大連広域市あれやこれや


夏家河子の流氷(うしろは鞍子山)
写真:猪瀬和道 2004.02.15.

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このページの内容:
A.大連
B.金州・大連開発区・金石灘

C.旅順

D.普蘭店市・瓦房店市

E.荘河市

English Part

A.大連

大連広域市は6区(中山・西崗・沙河口・甘井子・金州・旅順口)以外に、その北部に、西から瓦房店、普蘭店、庄河の3市、南東海上に長海県を含み、面積的には日本の大きな県(新潟県や長野県)と同じで、その北から西に営口広域市、蓋州広域市、丹東広域市と接しています。下に書いた以外は、中国の大学で日本語・コンピューターを教える大連方言について中国の山をハイキング新任日本語教師のオリエンテーション中国の会社で働くなどにも書いてあります。注:大連市の電話番号が7桁から8桁になり、局番の前に8を追加します。(2004.03.21.)

大連でテニス

この前の土曜日は、久しぶりにテニスをしてきた。IT業界の日本人友人を中心に去年の夏ごろから毎週やりだしたので、私も20年ぶりくらいに再開したもので、春節休みなどで1と月ほどサボったあとで、いってきた。夏は労働公園のテニス場(1日20元で予約はできない)、秋には自宅近くの中山公園のテニス場(予約ができて1時間80元)、冬は銀沙灘にある大連国際金融会議中心(IMFアジア地区教育センター)の国金網球館(予約が1面1時間180元、電話:8240-8644、08:30〜22:30開場)でやっていて、使用料は参加のみんなでシェアするので、2時間やって35元くらい。

大連の南海岸の銀沙灘へも、私の自宅から541路バスに乗って20分くらいで行けるので便利だ。この日の午前中は時間がなくなってしまい、昼食のサンドイッチを店で買って、バスの中で食べて、やっと12:00の開始に間に合った。ちょっと疲れ気味で、右肩も運動不足で少々痛かったが、少し経ったら慣れて、いい調子で練習もダブルスの試合もできた。大連にはテニス場は他に、各大学、ソフトウェアパークの知音苑、星海室内テニス場などいろいろあるが、冬場はしばらく銀沙灘でやることにしている。(2009.02.27.)

大連のおもな施設の新旧名称

大連のおもな施設について、各時代に於ける名称を記すと(まだテスト中!)、

ロシア領有時代日本領有時代現代中国
大連駅より東方面:  
ニコラエフスカヤ広場大広場中山広場
西広場友好広場
山県通り人民路
--横浜正金銀行大連支店中国銀行大連支店
--朝鮮銀行大連支店中国工商銀行倉庫
--大連ヤマトホテル大連賓館
--英国領事館、大連聖公会教会取り壊されて大連金融大廈、基督教白玉街礼拝堂
ダールニー商業学校満鉄本社瀋陽鉄路有限責任公司・大連本館
--満鉄図書館大連市図書館日本文献資料館分館
--満鉄病院大連大学付属医院
--大連長老派教会KFC@友好広場
浪花(なにわ)町天津街(歩行者天国)
--幾久屋百貨店海尊快捷暇日酒店Express by Holiday Inn
ダールニー市役所満蒙資源館大連自然博物館-->空き家
東清鉄道汽船会社満鉄本社-->大連ヤマトホテル-->満蒙資源館改築されて大連美術展覧館
--東本願寺、西本願寺、大連神社京劇麒麟舞台、取り壊されて大連外国語学院、解放小学
大連駅付近と西方面:  
--大連三越百貨店大連秋林女店
--大連高等商業学校 
中山路
--大連化工学院大連理工大学化工学院
--大連中学校軍人倶楽部
--大連第一中学校大連理工大学 成人学級
--大連第二中学校春天酒店
--大連第三中学校大連艦艇学院
--大連工業学校自来水管理公司
--大連実業学校海軍政治学院
--羽衣高等女学校理工軟件公司
--芙蓉高等女学校水仙小学
--満鉄試験場各種研究所・技術会社
--デンマーク・ルーテル派教会基督教北京街礼拝堂->大連市承恩堂
--メリノール会天主教大連教堂天主教大連教堂
--聖徳神社、聖徳太子堂華宮・中山公園、沙河口区老幹部活動室
--大連日赤病院大連医科大学第一医院
--関東州庁・広場大連市人民政府・スターリン広場-->人民広場
--大連競馬場ゴミ捨て場-->星海広場
--大連富士(山)台山
--星ヶ浦海水浴場星海浴場

旅順口区のおもな施設の同様な表はこちら。牛島五郎さんに感謝します。参照:満州写真館 大連市街地(2008.05.02.)

林海スキー場

厳寒下の1月週末、土曜日に老鉄山温泉に泊まった翌日の日曜日、あさ8:30の朝食後、バスで旅順北路を大連方面へ戻り、飛行場の少し手前で山に入り、林海滑雪場(林海スキー場)で、みんなで大騒ぎしてスキー服も帽子も手袋も靴も全て借りて、3時間ほどスキーで遊んだ。私ら外国人4人(台湾人を除く)以外は、すべてスキーは始めて。大連市内にある3つのスキー場(他は銘湖滑雪場と安波滑雪場、すべて人工雪)のうち、林海が1番近く、山に向かって左から初級400m、中級450m、上級1000mのコースがあり、上級コースのてっぺんからは、渤海のすばらしい眺めがある。3つあるリフトは、左の初級者用Tバーは止まっていて初級・中級兼用と上級者用が動いていて、私ははじめスイス人同僚と上級コースへいったが、コース全体がアイス・バーン状態で、すぐ転び、1000mコースの1番下の急斜面はハンドルできそうもないので、スキー板をすべらせて途中まで降りて、そこからすべり降りた。スイス人同僚は、ここもスイスイと降りて行って、うらやましかった。

私はスキーは学生のころよくJR飯山線(長野県)の戸狩(とがり)だっただろうか、毎年のように行っていたが、結局クリスチャニア(最近はパラレル・ターンというらしい=スキー板をそろえてターンすること)の手前で止まり、その後進歩してないというか、スキーはやっていない。そこでもっはら林海の初級と中級コースで、ターンする時にちょっと外側のスキーをボーゲン風に出して曲がる、クリスチャニアもどきを練習して(ここを見るとシュテム・ターンに近い)、最後にまた上級コースに再チャレンジしたが、最後の急坂がやはり怖くて、横滑りで降りて、途中から滑り降りたので、再チャレンジ不成功。イギリス人の同僚は背丈196cmの大男で、彼に合ったスキー靴は何とかあったが、スキー板がなくて、結局スノーボードを借りて、初めてなので、苦労していた。スキー板は中国語で「滑雪板」だが、スノーボードが出回ってから、スキー板を「双板」、スノーボードを「単板」と呼ぶようになって、なかなかいい言葉だと感心した。渤海からの寒風が吹き付けるスキー場で、またスキーをやってから温泉へという日本の習慣とは違っていたが、久しぶりに若い人たちのおかげで、温泉とスキーを楽しんだ。滑ってころんだ時に、エイヤっと起き上がる腕力が無くなっているのに気づき、これから少し腕立て伏せとダンベルで腕力を付けないといけない...(2008.01.13.)

大連にも新幹線列車がお見みえ

最近汽車にはあまり乗らないので知らなかったが、瀋陽への旅行で、瀋陽北駅から北京へはCRH(China Railway HighSpeed)という新幹線が走っているのを発見し(1日6往復、4時間、Dxxx次)、大連へ帰りは通常路線の上を走る、日本の新幹線列車そっくりさん「長白山」号(右の写真)に乗った。大連からの行きは通常のこれまでの中国製の特快(特別快速、T533次)で4時間、帰りはこの新幹線列車の特快(T546次、87元)で3時間半のはずが、少し遅れて3時間15分でした。レールに継ぎ目がある通常路線なので、ゴトン・ゴトンという騒音があり、あまり快適とはいえなくて、座席は通常の特快より狭いが、洗面所などはよくできている。2、3年前までは往復切符さえかなかった中国の鉄道も、2013年までに大連〜ハルビンの東北高速鉄道を始めは毎時200km、徐々に毎時300kmで走り、ハルビンまでの900kmを3時間で走れるように、起工式が長春で最近あり、大連の新幹線駅は南関嶺(北郊外)に作られるとの発表もあり、中国の鉄道も徐々に進化している。(2007.10.14.)

雑誌「Concierge大連」の最近号(2007年11月号)に中国の高速列車についての記事があり、CRH1、CRH2、CRH5があり、それぞれカナダのBombardier Transportation社(実際にはスエーデン子会社、青島の合弁会社で製造)、日本のJR東日本(青島で製造)、フランスのAlstom社(実際にはイタリア子会社、長春で製造)と契約して作っていることを知り、詳しくはnnaニュース(毎日送られてくるファックスニュース)を見てくださいとあって、昨晩のさる忘年会でこれを書いた人に会ったので聞いたら、私が瀋陽〜大連で乗った列車は長春の工場で作られた中国の設計・製造になるもので、2007年の4月ころから瀋陽〜大連を1日1往復走っているそうで、速度は毎時150km設計だという。また、フランスのTGVは機関車で牽引方式なので、各車両に牽引モーターがある方式を求めた選定にもれ、ドイツ国鉄のCRH3車両が唐山の工場で作られていて、瀋陽〜北京新幹線を走っているのがこれで(毎日4往復、直通・盤錦に停車・盤錦と錦州に停車など、毎時300〜350kmが目標)、先週北京〜天津の新幹線がオリンピックまでに完成予定が発表されて、武漢〜広州の新幹線が1番建設が進んでいるが、肝心の北京〜上海の新幹線は2010年ころにならないと完成しないと、ヤケに詳しかった。(2007.12.01.)

校庭に赤いバラがたくさん咲くとき

いま大連の公園や大学構内に、たくさんのバラが咲いています。野バラの1種なのでしょうか、日本や他で見るような1株に1つの大きな花が咲くバラでなく、小さな赤い花が群がるように咲き、とてもきれいです。西郊外の海事大学(軍隊・民間の船の乗組員を育てる大学)のまわりの堀に咲くバラが有名で、2003年5月連休に起こった中国海軍の潜水艦事故のことを思って、下の詩を書きました。

大連海事大学の卒業生にささげる

校庭に小さな赤いバラがたくさん咲くとき、
私たちは初めて逢いました。
遠い村のあなたと、
ここ海辺の町の私は。

私は笑いころげました、泳げないあなたのことで。
「田舎もの!かなづち!」
まもなくあなたは、私より力強く
泳げるようになりました。

平和の中で、黄海の突然のできごと、
父の死...

あなたは近くの丘で、一緒に海を見下ろしながら、
私をなぐさめ、力づけてくれました。

霧の夜、図書館の帰りも、
北風が吹雪をたたきつけるときも、
私たちは一緒でした。
寒さに強いあなた、手がすぐ冷たくなる私。

校庭に4年目の赤いバラを見たら、
私たちはまもなく巣立ちます、
海へ行くあなたと、遠い国へ行く私は。
海辺の町の、小さな赤いバラを心に抱いて。

(2007.06.16.)  

大連の文化とは

2006年11月21日の週は、日本で「大連ウィーク」があり、各地で様々な催し物がありました。その開幕式の折りに、アトラクションとして次のようなプログラムがありました:
  1. 少児舞踏 《歓天喜地》 大連少年宮
  2. 雑技 《単手技巧》 大連雑技団:時鶴袁、銭張偉
  3. [口小貝]吶(チャルメラ)独奏 《打棗》(ナツメの収穫) 大連歌舞団:胡存波
  4. 女声独唱 《我愛[イ尓] 塞北之雪》 大連歌舞団:干願願
  5. 雑技 《双人頂碗》 大連雑技団:章超、楊[女冊][女冊] 
  6. 二胡独奏 《寨馬》(競馬) 大連歌舞団:金玲 
  1. 武術表演 《中華雄風》大連実験学校武術隊、大連金石灘中華武館共演
  2. 雑技 《[足登]傘》 大連雑技団:劉麗[女那]
  3. 女声独唱 《小村之恋》(故郷はどこですか) 大連籍歌手 段品章
  4. 京劇演唱 《覇王(項羽)別姫》(選段) 大連京劇団:楊赤
  5. 民楽演奏 《大河奔流》(川の流れのように)大連第44中学民楽隊
  6. 「拍拍手」(幸せなら手をたたこう) 参加者全員
大連の代表的な文化の一面でした。私としては、民謡「東北揺籠曲」(東北地方の子守唄)、大連の交響楽団・弦楽四重奏団(あるのかな?)、秧歌(ヤンコ踊り)などが加わればよかったなと思いました。(2006.11.22.)

大連のリンゴ、焼きリンゴ、アップル・チョコ・グラッセ

大連は米国のニューヨーク州、日本の青森県・長野県などと並ぶ、リンゴの世界的産地だ。大連北郊外の三十里堡のリンゴはみずみずしくておいしく、毎年北京政府要人にも送られるなど、有名です。私が長野県育ちなので、子供の時にはよくリンゴを食べたし、成人してニューヨーク州に住んでいた時にも、よくリンゴ園で家族全員でもぎとりをしたりした。また最近私のコーヒーショップで「ニューヨーク風焼きリンゴ」(アイスクリーム添え)を出したら、大変好評なので、大いに気をよくしている。大連で1番広く栽培され、スーパーなどでもよく見るリンゴは、日本の「フジ」(富士)。

若い友人の結婚式で大連産のアップル・チョコ・グラッセ(萍果巧克力)の引きでものが出て、これは小野雅俊さんがアレンジしたものと分かり、宴席で彼から話しを聞いた。大連のリンゴ作りの歴史は1920年にさかのぼり、青森県弘前市の楠美冬二郎(くすみ・ふゆじろう)が故郷を引き払って大連へ来て、リンゴ(国光・紅玉)を植え、大連のリンゴ作りを指導して、1934年に死後彼の石碑が凌水のいまの解放軍駐屯地にあったが、文化革命時に壊され、台座だけがあるという。(数年前に大連市長に青森県の代表団を引き合わせて、リンゴの話が出たら、市長から佐賀県・岐阜県が盛んだろうといわれ、これは両県が最近大連で剪定などを指導したためだとわかった。) 小野さんは長らくみちのく銀行に勤め、その後弘前市の(株)ラグノオささき(社名の Ragueneau はフランス文学「シラノ・ド・ベルジュラック Cyrano de Bergerac」の登場人物)から頼まれて、大連工場(大連愛味思食品有限公司)を立ち上げ、いまは青森県と大連市(大連日報と青森日報)の友好関係促進に情熱を燃やしている。愛味思食品で作っているアップル・チョコレート・グラッセが日本人へのお土産としていいので、私のコーヒーショップでも扱うことにした。(1箱50元で、白チョコと黒チョコのものがある。) (2006.10.30.)

白昼堂々と携帯電話を強奪される!

大連もいい話ばかりではないです。以前から友人からは聞いていて、また大連駅の南口から北口へ抜ける地下道で友人2人がそれぞれ別の時期にサイフや携帯を抜き取られた話を直接聞いてはいましたが、きょうは白昼堂々と私が携帯電話を強奪されました、というより、3人組みのたくみなスリに会いました。日曜日の午後、青泥窪橋(大連駅前)で708バスがきたので、例によって15人くらいが多少押し合いしながら入り口に殺到し、そこで私に右前脇から「このバスはどこへ行くの」と2度聞く男がいるので、2度目に「黄河路へ行く」と答えるすきに、胸のポケットに入れてヒモをワイシャツのボタンにかけていたソニー・エリクソンの高級携帯電話(Sony-Ericsson S700c)を多分左側から強奪されました。私は1番あとから乗る寸前に気づき、1人に「やつらはあちらへ逃げていった」といわれ(彼も一味だったかな?)、バスに乗らず、そちらの方を見たが、犯人は走って逃げた(あるいはバスに乗って逃げた)あとだった。考えてみると、携帯電話はいつもワイシャツのポケットに入れているのは、たとえヒモをボタンにかけて安心していても、高級携帯電話を持っていますと宣伝しているようなもので、狙われやすく、また2・3人組みに狙われたら、たとえ気づいて犯人を捕まえても、知らぬ存ぜずで、警察へ突き出すにもこちらが男2人でもない限り途中で逃げられて、どうしようもない。同じポケットにはパーム・コンピューターと預金通帳も入れて持ち歩いていて、またズボンのお尻のポケットには財布もあったので、それが取られなかっただけでも幸いと思いました。日本ではこれまで不思議とスリや強盗に遭ったことはなく、また大連へ来ても5年間何もなかったので安心していて、やっといまスリと強盗に近い経験をして、会社の同僚からは中国のことわざ「旧的不去、新的不来」でなぐさめられました。携帯を盗まれてすぐ取った措置は、ここを見る。 (2006.07.30.)

冬の楽しみは温泉、温泉プール、スキー場、音楽会、ホームパーティー

大連の冬の楽しみはまず温泉と温泉プール。以前は少し遠い所にある安波温泉と龍門温泉があったが、最近海事大学前の温水プール(少し寒いぞ!)、旅順の老鉄山温泉(水泳プールはない)、旅順南路・龍王塘の水上人間(50mプール・沖浪海辺がありいいが、温泉がいまいち)、開発区の凱倫国際温泉クラブ Kerren Int'l Spa Club(温泉は清潔だが、水泳プールが32mで短い)、荘河市北の歩雲山温泉ができた。スキー場も充実してきて、2年くらい前に安波温泉の少し東側に安波滑雪場ができ、また最近大連市区に近い林海滑雪場、瀋大高速道路の金州のすぐ北の砲台出口の銘湖滑雪場もできた。音楽会は相変わらず中山広場の大連人民文化倶楽部、毎年日中音楽会がある青少年宮のホールだけだが、ホームパーティーを音楽会風にやる人も出てきて(実はここで久しぶりにフルートを吹いたが、「音が出ていました」という評価でした)、多彩になってきた。(2006.01.22.)

大連の大晦日・春節TV番組

今年は1月1日の正月休みは日本へ帰り、大晦日のNHK紅白歌合戦を久しぶりに見たが、知らない歌ばかりで、途中で見るのを放棄して、除夜の鐘も聞かないで寝てしまい、多少ショックでした。(12チャンネルで懐メロ歌合戦をやっていたのでこれを見れば良かった。)1月29日の中国の春節は、大晦日のテレビ番組(中央電視1台)は海南島ツアーのホテルで見て、今年は小品(寸劇)が多くて、趙本山(東北地方の有名俳優)は出てきたが、歌があまりなく、でも24:00前にホテルの爆竹が目の前で見れて良かった。春節の日の夜に大連へ帰り、初二からは中央電視3台(音楽)の「同一首歌、走進美国。2006新春歌会」という番組が面白くて、繰り返し放映されたので、よく見ました。ニューヨークの「広播城音楽庁」(ロックフェラー・センター洛克菲勒中心のRadio City Music Hallのこと)で在日中国人を集めて、米国人の中国語の歌・劇などもやり、次に中国の(過去に)有名な歌手が歌う番組で、中国の劉歓が「弯弯的月亮」(これは小学唱歌のたぐい)、毛阿敏が「緑葉対根的情意」、「Time to Say Good Bye」を歌い、孫楠(大連出身)が「不見不散」、「I Believe」を歌い、香港の歌手も広東語で歌い、台湾の歌手はなぜか台湾語でなく北京語で歌い、最近中国の歌に慣れてきたので、私はずっと以前このホールで家族と音楽をきいたこともあるので多少の共感もあり、大変面白かった。(2006.02.04.)

南方の果物:マンゴスティン、ドリアン

中国・大連では日本の果物屋で高く売っている南方の果物が安く買え、食べられます。マンゴスティン(石竹Shi2-zhu2)は日本では食べたことはなかったのですが、甘酸っぱくて、おいしくて、よく街頭で買って食べました。最近食べたのはドリアン(榴蓮Liu2-lian2)で、これはカルフールなどのスーパーで1個40元くらいで買うと、そこでトゲトゲの皮をむいてくれて、1度には食べられないので冷蔵庫へ入れておくとくさいので閉口しますが、とにかくうまい!(十分熟していて、しかも腐ったところがないのを選ぶのが難しい。)ブンタン(柚子You4-zi、ミカンの大きなもの)もスーパーで皮を取って、中身をビニールで包んでくれて、甘酸っぱい味が大変いいので、自分で食べるだけでなく、友達に夕食に招かれた時のお土産などにもしています。ブンタンは中国国内産ですが、マンゴスティンとドリアンはタイからの輸入品です。(2005.01.16.)

大連の冬は、流氷見学!

去年2月中旬に旅順北路の夏家河子から鞍子山に登ったら、北側の渤海が夏家河子からまっすぐ北の線の右側、つまり金州湾が前面凍っていて、その左側は大海原なのを発見して(この時は私は鞍子山から北側へ下りて、安子寺から夏家河子まで1時間ほど歩いたので、寒くて流氷を目の当たりに見ずに帰ってしまった)、大連は不凍港だという先念感があり、信じられないような発見でした。すぐ友人の猪瀬和道さんへ話したら、さっそく取材に行ってレポートを書いてくれました(上の写真)。(それからあとで福井憲さんから聞いたのですが、中革の近くの大連ゴルフ場は1年中やっているので、冬にここでゴルフをやる人たち(おもに韓国人)は金州湾が凍るのを知っているそうです。) 今年も1月末に、この大連の流氷を見に夏家河子へいってきました。大連ラマダ・イン(九州飯店)の裏から夏家河子行きのバスが出ているので、これに乗って(飛行場前を過ぎて中革(以前の革鎮堡)までが1元で、それからは2元)、終点の夏家河子で降りるとそこがすぐ夏家河子海水浴場で、すでに前面が凍っていました。道路の向かい側にある大連鉄路療養院の入り口のガードマンたちによると、12月末から3月末まで凍っているそうです。今回はここからオートバイに5元払って安子寺まで乗せてもらい、そこから鞍子山へ登って、由家村で旅順南路へ出て、そこからバスで大連市内へ帰りました。(2005.01.23.) 注:猪瀬さんが最近書いた報告(苗清さんが中国語へ翻訳)が載っている中国語雑誌「東北之窓」を送ってくれました。大連の流氷を冬の観光資源にしようというのが彼の主張です。去年の彼の写真をよく見ると、各1メートル位の氷の盤の周りに海水が見えて、本当に流氷のように見えるが、今年私が見たのは、各氷の盤が盛り上がったりしているが、前面が凍っていました。(2005.01.27.)

端午節は五彩線で

端午節は旧暦5月5日、日本の5月5日、子供の日の起源で、いろいろと奥深いものがあります。国民の祝日で、春の一番いい季節であるゴールデンウィークの中心で、端午の節句と呼ぶ人はもう少なくなったが、柏餅は大体の人が食べるし(ただし自分では作れない)、甘いお菓子のようなチマキは食べる人は少なく、戸外には鯉のぼりを掲げ、家の中では5月人形を飾ります。本場中国の端午節も結構奥深いものがあり、中国に来て3年目の今日はいろいろなことを他人のためにしてやる余裕が出てきました。まず、この日は祝日ではなく、前々から旧暦5月5日はいつか調べておく必要があり、チマキを前日6個買っておきました。(中国の子供の日は6月1日、国際児童節で、休日ではない。)この日朝ジョギングするため朝外へ出たら、中山公園の脇でヨモギと桃の実がなった1枝をたばねたもの(艾蒿、Ai-4 hao-1)を売っていたので、5毛で買ってきて、泥の付いた根元を切り捨てて、戸口に置きました。朝の食事は前日買ってきたチマキ(粽子)を蒸して砂糖を付けて、またゆで卵を作って食べました。これが習慣なのだそうです。注:中国ではチマキを自分で作る人は多い。1年前に柏の葉を山から5〜6枚取ってきて、煮て、乾かして、もち米粉で柏餅を作ったが、あの日本の柏の鼻緒香りが出なくて、ウマクゆかなかった。

会社では五彩線の習慣を教えてくれる人がいて、昼休みに会社の近くの市場へ行って、雑貨店で五彩線を買ってきました(糸玉から1メートル1元で売ってくれる)。この日の夕方、聖書を読む会があり、日本の友人たちがうちに集まったので、まだチマキを食べてない人には食べてもらい、チマキのいわれを皆で復習をして(戦国時代に「楚辞」、「離騒」などを書いた屈原Qu-1 Yuan-2が自分の主張が入れられないので、川に身を投げて自殺するが、村人がチマキを川へ投げて、彼が魚に食べられないように祈った)、五彩線を皆の腕に巻いてあげた。これは主に子供にやってあげる習慣で、足に巻いても良く、その後始めての雨の日に取り去る。端午節の英語訳であるDragon Boat Festivalというのは、ここ中国北方にいるとドラゴンボート・レースの習慣がないので、むしろ端午の元の意味のChinese Summer Solstice(中国の夏至)あたりがいいと思います。(2004.06.21.)

大連青少年宮

大連青少年宮が人民広場の西南隅にあり、これは青少年の課外授業に使われていますが、そこに講堂とプラネタリウムがあります。講堂(影劇院)は600人くらいの観客を収容できる階段式ホールで、11月末の日曜日午後に大連国際音楽倶楽部と中山区青少年管弦楽団の合同演奏会がありました。音響効果はいまいちですが、日本からも多くの人がこのために駆けつけた国際音楽倶楽部の第9回、青少年楽団との競演は第5回だそうで、大変な熱演でした。講堂は東側から入場でき、今回は無料でした。(2003.11.23) 

青少年宮の西側の瀋陽路から入館するところの6階にはプラネタリウム(天象庁、右上の写真)があり、1986年に完成し、直径8m、補助椅子も入れると120人収容でき、天象儀はドイツのCarl Zeiss製。現在は毎土曜日の9:00無限之宇宙、10:00天空馬戯団(主に黄道12宮の話)、11:00奇妙的天象の出し物があり(各大人8元、子供6元)、後の2つを見ました。私は大学生のころよく東京・渋谷の五島プラネタリウムでを見にいったので(すでに閉鎖、あとでできた池袋のはまだやっていると思う)、なつかしく、12年位前に上海の少年宮のプラネタリウムも見ているので、この日は大変心が洗われる思いがしました。解説員の胡静さん(367-2188、130-0940-6745)とお話ししたら、北京天文館(動物園のそば)で訓練を受けたそうで、大連にはこの他に遼寧師範大学(中国製)、海事大学(日本製)、老虎灘の艦艇学院(中国製)にもあるそうです。(他は開放はしていない。瀋陽やハルビンのは壊れているそうです。)日本人の生徒を10人くらい一緒に連れてきて、隅で日本語の解説をしてもいいかと聞いたらOKといっていたので、いつかボランティア活動をしてもいいかなとも思いました。そういう場合は、プラネタリウム脇の売店で「活動星図」(回転式製図)をあらかじめ買ってきて、黄道12宮(白羊座・おひつじ座、金牛座・おうし座、双子座・ふたご座、巨蟹Ju4-xie4座・かに座、獅子座・しし座、室女座・おとめ座、天秤座・てんびん座、天蠍Tian1-xue1座・さそり座、人馬座・いて座、摩羯Mo2-jie2座・やぎ座、宝瓶座・みずがめ座、双魚座・うお座、ただし春分に太陽がある白羊宮は今うお座にあり一つずつずれている)やその他の主な星座(仙后座・カシオペア座、仙女座・アンドロメダ座、御夫Yu4-fu1座・ぎょしゃ座、猟戸座・オリオン座)や天狼星・シリウス、牛郎・ひこぼし(牽牛、アルタイル)、織女・ベガなどの中国語用語を少し勉強してから行くいいと思います。太陽系の名前については、行星(惑星)以外は、水星、金星など日本語と大体同じです。(2003.12.06.)

中山公園

中山公園は黄河路と東北路の交差点からは「華宮」と呼ばれる中国式城門が見える公園で、私は大連へ来て3年目にこの公園へ2〜3分で行けるところのマンションへ引っ越してきました。7月に多くの樹木を植えて新装開園になったもので、私はこの公園を回る道をジョギングするのが好きで、公園のあちこちでみんなが太極拳やゲーム(ゲートボール場もある)をやっています。中国の公園にしてはめずらしく樹木の名前のある札がかかっており、「刺槐」(ニセアカシア)、「木槿」(ムクゲ)、「雪松」(ヒマラヤ杉)、「灯台樹」などいろいろと名前を覚えられます。公園の北側に北九州市・舞鶴市との友好記念碑があったりするのも面白いが、一番興味があるのは、孫中山の銅像の説明に、ここは1911年に日本が聖徳太子堂(現在の沙河口市老幹部活動室)を建て、戦後1946年に中山公園と改名されたとあり、またこの銅像の南前方の左手に2つの古い石碑があり、昭和9年(1931年)に継之宮殿下誕生(のちの平成天皇)の記念として聖徳区役員一同が建てた、もう1つには永平寺総監が立てたという説明があり、さらに黄河路側に聯徳路の方面へ下りて行き黄河路の歩道に出たところの右にある石碑は「千三百年期記念」(聖徳太子の崩御1,300年記念?)とかすかに読めます。こうした日本占領時代の物がそのまま残っているのは、大連でもめずらしい。華宮の裏には骨董品街があるが、大変さびれているので、フラマ・ホテルの裏の工芸品市場へ行くのがいい。(2003.10.07.)

すぐ上で述べたマンションに2年住んで、朝は週に2回くらい中山公園でジョギングしたりしたあと、大連へ来て5年目は、中山公園の斜め対面のマンションへ引っ越しました。インターネットで調べ物をしていたら、この聖徳太子堂(いまの老幹部活動室)は去年大連市重点保護建築に指定されたことを知りました。公園の東北側の長興街に朝市があったのを思い出して、きょう早朝行ってみたら跡形もなくて、周りを探したら、公園の西側(聨合路)の半地下に市場ができていて、大変清潔で、野菜や中国式パンなどを買ってきました。この市場の上は、公園の西側にゲートボール場などがあったところで、老人の憩いの場所だったのを、すべてテニス場に改装中です。(2005.08.24.)

プロ・サッカー

11月末の日曜日午後、大連体育場に大連実徳隊と北京国安隊のプロ・サッカー試合を見にいってきました。大連はこの試合に勝つと今期前半の優勝で、北京が勝つともう1つ試合があり、それに勝つと北京が優勝という出会いのため、大量にタダの券が配られたのを前々日に貰いました。結果は大連が2対1だったが、大連がほとんどボールをキープして圧勝し、優勝を決めました。サッカー試合を見るのに3つほど注意:1)9台から14台の観客席(看台、the 9th to 14th bleachers)あたりが正面スタンド(主看台)の反対側に当り、入り口が五四路の反対側なので、デコボコ道を大分歩かされる、2)試合開始の1時間前に行っていい席を確保しないと、試合開始後は入り口を閉めているところが多い、3)席は通路から離れたところに確保し、通路の人が立って見始めても、席から試合場を見れるようにすること。私はスポーツをテレビで見たり、直接見にいったりする趣味はないので、2中の違いは分かりません。(2002.11.24.)

大連軽軌

大連日本商工クラブからおさそいがあったので昨日(2002年10月)、大連市快速軌道交通3号線の試乗会に参加してきました。いま大連のみなさんは「快軌」、または北京の新しい地下鉄13号線にならって多分「軽軌」と呼んでいると思いますが、この交通機関は全長50km弱を(大連火車站-->は未完成)香炉礁-->金家街-->泉水-->后塩-->大連湾-->金馬路-->開発区-->保税区-->(高城山)-->双D港-->(小窒湾-->黄海大道)-->金石灘、と約1時間で結ぶものです。括弧内()は「預留站」(予約駅)で未完成で、香炉礁から大連駅までの路線は来年完成だそうです。この日は朝9時に香炉礁站(香炉礁橋の北東側にある)を出発、大連機車(DLoco)製の試作電車は窓が広くとってあり、座席もゆったりとしていて、つり革もなく、快適で、約55分で金石灘站に到着しました。途中、大連造船所新廠の脇を通り(アラビア文字を書いた大きなタンカーが建設中)、瀋大公路の椒金山トンネルの東側でトンネルに入り(この手前に金家街站がある)、開発区のど真ん中を通り、保税区あたりでは大黒山がよく見え、双D港の真中を行き、双D港から金石灘への途中の左右の山は紅葉していて、大変いい観光ルートと思います。

10分ほど金石灘駅前で休んで、そのまま香炉礁駅へ帰りましたが、いまタクシーで80元の開発区と、いまどうやって行くのでしょうか双D港が、大変身近に感じました。最近、開発区に大連理工大学のソフトウェア学園の用地が決まり、双D港に大前研一の協力も得て「データ・ポート」が始まっており、これらの地域が大分便利になってゆくと感じました。全線の使用開始は来年4月8日で、金石灘まで10元の乗車賃で、全体の建設には20億元かかったそうです。注:この路線の軌条は中国鉄路全体で使われている標準軌(1,435mm)だと、同乗のエンジニアらしい方々が教えてくれました。(大連の市電もこの軌条幅。)日本の鉄道はおおむね狭軌(1,067mm)で、新幹線のみが標準軌、シベリア鉄道はこれより広い広軌(1.520mm1、第2シベリア鉄道BAMは標準軌)、中国でも雲南省からベトナムに行くフランスが建設した鉄道が狭軌(1,067mm)です。(2002.10.2.4) 追加:2003年2月の旧正月から正式運転が始まり(初電8:00でその後90分おきに、全線10元)、5月の連休からは初電6:30、終電18:30で、20分おきに運転されるようになった(香炉礁〜開発区の片道料金は3元、単程票という再利用可能のプラスチックカードをくれて自動改札)。(2003.05.11.) 注:2004年10月1日からだったと思いますが、香炉礁から大連駅まで延長されて、大連駅北口から3分ほど離れた軽軌駅から開発区を通って金石灘まで行けるようになり、大変便利になりました。(2005.01.29.)

水泳プール

大連には水泳をできるところが沢山あります。夏の海水浴は無料のところ以外に、有料の棒木垂島(ぼうすいとう)、金沙灘、遠く旅順の塔河湾などで楽しめます。私は2か月前からプールで泳いでいます。プールは傅家荘の彦年海水游泳館(傅家荘バス停で下車)、星海広場の北端の大連市民健身中心(会展中心バス停で下車、Tel. 480-0870)ででき、後者は25米プールで6レーン、入場料は1回券が25元で時間制限なし、または300元のチケットで16回入場でき(1回が21元相当)、他に月間有効または年間有効(660元)のチケットなどがあります。必ず帽子をかぶることなど日本の水泳プールと大体同じですが、時々プールサイドでも平気でつばをはく人がいるので、滑らないように注意!(2002.10.13.)

京劇

京劇を3月末の土曜日に、舞台で生まれて初めて見ました。戦前の東本願寺はいま大連京劇団麒麟舞台となっており、ここは大連外国語大学の正門前の勝利路を西へ50メートルくらいいったところで、午後2時から3つの各20分の京劇抜粋を外国人用に演出してくれたのを見たものです。

出し物は、「楊門女将・探谷」、「秋江」、「孫悟空大閙天宮」。「探谷」は宋代に西夏軍を相手に戦う楊一家の3姉妹とその首領である余太君が深夜幽谷に入り芝刈りの老人に会い敵を攻撃するのに便利な早道を得る(3姉妹の着物、老人との対比が面白い)、「秋江」は尼寺に寄宿中の書生・藩必正と恋に落ちた陳妙常が臨安(杭州)へ行った彼を追いかけて途中で秋江を船で渡る(若い娘と先導の老人がゆれる船での掛け合いが面白い)、「孫悟空」は西王母が催す宴会に招かれなかった孫悟空が会場で大暴れして花果山へ引き上げたのを、天の玉帝がが怒って様々な神兵に討伐を命ずる(孫悟空が智慧と技ですべてを打ち負かす)という内容でした。全部で1時間くらいの抜粋なので、大変面白かった。この京劇団は、1990年代に日本・韓国・ヨーロッパに公演旅行した写真などが、掲示してありました。(2002.03.23.)

音楽会

大連で音楽会に行く機会がありました。1つは2001年12月4日(火)19:00〜「チャリティー・コンサートの夕べ」で、大連リラの会(日中友好を目的とした日本の婦人会)が主催して、大連森ビル24階で行なわれたもの。女性のQuartet Mozartiana(松本光江、飯田真基、石田由利子、柴原玲子)が、モーツァルト弦楽四重奏曲・ミラノセットから(K.157)とハイドンセットから(K.464)、ドヴォルザークの弦楽四重奏曲「アメリカ」(Op.96)を演奏した。

もう1つは、12月28日(金)19:00〜に、中山広場の東北にある大連人民文化倶楽部で行なわれた「新年音楽会」(写真右)で、中国広伝播民族楽団(指揮、彭家鵬)が、中国の伝統音楽「二泉映月」、「黄土情」、「瑤族舞曲」など10曲を演奏。すべて中国の伝統楽器だが、コントラバス4台、チェロ3台が加わっていた。12月始めからこの建物に大きな看板が出て、チケットの申し込みは263-3797/5233/3797(大連市文化局 http://www.dlstage.com.cn )で、「郵政局:185免費送票」と看板にありましたから、ここへ電話すると指定した住所・氏名へチケットを人が届けてくれ、現金と引き換えでした。値段は甲280元、乙260元、丙240元。アンコールで3曲が弾かれ、3曲目がラデツキー行進曲で、ここで皆が手拍子を取る中を、市長などの要人が退場したのは、面白い習慣だと思った。

アイス・スケート

冬の大連の楽しみは、何といってもアイス・スケート。まず、鈴木滑冰場というのが労働公園の南東隅の外側にあり(七七街が労働公園へつきあたるところ)、中園娯楽広場のボーリング場(愛宝保齢球)の2階にあります。ただし2001年1月現在は修理中で、3月中旬から再開するそうです。朝9時から夜9時までで、2時間20元だといってました。ボーリング場の電話が230-8080へ電話して確かめてからいくといいと思います。

次に、児童公園の民澤湖(写真左)で1〜2月に屋外スケート場ができる。この池の西側を仕切って1周200メートルくらいのリンクを作り、東側は子供が氷上そりをやれるようになっていました。(氷の厚さは20センチくらいだそうです。)入場料3元で1日中滑れて、貸しスケートは2時間20元で少し高かったが、正月の3日にあさ10時から12時まで滑って楽しみました。ただし暖かい日は11時くらいになると、氷の表面がチョット荒れてきました。あさ6時から滑れるそうです。それから、ニューマート(新瑪特商場)の3階にも小さい屋内スケート場ができて、滑った人の話も聞いたのですが、私はお客さんが滑っているのを見たことがありません。アイス・スケート靴は大連体育商場(友好広場のWilliam's Cafeの裏)とマイカルにいって買おうとしたら、いいサイズのがなくて、オリンピック広場の体育場にある数軒のスポーツショップにローラー/アイス・スケート専門店があり、180元で買ってきました。日本人の悪いクセで、まけてもらう交渉を忘れました。学生たちからは「先生、半額の90元から値段の交渉を始めるものです。」といわれました。(2002.01.22.) 土曜日の朝に708バスに乗って、3年ぶりに児童公園へいって、朝7時半から9時ころまで滑ってきた。前年に児童公園が改修されて、公園の北側にあったレストランやスケート靴などを貸してくれる小屋などがなくなっていた。スケート場として面倒を見る作業も怠っていて、入場料はタダだが、氷面はガタガタで、滑りにくい。ただし、南側の釣り台のそばで朝7時から個人で貸しスケート靴をやっている人がいて、1時間10元。今年は1月1日からスケートをやってもいいようになったそうです。(2005.01.15.)

コーヒーショップ

コーヒーショップに、いくつか面白いところがあります。三八広場から職工街を北西へしばらくいった右の「名典珈琲語茶」(職工街58号文園大厦、272-8283)は、籐椅子が天井からブラブラと下がっていて、クラシック音楽専門の店。同じく三八広場ちかくの五五路を北へ60メートルくらいいったところの良運大酒店に向かって左にある「陶怡楽口+巴」(Tao1-yi2-yue4-ba1、五五路10号、272-7117)では、陶器を作る遊びがタダでできます。作った陶器を30元で焼いてもらうこともできて、素焼きは2週間後、うわぐすりをかけると4週間後に受け取れます。アメリカン・コーヒーショップのおすすめは人民広場の少し南、ゴーリキー通り(高尓基路)と記念街(北京街の1つ東)の角にある日本料理店「花」の隣りの「I−55」(西崗区高尓基路67号、369-5755)。米国人(Matt & Elaine)がオーナーで、金曜日の夕方19:00〜21:00は多くの人々がお互いに英語会話を楽しみに集まっています。

B.金州・開発区・金石灘

金州は、大連の1つの区で、東部に経済技術開発区と金石灘がある。もともと100年前に大連ができる前には、このあたりでは金州が最も知られていた。長江原規著「金州歴史の旅」(大連日本商工クラブ会報、第11・12号、pp.9-16、1998年4月に掲載)によれば、下記の唐代と日清戦争以来の歴史があるだけでなく、東郊外に15世紀初頭の倭寇の侵入の歴史もあるという、昔も今も日本と関係の深いところである。

春5月末のある日曜日に教会の仲間と午後1:30にスイス・ホテルをバンで出発して、開発区の炮台山公園でアカシアの花を見て(北側の哈爾濱路・黄海街の北門から入って、左へ行きアカシアの花を見て、中日友好桜花園から砲台へ寄り、景観台からさらに北の東屋でスナックを食べて、北門へ出た)、金石灘の海岸を見て(金石路の金石灘入り口からすぐ軽軌の踏切を渡り、会画へ出て、金石観園・高麗城島に寄り、凉水湾の浜辺の魚屋でショッピングをして、恐竜園で写真を撮り、金石灘ゴルフ場入り口まで行った)、7:45に大連の自宅へ帰りました(1人50元)。(2003.05.25.)

2001年11月のある土曜日に、日本語教師約20名があさ8時に松山賓館に集まり、小型バスJingbei(トヨタのバン、HiAce)に乗り金州見物に出かけた。8:35分に開発区の金元大酒店(the Golden Imperial Hotel)に到着、開発区で日本語を教える人達をピックアップ。9:00に出発、五一路でYKKの工場などを右に見て、収費站を経て、解放路を通り、9:20に金州の中心街、向応広場へ。この広場には関向応(1902〜1946)の銅像がある(写真右)。彼は中央政治局委員を勤めた金州の人で、毛沢東が贈った碑文もある。広場の北側に金州博物館があり、館内に20世紀初頭の金州の街のパノラマがあるというが、いまはすぐ北側に建物を新設中で、残念ながら閉館していた。

この時から3年半以上経って、友人が金州にある大連外国語学院国際培訓学院(金湾路@五一路、消防署の斜め向かい)を訪問するのに車で同伴し(裏の南山小学校の前の道にネムの木が満開!)、そのあと金州博物館(Tel. 0411-8780-4717、館長室は8780-5231;入場料は3元;入口の題字は郭沫若)を初めて訪ねる機会がありました。今も新館は建築中で(地下を掘っただけで建築は全然進んでない!)、この博物館(大連市重要保護建物の1つ)は1927年に金州民務会所(町役場)として作られた建物を、戦後1958年に中国では初めての県級の博物館としたもので、2階に1号室と2号室で金州の古代から現代までの歴史を各時代毎に学び、1階の展示室には金州城のモデルが中央にあり、四方の壁の説明で詳細を学べるようになっている。王明成館長は不在で、徐建華副館長が居られたので、1)金州城の城壁がほぼ和平路(南)、北山路(西)、八一路(北)、東山路(東)に沿って建てられ、中央に関帝廟があり、そこから南街、北街、東街、西街が出ていた、2)この城内には2400戸(約2万人)が住んでいた、3)1931年以降1940年代には金州区大魏家鎮稲香村一帯に日本人(特に愛媛県人)が移民し、中国人との通婚もあり、その子孫も今も居る可能性はある、などを離してくれた。博物館の展示から、日本が租借した関東州の範囲は、いまの大連市6区(金州区を含む)と大連広域市の普蘭店市の最南端である普蘭店市駅から東の皮口港へ行く道路に沿った地域までで、明・清時代は金州庁と呼ばれた行政区域だったと分かった。(2005.07.13.に追加)
博物館の西側の道(南北)の斯大林路(スターリン路)は歩行者天国になっているが(そこに面して、戦前デンマークの建てたルーテル教会が、最近新装なって大きな教会堂になっているのが見えた)、バスで回り道をして、北側の民生路にある「金州副都統衛署」を復元したところにいった。ここは建築は終ったが、まだ正式には開館しておらず、少し待って特別頼んで入ると、敷地の一番奥左側に正岡子規が
金州城にて 「行く春の酒を たまはる陣屋哉」
と詠んだ句碑がある。(紀元2600年、1941年に建立)子規は日清戦争が終結した直後の1895年4月、森鴎外・中村不折らとともに新聞「日本」の従軍記者として金州に来て、5月のある夕方にもと松山藩主が近衛兵団の副官として来た時に、夕食に招かれてこれを詠んだ。ここを出て、阿爾濱飯店でトイレ休憩。

11:00に北山路のさらに南にある、小高い丘、南山へバスで到着。ここは日清戦争、日露戦争、第2次大戦の末期に戦闘地となったところ。まず左手にロシア軍の墓地があり、奥に無名戦士の墓(写真左)を見る。

「Да будеть Воля Твоя.1904-05.
Въуная память」
(ここにお前の自由があるであろう、1904-05、戦士の墓)
などのロシア語文字が見える。(古い表現のロシア語なので、初学者の私には分りにくく、上の訳は多少まちがっているかも知れない。)まわりは小さなアカシアの潅木があり、5〜6月には蜜蜂の巣箱が沢山置かれるという。もどってさらに登ると頂上に達し、そこからは西の渤海湾の海岸線(そこは以前塩田で、そのため金州は金持ちであったという)、北の金州市街、東から南にかけて大黒山(往時は大和尚山と呼んだ)と黄海の海岸線などがよく見える。頂上直下にあった、日露戦争・南山戦勝記念碑と乃木希典大将の「金州城外に立つ」という碑は、いまは旅順博物館にあるという。11:50に斯大林路に面した金州賓館に着き、昼食。

13:15に金州賓館を出発、全興路・金東路から東へ向かい、金州水庫(ダム)あたりで右(東)へ曲がり、13:45に響水観へ到着。大黒山の西麓で、この2千年間水が絶えたことがないという泉、瑶琴洞という鍾乳洞のようなところへ入って見学。14:30にそこを出発、14:30に朝陽古刹(仏教のお寺)へ寄る。般若信経(観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時...)をパーム・コンピューターに入れていたので、そこの和尚さんに見せて聞いたら、中国のお寺でもよく使うお経という。

15:00に出発、大黒山の見晴らし台、大黒山山城跡にバスで登る。ここは7世紀に唐の太宗李世民が荘河まで行って高麗を攻めたときに、3か月滞在したという。このすぐ南下の唐王殿(石鼓寺)の中に、李世民とその部下の像が祭られている。朝陽古刹に戻り、ちかくの農家の野菜・果物・ひょうたんの青空市場で買い物をして(写真右)、滴水壷鉱泉水・公安部前衛学校の前を通り、五一路・収費站を経て、16:05に開発区の金元酒店へ寄り、16:00に大連の松山賓館に帰りました。各自200元の日帰り小旅行でした。なお、この小旅行は、郷土史研究家の森川行雄さんと、金州在住の通訳・干暁霖さんが同行しました。次の機会に、老虎山(北山)や郊外の倭寇来襲の遺跡などを訪ねてみたい。[2001.11.17.](大黒山の登山経験はここを見よ

大黒山の東にある観音閣勝水寺の縁日(廟会 miao4-hui4)に行く機会がありました。これは旧暦3月16日を中日に前後3日行なわれる、大連で唯一の大きな縁日です。大連の香炉礁駅から9:10発の快軌に乗り(片道10元)、ついでに終点の金石灘まで行って、すぐ折り返して開発区駅で降り、タクシーで大連大学まで行き(20元)、そこから人ごみの中を1時間歩いて射撃場まで行き、さらに山道を30分登って勝水寺に着き、そこで30分くらい過ごして、そこから下って大連大学まで戻り、小型バスで大連へ帰りました(6元)。昼食をどこかで取ろうと思って、途中の出店は回族の串焼きや朝鮮族の「打[米羔]」(もちつき)もやっていておいしそうだったが、非衛生的なので止めました。でも、春の1日を、前面に満開の桜を見て、大黒山をながめて楽しみました。[2003.04.17.]

C.旅順

旅順のおもな施設の新旧名称

この土日に旅順生まれの日本人のツアーに便乗して、旅順へ泊りがけで行ってきた。旅順の外国人への解放も間近かといわれ、日本・ロシア・韓国(アン・ジュングン(安重根)が処刑された日ロ監獄を訪れる韓国人も多い)などからの外国人の訪問も増えているので、旅順のおもな施設について各時代に於ける名称を記すと、

ロシア領有時代日本領有時代現代中国
旧市街:  
(不明)旅順市役所新瑪特スーパー右の商業ビル
(不明)旅順民生署(中国人管理所)海軍第52538部隊 試験試航招待站
(なし)朝鮮銀行旅順支店中国工商銀行旅順支店
(なし)旅順第一小学校海軍施設(長江路南三巷から左へ)
赤十字病院旅順病院・医学専門学校|海軍施設(北口に旅順口区医院)
(なし)関東高等法院関東高等法院遺址(旅順口区医院内)
旅順監獄(もともと灰色レンガ作り)旅順監獄(赤レンガ作りで拡大)日ロ監獄(反帝国主義教育施設)
(なし)デンマーク・ルーテル派教会基督教旅順礼拝堂
(なし)表忠塔白玉塔
(なし)朝日広場友誼公園
新市街:  
(不明)日本橋(龍河にかかる)解放橋
ロシア海兵団旅順工科大学海軍四〇六医院
(不明)旅順高等学校海軍施設(司令部)
ドイツ豪商のデパート旅順(第一)中学校海軍施設(斯達林路58号)
狙撃兵第十連隊下士集会所旅順第二小学校大連市五十六中学
ロシアへ帰化した巨商記鳳台の商店旅順ヤマトホテル1F商店・2F旅館
(不明)旅順高等向学堂・第二中学校(建物はあるが使用せず)
写真屋・市役所・ロシア料理店旅順高等女学校海軍関係者のマンション群
(不明)児玉グラウンド軍港に接したグラウンド
(不明)後楽園旅順博物館苑区の公園

資料:「旅順工大90年史」の「露治時代の旅順(抜粋)」に引用された「露治時代の旅順」(旅順図書館、1936)などから。なお、旅順口区政府(区役所)は2005年に郭水公路(北郊外、郭家村〜水師営)へ移転した。海軍施設は設備名称は書いてないが、分かっているものは書いた。

旅順口区以外のおもな施設の同様な表はこちらWikipediaの記述のもとになったもの。(2008.04.26.)

横山寺

ここは大連滞在5年目の記録です。旅順南路の龍王塘で水上人間(温水プール)を過ぎたところに「横山寺へは右折」という看板があり、以前から気になっていたので、4月下旬の小春日和の午後に、愛車を飛ばして龍王塘公園の桜見の下見に行き、満開までは少なくともあと1週間くらいかかることを確認して(例年は4月20日くらいが満開なのに、今年は遅い)、そこから山の方へ入り、龍王塘のダム湖を左に見て、しばらく行くと、水上人間(水泳プール・温泉・ホテル)の老板がお金の使い道に困って2年前に建設した横山寺へ着きました。龍王塘にある温水プール施設「水上人間」の老板がお金の使い道に困って建設したことは聞いていて、2年前から「北方の普陀山」を開光などと宣伝している所で、規模が大きく、入り口近くの左手の丘の上に立つ観音様は以前白だったのが最近金色になっていて、そこの石版に「般若心経」も書いてありました。(我が老家は仏教なので、クリスチャンの私も般若心経はよく覚えています。)横山寺は背後に横山がそびえる、すばらしいところにあり、金色の観音様から横山へ登るらしい山道も見つけましたので、いつか登ってみたい。この横山というのは、以前サクランボを取りに行った農場(三ツ和農場)へいった時に学んだのですが、日露戦争中に旅順中路を進んだ日本軍が始めてロシア軍に勝利したところで、四国連隊が中心だったため、それ以降「剣山」と名付けられた山で、解放後は「(老)横山」へ戻ったのですが、この頂上にあった「剣山頂上」の碑はいま旅順の日露監獄の石碑博物館で(未公開のところで、おととし陳さんの案内でOlympusの方々と)見たことがあります。(2006.04.22.) 見よ:横山登山

友人の奥さんの宗教関係の友人の方々が来られたので、一緒に私の職場を案内したあと、ご興味があるということで、横山寺も案内した。私はこの広大なお寺の中に入るのは初めてで、まず赤鬼・青鬼がある山門があり(この両脇から入るようになっている)、中に入ると左右に鼓楼があり(左が伽藍で右が地蔵殿)、正面に天王殿(弥勒菩薩=ほてい様が収められている)があり、お堂の背後の山(横山)の様子を見るとほてい様が両手を広げたように見えると、売店の女性が説明してくれる。一見素人目には、前方は法隆寺に入ったときのような感じで、さらに奥の財通宝殿に観世音が納められていて、一番後ろの経蔵殿にはお釈迦様が阿弥陀仏として収められている。全体が中国でも珍しくお金をかけた作りで、以前ここに横山寺という小さな祠があったそうで、戦後破壊されたのを、修復したのだという。(2007.10.15.)

サクランボ狩り

ここは大連へ来て2年目の記録です。初夏の大連は、スイカ、リーチー、桃、アンズ(杏子)、サクランボなどの果物が安く豊富に出回ります。6月末のある土曜日、サクランボ狩りに旅順へいってきました。まず教会の人々と午後2時にスイスホテルに集まって、30人乗りバスがガス欠で1時間ぼど遅れて出発し、大連理工大学の西門を通り、百合山荘を過ぎて、右に「游人止歩」とある道路へは行かずに左へ進み、左に小さなダムを見て、入り口左に「近郊桜桃第一村」とある凌水山荘という部落へ入り、道路の左右のサクランボ園に値段を聞いたりして、その部落を抜けて、道の突き当たりの観光農園(大連三茲和休閑農荘、大連市甘井子区凌水鎮劉家村)で1時間半を過ごし帰りました。日本の会社(三ツ和)との合弁会社(Tel. 477-5078 & 139-4083-0578)が経営する農場で、入場料は35元、1.3m以下の子供はただ、サクランボは自分で取り(「自採 zi4-cai3」)、紅桜桃(アメリカ・サクランボ)は1斤15元、黄桜桃(普通のサクランボ、山形県のサトウニシキ?)は1斤25元でした。(ただし1斤くらいなら、特にお金は取らない。)ここは老横山(日本時代の剣山、380m)の東の麓に当たり、農家客舎という1泊100元の宿泊施設もあり、7月には白桃や梨、8月からブドウ、9月からリンゴ、10月からカキなどが取れるので、また来ようと思います。 注:友人たちは今週、旅順の水師営のそばにある盛菜休閑農荘というところへ行き、20元払い、サクランボを取ったり、ゴルフの打ちっぱなしをしたり楽しんだが、大変混んでいたようです。(2003.06.21.)

旅順見物

(龍王塘公園、ダム直下の河
床の両側に桜が植えてある)
以下は大連へ来て1年目の記録です。旅順(大連市旅順口区)は大連の西約40kmのところにあり、中国解放軍の軍港のため外国人は訪問禁止とは聞いていましたが、行っても構わないという報告も見ていたので、よく分らないまま2002年4月20日(土)に5人の日本人の友人とバンを仕立てて、翌日の特別許可を得た訪問地以外を訪れました。8時に大外(大連外国語大学)を出発、小平島入り口近くの料金徴収所あたりで桃の花やリンゴの花を車窓で眺めながら旅順南路を順調に進み、水上人間という大屋内プールとホテルがあるところを過ぎてすぐの右手に入り、まず龍王塘公園の桜を見物しました(写真右)。例年は4月20日ごろが見ごろのようですが、今年は1週間早くピークを過ぎたようでした。ここは1920年(大正9年)に日本人が巨大な貯水ダムを築いたところの直下にあり、その当時から桜を徐々に植えたのでしょうか、大勢の人だかりでした。

途中で黄泥川洞と白銀山洞という2つのトンネルを抜けて、長江路から旅順の街に入り、まず正面に見える白玉塔に寄り、塔に登ると(ワシントン記念碑のように階段を歩いて登れる)旅順港が手にとるように見えます(写真左)。近くの海軍兵器館で旅順口の歴史などの展示を見てから、大華街という歩行者天国の近くの劉家餃子館で昼食。午後は日俄監獄(日露刑務所)へ行ったが、整理のため閉館中で、西側にある旅順新市区へ移動し、旅順博物館へ寄りました。戦前に東本願寺の大谷光瑞が資金を出して西域から集めた収集品(5体のミイラなど)を見て、順調に帰途に着こうとしたら、黒メガネと黒服のおじさんがバンの運転手を追いかけてきて、どこの国のお客か、旅順博物館は外国人に未開放なのを知っているかと詰め寄られ、相当ねばられ、大外へ帰ったのも午後5時近くになりました。

翌日の4月21日(日)は寺村謙一さんが特別許可を取り、9時に大外を15人と出発、東鶏冠山(日露戦争の激戦地)、水師営(日露戦争の停戦協定締結地)、203高地(日露戦争の激戦地)を訪れ、新紀元大酒店で昼食、午後は旅順博物館の旧・新館(新館の2階、日本画がいい)を見て、午後4時ごろ帰途に着きました。結論:旅順は必ず特別許可を得てから行き、特に黄河路などの目抜き通りでは車外へ出ないこと、白玉塔、日露監獄(日俄監獄)、博物館では日本語をしゃべらないこと。[2002.04.21.]

5月末のアカシア祭に来られた和田智雄さんにお供して、旅順中路にある牛の放牧場を訪ね、帰りは旅順南路の小平島の海浜レストランへ寄る機会がありました。彼は大連生まれ、旅順工科大学を出ている方ですが、おじいさんの千村(ちむら)春次さんが老虎灘へ行く途中の右側の山(景山)で大正牧場を創始し、終戦直前にその他2つの牧場をあわせて景山牧場となり、戦後は中国人の手に渡り、7〜8年前に区画整理で旅順へ移ったと聞いたので、訪ねていったものです。1日200元でバン(面包車)を雇い、黄河路をまっすぐ行って、馬蘭広場を過ぎてしばらく行くと左側にダムを2つ見て、いよいよ山に入り、折からのアカシアの花をめざして南部から養蜂家が道端に寝泊りして蜂蜜を取っているところを過ぎて、峠を越えて、英歌石という部落に千頭からの乳牛がある紅星女乃牛場(三環牛乳会社の傘下だそうです)がありました。

そこを出て5分ほどで旅順南路へ出ましたから、逆に旅順南路で「英歌石は右」という標識のところから行った方が楽でした。(和田さんは旅順工大のころ、教練が中心になったのを幸いに、友人とこの旅順中路を下駄で歩いて大連へ行き、帰りは汽車で帰ったそうで、戦前の方々の勇気には頭が下がります。)帰りは旅順南路を大連へ向かい、昔の旅大八景(星ヶ浦、黒石礁、凌水寺、小平島、蔡大嶺、玉ノ浦、龍王塘、白銀山)をいえる人は今は少ないなどの彼のお説を拝聴し、収費站(料金徴収所)を過ぎてすぐ小平島海岸へ向かい、そこの小平島假日酒店(予約電話:477-9443)で海鮮料理を食べて、大連へ帰りました。ここは大連では知る人ぞ知るハヤリのレストランで、おすすめです。[2002.05.30.] 2003年4月に老王塘の桜を見たあとに小平島假日酒店へ寄って昼食を食べましたが、昔海だったところが埋め立てられていて、昔日の面影がなく、旅順南路の向かいの山の上は、ソフトウェアパーク第2期が建設を予定されています。この海辺のレストランは間もなく閉鎖されるのではないでしょうか。[2003.04.19.]

大連へ移って2年半経った冬の2月中旬の土曜日、娘が遊びに来たのと、お客さんが3人居られたので、小雨を突いて旅順観光で、東鶏冠山、日露監獄へ行き、昼食後に博物館を回り、雨が上がらず寒い日だったので、203高地と水帥営は寄らずに帰ってきました。日露監獄(日俄監獄)は始めて入ったのですが、伊藤博文をハルビン駅前で暗殺したアン・ジュングンの説明が印象的で、また「剣山」(現在は黄石山)などの日本占領時代の石碑を沢山収蔵してある建物の内部も見せてもらいました。中国人の友人の11人乗りのバンのチャーター代600元を冬なので400元にまけてもらい、公安への礼金が各50元で(白銀山トンネルをくぐったあたりで、1人乗り込んできて、同行した)250元、各入場料20元が3箇所で300元、駐車代が30元、昼食代7人分で49元(安かった!)で、全合計1,109元を5人で割って約220元でした。[2004.02.21.]

老鉄山温泉

老鉄山温泉へ初めて行ってきた。(2003.04.27.) その後自分でも何回かいったあと、今回は会社の同僚といってきた。2008年1月の厳寒下の週末に、急に我が部門は泊りがけの温泉とスキーの旅行に行くことになり、総勢15人のうち14人が参加。うち外国人が5人で、日本人2人、スイス・イギリス・台湾人各1人。土曜日のお昼12時に会社の前から中型バンに乗り、車の中でもう「法官、殺人、警察、平民」が出てくるゲームが始まり、まずは旅順の老鉄山温泉へ。これはここにも書いてあるが、遼東半島の突先にあり、地下1500mを日本の技術で掘って湧き出した温泉で、着いたらすぐみんなは室内ゲーム(トランプ、マージャンなど)を始めたが、私は欧州人2人を連れて温泉へ。露天風呂につかり、頭と背中に打たせ湯を浴びて、外へ出て体を冷やし、お湯につかりと、ゆっくりと楽しんだ。

夕食は特注品でなかなかよくて、食事後は会議し湯を借りて、夜の11時ごろまでみんなでゲームをした。どんなゲームかというと

などなど。私は夜11時ごろ早々に寝たが、大部分は夜中の2時ころまで、またまたトランプ、マージャンなどで遊んでいたらしい。翌日は林海スキー場へいった。 (2008.01.12.)

瓦房店、普蘭店、庄河

大連広域市はその北部に、西から瓦房店、普蘭店、庄河の3市を抱えていて、北から西に営口市、蓋州市、丹東市と接しています。

龍門温泉は瓦房店市のほぼ北端にあるが、大連滞在3年目になり、大連郊外へ一緒に出かける仲間も増え、遠出の智恵も多少付いてきて、11月の末の土日に9人の仲間とこの温泉へ行く機会がありました。朝8時に大連をワンボックス・バン(面包車)で出発、来年の夏まで高速道路が片側2車線から3車線への拡張工事のため閉鎖されているので、普通道路に沿って普蘭店(少し北の花児山で大連大雪ビール工場を見かけた)、瓦房店(駅前のバス発着所でトイレ休憩、すぐ北に瓦房店ベアリング工場を見かけた)を経て、4時間かかって龍門温泉に着き(高速道路では李官インターチェンジから20分くらい、汽車では許家屯駅へ迎えに来てくれて車で7、8分)、そこで日本人が管理している大和館(0411-535-8090、fax: 535-8005、渡辺和雄・愛子ご夫婦が管理)へ12時に入った。旅館で持ってきた昼食を食べて、午後はそこから鉄道と川を渡る橋を越えて15分くらい西へ車で走ったところの浮渡河の向こう側の山・官馬山(推定標高差300m、唐の太祖・李世民の部下である薜雲貴が馬に草を食べさせたことが「薜里征東」に書いてあるそうです))へ登って、寒風の吹く中を2時間ほど楽しんだ。旅館へ帰って、そこはタタミの部屋が1つあり、男性6名はそこに入り、女性4名は暖房カーペットを敷いた洋間に入り、浴室も日本風で露天風呂もあり(お湯は単純温泉で、地下160mから汲み上げて、63度)、夜はカキ鍋と中国料理で、夕食後は山の歌やナツメロを歌ったりして雑談し、零下2度の外では秋から冬の星座に変る夜空を2回眺めて、夜11時にオリオン座が東に上るのも露天風呂から眺めて、大変充実した宿泊でした。

翌朝は7時半に浴槽から朝日が龍門山塊(名前がわからずそう名づけた、多分和尚帽山 1,194mのあるところ)から登るのを見て(ダイアモンド・リング風が見えた)、朝食後9時に出発。パンフレットにあった「近くの」白沙湾へ行くつもりで(30分走っても着かなかったので、かなり遠い感じでした)、華銅海岸へ出て渤海海岸を散歩し(途中華銅で銅精錬所を見ました)、帰路は202号道路を復州城まで南へ下り、そこからずっと東へ瓦房店を通り黄海大道の城子坦へ向かう途中で大掛かりなお葬式に出会い、蓮山鎮の手前右手の小山の上で昼食を食べ、蓮山鎮を過ぎてすぐ左へ(北へ)曲がり、巍覇山城清泉寺(別名、呉姑城廟)という仏教・道教・儒教を総合した廟に寄りました。ここで買った「清泉寺導游帖」によると、もともと東漢(後漢)の光武年間(紀元後25-30年間)にこの要害の地に高句麗の山城が築城され、唐時代の貞観21年(647年)に唐太宗・李世民の「太宗親征」に水が無く苦しんだ時にここに泉が発見されて、感謝して「清泉禅寺」が建築され、明時代の万歴35年(17世紀前半)に呉均道の妻(呉姑)が夫の亡くなった後にこの寺を再興し、さらに清時代に道教と儒教の廟が追加されたそうて、第2次大戦後はこの廟を保護した共産党へ赤い星の白壁も作られた由緒あるところで、いまでも4、50人の僧侶が住んでいるので、大連広域市隋一の文化遺産と思いました。以上、1泊2日の費用は車代100元、1泊100元、食事代(夜食・朝職・昼のお弁当)100元で、合計300元でした。(2003.11.30.)

普蘭店市の老帽山(ラォマォシャン、848m)と安波温泉は、ここを見よ。荘河市の歩雲山(ブーユンシャン、1131m)と冰峪溝(ピンユーコウ)についても、やはりここを見よ


D.普蘭店市・瓦房店市

普蘭店市・瓦房店市の山へ登るを見よ。

E.荘河市

荘河市の山へ登るを見よ。
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Here and There in Dalian, China


Drift Ice at Xiajiahezi, with Saddleback Mountain in the background
Photo by INOSE Kazumichi 2004.02.15.

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The Contents of This Page: A. Dalian
B. Jinzhou, Development Zone and Jinshitan
C. Lushun
D. Pulandian & Wafangdian
E. Zhuanhe

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A. Dalian

B. Jinzhou, Development Zone and Jinshitan

C. Lüshun

Today's Lushunkou

Although its southern half of the District along Lushun South Road, downtown Lushun and the Naval Port zone continues to be off-limit to the foreigners, Lushunkou District is well into this 21st century. World Peace Park opened on the western coast of Lushun, on the Bo Sea, and is a new sightseeing spot. North of the Park were established the Lushun Development Zone, and Lushun New Port (on Yangtou Bay) where the railroad ferry to Yantai across the Yellow Sea to Yantai is being planned. The universities in downtown Dalian are being relocated to Lushunkou. Dalian Jiaotong University (formerly Dalian Railroad University) moved its Software School to the area near the new port, and Dalian University of Foreign Languages and Dalian Medical University relocated their main campases to the eastern slope of Baiying Mountain, on Lushun South Road. Dalian Fisheries University is in the process of moving its English and japanese language schools to Daheishi, on Lushun North Road.

The Old and New names of the Main Facilities in Lüshcun

This weekend I went on the tour of the Japanese people who was born or brought up in Lushun. As the opening of Lushun to foreigners is said to be drawing near, the old and new names of the main facilities in Lushun are summarized for those foreign visitors, particularly from Japan, Russia and Korea (because An Jung-geun was jailed here), as follows:

Under Russian RuleUnder Japanese RuleUnder Chinese Rule
The Old Town:  
UnknownLushun City HallCommercial Bldg. on right of New Mart Supermarket
UnknownPublic Welfare OfficeNavy Hotel
--Lushun Branch, Korean BankLushun Branch, Commercial Bank of China
--Lushun No. 1 Primary SchoolA Naval Facility (on left of Zhangjian Rd. South 3rd Alley)
Red Cross HospitalLushun Hospital & Medical SchoolA Naval Facility (Lushunkou Hospital on north side)
--Kwantung High CourtOld Kwantung High Court (inside Hospital premises)
Lushun Jail (Gray Walled Bldgs.)Lushun Jail (Extended with Red Walled Bldgs.)Russo-Jaoanese Jail (Anti-Imperialist Propaganda Facility)
--Danish Lutheran ChurchLushunkou Christian Church
--Hyochu (Showing Loyalty) TowerWhite Jade Tower
--Asahi (Morning Sun) PlazaFriendship Park
The New Town:  
UnknownJapan Bridge (over the Long He)Liberation Bridge
Russian Marines Hqs.Lushun Institute of TechnologyNavy Hospital No. 406
UnknownLushun High ScjoolA Naval Facility (Lushun command)
A German Merchant's StoreLushun (No. 1) Middle SchoolA Naval facility (No. 58 Slalin Rd.)
Meeting Place of Sniper Unit's Non-comissioned OfficersLushun No. 2 Primary SchoolDalian City No. 56 Middle School
Ji Fengtai's ShopThe Lushun Yamato HotelShop & Hostel
UnknownLushun No. 2 Middle SchoolNot Used
Photoshop/Town Hall/RestaurantLushun Girls' High SchoolNavy Related Families' Living Quarters
UnknownKodama GroundGround for Navy
UnknownKorakuen ParkLushun Museum Park

Source: "Lushun under Russian Rule" (in Japanese; Lushun Library, 1936), as quoted in "Lushun under Russian Rule" (Abridged)" in "Journal Commemorating the 95th Anniversary of Lushun Institute of Technology" (in Japanese; Tokyo, 2006) The Lushunkou Local Governement moved its office in 2005 from downtown (old tiwn) to the northeastern subburbs, on Guo-shui (Guojiacun-Shuishiying) Highway. The Navy facilities usually do not have the name tags at the entrances, but those which are well known are written above. (2008.04.26.)

D. Pulandian and Wafangdian

E. Zhuanhe


Created by Yoshi MIKAMI (Tel/Fax: 364-2444) on November 28, 2001. Last update on Feb. 27, 2009.