 社会科学)を通ってキャピトル広場で旧市庁舎(Mairie)、サン・セルナン聖堂(Basilique de St. Sernin)、13:00に昼食後、15:15にシテ・ド・レスパス宇宙技術テーマパーク(Cite de l'Espace)へ寄って、さらにスーパーChampionにも寄り、17:30にエアバス(Airbus)の製造工場へ。18:15 Europcarへ車を返却して(合計1516km/9日=毎日170km)、エール・フランス20:45発で、パリ到着。 23:30にパリ発、B777-300 (325 seats)で、ウラル山脈の中程、ブラーツク・アンガラ川、バイカル湖の上を通り、翌日東京へ到着。(2008.10.03)

ロシア 2009

私は学生時代にロシア語も勉強して、留学しようかなと思っていたが、結局社会人になってからアメリカへ留学して、ずっとアメリカとコンピューター関係の仕事をしてきたので、ロシアへ行く機会がなく、ロシアがなぞの国だった。今回初めてひとりでロシアへいってきた。全体で14日間で、おもにサンクトペテルブルグ(SP)にいて、モスクワへも3日間行き、旅程は次のようなものだった。
  1. 大連〜北京〜サンクトペテルブルグ
  2. ネフスキー通り、聖堂の騎士、音楽会
  3. ロシア語授業、ペテロパヴロフスク要塞
  4. 郊外のツァールスコエ・セロー
  5. 小博物館3つ
  6. エルミタージュ博物館
  7. 怠惰な土曜日
  1. ノヴゴロドへ日帰り旅行
  2. 郊外のペテルゴーフ、夜行でモスクワへ
  3. 赤の広場、クレムリン、雀の丘
  4. セルギーエフ・ポーエズドへ日帰り旅行
  5. トレチャコフ美術館、汽車でSPへ帰る
  6. 仕事がらみの訪問2つ
  7. 市内で買い物、バレー「白鳥の湖」
  8. 日曜礼拝、SP〜北京〜大連
泊まったのは日本人友人の友人の紹介でロシア人家庭で、モスクワもそこの友人宅へ止めてもらった。これでロシアのなぞもだいぶ解けた気がする。いつか、コーカサス山脈、バイカル湖方などへも行ってみたい。(2009.07.06.)

アジア太平洋

ニュージーランドでハイキング、南天の星空、イルカと遊ぶ(2008)

中国の旧正月は家族の集まりなので、中国に家族のない私は2週間の休暇を取って日本へ帰り、そこから連れ合いとニュージーランド10日のきままな旅行にいってきた。2年前にオーストラリアのタスマニア島へいって、よかったので、似たような地域を選んだ。山でハイキング、夜は南天の星空を見て、あとは海でイルカと遊んできた。NZの緯度は北半球でいうとロシアのサハリン島くらいかなと思ったが、日本の東京から北海道の緯度くらいで、南極海流の影響か、山地をおもにめぐったせいか、気候は夏でも比較的寒かった。地殻的には、ニュージーランドはオーストラリ・プレートに東から太平洋プレートがぶつかってできた島で、地震も適当にあり、日本より小さな島国に400万人しか住んでいない。第2の都会、クライストチャーチの朝のラッシュアワーにも、車はスイスイ流れていた。


写真は左から、ロブ・ロイ氷河、最高峰・アオラキ山、母羊のお乳をねだる子羊

第1日目はまず、夕方東京からAir New Zealandで出発し、第2日目の朝、NZ北島にある首都オークランドへ着いてた。ここはあまり面白くないと聞いていたので、スキップ。すぐ南島のほぼ南端、クイーンズランドへ飛んで、そこでレンタカーを借りて、まずWanakaという町に行き、泊まった。ここはLake Wanakaのほとりで、湖の向こう側の山に氷河が見える、以前カナダのロッキー山脈で見たLake Louiseと同じような風景。夜ホテルで、窓の外の夜空にオリオン座が見えたので、外へ出て、持ち合わせの簡単な星座版を参照して、南天の星空を楽しんだ。北の空にオリオン座が逆さに見えて、その右(東)に大犬座のシリウス(全天で最も明るい星)があり、そのあたりから南の地平線まで天の川が流れていて、頭上にりゅうこつ座のカノープス(全天で2番目に明るい星)がある。カノープスは中国では南の地平線上にかすかに見えて、赤い色に見えるせいだと思う、「老人寿星」あるいは「南極老人星」と呼ばれて、幸運をもたらす星。私は以前から「カノープス」(Canopus)をハンドル・ネームに使っているので、親しみがある。また、天の川にかかる南十字星(座)が簡単に見つけられる。天の川の南極と反対側に、エリダヌス座のアケルナル(Achernar)があり、多少曇りだったので、大マジェラン星雲・小マジェラン星雲は、見えたような気もするし、見えなかったかも。(ずっと以前オーストラリアのシドニーへ1度出張したことがあり、また2年前にタスマニア島へいったが、どうした訳か、これまで南天の星空を見る機会にめぐまれなかった。)

第3日目は、ここで山へハイキングして、Rob Roy Glacierという氷河を見にいった。途中牧場を通り、まあ、どこでも羊をみながらのハイキング。第4日目は近くの山へ登り、そこから4時間ほどドライブして、南島の南アルプス山脈の最高峰、マオリ語でアオラキAoraki山、英語名でMount Cook)のふもとの、Aoraki Alpine VillageでThe Hermitageホテルに泊まった。この山は富士山より少し低いが、夏でも雪が残っていて、登山は特殊な器具と経験が要り、夏は誰でも上れる富士山とは大分違う。第4日目は私らは、周りを散歩して、写真を撮ったりした。、今回Aoraki Alpine Villageのホテルにプラネタリウムがあり(投影機は日本製ではなくて、アメリカのSkyScan社製)、そこで夜10時から$20で「アオラキの夜空」と「ブラック・ホール」を見て、南十字星座のすぐ下のケンタウルス座のαとβを結んで、その中間から垂直に直線引き、南十字座の2つの星(αとγ)を結ぶ線の延長線と交わったところが南極であることを、学んだ。

第5日、天候には小雨が降る日で、近くを散歩して、午後はさらに移動して、Tecapoといって、Lake Tecapoのほとりに2泊した。Lake Tecapoの周りの山、Mount Johnをハイキングして、これまた写真を撮ったりして、ここには1936年に立てられた石造りの教会、Church of the Good Shepherd(Anglican Church)があり、日曜の夕方礼拝に出たが、祭壇のところが窓になっていて、向こう側に湖が見えるすばらしいところ。第7日には、NZ第2の都会、クライストチャーチへ行き、街中で昼食、ぶらぶら歩いてIBMビルを見つけ(私とNZの関係は唯一、1980年代IBM JXの時代にクライストチャーチのIBMの女性にボランティア精神でパーツを届けた)、おおきな教会も見て、The Chateau on the Parkというホテルに泊まった。第8日は、国道1号線をさらに北へ向かい(ワイナリー地帯があり、また峠の途中で往復2車線の道路が橋のところで急に往復1車線になった!)、カイコウラ(Kaikoura)という海岸に行き、太平洋にいるイルカと遊んだ。Kaikouraには、前に述べた太平洋プレートに大きな海溝があり、これが陸にぶつかるところなので、海溝に沿ってイルカや鯨がエサを求めてきて、海溝が急に陸にぶつかるので、ここらあたりに浮かび上がってくるらしい。NZに滞在中、丁度NZテレビで、日本の和歌山県太市町の湾にイルカを追い込んで殺す場面を、自然愛好家が撮影して、こうした殺戮は許せないと主張していた。欧米人はギリシャの叙事詩「オデッセイ」の中で、海をさまようオデッセイがイルカに助けられて、陸に運ばれるエピソードのせいか、イルカは大好きだ。私の会社の欧米人も、イルカは利口だ、それを殺すなんて...ということで、議論は噛み合わない。ここではThe Old Conventという以前2人のシスターが学校を開いていたところに泊まり、夜は珍しく晴天になり、牧場の中のホテルだったせいもあり、もうこぼれるような星空を、1時間ほど楽しんだ。天の川の南極と反対側に、エリダヌス座のアケルナル(Achernar)があり、大マジェラン星雲、小マジェラン星雲もよく見えた。私は高校時代からの夢がかなって、大変満足!(「石炭袋」(Coal Sack)と呼ばれる銀河の割れ目は、見れなかった。)

第9日には、クライストチャーチへ山側の「Inland Scenic Route」と呼ばれる道路で移動して、クライストチャーチの少し北で1号線に入り、Waiparaでワイナリー2つ(The Mud HouseとPegasus Bay)に寄り、テイスティングをして、クライストチャーチの飛行場でレンタカーを返して、オークランドへ飛行機で飛び、飛行場のそばのThe Grand Chancellor Airportに泊まり、翌日(第10日目に)日本へ帰った。ちなみに、レンタカーはHertzでFord Focusを借り(宣伝ではToyota Corollaと書いてあった)、全体の走行距離は1,250kmだった。NZでは車は左の世界だが、長らく中国で暮らしたので、2回ほど少し右側を走行した。ただし、車専用高速道路もない国で、道路は大体往復2車線だが、橋のところで1車線になったり、小さな川や水たまりに「Ford !」(歩いて渡れる水溜り)と書いてあり、ジャブジャブと渡るという、おおらかな世界なので、心配はいらない。

NZの食べ物はイギリスの植民地だったので、たいしたものはなかった。その代わりワインがよくて、毎晩魚や牛肉や羊肉を食べて、2人でワインを1瓶空けた。出発の日が灰の水曜日で、断食の四旬節に入っていたが、神様かろお目こぼしを願った。NZいうと、南島の西岸にMilford Soundというところがあり、ハイキングファンには有名なところがあり、大きなフィヨルドの周りの山へ登るのだが、今度の旅行のプランを立ててくれた連れ合いが適当なホテルの予約ができなかったそうで、残念ながら行けなかった。また、大連へ来てニュージーランド生まれの友人が、山登りが好きで、いまはオーストラリアのケアンズあたりに家があるが、NZはマオリ原住民とその後の白人を中心とする移民との人種争いがあり、将来はない、というようなことをいっていた。南島ではマオリ人はほとんどみかけなかったが、オークランドの飛行場のホテルに泊まったら、マオリ族の人々が多く働いていて、旅行者にはこうした争いは分からなかった。

また、中国の方々は結構NZへ留学にいっていて、私の同僚のひとりもオークランドの大学院で学んできた。彼はオークランドのスカイタワーの近くに住んでいたので、いったら写真を撮ってきてといわれたが、いかんせん、オークランドの町には行かなかった。もう1人の同僚は、お兄さんが留学後16年間も働いていたそうで、NZは国同士は知らないが、中国人には個人的に密接な関係にある。NZは自然が美しいところだが、文化と歴史がない。私も文明人のはしくれなので、やはり文化と歴史を学びながら旅をするのができないのは、さびしい。トレッキングで有名なMilford Soundに行けなかったのも多少残念で、首都オークランドも寄ってみればよかったと、いまは反省している。(2008.02.15.)

オーストラリアのタスマニア島で自然探索の旅(2006)

中国大連に滞在中に、日本のお正月休みを少し延長して、オーストラリア大陸の南東に浮かぶタスマニア島へ連れ合いと行ってきました。東京成田からメルボルンへ飛び、そこからタスマニアのホバートへ飛び、そこからレンタカーで1週間島中を回り、海岸で散歩したり、海がきれいに見える山に登ったり、最高峰(Cradle Mountain)へ登ったりして、タスマニア島の主に自然を満喫しました。(全体の計画と、飛行機・ホテル・レンタカーなどの予約はワイフがインターネットでやってくれました。タスマニアは北海道より少し小さく、オーストラリアは全体的に感想しているが、唯一十分な雨が降り、すばらしい山と湖と森林があり、シドニーが東京、メルボルンが仙台に相当すると思うと理解しやすい。)

旅行の詳細を以下に書くと第1日に17:33にQuantas 180で東京成田を出発、第2日の08:40にメルボルンへ到着、入国審査で長い列に並び(審査官が9時に出勤するため、徐々に審査官が増えるのを観察し、もう2度とオーストラリアには来ないぞと思った)、Jetstar Airways 12:40に乗り、13:50にタスマニア島南部にある最大都市、ホバート(Hobart)の空港へ到着。すぐBudgetレンタカーで市内のホテル(Hotel Grand Chancellor、目の前がHobartの港)へ行き、近くのビジターセンター(Visitor Center)へ行き、ワイフは翌日のツアーに申し込み、終ってさらに近くのサラマンカ通り(Salamanka St.)の青空市場に行ったがほぼ終っていたので、レンタカーで町を見下ろすウェリントン山(Mt. Wellington)に登り、快晴の日でもあり、しばし絵のようなホバートの町の眺めを楽しんて、夕食はホテル前のタスマニア港のビクトリア・ドック(Victoria Dock)というよっとハーバー脇の寿司屋「折り鶴」で。3日目は日曜日なので、私はホバートのすぐ南のKingstonという町の聖公会教会(St. Clement's Anglican Church)へ前日飛行機で隣りに座っていた人(Nik)に案内してもらい行き、9:30の礼拝に出て、終って彼の新しい教会にも行き、それからその教会のリーダー(Gary)の家でのランチパーティーに参加し、中国の教会の話もしてあげて、日本語を勉強している学生に持参の日英2か国語聖書を贈り、午後ホテルに帰ってワイフと合流し、夕方は電話帳で見つけたサラマンカ通りのギリシャ料理店(Mezethes)で夕食(オーストラリアには英国人以外にイタリア・ギリシャからも多くの人が移住し、イタリア料理・ギリシャ料理が本場並みにおいしい)、そのあと街中の聖公会大聖堂(St. David's Cathedral)に行き、内部の石壁が当時の囚人により手斧で削って建設された模様も見た。4日目は島の東海岸へ移動し、途中リッチモンド牢獄(Richmond Gaol (Jail))というタスマニア島初めての囚人牢獄(1825年)を見て、Triabunna、Bolton Beachなどに寄って、スワンシー(Swansea)のホテル(Freycinet Waters)に到着し、眼前の海の対岸にフレシネ(Freicinet)半島が見えるのを確認。近くのNine Mile Beachを見にいって、夕食はオーストラリア・ワインでステーキを食べた。

5日目は、フレシネ国立公園(Freycinet National Park)に行き、お店でランチを買って、タスマニア島自然探索のハイライトの1つ、ワイングラス・ベイ見晴台(Wineglass Bay Lookout)に登り(すばらしい景色のワイングラス・ベイ Wineglass Bayが見下ろせる)、ワイングラス・ベイに下り、そこでランチを食べ、ハイキング(オーストラリアではブッシュ・ウォーキング Bush Walking と呼ぶ)を続け、海岸を歩いた。そこを出て、東海岸をさらに北上、ビチェノ(Bicheno)のホテル(Diamond Island)へ。夕食にまたステーキを食べて、このホテルは敷地内の海岸で、夕方暗くなって(21:00ごろから)小さなペンギンが海から上がり、海岸の穴の巣に来るのを観察(ツアー料金1人$16)。6日目は前日深夜に大雨が降り、その続きで小雨になり、タスマニアの北部にある第2の町、 ローンセストン(Lawnceston)ヘ寄り、街中でランチを食べて、さらに東にあるスコッツデール(Scottsdale)を通り、NabowlaにあるBridgestowe Estate Lavender Farmにラベンダーの花を見にいって(小雨でいい写真が撮れなかった)、またローンセストンに戻り、そこのColesというスーパーで翌日以降の自炊用の材料を買い込んで、いよいよタスマニア島自然探索の旅の最大ハイライト、クレードル・マウンテン(Cradle Mountain)国立公園へ向かい、夕方国立公園の入り口のすぐ外にある山荘(Cradle Mountain Wilderness Village)へ到着。夕食は自炊で、食事後ダヴ湖(Dove Lake)へ動物を見に行ったが、不発。

6日目は朝うす曇り、のち快晴、ビジターセンターへ寄っていい登山道を聞き、Ronny Brookで駐車、夢のようなクレーター湖(Crater Lake、標高1035m)へ登り、さらにMarions Lookout(1223m)を経て、高原の湿地帯を歩き、Kitchen Hutという所でしばし休んでからクレードル・マウンテン登山を開始(11:30)、眼前の山を右回りで登り、途中から岩を這いつくばる登山になり、岩が切り立っている所で昼食(12:45)、ワイフはそこに残り、私は頑張って頂上(1545m)に達し(14:00)、しばし休んでから下山開始、Kitchen Hutの手前でワイフと合流し、急に風邪が出て空があやしくなったので、Little Horn(クレードル・マウンテンに向かって1番左の峰)のふもとで通常北へ尾根伝いに行くのを止め、東へLake Wilksへ下りて、さらにダヴ湖の南端へ下りて(16:20)、湖の西側を北へ向かい、小雨の中をやっとダヴ湖の北端の駐車場に達し(17:20)、バスでRonny Brookの駐車場へ行き、そこから山荘へ帰った(18:10)。少し無理な行程でした。夕食後、私はVisitor CenterでMacquarie Island(オーストラリアの南極海の島で、気象観測所がある)の自然に関する写真のプレゼンテーションがあったので、参加した。第7日目は朝は曇り、のち夜まで快晴、前日の反省でゆっくりとブシュ・ウォーキングをすることにして、Ronny Brookで駐車したあと、Wombat Peakへゆっくりと登り、途中私らより5歳くらい上のご夫婦が山と渓谷社の「世界の登山50選」の本を見てスイス・ニュージーランドの山などを登った話などをしてくれて、分かれて私らはCradle Lakeへ下りて、またダヴ湖へ出て、クレードル山の景色を十分楽しんで、午後早くホテルへ戻った。少し休んでから、ビジターセンター近くのEnchanted Walkという小川沿いの散歩をして(Echidnaという大きなねずみを見た)、そのあとKing Billy Trackという小山の散歩もして(途中、King Billy Pineという巨大な松の木の林を見た)、ワラビーが出てきたので写真を撮ったりして、夕食後またEnchanted Walkに行ったが、動物は出て来ずに、空振り。

8日目には、まずビジターセンターへ寄り、ホバートへ行くのに西回りは地図上では近いが、道路が歪曲しているので時間がかかることを確かめ、東回りのローンセストン経由で行くことにして、ローンセストンの手前でホバートへ行く公路に入り、途中ロス・ビレッジ(Ross Village)で Ross Village Bakeryで昼食を食べて、この典型的な農村のダウンタウンを見学して、買い物もして(私はオーストラリアの松の木の石鹸を買った)、午後2時ころホバートに戻り、1週間前にサラマンカ通りの青空市場を十分見れなかったので、ゆっくりと見て、買い物もして(私はグリーンパーティーのブースで、Blue Hills HoneyというLeatherwoodの蜂蜜を買った)、ホバート空港でレンタカーを返して(街でガソリンを入れず大失敗、走行距離は全部で1,343km乗った)、Jetstar Airline 16:55発の飛行機に乗り、メルボルンで19:00発の飛行機に乗り(空港でオーストラリア歌集CDを買った)、シドニーでQuantas 21(22:15発)に乗り(この便で私の席の天井から水が降ってきてズボンが水浸しになったので文句をいったら、湿度が高く水分が凝結して露になってが降ってきただけで日常のことと、あやまりもしないので、飛行機のメンテナンスが悪いと再度文句をいったらSteven SorokaというCustomer Relations Managerが名刺を持ってあやまりに来て、Chapel Hillの高級レッドワインとDuty Free Spree券$50をくれて、さすが客扱いがうまい)、翌朝第9日目に東京成田へ到着して、全8日半に及ぶ夏のタスマニアの旅を終えた。オーストラリアの夏は2月末が一番暑いそうで、1月始めこの時期のタスマニアは山へ行ったせいもあり、すこし寒かったが、すばらしい自然でした。(2006.01.15.)

香港・シンガポール経由でオーストラリア出張 (1991)

勤めていた会社の社内オフィスシステム担当者のアジア太平洋地区の会議があり、会の前に香港とシンガポールでそれぞれ一泊して遊んでから、シドニーへ行きました。香港ではケーブルカーに乗ったり、プラネタリウムを見たりして、シンガポールでは屋台料理へ寄り、プラネタリウムも見て、セントサ島でシンガポールの歴史館を見たりしました。この歴史館には第2次大戦中の日本軍の歴史場面があり、私はこういうのは始めて見るので、非常に印象的でした。シドニーでは会議が主でしたが、コアラのいる公園へ行ったのと、夜ホテルのプールで南十字星を眺めたりしたのを覚えています。

インドネシアのバリ島(1991)

マレーシアのチェラティン・ビーチ 1993

韓国・ソウルへ超短期旅行 2009

最近大連の日本人の間で、日本へ行くのに韓国経由がはやっている。ソウルはインチョン(仁川)空港に着いて、スケジュールによってはソウルで一泊して、キンポ(金浦)空港へ移動して日本の羽田空港へ行くので少しめんどうなのだけど、JALやANAのバカ高い料金に比べて、とにかく安く、通常6千元するところを、4千元で済む。私は今回下の娘がマイレージを使っていいよということで、無料の往復だったが、私も帰りにソウルへ寄る気になり、2泊することにした。中国・大連滞在のこの8年間、そうしなかったのが不思議なくらいだ。

A.羽田空港の海外便 朝、家からガラガラと荷物を7分ほど引いて、5時半少し前の始発のモノレールでJR大船駅に行き、5:45発の湘南電車で横浜へ。そこで駅員に京浜急行の羽田直通を聞いて、少し待って、横浜6:17分発に乗り、蒲田駅で乗り換える必要はなく、6:42分にはもう羽田空港に着いた。羽田空港に来るのは何年ぶりだろうと思いながら(たぶん8年前にAS/400ユーザー・カンフェランス)、国際線乗り場を探したガ、分かりにくいところにあり、やっと第2ターミナルから無料の接続バスに乗って、まるでアフリカの小さな飛行場みたいなバラック建てに行った。立派なターミナルはいま建設中で、来年2010年秋にできるという。

ソウルへは、私はこれが3回目。1回目は20年くらい前に、パソコン通信の大会があって行き、オリンピック関係の施設でやり、ヨンサン(龍山)の秋葉原のようなところへ行った。2回目は10年くらい前で、教会の人たちとさまざまな教会を訪ねながら日韓の近代史を学ぶという旅行で、ソウル市内は3/1独立運動公園・市庁そばの聖公会大聖堂・南山公園のアンジュングン(安重根)記念館へいっただけで、観光地はほとんど見ていない。今回ソウルに寄ったもう一つの理由が、大連の教会での韓国人の友人が丁度旧正月休みでソウルへ帰っていたので、彼を頼っていった。

B.第一日目はソウルのイントロ キンポ空港には、友人が出迎えてくれて、彼の弟と車できてくれた。車はハンガン(漢江)の南側の自動車専用道路をさかのぼり、いろいろな橋を眺めて、まずサンシル(蚕室)にあるロッテホテル・ワールドやロッテワールド遊園地の近くのホテル・レークへ向かい、そこが一泊12万ウォン(1万円くらい)は個人払いでは高いということになり、そこから少し東に離れたところで、オリンピック公園の正式入り口(地下鉄の夢村土城駅)の向かいのハンミ(Hanmi韓美)製薬ビルの裏にある、ビジネスホテル・アテネというところに行き、そこは2泊で12万ウォンだった。ビジネスの人も多いのだが、恋人を連れて車で乗り付ける人も多く、ソウルでは通常ビジネスホテルはラブホテルも兼ねていて、駐車中の車はすべてホテルがナンバープレートを隠していた。それでもさすがインターネット大国・韓国、こうしたホテルも各部屋にインターネットと接続したパソコン(大型液晶ディスプレイ付き)があり、私もそのインターネット・ケーブルを持参のノートパソコンにつなぎ換えて、自由に使えた。

昼食は、ロッテデパートのレストラン街の「ハンヌリHanwoori」で(この店は北京にもあるという)、私の友人、ロッテ・グループのある子会社の会長さん、大連の教会の韓国系米国人の牧師さんの4人で。牧師さんは、いま大連で陽光国際学校と英語で教育する学校を企画中で、その話があり、みんなで協力することにした。昼食代金は会長さんが払ってくれるのかなと思ったら、牧師さんが払い、まずい、韓国は米国と同じで、牧師さんは最大の敬意を払わないといけないのだと思ったが、後の祭りだった。

午後は、私の友人と彼の友人で日本語ができる人を通訳にして、江南区の大きな花市場のそばにある、お花をインターネット経由でオーダーして届ける会社(OK Flower)へ寄って、社長さんに会って、大連ソフトウェアパークの紹介もした。お花の国際的なオーダーはこの通訳さんが英語でやっているそうで、彼は韓国の南西端から北東端まで週末に何年かかけて歩いている最中で、ソラクサン(雪岳山、1708m)や他の山を地図で紹介してくれて、ソラクサンは秋の紅葉時期に登り、みんなでごろ寝を我慢擦れは山頂で泊まれるということで、いつかぜひ一緒に行こうというような雑談をした。お花をインターネットで届けるのは、日本にもJFTD,富士生花店、日比谷花壇、JFNなどがあるが、韓国では40社くらいがひしめいていて、韓国の方々はみんな見栄っ張りだからお花の需要も多くて、いい商売になるということだった。

夕方、この会社の社長さんが焼肉の夕食をおごってくれた。中国の朝鮮族の娘さんたちがウェイトレスでというのは日本と同様で、全体においしかったが、ブルーベリーの味が付いたワインも飲み、これは特にマッシソヨ(おいしい)。ただし、私が好きのユッケ(牛の生肉)は大連の味付けの方がよかった。夕食後、この日の昼食で会った会長さんがまた来てくれて、彼が我々男4人をカラオケにつれていってくれた。韓国語、日本語、英語の歌があり、日本語文字も中国の香港製ビデオのように間違いはなくて、音響もなかなかよかったが、韓国人の方々はひたすら画面を見て歌う習慣で、日本や中国のように、聴衆の方を見てジェスチャーもまじえて歌わないのが、少し違っていた。ビールは韓国産のCassかHiteで、普通だった。夜10時ごろ散会して、会長が送ってくれるはずで帰りかけたが、二人でもう一回カラオケへ行こうということになり、それが終わってホテルに帰ったのは、もう真夜中を少し回っていた。

C.第二日目はおもに市内観光 二日目は、午前中にタクシーで韓国ソフトウェア産業協会(Korea Software Industry Association)へ行き、そこの国際部の部長さん(曹永薫Cho Yong Hoon)を昼食前の30分間訪問して、大連のソフトウェア産業を十分説明した。午後は地下鉄でそこの江南区庁駅から乙支路入口駅へ行き(繁華街のミョンドン明洞のすぐ北)、途中日本時代の銀行の建物や鐘閣(鐘楼)の写真を撮ったりしながら、チョンゲチョン(清渓川)大通りあたりからブラブラ歩いて、YMCAの前を通ったときに、友人が

という説を披露したので、拝聴した。(彼の父親は京都大学出ということで、割り引いて聞かねば...)。ついでに書くと、彼は農業博士で、私より3年くらい若くて、中国の東北地区でサツマイモを作り、北朝鮮に送るNGO活動をしていて、心が非常にいい。

そこから歩いてインサドン(仁寺洞)という韓国の伝統的なお店が沢山あるいまはやりのところへ行き、サンチョン(山村)という伝統料理屋で禅料理風の昼食。このあたりで歩いているのは、1/3くらいは日本人旅行客だった。さらに歩いて、キュンボックン(景福宮)という昔の宮殿へ行き、そこで15:45に偶然に衛兵の交代みたいな式(守門将交代式)に出くわした。ここは、前面にある日本時代の総督府が目障りだからといろいろ議論の末に最近取り壊したとこで、北の背後にプガクサン(北岳山)が見えるすばらしい景色のところで、私の見たところ、総督府はいい建物だったのかも知れないが、本当に目障りだったと思う。そこからはバスに乗り、トクスグン(徳寿宮)前のソウル市庁舎へ行き、これは大連にある関東州庁(いまの大連市役所)とそっくりで、左右に警察署と裁判所があるのも、大連とそっくりなのだが、いまみな外装工事中で、うまく見られなかった。そこで日本人ツアーグループに出くわしたので、韓国人ガイドの説明をもれ聞いたが、最近のサッカー試合の前にここでデモがあったとかのみで、上のような説明は一切なかった。

ここからはタクシーに乗り、途中あの文禄・慶長の役で水軍を率いて活躍したイ・スンシン(李舜臣)将軍の銅像、ソウル駅とその隣りのガラス張りの新駅(新幹線発着所)と、つい去年初めに気違いが火を着けて燃やしてしまった南大門の工事を車中から写真に撮り、三角地駅から地下鉄に乗り、2回くらい乗り換えて夢村土城駅へ着き、そこから歩いてホテルへ帰った。2日目の夕食は私がおごることにして、日本式牛肉のしゃぶしゃぶを食べた。鍋が海鮮と牛肉の2つの味付けに分かれていて、野菜も多くてよかった。

D.第三日目の朝、ソウルから大連へ 三日目の朝は、友人と会長さんが7:30に来てロッテホテルに送ってくれて、そこから10分おきに出ているリムジンで、丁度1時間かけてインチョン空港に着き、9:40発のアシアナ航空に乗り、50分後には大連へ着いた。ブルコギのような簡単な朝食が出たが、コーヒーはすみません出せませんということだった。実は、カメラを会長さんの車に忘れてきたのを、リムジンの中で気づき、インチョン空港で電話しようとしたが、うまくできなかったが、さっき大連へ電話があり、無事発見されて、来週友人が持ってきてくれるという。

これまで韓国へ寄らなかった理由は、韓国語ができないのと、ソウルをよく知らないからだった。今回の旅行で、ソウルの地下鉄にも慣れて(しかも65歳以上は無料!)、2つの空港の配置も分かり、有名な場所も大体分かったので、韓国語はこれから徐々に慣れることにして、これからしばしば韓国へ寄ろうと思う。特にソラクサン(雪岳山)には、いつかぜひ登ってみたい。 (2009.02.07.)

日本

週末・伊豆旅行 (2004)

中国人の方々を日本で接待して、商談の合間を見て国内旅行に連れていくのは、どんなにしたらいいのでしょうか。11月のウィークエンドが空いたので、東京からは北郊外の日光/鬼怒川温泉とか西郊外の高尾山ハイキングとか昇仙峡とか思ったのですが、木曜日に急遽JTBの知り合いに電話して、箱根か伊豆半島の温泉へ行くように頼んだところ、「今年は紅葉が遅れていて、丁度シーズンになって、土日は箱根や伊東などのいいところが空いてなが、熱海や下田なら空いている」ということで、下田温泉を頼んで翌金曜日に事務所へ赴いて、現金を支払って、チケットを受け取りました。土曜日の朝7:30に品川プリンスホテルへ4人(男性3人、女性1人)を迎えに行き(4人共約束通り、チェックアウトして朝食をすませていたので助かりました)、東京駅8:00発の特急「踊り子」に十分間に合い、快適な列車のt日で、10:30に下田に着き、まだホテルのチェックインには早いので、駅前でレンタカーを見つけて、借りて(丸1日距離無制限で1万円弱)、まず伊豆半島のドライブに出かけました。

まず海岸を北へ河津を通って(「ここは2月に河津桜が咲くという」は説明はあまり興味はなかったみたい)、そこから天城峠方面へ行き(ここが川端康成の『伊豆の踊り子』(伊豆舞女)の舞台という説明は、皆この作品を知っていて興味があったようだ)、河津七滝(ななだる)で車を止め、そこの大滝庵で昼食のソバを食べて、大滝へ下りて見学して、写真を撮りました。また車に乗って、ループ橋・天城峠・浄連の滝を通り(もし女性の方が中ヒールで来てなかったら、山の中を少し散歩したかった)、修善寺へ入る前に西伊豆海岸の方へ抜けて、土肥へ入り(ここへ下るところの紅葉は、紅葉が全体的に遅れている今年は残念ながらまだ早かった)、ここから伊豆半島西海岸を南へ下り、堂ヶ島あたりで1、2回海岸の崖の上の公園で停車して(残念ながら富士山は見えなかった)、松崎を通り、17:00に下田温泉ホテル榮岬(はなみさき、0558-22-3111)へ入った。箱根の山の中のホテルとは一風変って、下田港と防波堤と岩の海岸が一望に見える、大変いいホテルでした。温泉も露天風呂から港が見え、良かった。食事は海鮮料理と例の伊豆の土地の料理で、皆さん大変良かったといってました。

翌日は8:00から朝食を取り、9:00にレンタカーで出発、下田港の防波堤で散歩して、石廊崎は遠いので止めて、爪木崎へ行き(2月に水仙が咲くというのには、あまり興味がなかったみたい)、写真を撮ったりして、11:00には下田駅へ帰り、レンタカーを返しました(135km走行して、ガソリン代は千円くらい)。ここで12:00発の東京行き「踊り子」に乗って、14:05に大船で降り、モノレールで藤沢市南東部(片瀬山)の我が家に寄ってもらい、我が家の中を案内して、車で近くの江ノ島のヨットハーバーを案内し(東京オリンピックのヨット競技が行われたという説明は、2008年北京オリンピックでヨットは青島で行なわれ、大連ではなくなったので、多少興味があったみたい)、これまた近くの鎌倉市南西部(鎌倉山)にある中国人の方の家へ行き(その週に東京でお会いした香港系会社の社長さん)、そこは茶室がある立派な家で、奥さんがここでお茶をごちそうしてくれて、もう1人の中国人の方も合流して、ワイフたちも一緒に七里ヶ浜のすし屋で夕食を食べて、食事後みなさんを藤沢駅まで車で送り、分かれました。費用はすべて含んで20万円くらいでした(すし屋での夕食は、我が家近くに住むこの中国人の方が払ってくれた)。(2004.11.14.)

冬の裏磐梯で歩くスキー (2005)

中国の春節休暇で日本へ一時帰国した時にワイフが予約してくれて、2月の中旬にレール&レンタカーで、東北新幹線に乗り、郡山(こおりやま)で下りて、ホンダのフィット(Fit)を借りて、途中の猪苗代湖で白鳥の写真を撮って、裏磐梯にある磐梯高原休暇村へ行って、3泊4日してきました。2日目はスノーシューを借りて銅沼(1888年に大爆発があった火口)・イェローフォールへスノートレッキング(もくもく自然塾の池田睦宏さんが案内)、3日目には歩くスキーで中瀬湖あたりを歩き(同、清水秀俊さん)、4日目はまたスノーシューで五色沼(赤沼などの小さな沼の総称)を磐梯高原(西側)からビジターセンター(東側)までスノートレッキングで歩きました(同、高橋真希さん)。裏磐梯は12年前(1992年)の夏に家族で車で行き、磐梯山登山や五色沼散策をしたところで、なじみが深く、しかし今回は真冬で連日雪が降り、もう2mの雪に埋もれていて、近くにある磐梯山が見えたのは2日目の午後遅くからと2日目の午後のみでしたが、動植物の生態を観察をしたり、パン工房ささき亭(0241-32-2824)へ寄ってお土産を買ったりして、大変楽しい冬の旅でした。(2005.02.16.)

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Here and There in the Areas Outside of China


Go up to the Japanese part.

The Americas & Europe

Molokai and Maui Islands, Hawaii (2004)

Belgium, England, France, Germany and Denmark on a Survey Trip (1974)

Rhineland, Germany, on Business

A Trip to Italy and Greece (1985)

A Pilgrimage to U.K. 2001

France & Switzerland in Early Summer, Driving & Hiking (2007)

Southwestern France, Driving & Hiking (2008)

Russia 2009

Asia-Pacific

Hiking, Viewing the the Southern Starred Skies and Playing with the Dolphines

Australia via Hong Kong and Singapore on Business (1991)

Tasmania, Australia (2006)

Bali Island, Indonesia (1991)

Cherating Beach, Malaysia 1993

An Extra Short Trip to Seoul, Korea 2009

Japan

Izu Penninsula, Japan, on a Weekend (2004)

Ura-Bandai, Japan, in Winter, 2005, for Nature Skiing (2005)

National Park Resort Village at Bandai Highland, Fukushima Prefecture

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Prepared by Yoshi MIKAMI on November 28, 2004. Last update: July 6, 2009.