大連・金州区の“平家部落”を訪ねて


大連市金州区亮甲店鎮金頂村の真武廟

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2005年7月6日
大連交通大学留学生 有志一同
文責:坂入充(埼玉県出身)

私たち大連交通大学語学留学生8名は、去る6月30日、金州区郊外の亮甲店鎮にあったといわれる“平家部落”を訪ね日帰りの旅行を行いました。この旅行は、日本の“ハルピン桃山二十八期会”から留学生・竹本節子さんに“会報”(兵庫県西宮市発行)が送られ、あわせて“故国の土を踏めずに中国で永眠された同胞に線香をあげてきて下さい。”という便りが同封されいたことから計画されました。

 その会報の中には島田一男著「中国大陸横断---満州日報時代の思い出」(徳間書店、1985)から“満州平家村を訪う”という章の要旨が載せられていました。そして驚くなかれ、その内容は次のようなものでした。

  1. 日露戦争でロシヤ軍の捕虜となった人、ロシヤ軍の病院に収容されていた人、 あるいは、脱走兵などが日本に帰るに帰られず、“満州人として生きぬく、日本語は 絶対に使わない。”ことを誓い合い、金州区郊外・五里庄などに日本人部落をつくり永住した。彼らは日本が勝利し関東州を租借した以後も日本人とは交わらず、ヒッソリと自分たちの村に閉じこもって暮らした。
  2. この部落を満州日報社長・高柳保太郎氏(元陸軍中将でシベリヤ出兵の際には兵站部長を務めた人で、退役後は満鉄の顧問にもなった。)が中心となり、陰日向になり見守ってきた。
  3. 自分は社長命令で亮甲店鎮金頂山村の金頂山廟(道教)にある“倭寇記念碑”を取材した時、その元日本兵・谷さんに会い、五里庄を訪ね、いろいろと話し会った。 そしてその艱難辛苦な暮らしぶりを知り、涙を禁じ得なかった。同時に高柳社長の思いやりがよくわかった。
    • 倭寇記念碑:明時代、桜桃園村を倭寇が襲い、村民が逆に包囲し、せん滅したことを記念する碑。
    • 中国の行政区分:  市 --- 区・県 --- 鎮 --- 郷 --- 村

 私たち8名はこの文に接した時、“これは実話に違いない。”と直感し、“子孫の詮索などはどうでもよい、とにかく中国の土となった同胞を弔慰しよう。”と決断しました。そして 領事館や大連市内で日露戦争の研究を重ねている池宮城晃さん(開発区の実業家)、牛島五郎さん(大連でIT関係の仕事)に相談しました。しかし、結果的にはこれといった情報は得られませんでしたが、この方々からは金州区のいろんなことを教えて頂いたばかりか、貴重なアドバイスをもらいました。

 また、金州区の博物館長に電話し、下記のことが確認できました。  

 さて30日当日となりました。まず最初に、金州区の中心部にある博物館を訪ねました。会議中の館長に代わり副館長が展示された歴史遺産を説明してくれました。その中で特に印象的だったのはありし日の金州城の模型でした。たしか二百分の一の大きさだと記憶していますが、そのまま残っていれば立派な観光資源になったと思います。それはとにかくすばらしいものでした。

 そして副館長は私たちの質問に答えるかたちで次の点を明らかにしてくれました。

  1. 日本人部落の存在は本当のことであり、1940年代に自分が日本人であることを知った一婦人が帰国したことを知っている。日本人部落は一つや二つではなかった。
  2. 南山にはロシヤ軍とソ連軍の墓が残っている。
  3. 倭寇を全滅させた将軍の名前は“戚継光”となっているが“劉口”ともいう。
  4. 烽火台の名前は“望海窩”といい、石河の二十里堡の一角にある。
  5. 正岡子規の句碑は金州区東街の“金州副都統衙署博物館にある。この建物は清時代のものである。
  6. 大黒山(日本が租借し関東州をおいていたころは大和尚山と名づけていた。)には東晋時代(626〜649年)の山城(卑沙城)がある。
以上のような説明を受け、あわせて亮甲店鎮などへの地図を書いていただき、さっそく第二の目的地、金州副都統衙署博物館に向かいました。この博物館には主に日清日露戦争当時の日本軍の“悪行”が展示されていました。またかなりの数の骨董品が並べられており、素人目にもなかなかの品々が販売されていました。そうしたものを見物しているうち、館長が姿を見せ、私たちを博物館の最奥部に案内し、鉄の門の鍵を開けその中に導き入れました。そこには正岡子規の句碑や金州城を壊した際に残しておいたという句碑が何点か置かれていました。正岡子規は日清戦争の時の従軍記者であり、日露戦争で活躍した秋山兄弟とは親友だった関係があって、その後も何回か訪れたのかもしれません。館長の話によれば文革の時に破壊されるのを恐れて、句碑はしばらくの間土中に隠しておいたという。

現在は鍵をかけた一角に保存されているのですから、大切にされていることは間違いありません。

“行く春の酒をたまはる陣屋かな。”
金州城にて 子規 (1867〜1902年)

金州区は大連よりも物価がかなり安いのです。私たちは結構多めの昼食をとりましたが、1人わずか15元ですみました。ビールを飲みながらの食事でしたから、その安さには運転手の陳さんもビックリしていました。

その後、南山のロシア人墓地へ寄ってから(右の写真)、我々一行8人は今回の旅行の最大の目標であった亮甲店鎮に向いました。運転手の陳尚郁さんも道が不案内で汗ダクダクになり道を聞きながらの道中で、途中軍事演習でストップをかけられなどして、やっとのことで亮甲店鎮に着きました。しかし走れども走れども目指す廟は見当たらないのです。私たちは正直にいって、“これは空振りで帰るしかないか”と不安にかられ、半ば諦めました。ところがひとしきり転がしていると、突然右方向に廟らしきものが眼に飛び込んできたのです。私たちは喜び勇んで、農道をかき分けながら進みました。しかし近くまで来たのですが、最終地点に向う路が悪く車では行けません。やむをえず、地元の親切な方(後で氏子代表とわかりました。)の案内で道なき道を徒歩で進みました。

着いてビックリしました。その規模の大きさ、建築物及び神像のすばらしさ、どうしてこんな片田舎にこのような立派な神社があるのかと、とても信じられない気持ちでした(上の写真)。たしかに準備段階で博物館長から、“金頂山廟は改築され新しくなっている。”という連絡を受けてはいました。しかし、その実態は私たちの予測をはるかに越えていたのです。神主の話によれば、“まだ建築したばかりで、道路の整備など参拝者を迎える準備が不完全”とのことでした。私たちは5元ずつ出し合い、40元の線香を購入し、”中国の土となった同胞“に弔慰を新たにし、焼香してきたところです。また、神主の導きで、明時代の烽火台を遠くから眺めやることが出来ました。

ところがです、帰る段階となって神主に住所などを聞いたところ、“ここは金頂山廟ではない”と断言し、次のように言うのです。

真武廟
住所:金州区亮甲店鎮
神主:李大師(本名 李真梧)

金頂山廟は新しくなった・・・戸数十二、三の五里庄・・・烽火台の存在・・・反日感情をまるで見せない親切な村人。送られてきた旅行記に描かれている情景にあまりにもそっくりなので、竹本さんも、そして7人の仲間も、すっかり金頂山廟と思い込んでいました。正直なところ、最後になってのこの“落し穴”にいささかガックリとなりました。

しかし、あの真武廟の周辺で多くの日本人が命を落としたことには間違いないし、一つの供養になったはずだと気を取り直して帰ってきました。また、子供たちも含め地元の人たちとの交流が出来たのも大きな成果です。 ところで、7月5日、竹本さんとともに、五里庄の件で金州博物館副館長に電話をしました。当然にも、金頂山廟に話が進みました。ところが館長は“真武廟こそ金頂山廟の生まれ変りであり、その歴史的経緯については新しい神主は何もわかっていないのだ。”というのです。

やはり私たちの判断は正しかったのです。歴史家でもある館長が言うのですから、まず間違いはないでしょう。うれしい限りのドンデン返しでした。しかも、その後様々なルートをとおして調べたみたところ、正式な住所は亮甲店鎮金頂山村であり、地元の人たちはあの真武廟のことを金頂山廟とか、徳勝廟とかとも呼んでいることがわかったのです。これで副館長の言葉は私たちの手で更に実証されました。

こうなりますと、私たちがいまだに見ていないところは桜桃園村だけとなりました。できればもう一回旅行を計画してみたいものだと考えています。

振り返ってみますと、竹本さんのところに会報と手紙が送られてきて以降、私たちは試行錯誤の繰り返しでした。しかし、私たちのこの間の試みは“案ずるよりも生むが易し。”の言葉がぴったりで多くの成果を挙げることが出来ました。やはり、勇気を持って行動することこそが何よりも大事なことだと痛感しているところです。

私たちはこれまで、日露戦争を扱った小説、テレビ、映画など、数多く見てきましたが、それらは常に日本軍のすばらしい側面のみしか取り上げておりません。しかしその裏側には、谷さんのように日本人部落をつくらざるをえなかった方々が数多くいたのであり、そうした人たちの心情に我が身を移しいれる時、私たちは胸を締めつけられるような気持ちになるのです。振り返ってみれば、今日までの日本がこのような人たちを照射しなかったからこそ、悲惨な第二次大戦につながってしまったのだと思います。

私たちの今回の試みは、そうした隠された歴史的事実を掘り返したのであり、所期の目的の大半をなし遂げた現在、無謀ともいえるこの間の行為を今や誇りにさえ感じています。私たちは今後も日中友好の前進のため、ささやかながら草の根的運動を続けていくつもりです。

                                以上

写真:三浦昭彦

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A Visit to a Japanese "Heike Village" in Dalian, China


The Zhenwu Taoist Temple, Jinding, Liangjiadian Village,
Jinzhou District, Dalian City, China.

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By Mitsuru SAKAIRI
We, the eight Japanese students at Dalian Jaotong University, China, prompted by a story in Kazuo SHIMADA's book, "A Memoire of a Manchurian Daily Newspaper Journalist," as appeared in the Harbin Momoyama Elementary School Graduates' Journal," visited on June 30, 2005, the Russian soldiers' tomb at Nanshan (see the photo below) and a village near Zhenwu Temple (see the photos above) in Jinzhou District, Dalian City, China, where the Japanese soldiers who deserted the Japanese Army or were captured by the Russian Army during the Russo-Japanese War of 1904-05, lived without any contact with the Japanese, even after the war ended and Japan leased the Guangdong Territory (Dalian City) 1905-45. As many Japanese celebrate the centennial of the war this year, we must not forget those who suffered so much as the results of the war.

Note: A "Heike village" is a remote village where the supporters of the Taira Clan (Heike) had to live, secluded from the outside world, as the Minamoto Clan (Genji) took over the hegemony of Japan in the latter half of the 12th century, and ushered in the Kamakura Period (1185-1333).

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Photos: Akihiko MIURA


Prepared by Yoshi MIKAMI, with help from Akihiko MIURA, on June 9, 2005. Last update: June 14, 2005.