大連で中国語を習う


日本で中国語を習う

私は大学時代に中国語を聞きかじりして、会社から台湾へ1990〜91に駐在した時に本格的に中国語を習い、台湾から帰った時に中国・上海大学へ1ヶ月短期留学しました。その後中国語は忘れてししまいましたが、2000年秋から横浜の楊麗華先生の「中日会話学院」で水曜日の夜また中国語を習い始め、2001年春からはそこの藤沢校へ移って水曜日(準上級)と土曜日(中級)に習いはじめました。

大連で中国語を習う

2001年9月から大連へ来て、大連外国語大学で第1学期は午前中に日本語会話を教えるかたわら、午後は学生とただ漫然と互相学習していましたが(日本語を教え、中国語を学ぶ)、第2学期からは日本語を使いコンピューターを教えることになったのを機会に、授業をすべて午後にしてもらい(木曜日のみ午前中に1時間教えた)、午前中は漢学院ではじめ中級、少し経ってから初級に移って(中級は会話はなく読みが中心だったため)中国語を学びました。授業(初級A3班、普通、2002年3月〜7月)は
08:30〜10:00口語 301
(趙芳)
基礎 301聴力 502
( 楊潔)
口語 301聴力 502
10:20〜11:50基礎 301
(張景業)
閲読 301
(金及雲)
基礎 301基礎 301閲読 301
おかげさまで、5月12日(日)に行なわれたHSK(漢語水平考試)の3級(初級C)証書をもらえました(大外がこの試験の会場になっていて、パスポートと写真2枚と250元を持って、1週間くらい前までに大外漢学院事務室で申し込む)。(2002.09.15.)

大連には3つの大きな漢学院があり、比較すると次のようです。

大学大連外国語大学(大外)
漢学院
Dalian University of Foreign Languages
遼寧師範大学(遼師大)
国際文化交流学院
Liaoning Normal University
鉄道学院
国際文化交流学院
Railway College
ホームページ中国語・英語。日本語・韓国語はない中国語・日本語・韓国語中国語・英語・日本語
パンフレット中国語のワープロ作成パンフレット(8ページ)中英語・日本語の小型カラーパンフレット(12ページ)日本語の小型パンフレット(6ページ)
連絡先中国語で田霞老師
+86-411-280-1297, Fax: 264-8152
dwhxy@mail.dlptt.ln.cn
日本語で張長江学院長
+86-411-425-8562, Fax: 420-0935
robertd@mail.dlptt.ln.cn
日本語で朴成愛老師
+86-411-410-6218, Fax: 462-9614
piao@dlrin.edu.cn
場所大連市延安路94号
大連駅から23路バスに乗って南東へ5分、大連外国語学院で降りる。
中山広場などの町の中心に近く、遊ぶ誘惑は沢山
大連市黄河路850号
大連駅から101路トロリーバスに乗って西へ25分、鉄道学院・遼師大の次の蘭玉街で降りる。
町の中心からは遠い
大連市黄河路794号
大連駅から101路トロリーバスに乗って西へ20分、鉄道学院で降りて黄河路を渡る。
町の中心からは遠い
老師専門の老師。ただし中国語を外国語としての教えるトレーニングは受けてないように見える専門の老師と遼師大の大学院生のアルバイト(元気なアルバイト学生で評判はいい)専門の老師と隣りの遼師大の大学院生のアルバイト(元気なアルバイト学生で評判はいい)
学生300名。半分は日本人で、40パーセントが韓国から、残りはロシア・米国から200名。半分は韓国人で、40パーセントが日本から、残りはロシア・米国・モンゴルなどから。韓国の統一教会に属する学生も何人かいることは知っておいた方がいい75名。半数は日本人。老齢の方々も多く、かれらのまじめな授業態度が若い学生にいい影響を与えている面もある
授業料1年1750米ドル、1学期950米ドル1年1600米ドル、1学期900米ドル1年1500米ドル、1学期900米ドル
宿舎宿舎は学舎に続いていて、1部屋1日10米ドル。狭い宿舎は学舎の前庭の向かい側にあり、1部屋10または12米ドル宿舎は学舎内にあり、1部屋1日7米ドル。簡易キチン、バスルーム付き
2002年6月の外国人漢語演講比賽校内予選が行なわれた以外の準備はなし。(再予選がここで行なわれた。)2人が決勝に参加全員参加で校内予選がおこなわれ、決勝参加者には特訓が行なわれた去年まで見向きもしなかったが、今年は力を入れて準備した
初級クラスの総合点657075
中・上級クラスの総合点その人次第、どこでも同じその人次第、どこでも同じその人次第、どこでも同じ

この他に、大学では大連理工大学国際文化交流学院(中国語を学ぶ留学生は300人、ここは日本の中国語検定試験の会場のもなっている)、東北財経大学国際漢語文化学院、海事大学など、私立の各種学校としてはHANS International Language School(民意街1号、電話:281-0871、dalianhans@hotmail.com)なども中国語の授業があります。以上は実験的な評価であり、みなさんの経験とご意見をお寄せください。(2002.07.05.) 大連水産学院(Dalian Fishery Univ.)は生徒が少なく、ほとんどマンツーマンで中国語を教えています。大連理工大学の北門近くの大連ソフトウェアパーク(大連軟件園)にある東軟信息学院(Neusoft Institute of Information)も、対外語学教育センターで、2004年9月からの中国語の学生を募集をしています。(2003.03.08.)

また、いくか気付いた点は

などであった。(2002.07.05.)

大連方言

大連人の方言は中国語北方方言(普通語)に属しているので、町で離されている言葉は大体分かります。詳しくはここを見てください。このサマリーを第4回大連外国人漢語演講比賽(中国語スピーチ・コンテスト)に出て、予選は通りましたが、決勝では私よりずっとうまい人がいて、私は第5位(最下位!)でした。

中国語学習の雑談

日本の国花はなぜ桜なの、という話題が大連日本語研究会のメーリングリストであがりました。私は、1)桜がもともと日本の各地に自生していてきれいに咲いていること、2)江戸時代の末期にソメイヨシノが江戸で開発されて、この花が特に美しいのでと答え、ついでに「中国でなぜ梅が国花の扱いを受けているか」という議論を始めたら(私の理由は、1)台北の中正紀念堂の入り口両側に梅の花が掘ってある、2)梅は寒い冬を耐え春先に美しい匂いと共に花を咲かせる、3)中国の話しに悪者に終れた人が梅林にかくれて助かったというのがある)、中国の国花は牡丹だという人が多いと大反撃(?)を受けました。結局分かったことは、中国には国花と規定されたものはありません。ただ、確かに中国では牡丹が国花だと信じている人が特に若者に多い。図書館にある中国百科大辞典を調べたところ、牡丹は中国北西部に野生していたものが、約2千年に栽培開始され、唐代に特に盛んになったようです。その後
唐時洛陽天下第一;明朝時“曹州cao3-zhou1牡丹甲干海内”。
(牡丹は唐時代には洛陽が天下第一で、明の時代には山東省の西部が最高であった。)だそうです。

洛陽の牡丹には逸話があって、唐の第3代皇帝、高宗の奥さん、則天武后(中国名、武則天)は清代末期の西太后(中国名、慈禧太后)と並んで有名な女帝ですが、冬に都の長安(西安)に中国の花をすべて集めて、花を咲かせるように命令したそうです。他の花はすべて咲いたのに、牡丹だけは従わなかった(部下は咲すことができなかった)ということ。そこで彼女は、牡丹を当時第2の大都市、洛陽に追放して、その洛陽では牡丹は大切にされて、いまも4月15〜25日は牡丹祭りが町全体(王城公園、牡丹公園、国色牡丹園など)で催されている。という訳で、唐代から牡丹は中国を代表する花で、中国人はおおむねこの則天武后と牡丹の花の逸話を知っているようです。(以上、今年初めから洛陽から来られた山崎由美さん(大外の日本語教師)とその旦那さん(洛陽生れ)から聞いたもの。)洛陽以外に、山東省西部の地図を見たら、曹県という都市があり、そのすぐ北の河沢市の北西郊外に「牡丹之郷」も見えます。大連では植物園に、小さな牡丹園がありますね。

現代中国を理解する上で、まず中国人の半数は、日本人の祖先は中国人だと信じていることを知っているといい。これは私が台湾にいたときに知って、驚いたものです。司馬遷の「史記」に、2300年前に秦の始皇帝が不老長寿の霊薬を探しに4人を遣わし、東海へは徐福(Xu Fu)を遣わし、徐福は山東省の港から3000人の男女を伴って東海の蓬莱山へ船出したとある。他の資料では、彼は日本の和歌山県新宮市に到着し、霊薬「天台烏薬」を探し当てたが、中国へ帰らず、日本人に農業、捕鯨、製紙を教えた。新宮市には現在、徐福公園と徐福の墓があり、多くの中国人が観光に訪れているという。最近、徐福日中シンポジウムが開催され、第1回は同じような言い伝えがある佐賀市で、第2回は徐福が船出したといわれる山東省の竜口市で開かれた。[「JTB旅ノート 20 南紀」(1997、p.110)]注:韓国のチェジュド(済州島)にも似た伝説があり、始皇帝から徐市(徐福の別名)がそこに遣わされ、ハンラサン(漢拏山)で不老不死の薬を見つけ、西帰浦から中国へ帰るつもりが、日本へ亡命してしまったという。

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Created by Yoshi MIKAMI on July 5, 2002. Last update on July 12, 2002.