中国の東北地方・あれやこれや
(瀋陽・長春・ハルビン・内モンゴルなど)

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中国の東北地区を旅した記録が、以下に書いてあります。汽車の旅行には、毎年4月に発行される「全国鉄路旅客列車 時刻表」(提供:鉄道部運輸局、出版:中国鉄道出版社、2005年版は8元)を使うのが便利です。

営口広域市・盖州市の熊岳温泉と仙侶山荘

会社のレクリエーションで、熊岳温泉へ1泊で行ってきました。瀋大高速道路(大連〜瀋陽)で大連広域市の瓦房店市から北へ営口広域市へ入ると、そこは盖州市で、最初のインターチェンジが熊岳で、そこで下りると有名な望児山があり(わが子を待つ母親が石の塔のようになったという伝説、5月の母の日に盛大な行事があるようだ:日本語で)、すぐ近くに熊岳温泉がある。3月末の土日、会社の有志31人で営口市電業局培訓中心(0417-701-0838/0228、別名:仙侶山荘)に泊まり、夕食・朝食付きで120元/1人で、プールあり、温泉野浴(露天風呂、有料)ありで、カラオケ(有料)・ダンスもやって、非常に良かった。まわりの景色がイマイチだが、営口市熊岳温泉療養院などもある。南東方面の近くに青龍山などのすばらしい山並みも望めたので、いつか夏に来て登ってみたい。熊岳近くの渤海海岸に仙人島風景区があり、ここに同じく電業局が管理する仙侶山荘(0417-299-4508/4966、3つ星で1泊360元くらい)があり、ここに泊まると熊岳温泉へも無料バスがあるらしいので、いつかここに泊まってみたい。5月末・6月初めのニセアカシアが満開になる時がいいらしい。(2005.03.20.)

丹東

5月の連休に遼寧省・丹東へ友人らと4人で1泊で行ってきました。第1日目は大連から愛車での出発が11:30くらいになってしまい、開発区を通って、2年くらい前に完成した大丹高速(大連〜丹東)をHonda Ariaで毎時120kmでぶっ飛ばして、荘河市インターチェンジで下りて草原飯店で昼食後、ますます順調に車を飛ばして、丹東インターチェンジで下りて(大連から300km余、85元)、丹東ダウンタウンまではひどいデコボコ道で、16:00過ぎには鴨緑江のほとりの公園へ駐車、みんなでこの北朝鮮との国境の川にかかる2つの橋を見に行く。1つは鉄道橋で(1943年完成)、いまも使われている。もう1つは「断橋」と呼ばれていて、朝鮮戦争のときに米軍に爆撃されて、北朝鮮側が壊れているので有名だが、入場料20元を払って見に行くと、1911年に竣工し、中央の80mくらいが水平に旋回して船を通した、めずらしい作りの橋で、旋回のための大きなギアも観察できるようになっていて、私はここ以外には見たことがないその技術の方に感心しました。撫順石化順峰賓館というところに宿舎を定めて(4人で268元!)、長白山焼[火考]という朝鮮焼肉屋で夕食後、また鴨緑江のほとりの公園へいったが、2つの橋の橋げたに電飾がされていて、手前の橋が富士山型の橋げた、むこうの橋の橋げたがかまぼこ型で、大変きれいで「ここは北の」だったのに較べ、向かいの北朝鮮側は新義州という都会なのに、電灯がほとんど見えないのが印象的でした。

2日目は朝早く、またまた鴨緑江のほとりの公園を見にいって、北朝鮮をながめながら朝の体操をして、みんなで朝食もろくにしないで、瀋丹高速(丹東〜瀋陽)で北へ1時間くらいのところにある鳳城市近くの名山、鳳凰山へ登った。9:30ごろ鳳凰山入り口で68元を払い、車でロープウェイの出発点である標高200mくらいのところまで行き、そこへ駐車して、ロープウェイに乗らないで、歩いてぐるっと反時計回りに登山を開始し、将軍峰などを経由して、12:00ごろロープウェイの終点近くで昼食。かなり険しい山とは聞いていたが、大変危険な山で、老牛背という戸隠山の「蟻の塔渡り」みたいなところを通り(ここでは急勾配で両方に鉄の欄干を置いている)、箭眼というところが最高点で(標高836m)、そこから下山して、16:00過ぎには登山の出発点に戻り、そこから車で高速道路へ出て、また毎時120kmで飛ばして、20:00過ぎに大連へ帰った。総走行距離:760km。(2006.05.02.)

鞍山

鞍山は製鉄所と近くの湯崗子(タンカンツ)温泉が有名なので、1度行ってみたい。近くの名勝・千山(チェンシャン)には、10月連休に駆け足で行ってきた。(2007.10.02.)

瀋陽

1) 瀋陽へは2000年4月に初めて行きました。日本から大連へ来て、蘭州へ行く中国旅行の途中で飛行機で寄ったもので、おもにキリスト教会(東関教会、西塔教会、南関天主教堂、三経街天主堂=もと聖ザビエル教会)を訪れ、瀋陽故宮博物館(満州族の故宮)、瀋陽站(駅)を見ました。詳しくはここの6節目から見てください。ただし、東陵、九一八事変博物館(満州事変博物館)などいってないところも多いのと、中街をまたブラブラしたり、瀋陽京劇院で京劇や京劇に似た平劇(普通話を使う)を見たり、旧満州の平野に沈む夕日を見たいので、またいってきます。(2000.04.16.)

2) 6年振りに瀋陽へいってきました。会社のほぼ全員と一緒に土日に行ったもので、土曜日の朝8時の特急列車に乗り、お昼の12時に瀋陽北駅に着き、すぐ世界花博(世界園芸博覧会)を見にいった。入園して間もなく、大雨に降られて、その後も雨は続きさんざんでした。昼食はレストランでインド料理を食べ、途中でトルコ・アイスクリームも食べ、そこは瀋陽の東郊外のもと植物園だそうで、昔東京・三鷹にある母校の周りが潅木林で囲まれていた情景そっくりの場所で、同僚と雨の中の散歩を楽しんだ。台北A+A(徳増街@北順城路)で夕食、あとは瀋陽商貿飯店(Traders Hotel)に泊まった。翌朝早く起きて、ホテルの前の中華路を新世界百貨・百盛(Parkson)・Walmart・太原商業街(歩行者天国)などがあるぞとブラブラ歩いていたら、突然瀋陽駅に出て、ビックリ。東京駅丸の内口に似ていて(同僚の1人が台湾人で、台中駅もそうらしい)、広場の向かいの3階建ての赤レンガ商業ビルも残っていて、風情があった。ホテルで洋風の朝食後、渾河の南にある東大軟件園を見て、その隣りにある億達集団が開発した「唯美品格」と呼ばれる住宅地区を見て、そこのレストランで昼食後、13:00発の特急列車に乗り、途中車窓に鞍山まで水田に田植えをしているのを眺め、また大連近くになるとニセアカシアの白い花が満開なのを見て、17:00に大連駅へ着いて、解散。(2006.06.04.)  3) 今年も1番泊まりの社員旅行で瀋陽へいってきた。同じ旅館に泊まり、似たようなところ(棋盤山公園)へいって、秀湖で船に乗り、棋盤山へ登って、近くの万科の別荘地区「蘭喬Rancho、聖菲Santa Fe」、億達の別荘地区「唯美十方Mountain Faryland」(@瀋棋路)を見て、瀋陽駅の写真を撮った以外は、新幹線列車に乗って大連へ帰った。(2007.10.13.)

盤錦・錦州

私はこれまで遼寧省の北は瀋陽まで、東は丹東まで行ったが、西の盤錦・錦州・葫芦島は行ったことがなかった。「盤錦に紅海灘があるので、見に行かない?」と中国の友人に誘われて、10月の中旬の土日に盤錦・錦州ツアーに行ってきた。まず、土曜日の朝07:30に大連体育場前に集合して、xx学校の32人乗りのバスで出発し、大連開発区の瀋大高速道路の大連インターチェンジですべてのバスは運転手が警察の取調べがあり、「これは学校のバスなので、いま学校の先生の慰安旅行中。」と報告しているんだそうで、中国では警察との化かし合いも堂に入ったものだ。高速道路の脇には紅葉した小さな木が沢山植えてあり、火炬樹というんだそうで、秋も深まってきた。大石橋の手前で、北の瀋陽を目指さず、西へ盤海営(盤錦・海城・営口)高速道路へ入るころから、周りは稲を刈り入れたあとの田んぼで、稲穂を干している日本の農村と同じ秋の風景で、「盤錦大米」は大連でも有名で、私も常にこのブランド「利是Lee See」を食べている。大きな遼河を越えて、11:00に盤錦の大窪というインターチェンジで一般道路に出るころ、まわりに遼河油田の油井が見えてきた。私はこれまで油田を見たことはなかったので、これが今回のツアーも1つ目のハイライトだった。

盤錦と錦州は地図で見ると、渤海湾のどん詰まりにある町で、遼寧省北部の鉄嶺あたりから流れてくる遼河、盤錦の少し上流で遼河から分流してくる双台子河、遼寧省西部の朝陽あたりからくる大凌河の3つの大河が海にそそぐところで、それで、渤海は全体が浅く、砂で海水もにごっていて、これら3大河の河口の海岸一帯は広大な芦原になっている。11:20に趙圏河渡暇村で昼食を食べ、12:20に紅海灘の入り口に着いて、ここからがこのツアーの2番目のハイライトで、2005年に大連の会社が観光開発したという。入場料40元と電瓶車代70元を払い、電動車で18km先の海岸へ行き、赤い小さな海草「[石咸]蓬草」(Jian3-peng2-cao3}に覆われた海岸の木道を歩いて遊んだ。9月末に一番赤くなるそうで、まったく今までみたこともないような奇観であった。そこから14:00には「芦園」と呼ばれる一面の葦原に行き、園内の小高い「瞭望塔」などで写真を撮り、遊び、16:00には盤錦街中の大衆花園賓館(@泰山路)に入り、17:30に迎賓飯店で夕食を取り、18:00にはホテルへ帰り、温泉に入って、20:20からホールで出し物があり見て、終ってまた温泉に入り、寝た。

翌日は6:20に起床、6:30に朝食、7:45には出発して、8:45には錦州広域市の北鎮市(北寧市?)にある大朝陽景区内の名山、閭山(別名:医巫閭山、海抜886m)へ登った。これがツアーの3番目のハイライト。幸いまだ観光開発が進んでないので、石段は少なくて、途中はいつくばるような所を苦労して登り、10:15頂上に。一息ついてしばらくして下山開始し、のぼりとは別のルートで、11:00に索道(ロープウェイ)入り口でアイスクリームを買って食べ、11:35に景区入り口に戻り、12:10に付近の恒大酒店で昼食を食べ、12:35にはそこを出発し、途中で溝[邦布]子市で有名な「尹家燻鶏公」(丸ごと燻製の鶏肉)を買い、15:10に西海服務区で休憩、17:30に大連体育場へ帰還した。片道392kmの行程で、ツアーは各自485元だった。中国の女性三代記「ワイルド・スワン」(Wild Swans)の舞台になった錦州市内へはまだ行ってなく、その海岸の筆架山も、また葫芦島へも行ってないので、遼寧省西部へまた行かねばと思う。(2008.20.19.)

長春〜長白山〜通化

大連へ来て2年目(2002年)の9月終り・10月始めの国慶節の休みに、5泊5日で、大連〜吉林省の長春〜長白山(韓国・朝鮮では白頭山)〜通化を回る機会がありました。全体のスケジュールは
  1. 昼の飛行機で大連〜長春。市内観光。
  2. 長春で市内観光の続き。夜行列車で長春〜白河二道。
  3. 早朝に白河二道に到着。長白山で観光・ハイキング。
  4. 汽車で白河二道〜通化。通化で市内観光。夜行列車で通化〜大連。
  5. 早朝に大連に到着。
詳細は、第1日目の9月29日(日)は、昼12:25大連空港発の山東航空SC771(48人乗り)が遅れて実際には14:25に出発、15:20に長春へ到着(500元、長春国際空港はトイレもきたないひどい状態)、乱暴な運転のタクシーで市内のホテルへ(25元)。すぐ駅まで歩いて、翌日の白河(または二道白河とも呼ぶ)行きの切符を求めたが、硬座の立ち席しかない。タクシーで文化広場まで行き、そこの南側、新民大街に沿って並ぶ満州国時代の政府機関の建物・八大部(軍事部、司法部など)の写真を撮る(右の写真)。夕映えの空に満州帝国の建物が見える光景は、日本人としては不思議な経験でした。

2日目は朝、解放大路を西へ行き鉄道とぶつかるところ(省文化庁、のあるブロック)に戦前あったという新京聖公会教会の跡を訪ねたが、見つからなかった。そのあと長春電影製作厰廠に長春電影宮を見にいったが、まちがってそこから電影城にまわされてしまい、50元を払って子供たちが喜ぶような映画村を見た。そこそこに引き上げて偽皇宮(満州帝国皇帝愛新覚羅溥儀の仮皇居、40元)へ行き、午後の長春発15:25の夜行列車に乗り、満員だったので30元を払って食堂車に乗り込み、そのまま居座り、四平(17:25)・通化(22:55)経由で、白河二道へ向かう。

3日目は、白河二道へ到着7:00。駅前に停車中の沢山の三菱自動車Pajeroの1台に7人で乗り込んで、7:35山門--8:10長白山・天文峰2670m(将軍峰2740、白雲峰2691)天池9:00-黒風口--長白山瀑布10元10:10-50元--11:05天池。13:00大宇温泉(1670m、長白山国際=中日)-- 16:15運動員村--山門16:30-30元--白河へ戻る。長白山登山の詳細と写真は、ここを見よ。(長白山の花は、5月末-6月中旬杜鵑花(ツツジ、シャクナゲ)、金達来、紅京天9月始め。)二道の白頭山狗肉館で夕食。丁家宏達賓館へ泊まる。

4日目は、朝7時50分 白河---列車で---通化 10月2日14時31分 40元、15時 通化着。通化楊靖宇の陵園(右の写真)へ行き、時間があったので川(渾江)向こうの玉皇山公園へも寄り(塔に登ったら、通化の東に大きな鉄鋼所があり空気が悪い町だった)、夕食は国貿大酒店というところで取った。(そこで通化葡萄酒という赤ワインがどうやら日本時代からあるという触れ込みだったので買ってあとで飲んだが、うまくなかった。)19時53分発 通化---列車で---大連 8時16分 185元。5日目の朝、大連駅着。

以下は参考までに:日本の友人が澤地久枝「もうひとつの満州」(文春文庫、1986、現在はほぼ絶版)を貸してくれ、その内容は河南省出身、満州国時代の抗日の楊靖宇(1905〜1940)の足跡を尋ね、北京、山海関、瀋陽、撫順、通化(彼の陵園がある)、吉林省靖宇県、吉林、ハルビン(東北烈士記念館に緑川英子=長谷川テル)を、1981年夏に訪れた旅行記。その中に、張寒暉作詞・作曲「松花江上」:「我的家在東北松花江上...」

わが家は東北、松花江のほとり
そこは森林と鉱山、
さらに山野に満ちる大豆と高粱がある。
わが家は東北、松花江のほとり
彼の地にはわが同胞、
そして年老いた父と母がいる。
ああ、9・18、9・18
あの悲惨なときから、
我が故郷を脱出し、無尽の宝庫も捨て去って、
流浪、また流浪、関内をさすらいつづけている。
いつの年、いつの月、
私の愛する故郷へ帰れるだのろうか。
父よ、母よ、
喜んで一堂に会するのはいつだろうか。
我的家在東北松花江上,
那里有森林煤鉱,
還有満山遍野的大豆高粱。
我的家在東北松花江上,
這有衰老的父多娘。
”九一八”,”九一八”,
従那個悲惨的時候,
”九一八”,”九一八”,
従那個悲惨的時候,
脱離了我的家郷,抛奔那無尽的宝蔵,
流浪,流浪,整日価在関内流浪,
口那年口那月,
才能句多回我那可愛的故郷?
口那年口那月,
才能句多収回我那無尽的宝蔵?
父多娘口阿,父多娘口阿,
何時候才能歓聚在一堂?
が書かれている。1965年ごろのミュージカル「東方紅・音楽舞踏史詩」とその映画で歌われてヒットした。(1928年に父親、張作霖を関東軍に爆殺され、1931年の満州事変後に東北地方を追い出され、1936年に西安事変を引き起こして、関内をさまよった張学良の部隊がよく歌った歌???)五四運動後歌われた「五月的鮮花」など99曲が載っている歌集にある。藤原作弥日銀副総裁の思い出とミュージカル(1999)。西安事件を書いたバートラム「内乱から革命へ」の中に一人の満州人が「わが家は松花江の彼方...」を書いたとあるが、これは別の歌。(2002.10.03.)

集安・好太王碑・水豊ダム

友人の旅行記2008を見よ。

ハルビン(哈爾濱)

2002年1月中旬、4泊3日でハルビンの氷祭りを見に行ってきました。まず第1日目(1月16日)はその日に特別快速・夜行寝台車の切符を買い(T2610硬座特快臥7車(22列)13号下舗pu4大連21:39-哈爾濱7:00 231元)、20:30大連を出発、大変快適な旅で、第2日目(1/17)の朝6時ころ目をさましたら、雪のタイガ(森林)の中を列車が進行中で(昔若いころ見た映画「ドクトル・ジバゴ」とララのテーマを思い出した)、タイガの中で朝日がさし始めるころにハルビン駅に到着。すぐタクシーで駅の南東側にある波斯特酒店(Post Hotel 0451-362-6888郵政街147号 1泊400元)に行き、さっそくタクシーで駅の北西側の敷石が残る中央大街(昔のキタイスカヤ・プロスペクト)と近くの聖ソフィア(索菲亜)ロシア正教会(いまはハルビン建築芸術館)を見て、次にタクシーで松花江のむこうの太陽島のにある氷雪大世界(50元)へ行き、氷の中で遊んだ。夕方は(19:00)近くの 巨人西餐庁というところでロシアの歌を歌ってくれるところでロシア料理を食べた。

第3日目は、前日に申し込んでおいたヤブリ・スキー場日帰り旅行(亜布力滑雪一日遊、240元、ハルビンの東南)に参加し、8:30にホテルを出発、小さな軽バンで4時間かかってスキー場の近くに着き(快晴の比で道路はほぼ良かったが、車の温度が低くつらかった)、オンドルの上で土地の昼食を食べ、1時間ほどスキーを楽しんで(私だけがクリスチャニアもどきができたので、学生たちの大尊敬を得た!)、また4時間かけてハルビンへ戻った。夜21:00ごろ王記醤骨頭館(260-5558)という満州族の料理を出すところへ行き、これは良かった。第4日目は少し疲れて、午前中は少しホテル近くでウロウロしてから、タクシーで南郊外の平房区にある侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館に行き、午後15:00ころ東大直街にある中華東正教会ハルビン教会(聖母守護経堂)も見に行き、隣りのプロテスタント教会(南崗礼拝堂)、その向かい側のカトリック教会を見て、夜やっと(17:30)氷灯節(氷祭り)主会場の兆麟公園へ行き(李兆麟は、上の通化のところで書いた楊靖宇と並ぶ、抗日時代の東北地区の英雄)氷の滑り台で遊んだりして、見終わるとすぐ中央大街の観光名所である華梅西餐庁という白系ロシア人(ユダヤ人)が創設したレストランで夕食を食べ、すぐまた特別快速・夜行寝台車に乗って(T2612硬座特快臥 哈爾濱20:47-大連6:12)、第5日目の朝早く大連へ着いた。

ハルビンの夏は暑いと聞いているので、こうして冬に氷祭りを見に行くのもおすすめ。寒いが、晴れた日が多く、吹雪の日以外はそんなに厳しくない感じでした。札幌の雪祭りに較べて、ハルビンの氷祭は氷のなかに色電球を入れ込むので夜目に大変きれいで、幻想的で、大変いい。ヤブリ・スキー場日帰り旅行は、たった1時間のスキーなので、あまりおすすめできません。[2002.01.20.] 注:友人(戸嶋秀夫さん)が2003年1月、大連から3泊2日(1210元)の格安ハルビン・ツアーにいってきました。この料金で含まれていたのは、大連−ハルビン間列車往復(硬座寝台)、ホテル1泊(3星級)、亜布力滑雪(スキー用具レンタル含む)、氷雪大世界、食事(2日間、3食)、現地移動バス貸切り、添乗員および現地ガイド付き、・旅行保険などです。ただし、食事はあまりおすすめではなかったそうです。[2003.05.13.]

黒竜江省漠河(モーヘー)、中国の最北端

大連へ来てから4年目の5/1休暇に中国の最北端、黒竜江省漠河(Mo4-he2)へ1週間の旅行で行く機会がありました。詳しくは、ここを見てください。注:途中列車を乗り換えたうち蒙古のジャグダチ(加格達奇)駅で「全国鉄路旅客列車 時刻表」2005年版を買い込み、いろいろ眺めて、研究し、だいぶ見るのに慣れました。((2005.05.07.)

内モンゴルの通遼でナーダム(モンゴル族の運動会)を見て、中国のモンゴル族の現実を学ぶ

内モンゴル自治区は首都がほぼ中央のフフホトで、東部は農耕が盛んでモンゴル族の漢化が進んでいて、西部はまだ牧畜が盛んで、いま西部と東部でモンゴル語が多少違いが出てきて、特に東部ではモンゴル語が死滅しつつある、くらいの片寄った知識しか私はなかったのですが、先日東モンゴルの通遼(トンリャオ)で毎年8月18日にモンゴル族の夏の運動会、ナーダム(那達慕大会)が開かれるということを聞きつけて、中国人の友人に調べてもらい、一緒に行ってきました。

土曜日の朝5:20大連発の列車の軟座(103元)で、途中11:10に瀋陽(397km)を通り、14:02に四平で北西へ向かい、通遼に17:23(793km)につきました。すぐ帰りの切符を買い、その日は通遼賓館(3つ星)で泊まる。翌朝(日曜日)、タクシーで北へ100キロ、2時間のところに(往復で200元)珠日河草原で、この日は朝は10時から、午後は3時から競馬(賽馬sai4-ma3)の連続でした(右上の写真)。翌日(月曜日)は、通遼発6:35で、大連に19:08到着。
注:1.新世紀大酒店が4つ星(380元)で、今年5月完成している(0475-826-6666)のでここがいい。2.「地球の歩き方、大連と中国東北地方」(ダイヤモンド社)の出だしに通遼のナーダムのことがじっくり書いてあるが、どうやら第2日がモンゴル相撲(オ率路-各+交shuai1jiao1)、第3日が射的(射箭she4jian4)のようです。3.通遼近くには大青溝自然保護区という美しいところ(南へ100km、タクシーで2時間)もあり、ここにも寄るといい。4.通遼のホルチン沙漠で日本の「緑化ネットワーク G-Net」が沙漠緑化・沙漠化防止に取り組んでいるようですね。 (2002.08.17-19.)

毎年のこうした華やかなナーダムの裏に、大国中国とロシアに挟まれて暮らすモンゴル民族の悲しい現実があります。まず、近代のモンゴル(外蒙古)が独立の動きを見せるのが1917年、しかしこれは中国の北伐軍に蹂躙される。その後ソ連の援助で独立を勝ち取るのが1921年、これを中国は認めず、スターリンがルーズベルトとチャーチルに対してソ連が必ず日本を中国から追い出すという密約があったヤルタ会談の結果で周恩来が認め、これは1945年に実現される。内蒙古は北京から通遼を通りチチハルに達する鉄道がイタリアにより完成され、昔ナイマン・タリア(8つの畑)と呼ばれた通遼が、内蒙古東部の大きな町になっている。1947年にハフンハ(哈風[口夏戈])などの内蒙古人民革命党(内人党)により自治政府が成立するが、1949年にウランフ(烏蘭夫、Wu Lanfu)などの共産党による政権奪取があり、ハフンハは内蒙古の在北京代表として不遇の身を終える。注:ラマ教寺院は1950年代の「大鳴大放大弁論」と大躍進の期間、古い文化の痕跡を徹底的に壊すというスローガンのもとに全て取り壊され、文化大革命の時に、「破四旧、立四新」のスローガンの基に、少数の例外(シリンホトの貝子廟など)を除いては痕跡無しに徹底的に取り壊された。仏教は古くからチベットに伝えられ、土着の宗教(ボン)の影響を受けてラマ教(ラマは「教師」)となり、7・8世紀に様々な悪習が改められて紅教(紅帽派、ニンマ派)が起こり、その後13世紀フビライ・カーンの時にモンゴルに伝えられ、14世紀代に戒律が厳しい黄教(黄帽派、ゲルク派、新教)が盛んになって、いまの主流派になっている。

内人党はその後共産党に併合されるが、文化大革命の混乱の中で、「[搾-乍+乙]内人党」の内人党狩りで「打死打傷」されて殺害されたの人々はが1,267人あったという。現在、通遼の地域(左中と呼ばれる)は中国語が話され、その西部(后旗と呼ばれる)ではまだモンゴル語が話されている。内蒙古のモンゴル族の文化的悲劇は、小中学校はモンゴル語で学ぶが、伝統的モンゴル文字を使うモンゴル語の専門教科書や学術用語が確立されてなくて(それほど需要がなくて?)、大学ではフフホトの内蒙古大学、内蒙古師範学院(大学)、通遼の内蒙古民族師範学院(大学)などでもすべて中国語で学ばねばならない(もちろんモンゴル語学部はある)。新聞やテレビでの少数民族の観光的大宣伝にもかかわらず、内蒙古の政治機構、教育機構の主要地位は漢民族が占めており、現状以上の少数民族の文化振興はこれ以上進まないのかも知れない。(2004.02.06.)

内モンゴル人の悲劇は、東京の巣鴨にあり内モンゴル料理店「シリンゴル」あたりで、その本音を聞くしかない。内モンゴルの歴史・文化を習った人ならすぐ習う「ガダ・メーリン」(Gada Meilin、中国語で[口夏戈]達梅林)という歌がある。そのすばらしい曲と詩で、人々を魅了する。戦争中・戦後作られたもので、以前は内モンゴルの子供たちもよく歌ったが、人民公社時代から禁止され、最近30年ぶりに解禁された。ガダ・メーリンは人の名で、ガダは「かたまり」というような意味で、モンゴル族によくある名前で、メーリンは軍隊の職位で、ガダ大将というような意味。彼(1892-1931)は東モンゴルのカルチン(科)左翼中旗のバイェンタラ(巴彦塔拉)というから、内モンゴル自治区の東部の中心都市・通遼の少し東で、モンゴル族の王様に使えていたが、王様が瀋陽に居を構える張作霖の手下に金と女で骨抜きにされ、土地を奪われるハメになったのを見かねて、反乱を起こすが、すぐ張作霖の軍隊に通報されて捕まり、瀋陽近くの監獄に入れられる。彼の奥さん、モーダン(牡丹)はガダに輪をかけた気丈な人で、彼のもと部下を率いてこの監獄を襲い、彼を救い出すが、すぐ張作霖の軍隊に追跡され、狙撃されて、彼は亡くなる。モーダンは、満州帝国時代を長春で日本人に保護され(これも悲劇に輪をかけたような話)、戦後も生き延びて、1980年ごろ亡くなっているという。

張作霖が「満州事変」で殺され、息子の張学良が「西安事件」を起こし、怒った蒋介石はその首謀者の楊虎成の目のひとみをはがし、張学良を台湾に長い間幽閉したなどは、よく知られている。ただし、張作霖が漢族の代表として瀋陽に覇を唱える直前は、それまでそこに住んでいたモンゴル族・朝鮮族などと大きな争いがあったことは、想像にかたくない。東京の「シリンゴル」で馬頭琴を聞き、モンゴル料理を食べ、ガダ・メーリンの歌を聞いて、内モンゴル人の悲劇に思いを馳せるのもいいだろう。なお、ガダ・メーリンの映画が2002年に馮小寧監督で作成されたが、これは彼を抗日戦争の英雄と位置付けているので、多少事実とは違う。また、群馬県の劇団がガダ・メーリンの劇を1994ごろ上演している。満州帝国時代の内モンゴルは、日本軍の援助で、東はハフンハが(上記)、西は徳王(ドムチョクドンロブ)が統治していたが、戦後徳王の側近が多く日本へ逃げている。(2007.09.06.)

中国近現代史ガイド:東北史跡


Here and There in China's Northeast
(Shenyang, Changchun, Harbin and Inner Mongolia)

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Gaizhou City in Greater Yingkou City: Xiongyue Hot Spring, etc.

Shenyang, Liaoning Province

Changchun, Changbai Mountain and Tonghua, Jilin Province

During the October 1st vacation, a Chinese friend and I went on a 5-day trip to Changchun and Changbai Mountain (Paektusan in Korean or Chouhakuzan/Hakutouzan in Japanese):
  1. Boarded a Shandong Airline airplane in Dalian, Liaoning Province, at 12:30, arriving in Changchun at 14:25. Sightseeing in Changchun (8 Ministerial Buildings of Manchukuo: see the photo, above right).
  2. Continued sightseeing in Changchun (Cinema Park, Imperial Residence of Manchukuo, etc.). Took a night train in Changchun at 15:20.
  3. Arrived at Baihe-Erdao at 5:03. Sightseeing and hiking in Changbai Mountain (Astronomy Peak, Heavenly Lake, Changbai Falls, Changbai Hot Spring, etc.).
  4. Took a train at Baihe-Erdao at 7:50, arriving in Tonghua at 14:31. Sightseeing in Tonghua (Yang Jingyu Mausoleum and Jade Emperor Mountain Park). Took a night train in Tonghua at 19:53.
  5. Arrived in Dalian at 8:16.
(2002.10.03.)

Harbin, Heilongjiang Province

Mohe, Heilongjiang, China`s Northernmost Village

See here.

Tongliao, Inner Mongolia

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